野口恒のインターネット江戸学講義(15)諸国を遍歴、「生涯の大仕事」をした“歩くノマド”たち-51歳から地球一周した「伊能忠敬」(上)
日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義(15)>
第7章 諸国を遍歴、「生涯の大仕事」を成した
“歩くノマド”たち–
51歳から測量の旅に出、地球一周した「伊能忠敬」(上)
野口恒著(経済評論家)
51歳から測量の旅に出、地球一周を歩き続けた「伊能忠敬」
人生50年といわれた江戸時代のこと。伊能忠敬(1745~1818年)は、寛政7年(1795年)51歳のときに幼い頃から興味を持っていた暦学・天文学を本格的に学ぶため、家業の醸造業を息子・景敬に譲って、江戸に出て浅草にあった幕府の天文方暦局(星を観測して暦を作成する部局)を尋ねた。
そして、当時天文学の第一人者であった幕府天文方の高橋至時(たかはしよしとき)に会い、門下生として入門を懇請したのである。この時、師匠となる高橋至時は彼より20歳近くも年下の32歳の若造であった。至時がいかに優秀だからといって、年長を敬い面子を重んじる封建・儒教社会において、20歳も年下の若者に弟子入りすることなどあり得なかった。それでも忠敬は自らのプライドを捨て、頭を下げて至時への弟子入りを請うたのである。
至時は当初忠敬の入門願いを年寄りの酔狂な道楽ぐらいにしか思っていなかった。しかし、その後忠敬が何かに憑かれたように昼夜を問わず猛勉強している姿を見て心を強く打たれ、彼を「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)と呼んで敬うようになった。
その当時暦局にいた人々の最大の関心事は、「地球の直径は一体いくら位なのか」という素朴な疑問であった。忠敬も天文学や測量術を学ぶ一人として、その疑問に大きな関心を持っていた。オランダを始め西洋の天文書の知識から、「地球は丸い」ということだけはわかっていた。しかし、それでは地球の外周や直径はどの位の大きさなのかはよく分からなかったのである。
そこである時、忠敬は天体観測を応用して「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、それで2点の距離が分かれば球体である地球の外周を計算でき、直径も割り出せるのではないか」と至時に尋ねてみた。
彼の提案を聞いた至時は「基準となる2点の距離が短過ぎては不正確となる。その距離が長ければ長いほど誤差が少なくなる」と指摘した。「それではどの位の距離を測ればいいのか」と忠敬が尋ねると、至時は「江戸から蝦夷地までの距離を元にすれば、推測が可能だろう」とアドバイスした。この時の至時とのやりとりは、後年忠敬が日本中を歩き回り、日本測量の旅に出る重要なきっかけになったものである。
実際に距離を測るといっても、江戸から蝦夷地まで、その距離はあまりに遠い。50歳をすでに過ぎた老人が蝦夷地まで自ら歩いて測量の旅に出るのは無謀にさえ思えた。
それだけの距離を歩くには相当の体力とトレ-ニングが必要だ。それに幕府の援助が期待できないから、私財を投じてすべて自費でやるしかなかった。家業を再興して蓄財してきた私財を当てれば資金の工面は何とかできたが、自分の体力や健康など様々な困難や心配事が脳裏に浮かび、すぐには決心がつかなかった。
それでも彼の決意は固かった。「自分の足で蝦夷地まで行き、測量を行いたい」という気持ちは揺るがなかった。蝦夷地に行くには幕府の許可が必要であった。そこで、至時が考えた幕府説得の名目は、「地図を作る」というものであった。
当時、日本沿岸にロシアなど外国艦船がやって来ても幕府にはそれを追い返せる艦船がなく、それどころか国防(海防)に欠かせない正確な日本地図さえなかった。そのため、幕府は「地図を作る」という目的なら、蝦夷地だけでなく東日本の測量を行ってもよいと許可したのである。
ただし、その費用を幕府が援助することは一切なかった。その費用はすべて自費で賄うしかなかったのである。忠敬は当時幕府に送った手紙の中で「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を何としても作りたい」という思いと決意を書き留めている。
