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野口恒のインターネット江戸学講義(18)『江戸は意外に「実力主義」の競争社会―人材登用と開明政策を進めた田沼意次』

      2015/01/01

日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義(18)
 
第8章 江戸は意外に「実力主義」の競争社会
実力主義の戦国時代から世襲制の江戸時代へ(下)
 
野口恒著(経済評論家)

 
実力主義の人材登用と開明政策を推し進めた田沼意次
 
 江戸時代は封建的な身分制度でかんじからめに縛られていたので、よほどのことがない限り身分の低いものがチャンスを掴んで能力を発揮し、出世することはきわめて難しかった。そんな中で、身分の低い軽輩から出世して老中まで上り詰め、“実力主義”を身をもって体現した人物がいる。
 
その人物は田沼意次(1719~1788年)である。意次が幕府要職の最高峰・老中にまで出世できたのは、もちろん本人の卓越した能力と並々ならぬ努力もあったが、何といっても歴代将軍から絶大な信頼を得ていたという幸運に恵まれたことも大きかった。
 
 田沼意次は、享保4年(1719年)紀州藩の足軽身分であった田沼意行の長男として江戸の田安屋敷で生まれた。意行は足軽身分であったが、その後8代将軍徳川吉宗に登用されて小禄旗本となった。
 
足軽の子として生まれた意次が最初の幸運に恵まれたのは、9代将軍徳川家重の西丸小姓に抜擢されたことだ。これにより将軍家重の覚えめでたく、その後も小姓組番頭、御側御用取次と順調に出世して行った。そして宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判を解決するため、彼は御側御用取次から1万石の大名にまで取り立てられた。
 
 田沼意次にとってさらなる幸運は、宝暦11年(1761年)将軍家重が死去した後、家重の子である10代将軍・徳川家治からも厚い信任を得たことであった。9代将軍家重・10代将軍家治と2代にわたる将軍から厚い信任を得ことにより、意次は破竹の勢いで出世街道を驀進した。

10代将軍家治の時代、明和4年(1767年)には御用人から側用人に出世し、その後遠州相良藩2万五千石の城主となり、明和9年(1772年)に側用人から幕府中枢・老中にまで上り詰めた。そして、石高も最初わずか600石の小禄旗本から出世のたびに加増を繰り返し、最後には相良藩5万7千石の大名にまで昇進した。側用人から老中にまでなった人物は田沼意次が初めてであった。

 
 田沼意次・意知父子が幕政の実権を握っていた「田沼時代」といわれた時代は、社会構造が大きく変動する変革期であった。
経済的には商業や流通が発達して商品・貨幣経済が急速に発展する一方、社会的には貧富の格差や新たな階層分化が進展した時代でもあった。都市では大規模な商人や豪商が成長し、農村でも商品経済と結びついて豪農地主が生まれたが、他方都市では貧窮した下層民衆が豪商・豪農・高利貸しなどを襲った打毀しが起こり、農村でも飢饉に苦しみ、困窮した農民による一揆が全国で頻発した。
 
田沼意次らは、悪化した幕府財政を救済・立て直すために、積極的な経済振興政策を推し進めた。それらは、株仲間の結成、銅座などの専売制の拡大、俵物(海鼠を煮干ししたいりこ・干し鮑・鱶ひれ等)の奨励、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、ロシアとの通商など外国貿易の促進、下総・印旛沼の開拓などである。こうした積極的な経済振興策によって幕府の財政状態は改善に向かい、景気も良くなったのだが、他方で悪い面もたくさん出てきた。
 
それは、幕府権力と豪商・大商人との癒着、町人や役人の生活が金銭中心となり、そのため贈収賄が横行したこと。農村では飢饉や疫病などの発生で荒廃し、貧窮した農民・百姓が都市に流入して治安が悪化したこと。また明和の大火、浅間山の大噴火などの災害が起こり、そのうえ天明の飢饉なども重なって、都市も農村も疲弊したことなど。
 
意次らは、何とかして窮状を打開しようと対策を打ち出すが、印旛沼開拓の失敗を始め失政が重なり、事態はますます悪化していった。豪商・大商人への権益を図りすぎたこと、贈収賄疑惑に対する反発、打ち毀しや一揆など都市の治安悪化と農村の荒廃など、一連の政策の失敗が重なって、幕府権力内の保守派の反発や田沼政治への世間の批判が集まって、彼は次第に権力中枢から遠ざけられた。
 
