前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

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『Z世代のための世界天才老人・「ジャパンアニメ」,「クールジャパン」の元祖・葛飾北斎(88歳)の研究』★『その創造力の秘密は、72歳で傑作『富嶽三十六景』を発表、80歳でさらに精進し、90才で画業の奥義を極め、百歳で正に神の領域に達したい。長寿の神様、私の願いをかなえたまえ!』★『「100歳時代」「超高齢少子化社会」の最高のモデルではないでしょうか』

   

2022/02/09   の記事再録

葛飾北斎(88歳)米タイム誌による「過去千年で最も偉大な功績の世界の100人」の1人に選ばれた』

 前坂 俊之(ジャーナリスト)

·      

 

私(筆者)は富士山マニアです。富士山の風景をあらゆる場所からビデオ撮影し、Youtubeでアップしています。毎回、東海道新幹線にのれば富士山を撮影している。天気が良ければ、今日の富士山はどんな感じかな!と胸が躍ります。

2017年(平成28)12月25日に故郷の岡山に新幹線で帰省しました。この日は青空がクリーンに広がり雲一つない。雄大、壮麗な富士山の全景がくっきり見えるのではと出発前から期待で胸がおどりました。

250キロ近いスピードの新幹線ひかり号が三島駅を通過すると、その3分後くらいに右車窓に富士山が徐々に姿をあらわしてきます。富士市に近づくと徐々に台形、円錐状の雄大な富士山の山頂が少しづつ見えてくる。富士駅付近では5合目まで雪化粧した富士山全景が製紙工場の煙突が林立する町並みのバックに雄大な裾野を広げたその華麗で優美な富士山の全景が雲一つない青空の中でパノラマ的に刻々と変化していきます。

富士川鉄橋をわたるまでの約15分間ほどの絶景、絶景、また絶景の、目くるめく瞬間の富士山をばっちりとビデオ撮影することができました。シルバ―Youtuberの私にとって最高の瞬間でした。

https://www.youtube.com/watch?v=GEOLYn4BeNg

1970年代(昭和40年代)には富士市内の製紙工場を相手に住民の『富士公害裁判』が起きました。そのころは富士市内では製紙工場の多数の林立した煙突から黒煙がもくもくと上がり、悪臭が町全体に立ちこめ富士山の姿もカスんで、全く見えないほどで、高度経済成長を養進中の「日本経済大国」「工業立国」の表看板とは裏腹に「公害汚染大国、公害健康被害者大国」の惨状を象徴する風景でした。

·       富士山は日本美の代表風景

明治以来の外国人による日本イメージの代表は「フジヤマ,芸者ガール」ですが、富士山人気は今も変わりません。富士山は日本の多様性に富む自然の代表であり、自然崇拝教の日本人の信仰の対象であり、日本人の美の心そのものと思います。富士山ほど芸術家に愛されたものはありません。富士山は永遠の生命であり、普遍的なその美姿に心を奪われて、生涯描き続けた長寿芸術家も数多い。葛飾北斎(89歳)、横山大観(89歳)、片岡球子(103歳)、中川一政(97)ら。

米雑誌「ライフ」は1999年(平成11)の特集企画で「過去1000年で最も偉大な功績をあげた世界の100人」の1人に、日本人では唯一、浮世絵師の葛飾北斎を選んでいます。90年のその生涯に、版画、肉筆画、挿絵、漫画など森羅万象3万点以上を描いた北斎は西洋絵画を超えた表現技法を創造し、ゴッホらフランス印象派の画家たちに多大な影響を与えています。今、世界を席巻する「ジャパンアニメ」「ジャパンクール」の元祖そのものです。 

·       われ幼少よりものの形状を写すクセあり

北斎は1760(宝暦10)年9月、江戸本所割下水で石工の子に生まれた。本所はもともと葛飾郡に属しており、のちに葛飾の姓を名のった。「われ幼少よりものの刑状を写すクセあり」と書いているように、5,6歳のころから絵心があり、19歳で浮世絵界の大物・勝川春草に弟子入り、役者絵などを学んでいます。はじめは、絵はあまり売れず、貧乏暮しが続き、唐辛子や暦を売り歩いたりしたこともあった。

