野口恒のインターネット江戸学講義(14)>身分制度から外れた境界・周縁・無縁の世界に生きた「漂白の民」(下)
日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義(14)>
第6章 境界・周縁・無縁の世界に生きた
「漂白の民」―身分制度から外れた境界・周縁・無縁
の世界に生きる「漂白の民」(下)
野口恒著(経済評論家)
庶民の芸能文化を生み出し、諸国を流浪した芸能ノマド
江戸時代には、五街道など大きな街道とその宿場町、名の知られた有名なお寺や神社の境内や門前など、旅行や参詣で大勢の人がいるところには見世物や芝居小屋が立ち、諸国を流浪する大道芸人や辻芸人、傀儡子(くぐつし、女性の場合は傀儡女(くぐつめ)、諸国を旅し、人形を使ったいろいろな芸を演じた)らが集まり、さまざまな芸(手品、綾取、猿若、江戸万歳、操り、曲芸、人形遣い、浄瑠璃・義太夫節芸、説教、物真似、辻講釈、辻噺など)を披露して人びとを楽しませていた。
江戸中期から後期になると、農村や地方から江戸に流入する漂白の民(さまざまな職能民)が急速に増え、仕事や芸能文化におけるこうした人たちの逞しい活力が江戸の町を活気づけた。当時、江戸の街角には大道芸人や辻芸人が必ず立ち、見世物や手品、芝居や曲芸などの大道芸・辻芸・人形芸を披露していた。大道芸や辻芸などはまさに庶民に密着した大衆芸であり、こうした大道芸や辻芸を行っていた芸人は被差別民の非人・乞胸(ごうむね)、願人(がんにん)と呼ばれた、士農工商の身分制から外れた人たちが多かった。
ドイツ人の医者で博物学者でもあったエンゲルベルト・ケンペルは17世紀ごろ日本に渡って来て、長崎の出島のオランダ商館に勤務した。その間に日本各地を旅行して日本で見聞したことを後に著書「日本誌 日本の歴史と紀行」にまとめた。彼が著した「日本誌」「江戸参府旅行日記」はヨ-ロッパで初めて体系的に日本のことを紹介した著書として知られている。彼は、その著書の中で当時の江戸の風景をこう書いている。
「この国の大きな街道には毎日信じられないほどの多くの人間がおり、二、三の季節(注:春と秋、または春夏秋)には住民の多いヨ-ロッパの都市の街路と同じくらいの大勢の人たちが街道に溢れている」。その理由として「一つにはこの国の人口が多いことと、また一つには他の諸国民と違って、彼らが非常によく旅行することが主な原因である」(エンゲルベルト・ケンペル著「日本誌 日本の歴史と紀行」)
ケンペルはとくに東海道を4度も旅行している。彼がそこでまず驚いたものは、参勤交代の大掛かりな大名行列の一行であった。それは、ヨ-ロッパではまず見られない日本独特の大層な行列である。豪華な大名籠に乗った殿様、それに続く馬に乗った騎馬姿の重臣たちや徒歩姿の家臣たち(徒士、足軽、人足など)、彼らは家柄や地位に応じて槍、長刀、薙刀、弓、長柄傘、挟箱、引き馬を連れている。
彼の好奇と驚嘆の眼差(まざなし)は街道の賑わいにも注がれ、品川・千住・板橋などの大きな宿場町の賑やかなことに驚いたであろう。東海道のような大きな街道には大勢の巡礼者や旅人、通行人が行き交うだけでなく、彼らを当てにして芸人がたくさん集まり、さまざまな芝居や見世物、大道芸や辻芸などの芸能を披露して街道や町は活気に溢れていた。もちろん、そうした旅行者や芸人だけでなく、街道には物乞いの乞食や浮浪者もいて、宿場町には遊女や博打打、素浪人や無宿者などのアウトロ-もおり、ケンペルは彼らの姿も詳しく記録している。
封建社会の士農工商の身分制から外れた芸能民や遊民たちは、幕府など権力者からみたら社会の秩序になかなか馴染まない、社会の枠に容易に嵌らない人たちであり、幕府は治安上こうした漂白民たちの把握と監督に随分苦労したであろうが、しかし同時に彼らは江戸の都市にさまざまな活力を与え、庶民がのぞむ芸能文化を生み出し、伝播した人たちでもあった。当時の江戸庶民に歌舞伎や人形浄瑠璃、落語や漫才、見世物や芝居などの見物がいかに人気があり、多くの人たちに楽しまれたかは想像に難くない。