そして、天明4年(1784年)には息子意知が暗殺されたことにより、意次も老中職を罷免された。さらに天明6年(1786年)には将軍家治が死去したことにより後ろ盾を失い、保守派の追い落としもあって意次は失脚した。財産は没収されて永蟄居(生涯屋敷に幽閉)という厳しい処罰を受け、意次は悲惨なうちに天明8年(1788年)に死去した。
 
田沼政治は世間的には賄賂政治・金権政治の印象が強く、あまり良いイメ-ジはないが、しかしその政策には評価すべき点も多い。とくに、田沼意次は身分制の厳しい封建社会にも関わらず、身分・家格にとらわれない実力主義に基づく人材登用を積極的に試み、また平賀源内・杉田玄白・前野良沢などの蘭学者と交わり、町人文化の台頭や出版文化の発展を後押しするなど、開明政策をとったことだ。
 
田沼次代には、身分は低く小禄だが、多くの有能な人材が大胆に登用された。
意次の腹心の経済官僚であった河合久敬(貨幣改革に力量発揮)・松本秀持(蝦夷地開発・印旛沼開拓を手掛ける)・赤井忠晶(蝦夷地開発・印旛沼開拓を実行)は、その能力を高く評価されて勘定奉行に抜擢され、彼の貨幣政策や経済政策のブレ-ンとして活躍した。
とくに、松本秀持は米百俵の小禄の出身でありながら、田沼改革で出世して最期は5千石にまでなった。本来なら幕府の要職に決して就けないような百俵・二百俵の小禄身分の者でも能力さえあれば、幕府の役職に積極的に登用した。
 
彼がこうした実力主義の人材登用を大胆に実行できたのも、意次自身足軽の子で少禄身分でありながら、チャンスを掴み能力を発揮して昇進し、幕府中枢の老中まで出世できた本人の生い立ちや経験が大きく影響していた。
 
10代将軍徳川家治が亡くなり11代将軍徳川家斉の時代になると、陸奥国白河藩藩主松平定信が、田沼意次失脚後の天明7年(1787年)に老中首座となり幕政の実権を握ることになった。
定信は、真っ先に幕閣から田沼時代の官僚をすべて一掃し、田沼改革を悉く否定して祖父にあたる徳川吉宗の享保の改革を手本にした、倹約質素・緊縮財政・綱紀粛清・風紀取締りを基本とした寛政の改革を行った。
 
田沼時代に意次の腹心官僚として活躍した松本秀持、赤井忠晶ら経済官僚や多くの商人たちは贈収賄などの不正行為を行ったとの理由から厳しく処罰された。とくに意次に蝦夷地開発を提言した腹心の勘定組頭・土山宗次郎は、蝦夷地開発の責任を問われただけでなく、自身の放蕩三昧の生活も咎められ、斬首の刑という重い刑罰に処せられた。
 
田沼時代に身分や家格にこだわらず、実力主義で幕府の要職に抜擢した人材登用策に反発を抱いていた保守派の役人たちは、ここぞとばかりに田沼派官僚たちの追放・処罰に加担したのである。
彼らはもともと「人は生まれながらに身分に上下・差別がある」という朱子学の教えや身分制を固く信じており、田沼意次の実力主義の人材登用策は朱子学の教えに反し、身分制を無視するものだと強く反発したのである。
 
また、寛政2年(1790年)には幕府の学問所・昌平坂学問所においては朱子学以外の学問の講義研究を禁じた寛政異学の禁により厳しい学問弾圧が行われ、蘭学など西洋の学問研究も否定された。
 
これに伴う言論弾圧により田沼時代に活躍した黄表紙の花形戯作者・山東京伝は彼の洒落本三部作「仕懸文庫」「娼妓絹麗」「錦之裏」が風紀を乱したとの理由から手鎖50日の刑を受け、また版元の蔦屋重三郎も財産(動産・不動産)半減の処分を受けた。言論弾圧はその後も続き、寛政の改革で出版・文化は冬の時代を迎えることになった。
 
松平定信があれほどまでに田沼改革を悉く否定した背景には、御三卿(田安家・清水家・一橋家)の田安家に生まれながら、白河藩に養子に出されて将軍継嗣になり損ねたのは、自分を白河藩に追いやった一橋家とその命を受けて動いた田沼意次のせいだと思い込み、彼を憎んでいた(私憤・私怨)からだといわれる。定信は家康の直系で吉宗の孫であるという名門意識が非常に強く、一橋家に対してはともかく、足軽身分の子で軽輩の出である田沼意次に対して出自や氏素性からくる個人的な反発や恨みがあったと思われる。
 