寛政12年(1800年)56歳のとき、忠敬は江戸を出発して、奥州街道-蝦夷地(太平洋沿岸)-奥州街道にいたる日本沿岸の測量の旅(第一次測量)を開始した。忠敬の測量は原則として沿岸測量であった。およそ3年間をかけて、彼は蝦夷地太平洋沿岸と奥州・東北の東日本沿岸の測量を終えた。
彼の測量方法は、「導線法」と呼ばれる多角測量法であった。それは一地点から次の地点へと次々と方位と距離を測る方法である。距離は藤つるや竹でできた物差しや歩幅で測り、歩幅が一定になるように訓練し、数人が歩いて歩数の平均値を出して距離を計算した。海岸などの曲がり角には梵天と呼ばれる竹竿を立て、前の地点から目標地点への角度を小方位盤という器械を使って測った。
そして、誤差が大きくならないように時々遠くの目標となる山を「象限儀」(しょうげんぎ、北極星や恒星など天体の高さを測って緯度を求める器械)を使って修正しながら精度の確保に努めたのである。旅行中ずっと、昼は測量に専心し、夜は毎夜宿舎の近くで、象限儀を使って緯度を計測し、両方のデ-タを突き合せ比較しながら、誤差があれば修正した。こうして得た膨大な測量デ-タを整理して、彼はノ-トに細かく書き込んでいったのである。
忠敬は、蝦夷地・東日本の測量を終えてから当初の目的であった地球外周の大きさの計算に取り掛かった。彼が測量で得た数値から地球の外周を約4万キロメ-トルと推測した。彼の推測値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかないきわめて正確なものであった。
彼は東日本沿岸の測量を終えてから、測量結果を基に作成した地図を11代将軍徳川家斉や幕府の役人たちに披露した。その精密な地図を見て、幕府の役人たちはあまりの正確さに驚いた。彼らは、忠敬の測量結果や作成した地図がきわめて正確で高度なものであることを認め、その測量事業を支援することを決めた。
そして、「引き続いて、九州、四国を含めた西日本沿岸の測量を行い、地図を作成せよ」と命じたのである。彼が私財を投じて個人的に行ってきた測量事業が、これ以降は幕府直轄事業に格上げされた。幕府の後援を得て、船や人馬を無賃で使用することが許可されるようになった。文化元年(1804年)には、御家人に取り立てられ、忠敬の測量と地図作成は幕府の事業として正式に認められたのである。
文化2年(1805年)61歳のとき、忠敬は江戸を出発して西日本沿岸の測量の旅(第5次測量)を開始した。幕府直轄事業に格上げされ、幕府の経済支援もあったことにより、測量隊は100名を超える大規模となった。忠敬にとって、日本測量の大事業はもはや途中で止める事のできない、まさに人の為、天下の為に命懸けで成し遂げる覚悟であった。しかし、60歳を越えた忠敬にとって心配された体力の衰えはどうしようもなく、それに中国・四国・九州の測量の旅は東日本の時に比べてはるかに過酷で困難が伴った。そのため、彼の身体はぼろぼろとなり、足腰は弱り、歯はほとんど抜け落ち、食事も満足に食べられないほどであった。
文化2~3年(1805~1806年)にかけて、紀伊半島・畿内・中国地方一帯を測量した第5次測量において、伊能測量隊は安芸・広島藩の支援を受けて瀬戸内海を測量した。広島藩は大規模な船団を用意し、「関船」(せきせん)と呼ばれる大型の軍船まで使って測量が行われた。「浦島測量之図」にはこの時の様子が描かれているが、幕府の直轄事業だったので、広島藩も丁重な態度で臨み、村落では測量用の小船や漕ぎ手など人足だけでなく、事前に村の地図も差し出したといわれる。
忠敬は、寛政12年(1800年)の第1次測量から文化13年(1816年)の第10次測量まで、17年間にわたって自分の足で北は蝦夷地から南は九州鹿児島まで、合計9回の測量の旅に出て日本中を歩き続け、日本全国を測量する大事業を成した(高齢や体調を考えて、第9次測量の旅には参加しなかった)。測量の旅は短くて約100日、長いものでは900日を越えていた。
彼が17年間で日本全国歩き続けた距離は地球の外周と同じ約4万キロメ-トル、それに要した日数は3753日であった。当時の平均寿命が50歳位、それに200年前の江戸時代の危険な海岸線や道路事情の悪さなどを考えると、平均寿命をはるかに超えた老人がこれだれの超長距離を自らの足で歩き続けたことは驚異的なことである。まさに「日本中を歩き続けた命懸けの大仕事」であった。