ちょうどその頃、北斎は30代の半ばに達していましたが、画狂への道を歩むことになるエピソードが残っている。「ある人から子供の端午の節句のお祝いに鯉幟(こいのぼり)の絵を頼まれて描き、金2両を得た。貧乏暮しの身に上にはこれを無上の宝物と受け取り、ここで一念発起したのです。

飯島虚心著『葛飾北斎伝』によると、北斎はたちまち志を一転し、生涯画工として世を終ることを誓い、それからというもの、朝はやくから筆をとって人の寝静まる夜ふけにおよび、腕が萎え、眼が疲れるまで仕事を続け、ソバ2杯を食べてから寝るというぐあいで、この夜食のソバ2杯の習慣は死ぬまで続いた、といわれています。39歳で北斎を名乗り、浮世絵から大和絵など幅広いジャンルを手がけ、滝沢馬琴とコンビを組んだ挿絵で売れっ子となりました。その後も常に新しいジャンルへ挑戦し、技巧の研究に余念はなかった。

 

美人画で有名な喜多川歌麿は北斎より若かったが、54歳で亡くなった。一方、北斎は齢50をこえてますます円熟期に入り、まず「北斎漫画」(絵手本)を完成した。これは人間、歴史、風俗、風景から動物、植物、生物など森羅万象3191点にのぼるスケッチ画集。いわば『イラスト版、マンガ版大百科事典』とでもいうべきもので、北斎の本質をつかむ的確なデッサン力が示されています。

ヨーロッパに輸出された『日本陶器』の梱包材として、浮世絵がたくさん入っていたが、1856年(安政3)にフランスの石版家ブラクモンがパリでこの1冊を目にして大きな衝撃を受けた。一躍「ホクサイスケッチ」として、ヨーロッパ中に広がり、北斎の名を世界的なビッグネームにし、フランス印象派には大きな影響を与えたのです。

·       創造力こそ長寿力、72歳で傑作『富嶽三十六景』を発表

北斎のすごさは絶えず発展、進歩を目指して精進,研鑽を続け、晩年にますますその本領を発揮したことで,晩年の達人そのものです。

1831(天保2)年、72歳になった北斎は『富嶽三十六景』の連作の第一作を発表した。遠近法、デフォルメ、ダイナミックな構図という『北斎マジック』を集大成したもので、その驚異の動体視力で迫力ある波頭を描ききって、さらに「あか富士」を加えた「冨嶽百景」(続編を含めて46点)は完成したのは76歳の時です。これは歌川広重の「東海道五十三次」と好一対をなす浮世絵の最高傑作と評価されています。

北斎は『富岳百景』を発表するに当たって、その奥付に「七十五齢 前北斎為一改招紺を改画狂老人卍筆=山沢印=」とわざわざ大書して、次のように書いています。

 

「己六才より物の形状を写すの癖ありて、半白の頃(白髪まじりの頭髪のころ)より数々画図を顕すといヘども、七十年前画く所はやや実に取るに足るものなし。七十三才にして、梢(やや)禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟し得たり。故になお八十才にして益ます進み、九十才にして猶、其奥義を極め、一百才にして正に神妙ならんか。百有十才にしては一点一格にして、生るが如くならん。願くは長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまうべし。画狂老人卍述」と。

 

わかりやすく言うと「私は6歳より物の形をうつすクセがあったが、70歳以前に書いたものは取るに足らない。73歳となった今やっと、禽獣虫魚(動物昆虫魚類など)の骨格、草木(植物)を書けるようになった。だから今後とも80歳にしてますます進み、90才にしてなお画の奥義を極め、100才にして正に神の領域に達したい。
100歳を超えると一点一格とも生きているごとく表現する、願わくば長寿の君子よ、私の言うことがウソ、いつわりでないことをみてほしい」と。天才・北斎にしてこの言です。
70歳を過ぎても浅学菲才の老生はこの言に一瞬、電気にふれたようなショックを受けました。何歳になってもさらなる高みを目指して日々、努力と精進を続けてきた北斎の不屈の闘志に感動の涙が流れてきたのです。