松平定信の時代において、寛政の改革はその極端な倹約令・緊縮財政・言論弾圧が庶民や大奥の反発を招き、思ったほど成果を上げることはなかった。後年に彼は将軍家斉とも対立し、寛政5年(1793年)に老中職を罷免させられ隠居し、文政12年(1829年)に死去した。
 
松平定信の引退後も、寛政の改革の政治理念や政策は幕末期まで幕政の基本理念・政策として幕府権力内で継承・堅持されていったが、しかし庶民社会においては田沼時代の実力主義に基づく開明政策やその思想が地下水脈となって脈々と受け継がれ、幕末の開国や文明開化の流れにつながって行く。朱子学に基づく身分世襲制の堅持と継承を信条とした松平定信の考え方やその政策は、当時の庶民感情や意識から遊離していた。
 
寛政の改革で息の根を止められたかに見えた田沼時代の開明政策は、11代将軍徳川家斉治世の下、松平定信失脚した後の文化文政時代(化政時代、18041~830年)になって庶民文化・町人文化の隆盛へと受け継がれていった。それはまさに町人文化の爛熟期でもあったが、文化を大切に支援した田沼時代の置き土産でもあった。
 
米国・ハ-バ-ド大学のジョン・ホイットニ-・ホ-ル教授は、田沼意次について「意次は近代日本の先駆者であった」(「Forerunner of Modern Japan」)と高く評価している。田沼意次の改革がなかったら、江戸の町人文化も繁栄することはなかったであろう。
 
 
江戸の町人文化は実力主義のサ-クル(ネットワ-ク)社会
 
 身分制度や世襲制の厳しい江戸の封建社会において、身分・家柄の差別がなく、誰もが参加・退出自由で、創作活動を通じて本人の才能やセンスが素直に表現でき、その実績が公正に評価される、もっとも実力主義の社会こそ、意外なことに町人文化の活動サ-クルである。
たとえば狂歌・俳諧の世界では、仲間ごと・地域ごとにたくさんのグル-プを作って、それらを繋ぐネットワ-クを全国に網の目のように形成し、情報交換や交流活動を非常に活発に行っていた。グル-プ内では元木網(もとのもくあみ)、智恵内子(ちえのないこ)といった面白おかしい名前(号・ペンネ-ム)を名乗り、気のおけない者同士が遊び心を発揮して盛んに活動していた。
 
それらのグル-プには、旗本・御家人(なかには大名も参加)から下級武士まで、豪商の主人や大店の番頭など商人たち、大工屋・左官屋・建具屋など専門職人たち、僧侶や医者、踊りや生け花などの師匠たち、歌舞伎役者や旅芸人まで、じつにさまざまの階層の人たちが身分・家柄の区別なく自由に参加して、自分たちが作った狂歌・俳諧の作品を発表・批評し合い、時にはみんなと一緒にお伊勢さんや上方を旅行したり、指導会と称して地方に仲間同士で旅行したりしていた。
こうした活動サ-クルは、現在でいえばさしずめ異業種交流会や地域の親睦会、あるいはWeb(インタ-ネット)上の活動サ-クルであるSNS(ソ-シャル・ネットワ-ク・サ-ビス)のような存在で、同好の仲間たちが集まって遊んだり、情報交換したり、交流したりしたのである。
 
これらの活動サ-クルでものをいうのは、世間でいう身分・地位・家柄では決してなく、狂歌・俳諧など創作の世界でみんなを驚嘆・感動・共鳴させるほどの優れた作品をどれだけ発表し、仲間たちから高い評価を得るか、ひとえに本人の才能やセンスや実績、すなわち「実力競争の世界」である。
優れた作品を数多く発表し、みんなからその実力を高く評価されれば、仲間内で「あいつはすごい」と一目置かれる存在になる。その上、性格や人柄もよくて、同好の仲間たちをうまくまとめていける統率力があれば、活動サク-ルの主宰者としてみんなから認められることになる。
 
そんな江戸時代の代表的な狂歌師・戯作者が「大田南畝」(おおたなんぽ、1749~1823、別号は蜀山人・四方赤良(よものあから)・山手馬鹿人・寝惚(ねぼけ)先生)である。彼は江戸城の警固を任務とする下級武士の子として生まれ、明和2年(1765年)に父親の後を継いで身分の低い幕臣となった。牛込御徒町に生まれ住んでいて、勘定所幕吏として高齢を過ぎても幕府へのお勤めをずっと続けた真面目な役人であった。
 
若い頃から学問に励み、平賀源内から「きみは戯作者の才能があるよ」と誉められ、いわれるままに明和4年(1767年)19歳の若さで狂詩集「寝惚先生文集」(平賀源内が序文を寄せている)を出版すると、これが大ヒットして一躍世間から注目されることになった。くしくも同年は、田沼意次が側用人に出世して幕政の実権をにぎり、田沼時代の始まりともされる年であった。
 