忠敬はすべての測量事業を終えてから、それらの測量結果を元に日本地図の作成に取り掛かった。しかし、既に70歳を越える高齢であり、休みなく続けた過酷な測量事業の無理が重なって、体力も弱り果て肺を患って病床に伏した。そして、彼はそのまま回復することなく、文化15年(1818年)4月13日に亡くなった。享年、73歳であった。彼は生前、病床で「私が日本測量の大事業を成し得たのは高橋先生の賜である。先生の墓の傍に私を葬ってほしい」と師への感謝の言葉を残している。言葉通り、忠敬は高橋至時が眠る江戸・浅草の源空寺に葬られた。(彼の故郷・千葉県佐原市の観福寺にも墓がある)
忠敬の死後、その喪は伏せられた。その間に高橋至時の長男景保の指揮により忠敬の意志を受け継いだ人たちによって、測量結果を基に日本地図の製作事業が続けられ、文政4年(1821年)に「大日本沿海輿地全図」(伊能図)が完成した。出来上がった大日本全図は早速江戸城の大広間で披露され、立ち会った幕府の役人たちはその地図の正確さや見事さに驚愕したという。
伊能忠敬は全国を遍歴し、“生涯の大仕事”を成し遂げた江戸の
最も代表的な「歩くノマド」と言って良い。
ところで、伊能図に関しては重大な後日談がある。文政6年(1823年)にオランダ商館の医師として来日したドイツ人医師シ-ボルト(1796~1866)は、日本研究の傍ら、日本人の患者を診療し、長崎郊外に鳴滝塾を設立して高野長英ら多くの門人を指導したが、彼は文政11年(1828年)に離日する際に、幕府が国家機密として持ち出し厳禁としていた日本地図「大日本沿海輿地全図」(伊能図)を所持していたため、国外追放・再渡航禁止になった。
またシ-ボルトに伊能図を渡した幕府天文方の高橋景保ら、多数の日本人関係者も厳罰に処された。いわゆる有名なシ-ボルト事件である。高橋景保が伊能図を渡したのは、クル-ゼンシュテルン著「世界周航紀」のオランダ訳本と交換するためであった。クル-ゼンシュテルン(1770~1846年)はロシア海軍提督・探検家であり、「日本海」を初めて命名した人物といても知られている。
同書には、長崎を含む世界各地の港の防備などが詳しく書かれており、海外知識の入手や海防に責任のある立場にあった高橋景保にとっては、是非とも手に入れたい書物であった。幕府は支配に役立つ範囲内においては学問や科学を奨励・援助するが、しかしその範囲を逸脱すれば厳しく弾圧した。幕府天文方であった高橋景保もその例外ではなかった。
この事件の厳しい処罰は人々を恐れさせ、蘭学の発展を萎縮させることになったのである。
歌人・西行を心底慕い、50年にわたる漂白の生涯
を送った「松尾芭蕉」
江戸時代の代表的な俳諧師・松尾芭蕉(1644~1694年)の人生は、俳諧師として全国を歩き続けた50年の、漂白の旅の生涯であった。生涯にわたり地球一周を歩き続けた伊能忠敬ほどではないにせよ、芭蕉もまた全国を遍歴し、“生涯の大仕事”を成し遂げた江戸時代の代表的な「歩くノマド」である。
芭蕉は、若くして武士の身分を捨て出家し、漂白の旅の生涯を送った歌人・西行(平安末期・鎌倉初期、1118~1190年)が殊の外好きであった。西行は、元は平将門を討った藤原秀郷の子孫で裕福な名門武家の出身であった。しかし、彼は人生に無常を感じ23歳の若さで出家し、その後は歌人として全国を歩き続け、漂白の旅の生涯を送った。芭蕉は、自分の一生は西行の生き方を倣い、西行のあとを追いかけていくことだとさえ公言し、またその通りに実行した。
芭蕉は、自分を俳諧に導いてくれた四人の先達を上げ、その筆頭に西行をあげている。他の3人は、室町時代の連歌師・宗祇(1421~1502年)、同じく水墨画の雪舟(1420~1506年)、安土桃山時代の茶道の千利休(1522~1591年)でる。四人の中でも、彼が漂白の旅人としてその生き方で最も大きな影響を受けたのは西行であった。芭蕉の旅の哲学が最も明確に表現されているのは、彼が元禄15年(1702年)に著した紀行本「奥の細道」(原題は“おくのほそ道”)に書かれた有名な冒頭の一節である。