江戸や大坂、京などの大都市には常設の芝居小屋があり、そこではいつも歌舞伎や芝居、見世物が演じられていた。江戸の歌舞伎役者・市川団十郎や上方の坂田藤十郎などの人気歌舞伎役者には熱狂的なファンがいて、多くの庶民が芝居小屋に足を運んだ。
歌舞伎や芝居だけでなく、江戸の回向院では春秋の年2回相撲興行が行われ、庶民の人気を博していた。寺や神社の建築や修理の折にはよく勧進相撲が行われた。歌舞伎や芝居はかなりお金のかかる贅沢な娯楽であるが、庶民にもっぱら好まれたのは寄席や小屋で比較的安い木戸銭で楽しめた落語や講談、漫才や色物(手品や奇術、影絵や曲芸など)などの大衆芸能である。
芸能民が駆使する卓越した技術や技能、彼らが演ずる芸の魅力に、江戸の庶民は人間技とは思えない不思議な力やエネルギ-を見出し、元気の活力をもらっていた。芸人たちも、厳しい修行で鍛錬した自らの芸の背後に神仏の力さえ感じていた。大道芸人や辻芸人はもちろんたとえ有名な歌舞伎役者でも、所詮芸人は厳しい身分制から外れたアウトサイダ-である。だからこそ、彼らは自らの芸にその存在をかけて打ち込み、磨き抜かれた芸の魅力で庶民の心を掴んで行った。
芸人は身分制社会の中では絶えず差別され、蔑まれた存在であった。中世の芸能民は天皇や幕府など時の権力者に近づき、その保護を受けたものもいた。しかし、近世の芸能民はむしろ権力者の保護から脱して自立し、その拠り所を庶民に求めた。彼らはより庶民に深く接して彼らに受け入れられることで自らの芸を高め、独自の芸能文化を生み出し、底辺から社会を動かす力を創造していった。
最大の歓楽地・吉原は、あらゆる情報や人が集まる社交場
江戸時代の都市で最も活気があったのは、じつは「芝居小屋と遊郭」であったといわれる。芝居小屋は江戸庶民の“娯楽の殿堂”であり、歌舞伎・浄瑠璃・人形劇・落語・漫才・手品・曲芸など庶民が好むあらゆる大衆芸が披露され、人気を博していた。一方、江戸の代表的な歓楽地といえば「吉原」(よしわら)である。
吉原は幕府から認められた公認の遊郭であった。元和3年(1617年)に江戸に散在していた遊女屋を日本橋葦屋町の東に集めたのが始まりとされる。その後明暦の大火(1657年)で全焼したため、浅草の千束日本堤下三谷に移転して「新吉原」と称した。吉原は周囲に“おはぐろどぶ”をめぐらして世間から隔絶し、大門(おおもん)を唯一の出入り口として他の出入り口は平常開放しなかった。
江戸時代の多くの遊郭は、ある意味で社会と隔絶し、社会のしがらみや関係を一切断ち切った周縁・無縁の世界でもあった。そこで働く遊女たちは親兄弟との肉親の縁、世間との縁や関わりを一切断ち切った最下層の人たちであった。
吉原遊郭の遊女の数は、記録では享保から天明にかけて(1716~1789年)2500人、寛政期(1789~1801年)に増えて4000~5000人、弘化3年(1846年)には7000人にも上ったといわれる。遊女以外の従業員も5000人以上働いていた。
まさに吉原は江戸の一大歓楽地であった。客の逗留は一昼夜を限度とし、人身売買等不法行為を禁じ、犯罪人逮捕には協力することを幕府は条件とした。上級の遊女は太夫(たゆう)や花魁(おいらん)と呼ばれ、富裕な商人や町人、武家や公家を得意客としていた。このため、彼女らは芸事に秀でていただけでなく、客との会話に必要な文学・文芸などの教養も備えていた。
吉原でお客に一番人気のあった催しは花魁道中である。客は揚屋(貸座敷)に入り、ここから遊女を呼んだ。遊女が客の待つ揚屋に行くことを道中と呼んだ。最高級の遊女である花魁が豪華な衣装をまとい、箱提灯を持った男衆の先導で“外八文字”の独特の歩き方で進んでいく艶やか姿は吉原最高の見せ場であった。何千人もいた遊女には階級があって、最高級の遊女は「太夫」(たゆう)と呼ばれ、あらゆる芸事に秀でていた。太夫の下は「格子」「局」「切見世」(きりみせ)の順であった。