19歳で歌壇にデビュ-した以後、大田南畝の活躍は目覚しく、狂詩・狂歌・狂文・黄表紙・洒落本・随筆などの各分野で文名を上げ、次々と話題作を刊行した。前掲した狂詩文「寝惚先生文集」の他に、狂歌文「四方のあか」「蜀山百首」「狂歌百人一首」、朱楽管江との共編「万載狂歌集」、黄表紙評判紀に「菊寿草」「岡目八目」、随筆に「一話一言」「俗耳鼓吹」、洒落本に「甲駅新話」「粋町甲閨」など、まさに才能が迸り出るように次々と作品を発表し、八面六臂の活躍であった。
なかでも明和5年(1768年)から文政5年(1822年)の長きにわたって書かれた「半日閑話」は当時の江戸の庶民社会を知るうえで貴重な資料とされる。
 
大田南畝の業績で特筆されるのは狂歌の世界であり、とくに江戸を中心に天明期に爆発的に流行した天明調を代表する狂歌作者としてその名声を確立し、文芸界の大御所のような存在であった。五七五七七の歌を面白おかしく読んだ狂歌は、現在でいえば世相や世の中の出来事をパロディ化したもので(パロディに近いもの)、軽妙な笑いと機知に富んだ一種の知的な言葉の遊戯である。
 
そこには、作者独自の笑いのセンスやユ-モアの精神、皮肉や諷刺、さらには幅広い教養や時には鋭い美意識が含まれている。南畝が詠んだ「世の中は酒と女が敵(かたき)なり どうか敵にめぐりあいたい」の歌や、辞世の歌とされる「生き過ぎて七十五年食ひつぶし限りしられぬ天地の恩」の歌には、時代を超えても変わらない独特の面白さや笑いのセンス、ユ-モアの精神が感じられる。以下は南畝の代表的な作品である。
 
一めんの花は碁盤の上野山黒門前にかかる白雲
 
吉原の夜見世をはるの夕暮れは入相の鐘に花や咲くらん
 
生酔の禮者を見れば大道を横すじかひに春は来にけり
 
両国のはしより長き春の日に槍二三本立つ霞かな
 
あなうなぎ何処の山の妹と背をさかれてのちに身をこがすとは
 
瀧の音は絶えてひさしくなりぬるというはいかなる旱魃のとし
 
ほととぎす鳴きつる跡にあきれたる後徳大寺のありあけの顔
 
太田南畝の日常生活はじつにユニ-クで、「昼の顔」と「夜の顔」はまったく違っていた。昼は身分の低い幕府の下級役人として真面目にこつこつと役所仕事に励み、夜は狂歌作者、戯作者、浮世絵師など彼を取り巻く多くの仲間たちと狂詩・狂歌・黄表紙・洒落本・浮世絵など文芸の世界を楽しみ、一緒に戯れた。
 
南畝は、まったく異なる昼と夜の2つの世界を巧みなバランス感覚と旺盛な好奇心で上手に渡り歩いたのである。狂歌仲間には、教養があって実力のある下級武士の唐衣橘州、手柄岡持、朱楽管江ら、学問好きな町人の宿屋飯盛、平秩東作、元木網、鹿都部眞顔らがおり、さらに滝沢馬琴、谷文晁、酒井抱一、亀田鵬斎など江戸の一流文化人たちが太田南畝の周囲や活動サ-クルに集まり、武士や町人といった身分・家柄をいっさい気にすることなく交流していたのである。 
   
しかし、時代が変わり、彼を取り巻く文芸の世界は大きく変化した。田沼意次が失脚して松平定信の寛政の時代になると、言論弾圧が顕著になり、文芸の世界は様相が一変した。多くの戯作者や文化人が断筆や活動の休止を余儀なくされた。
とりわけ南畝自身も交流のあった意次の腹心で幕府の御勘定組頭であった土山宗次郎が斬首の刑に処せられ、戯作者の山東京伝が弾圧されたことに、彼は大変なショックを受け、それを境に狂歌の創作活動は一切止めた。ただし、役人としての仕事はしたたかに続けていたようである。
 
江戸の町人文化は寛政の政治改革で厳しい秋霜烈日の時代を迎えるが、しかし社会深層の地下水脈では田沼時代からの開明の思想や文芸精神が脈々と流れ続け、目に見えない大きな力となって社会を、時代を動かしていくことになる。
 
 
 
 

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