「月日は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂白の思ひやまず」。ここには、その生涯を漂白の旅に求めた芭蕉の、孤独で厳しい過客の魂がみごとに表現されている。その生き方は、同じく旅を栖とした西行の人生にまったく重なるものであった」(松尾芭蕉「おくのほそ道」)
芭蕉は生涯にわたって何でも旅に出ており、それらを「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」など数多くの紀行文に残しているが、なかでも有名なのはみちのくを旅した俳諧紀行文「奥の細道」である。
芭蕉は、元禄2年(1689年)3月27日弟子の河合曾良(かわいそら)を伴って江戸深川の採茶庵を出発し、東北・北陸を巡り岐阜の大垣まで旅し、元禄4年(1691年)に江戸に帰っている。その全工程約600里(2400キロメ-トル)を約150日間かけて歩き続けた。芭蕉45歳、曾良41歳であった。芭蕉が奥の細道への旅を思い立ったのは、尊敬する歌人西行が辿ったみちのくの歌枕を訪ね、それを後から追体験することにあったといわれる。西行が歩いたところはすべて調べ上げて、同じように歩いた。それほど、芭蕉は漂白の歌人西行に心酔していた。
「たび人と我名よばれむ初しぐれ」(松尾芭蕉 「笈の小文」)
芭蕉といえば、すぐに“行脚の旅”を連想する。時雨空のもとを旅笠を傾けて歩き続ける姿は、“歩くノマド”芭蕉のイメ-ジに相応しい。芭蕉が西行と共に心酔した室町の乱世を生きた飯尾宗祇(1421~1502年)は時雨の定めなきに人生の悲哀や嘆きを託して、次のような歌を詠んだ。
「世にふるもさらに時雨のやどりかな」(飯尾宗祇)
それに対して、芭蕉も次のような句を読んでいる。
「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」(松尾芭蕉)
歩くノマドである芭蕉にとって、旅人とは現実の日常性の世界を離れて、時雨に象徴される風狂の世界の住人として生きることを意味する。しかし、それは孤独と悲哀に堪えて生きる厳しい世界でもある。西行や宗祇らはそうした漂白の世界に生き抜いた詩人ノマドであるが、芭蕉も西行、宗祇ら漂白の詩人ノマドの系譜に連なる一人であることに厳しい覚悟と大きな喜びを抱いていた。
江戸時代の旅は徒歩(歩くこと)が基本である。当時は、女性でも1日30kmぐらい歩いたといわれる。「奥の細道」の旅では、芭蕉は1日十数里(約50km)も歩いたときがあった。それは、奥の細道でももっとも長い距離である、一関から岩出山にいたる「上街道」(かみかいどう)の道程であった。
芭蕉らは、約50kmの道のりをたった1日で歩いた。当時の道路事情の悪さや、46歳という彼の年齢を考えると、芭蕉は日頃からかなりのトレ-ニングを積んだ健脚であったに違いない。旅を栖にし、旅に生きた漂白の俳諧師にとって、健脚であることは生きるための絶対条件でもあった。芭蕉は西行の歌の根本にあるのは、「歩き続けるための足の筋肉だ」といっている。全国を歩き続け、鍛えぬいた足の筋肉があるからこそ、漂白の歌人であり続けられた。芭蕉はこうした西行の生き方や生き様を高く評価して、若い頃から足腰を鍛え、彼の後を一生追い続けたのである。
彼のあまりの健脚ぶりに、実は芭蕉は幕府の隠密ではなかったかという隠密説を唱える人もいる。確かに芭蕉は忍者の里である伊賀上野の出身であり、母方の実家・桃地家は、伊賀忍者の“百地三太夫”で有名な忍者の名家・百地家とも関係があったといわれる。
それに、いかに旅慣れているとはいえ、1日50kmも歩くには日頃からかなりハ-ドなトレ-ニングをしていないと不可能である。
ただし、厳しい訓練を行い鍛え抜かれた忍者なら可能である。それに、芭蕉が弟子の曾良を伴い約150日間も旅行するには相当の旅費が必要になる。しかし、芭蕉は、伊能忠敬のように家業で蓄えた私財があるわけでない。
一体旅費をどう捻出したのかという数々の疑問を指摘する。しかし、これらの疑問は基本的にこじつけのように感じられる。
芭蕉は、西行に倣って漂白の旅人、漂白の人生を若い頃から志し、そのため足の筋肉を鍛える厳しい訓練を怠らなかったことは十分想像できるのである。また旅費の捻出は弟子たちや支援者たちから貰った餞別に加えて、行く先々にいる多くの俳句仲間や友人たちのネットワ-クに支えられて食べ物や宿泊を乞うたり、句会を催して指導料のような収入を得たりして、なんとか旅費の工面できたのではないかと思われる。
