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池田龍夫のマスコミ時評⑤ 「沖縄密約」文書開示訴訟、核心へ

   

 
    池田龍夫のマスコミ時評⑤「沖縄密約」文書開示訴訟、核心へ

    吉野文六氏の「陳述書」を証拠採用 
                  
  
                             
ジャーナリスト 池田龍夫(元毎日新聞記者) 
 

 1972年の沖縄返還の際、日米政府が交わしたとされる「密約文書」開示訴訟・第2回口頭弁論は2009年8月25日、東京地裁で開かれた。6月16日の第1回弁論で杉原則彦裁判長が、原告・被告(国側)双方に「次回までに、もっと具体的な準備書面を提出してほしい」と指示しており、第2回弁論が注目されていた。傍聴者100人を収容できる103号法廷に移し、緊張感ただよう中で審理が進められた。
 
   
 「BYのイニシャルは私が署名、文書の写しもとったと思う」
 杉原裁判長は双方から提出された準備書面について意見を述べ、不十分な点につき更なる文書提出を要請した。西山太吉氏(元毎日新聞記者)ら原告側が、沖縄返還交渉時の担当責任者だった吉野文六・元外務省アメリカ局長の陳述書を提出、証拠採用された。
これは、6月の第1回弁論の際に裁判長が「吉野氏を証人に招きたい」との意向を示したのを受けて、原告弁護団が吉野邸を4回にわたり訪問して面談。吉野氏から当時の日米交渉経過や冷戦下の国際状況に関する話を綿密に聞き取って「陳述書」にまとめ、証人・吉野氏の最終確認を経て署名・押印のうえ、出来上がったものである。
 陳述書の中で吉野氏は「私自身、1971年にアメリカ局長に就任してから、沖縄返還の詰めの交渉を担当したのですが、日本側には、本来アメリカが負担すべき費用を日本が出費することは困難となっていた一方、アメリカ側も沖縄基地関係での出費は議会を通過しない状況でしたので、のちに発生したラジオ局『ボイス・オブ・アメリカ』(ⅤОA)の移転費用(1600万㌦)や土地補償費(400万㌦)について、どちらがどのように負担するかという点が問題となったのです」と前置きしたあと、彼自身が署名した文書につき「この文書の左下のBYというイニシャルは私が書いたもので間違いありません。

この文書は、米軍が使用していた土地について補償するためにかかる費用として400万㌦を日本が負担するというものです」と、明快に述べている。

 さらに、補償費の扱いに関する発言は、極めて重大だ。陳述書の中で「佐藤栄作首相が『沖縄は無償で返ってくる』と発言していましたので、日本がアメリカに代わって支払うということは、難しかったのです。ところが、予算を出す大蔵省の柏木雄介財務官から、日本側が負担することで処理をしてほしいと要請されたのです。

そもそも、大蔵省の主導で決まっていた沖縄返還に伴う日本側の負担のうち、返還協定に盛り込まれることが決まっていた日本のアメリカに対する支払額は3億2000万㌦でしたが、そのうち7000万㌦は核撤去費用でした。核撤去のためにそんなに費用がかかるはずがなく、これはアメリカが自由に使えるものでした。したがって、その7000万㌦の一部を補償費の400万㌦に充てることは予算面では何の問題もないことだったのです。

つまり、日本が渡した3億2000万㌦の一部400万㌦をアメリカが沖縄の市民への補償費に充てればよいのです。したがって、大蔵省が負担をしてよいというなら外務省としては反対する理由はありませんでした。こうして、日本政府が対内的には3億2000万㌦には補償費は入っていないと説明しつつ、アメリカは、アメリカ議会を秘密会にして開催し、実際には、日本が負担することを説明するということになりました」と、補償費負担の〝密約〟が大蔵省主導で決まっていたことを暴露したものだ。

福田赳夫蔵相(当時)が補償交渉の〝仕掛け人〟的役割を担っており、その指示によって柏木・ジューリック両国財務担当官が「密約」への道筋をつけたことを、吉野陳述書が明示した意味は大きい。大蔵省主導だったことは従来から指摘さてはいたが、今回〝証拠採用〟されたことで、国側は厳しい局面に立たされたと言えよう。

 さらに「吉野陳述書」は、愛知大臣とロジャース国務長官との確認文書に言及、「事務方の責任者である私が署名することで話がまとまり、パリから帰国後の1971年6月18日、外務省本省の局長室で署名したと思います。この400万㌦が実際にどのように使われたかは,私には分かりません。3億2000万㌦の中で処理されたので、特別な予算処置は不要だったのではないでしょうか。

この文書については、局長室で署名したのですから、写しはとったと思います。ただし、その写しをどのように保管したのかは分かりません。ⅤОA移転に関しての合意文書についても局長室で署名しました。写しもとったと思います」との経緯を明らかにしている。