切見世にいる下級の遊女は一見の客でもすぐに遊ぶことができたが、高級な花魁は吉原に何度も足を運び、馴染み客になって始めて遊ぶことができた。高級な遊女と遊ぶには揚代金が高かったことから、客層の中心は経済的な裕福な武士や旗本、金持ちの商人が中心であった。それでも下級の遊女なら、庶民でも手ごろな揚代金(初回の床入りで数万円)で遊ぶことができた。蔦屋重三郎が出版した「吉原細見」には遊女の等級・名前・揚代金が妓楼(遊女の置屋)別に書かれていて、しかも毎年改訂版が出され、庶民の隠れたベストセラ-であった。
それでは、吉原の太夫と遊ぶにはいったいどれだけのお金がかかったのか。文献資料によれば、だいたい次のようである。
「太夫に会うには、まず指名客として認められねばならない。どんなに金持ちでも一見の客が太夫に会って、床入りできることは決してない。
最初に「初会」といって顔合わせの日があり、遠くから太夫の顔姿を見るだけ。
二回目には「裏をかえす」といって、お金を払って太夫を眺めるだけである。
三回目になってやっと「馴染み」となって、初めて太夫の自室に招かれ、床入りできる。
ここまでで、今のお金で数百万円かかるという。そこから、太夫と遊ぶにはさらに数倍のお金が必要になる。紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門のような大金持ち(大尽)でない限りとてもお金が続かない。揚げ代があまりに高額なので、庶民が太夫と遊ぶことはまずあり得ない」(「吉原-江戸の遊郭の実態」中公新書、「近世風俗志」、「新吉原細見」、「江戸吉原図聚」などを参考)
江戸時代に吉原に次ぐ遊郭は品川宿の遊郭であった。宿場には飯盛女(旅人に給仕をし、売春も兼ねた女)と呼ばれる遊女もおり、品川宿には明和年間(1764~1772年)で1000~1500人位、寛政期には3000人近くもの遊女がいたといわれる。彼女らは名目上飯盛女であるから、揚代金も吉原に比べてずっと安かった。吉原遊郭が通称「北里(北国)」といわれていたのに対して、品川遊郭は「みなみ」と呼ばれていた。吉原遊郭でも品川遊郭でも、その賑わいや繁栄を支えていたのは、間違いなく遊女たちの存在であった。それでも、吉原遊郭は町奉行管轄下による厳しい監視下にあったが、品川・千住・板橋といった宿場町の遊郭は幕府の監視もなく、ほぼ野放しの状態であった。
ところで、江戸の吉原、大坂の新町、京の島原、長崎の丸山といった都市の遊郭は歓楽地であると同時に、人間交流・情報交流の社交場でもあった。とくに吉原遊郭には大名から下級武士まで、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門のような豪商から裕福な町人まで、十返舎一九・山東京伝のような戯作者から僧侶・学者まで、さらに諸国を流浪する漂白遊民からアウトロ-まで、あらゆる階層の人たちが吉原に吸い寄せられるように集まり、遊んで行った。当然そこではお客同士や客と遊女たちの間で、さまざまな世間話や雑談が交わされた。
テレビやインタ-ネットのような情報伝達手段のない江戸時代において、遊郭は重要な情報伝達・交流の場でもあった。幕府の政治人事、米相場などの商売情報、俳諧や連歌の趣味や歌舞伎・芝居など遊興の世間話、諸藩の政治・経済事情、世間の流行情報、歌舞伎や寄席など、世相に関するあらゆる耳寄りな情報が集まり、人と人の交流を介して世間に伝播されていく。
揚屋で客と遊女の間で交わされる何気ない会話の中にも奉行所の役人が驚くような機密情報が含まれていたり、江戸詰めの藩士以上に各藩の地元事情がよく知られていたり、御用商人と役人がつるんだ贈・収賄の秘密情報が飛び交ったり、ということが吉原では決して珍しくなかった。そうした情報が遊女らの口から決して漏れることがなかったのは、厳しい監視体制と緘口令が敷かれていたからであろう。
庶民に浸透していた民間信仰の陰陽師や修験者たち