驚くべきは、芭蕉らの奥州旅行・おくのほそ道を縁の下の力持ちとなって道中の案内をしたり宿泊の世話をしたりして、支え続けた全国に散らばる俳諧仲間の「連衆(れんじゅ)のネットワ-ク」である。
たとえば、芭蕉らは元禄2年(1689年)3月27日に江戸・千住で杉風(さんぷう)ら見送りの連衆らと別れて日光街道を北上して東照宮を参詣した後、4月3日~15日までは那須黒羽2万石の領主大関氏の陣代家老・浄法寺図書・岡善太夫兄弟のもとに滞在、16~17日は高久の庄屋角左衛門方に宿泊、22~28日までは須賀川の駅長相楽伊左衛門方に宿泊している。
また、奥州に入ってからは5月17日に尾去沢に到着、早速旧知の紅屋問屋島田屋八右衛門を頼って10日間滞在、その後彼の紹介で最上川舟運の基点大石田の川役・高野平右衛門方に止宿、新庄では豪商・渋谷甚兵衛方に宿泊している。本合海(もとあいかい)から最上川を舟で下り、6月3日に芭蕉らは出羽に到着、門前町手向(とうげ)村の染物商・近藤佐吉らの世話で高野平右衛門の紹介で別当代会覚(えがく)の厚遇を受け、1週間ほど当地に滞在する。
さらに、6月10日に出羽を後にして鶴岡に赴き、庄内藩百石取りの長山五郎右衛門方に滞在して酒田に向かう。酒田では、藩医・伊藤淵庵、豪商・近江屋三郎兵衛、寺島彦助らの歓待を受けて25日まで当地に滞在した。その後象潟(さきかた)を訪れ、西行の思い出を止める土地の美景を楽しんだ。
「荒海や佐渡によこたふ天の川」と読んだ越後路の旅は雨にたたられて厳しい旅であったが、7月15日には北陸金沢に着き、当地の連衆仲間である前田家御用の研ぎ師・立花彦三郎・源四郎兄弟、薬種商・宮竹屋伊右衛門らの歓待を受けて22日まで滞在した。立花源四郎の案内で近くの山中温泉にまで足を伸ばし楽しんだ。8月5日、病気のため伊勢長島に直行する曾良と別れ、福井に向かった。
福井では旧知の神戸洞哉の案内で敦賀を訪ねた。8月16日には北前船の廻船問屋・天屋五郎右衛門の案内で舟遊びを楽しんだ。北陸の旅を経て、芭蕉が大垣に着いたのは8月21日であった。
奥州・北陸路の旅程六百里(約2400キロ)の長旅であったが、道中それぞれの土地の上級武士・豪商・素封家といった社会階層の高い連衆仲間のネットワ-クに支えられており、芭蕉の旅は決して乞食旅行ではなかった。芭蕉の旅の足跡を辿ってみると、全国にいる俳諧仲間(蕉門)のネットワ-クがいかに堅い絆で結ばれているかを非常に明確に示している。
芭蕉は元禄4年(1691年)「奥の細道」の旅から江戸に帰ったあと、俳諧紀行文「おくのほそ道」の執筆に取り掛かった。この紀行文は短い小品であるが、彼は練りに練って3年がかりで原稿をまとめた。元禄7年(1694年)に芭蕉が亡くなってからは歌人・俳人の柏木素竜が2年かけて清書し、元禄15年(1702年)に完成した。「奥の細道」は芭蕉の多くの紀行文の中でも最高の傑作である。
芭蕉は元禄7年5月に西国の弟子や支援者たちに、彼が唱えた俳諧論「かるみ(軽み)」の指導を行うため旅に出たが、途中大坂の旅籠・花屋仁左衛門方で体調を崩して病に臥し、「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」の句(辞世の句ともいわれる)を残して、10月12日に客死した。享年51歳であった。彼は病が治ったら、さらに九州を旅する予定だった。最後まで旅に生き、旅に死した“漂白のノマド”の生涯であった。
ところで、芭蕉は意外にも彗星の如く歴史に登場して消え去った木曾義仲の壮絶な生き方や京の都に決して染まらなかった短い生涯に深く共感していた。そのため生前から、「私を木曾殿の隣に葬って欲しい」と弟子たちに言っていた。
その遺言通り、彼の亡骸は弟子たちの手によって木曾義仲の眠る義仲寺(大津膳所)に運ばれ、義仲の墓の隣に埋葬された。芭蕉は、歩きながら漂白の旅50年の生涯を通して、世に「蕉風」と呼ばれる芸術性の高い句風を確立した。そして、その生き様は伊能忠敬と同様に、「歩くノマド」としてこれまで誰もが成し得なかった偉大な仕事を成し遂げたのである。