 
     「我部教授陳述書」も証拠採用、12月1日証人尋問
 原告の我部政明・琉球大学教授が提出した「陳述書」も証拠採用された。「吉野陳述書」とともに提出された「原告の主張立証計画書」は、「我部陳述書提出は9月下旬を予定。内容は日本の財政負担に関する秘密の合意があったことを示すアメリカの公文書を入手し分析して判明した事実について説明するものである」と述べている点を、裁判長が注目して証拠採用したと考えられる。

我部教授は1990年末から米国公文書館に足を運び、米政府が公開した「沖縄返還」関連文書の発掘を精力的に行ってきた第一人者。2000年発掘の「密約文書」報道が、密約解明への大きな契機となった。その後、西山太吉氏の「国家賠償請求訴訟」(2005年4月)、吉野文六氏の各メディアへの「密約証言」(2006年2月)へと発展し、現在の「密約文書開示訴訟」につながった。吉野氏が知り得なかった財政・予算措置のナゾに挑んだ「我部陳述書」が、今後の審理に影響を及ぼすと思われる。

 吉野、我部両氏の証人尋問の道筋は決まったが、吉野氏が国家公務員だったため「民事訴訟法第191条」に基づいて外務大臣の承認がないと尋問できないと、裁判長が説明した。

確かに民訴法第191条(公務員の尋問)は、「①公務員又は公務員であった者を証人として職務上の秘密について尋問する場合には、裁判所は、当該監督官庁(衆議院若しくは参議院又はその職にあった者については、その院、内閣総理大臣その他の国務大臣又はその職にあった者については内閣)の承認を得なければならない。②前項の承認は、公共の利益を害し、又は公務の遂行に著しい支障が生ずるおそれがある場合を除き、拒むことができない」と規定している。従って、吉野氏尋問につき外務大臣の承認は必要だが、第2項の規定を素直に読む限りでは、今回の尋問要請を拒否できるとは考えにくい。

 
    「事実関係の枠組を明確に」……杉原裁判長の明快な訴訟指揮
 杉原裁判長は原告に対し「密約文書の存在につき、さらに考証を望みたい」と述べたあと、国側の提出書面への意見と要望を提示した。文書開示を求められた国側は、「①探したが、文書はなかった。②最終合意ではない、交渉経過の文書だと思われる。③持っていたとしても、廃棄したと思われる」と苦しい回答。すかさず裁判長は、「①交渉担当者はだれか。吉野氏?柏木氏? ②予算折衝の所管官庁は? ③国側の意思決定のプロセスは? 
報告文書は作成されたのか。④国の意思決定の決裁ルート、最終決定者は誰か。内閣の了承をどうして得たか。⑤文書保管の説明が不十分。北米局に沖縄返還関連ファイルが308冊あるというが、その中で廃棄したものがあるか」などと指摘し、「次回までにもっと具体的な書面を提出してほしい」と要望した。
6月の第1回口頭弁論に続き、裁判長の訴訟指揮は明快で、「事実関係の枠組をきちんとしたい」との姿勢が感じられた。
 最後に裁判長は、次の第3回口頭弁論を10月27日(火)13時15分~45分と提示して決定。証人尋問を行う予定の第4回弁論を11月24日(火)と提示したが、国側が難色を示したため、12月1日(火)13時半~17時とすることになった(いずれも東京地裁103号法廷)。裁判長は「年明けの審理を経て、来春には結審させたい」と示唆しており、年末・年始にかけて裁判のヤマ場を迎えることになる。
 
      「情報公開」への期待感が膨らむ
 以上、第2回口頭弁論の経緯と問題点をまとめたが、最後に「吉野陳述書」の結びの言葉(『合意の存在を認めたことについて』)に感銘を受けたので、一部を紹介しておきたい。
 「私は、アメリカ局長だった当時、400万㌦の合意についてその存在を否定しました。その件が刑事事件になった後も、私は、沖縄返還がスムーズに行われるように、合意の存在を否定し続けたのです。当時はそういうことが許される時代でした。……その後アメリカの公文書について、多くの記者から質問されるようになり、私は記憶に基づいて事実を答えるようにしました。

外交交渉は場合によっては秘密裏に行われることが多く、その交渉が継続している間、そして、それ以後何年かは、秘密にする必要があることもあります。それがすべて密約といえば、いえるわけです。しかし、秘密交渉も一定期間を過ぎれば、原則として公開するべきだと考えます。もちろん、秘密にする必要が大きいものがあり、それらについては公開することはできないでしょう。

アメリカでも公開されていないものはあると思われます。しかし、少なくとも、相手国が公開したような文書まで秘密にする必要はない、そう考えて事実をお話ししています」。――91歳の外交官ОBが情報公開の必要性を訴える言葉は重く、説得力に富む。

 
8月30日〝天下分け目〟の総選挙で自民党が大敗して、民主党政権が誕生することになった。民主党は、「沖縄返還密約」や「核持ち込み密約」などについての情報公開にも応じる姿勢を示しており、「情報公開」への流れが加速する期待が高まってきた。この好機を、「国民の知る権利」を促進するバネにしたいと願っている。
                            (2009年9月1日 記)  
 

 - IT・マスコミ論

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