江戸時代は封建社会であり、人口の9割以上を占める士農工商の四民が社会の中心であった。しかし、士農工商の身分制度が江戸時代を通じて安定的に続いていたかというと決してそうではない。支配階級の武士から脱落して陰陽師(おんみょうじ)や芸人(芸能民)、願人坊主(がんにんぼうず、人に代わって願掛けの修行などをした下級僧)になるもの、農民から百姓や船乗り(海民)に転職するもの、職人から外れて山伏・修験者になるもの、商売に失敗して日雇・棒手振(天秤棒を担いでものを売り歩く人)に転落するものなど、犯罪や困窮、喧嘩や争い等さまざまな理由で身分制から脱落した人たちがいた。
そうした人たちも生きていくためにさまざまな職業について糊口を凌がねばならない。陰陽師や占い師、芸人や願人坊主、百姓や船乗り、山伏や修験者、日雇や棒手振といった人たちは身分制度からドロップアウトした下層民の人たちであった。それらの人たちは、支配者側から見たら社会の秩序に馴染まない、社会の制度から外れた、治安上厄介なアウトサイダ-(部外者)やアウトロ-(無法者)のような存在だったかもしれない。しかし、彼らこそ身分制度に縛られず庶民社会に深く浸透し、庶民と日常的に接する中でその暮らしや文化を底辺から支えた人たちであった。
たとえば、江戸時代には占い・祈祷・暦・風水・呪術などは、庶民の民間信仰と深い関わりがあり、武士や農民、職人や商人の間で熱心に信じられていた。冠婚葬祭の相談事、田植えや稲刈りの日取り、家を建てるときの方角や位置、病気になったとき祈祷や治療、商売上の悩みや相談、家族の揉め事など。そして、それらの仕事に携わる陰陽師、占い師、祈祷師、宗教者(坊主や僧侶、)などは庶民の生活の中に深く浸透し、受け入れられていたのである。
たとえば、陰陽師はその起源を平安時代にまで遡り、もともとは天文や吉凶判断、暦に関する仕事を司る朝廷の仕事に深く関わっていた。江戸時代になると、幕府は平安時代の大陰陽師として知られる安部晴明の末裔である土御門家を唯一の家元として認め、「全国の陰陽師は土御門家に入門しなければ活動できない」との御触書(通達)を出したのである。
幕府には土御門家をその配下に取り込むことによって全国の陰陽師を組織化し、陰陽師の日常活動や動向を把握し、コントロ-ルしようという狙いがあった。しかし、実際には土御門家の統制に入らない非公認の民間の陰陽師が結構いて、公認の陰陽師よりも彼らの方が庶民の中に深く入り込んで活動していた。民間信仰が生活の中に深く浸透していた江戸時代の庶民社会では、仕事や生活上で占いや祈祷、暦や風水に関する知識を持った陰陽師や占い師などに相談することが結構多かったのである。
山伏・修験者・虚無僧・願人坊主など、諸国を修行しながら渡り歩く下級宗教者も、陰陽師、占い師、祈祷師など同様に、封建社会の身分制秩序から外れた境界・周縁・無縁の世界に生きる漂白の民であった。きちんとした神社やお寺の組織に属さないこれら下級宗教者は、修行の身とはいえその日暮らしのぎりぎり生活をしながら諸国を歩いていた。信仰心の篤い江戸の庶民はこうした漂泊者たちを決して社会の余計者・厄介者、アウトロ-(無法者)とはみなさず、彼らを自分たちに身近な信仰者、いろいろな情報や知識を教えてくれ、困った時に相談にのってくれる宗教者として広く受け入れていた。
しかし、幕府が彼らを犯罪や騒擾の源になるかもしれない厄介者と見て監視の対象にしていたのは、①武士や農民など身分制から脱落した者が多かったこと、②幕府など公権力が把握できない諸国・諸藩の事情に精通していたこと、③同じ志や職業を持った横の結束=ネツトワ-クが強かったことなどの理由からである。
動かないこと、定住することを良しとする封建社会・身分制度の下では、動くこと・定住しないこと、漂白・流動する民は、封建社会・身分制度を乱す悪いこと、厄介者とみなされていた。しかし、江戸時代の中期・後期になり、社会が深いところで変動してくると、逆に身分や土地に縛られず自由に動くこと、動きながら仕事を成すことが、真に社会を動かし、社会を変える大きな力を生み出していくことが明らかになって行く。
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