·       創造力の秘密は、破天荒な奇行ぶり、93回も引っ越す

天下第一となり、齢70を超えてもなを日々研鑽、不断の努力を続けてきた。その毎日毎日の積み重ねこそが、北斎を画聖の域に到達させたのです。画業によって創造的長寿を達成した北斎の森羅万象への幅広い観察眼と徹底した描写力はレオナルドダビンチに匹敵するといっても過言ではありません。

北斎の創造力の秘密は、その破天荒な奇行ぶりと、その結果としての長寿にあると思います。生涯93回も引っ越し、1日に2度越したこともあった。画業に適さない場所はさっさと引っ越した。ただし、引っ越し先は、彼が生まれた江戸の本所から、そんなに離れていない江戸の中に限られていました。

浮世絵師の作品の主体は木版画です。版元の助けなくしては作品はできないので江戸を離れて移り住むことはできない。1835年(天保6)頃の長野県・小布施をのぞいては、彼は90回余も、江戸の中を転々と引っ越している。

 

文献、書物が山ほどあって引っ越しできない学者や研究者や、植物学者の牧野富太郎のようにこれまた植物の採集標本が大量にあって、簡単に引っ越しできないのとちがって、鋭い観察眼と卓越したスケッチカをもっていた北斎は身体一つでいつでもすぐ引っ越しできた。何よりも画業三昧できる環境を最優先した芸術家魂の放浪だったのです。

·       ペンネームを30回以上も変えた

また宗理、「戴斗(たいと)」「画狂人」「卍」などのペンネームを30回以上もかえている。その真意は名前などには無頓着で、いかに良い作品を作るかに集中したためでした。士農工商の身分差別、名誉、家柄、形式、伝統、家元、ブランドにガチガチに縛られていた封建時代の旧弊制度など近代人・北斎にはどうでもいいこと。

それ以上に、画家の革命家・北斎にとってはそうした旧弊制度打ち倒すべき敵だったのではないでしょうか。彼のペンネームの変更、引越し、その生活態度の奇行はその表れです。北斎のペンネームの推移と、絵の作画年代を考察すると、北斎の描写力と観察眼の深まりを研究することができます。

春朗(安永八一寛政六)、群馬亭(天明五一寛政六)、宗理(寛政八一寛政十)、百琳宗理(寛政八一寛政九)、北斎宗理(寛政十)、可候(寛政十一享和三)、北斎(寛政十一一文政二)、不染居北斎(寛政十一)、辰政(寛政十一一文化七)、婁狂人(享和ニー文化十四)、簑狂老人(文化ニー嘉永三)、載斗(文化八一文政二)、青票(文化九一文化十二)、錦袋合(文化十)、月痕老人(文政十一)、鳥一(文政三一天保五)、不染居鳥-(文政五)、藤原負-(弘化四一嘉永二)、坊(天保五一嘉永二)、また戯作名には、長和膏、魚傷、群馬事、時太郎可侯、穿山甲等がある。

 

北斎は生涯、安住せず、努力研鍵を続けて-歩一歩高みを目ざして、前人未到の境地にたどりつき、世界の絵画史上に残る傑作『冨嶽百景』を完成させ、北斎芸術の頂点がこの『富嶽三十六景』です。

これを当時の西欧絵画と比較すると、セザンヌはデカルト的に自然を観察して構成しょうとしたが、その形が、特に角が勝ちすぎて、絵に面白みがない、と言われた。ピカソはその逆にセザンヌ的な従来の遠近法による1視点からの描写ではなく多視点からみた形と色で合成する「キュビズム」という新しい技法を編み出して抽象芸術の誕生させたのです。

これらと比較すると、北斎はすでに西欧近代絵画の先をいっており、セザンヌやピカソ以上のところがある-と評価する専門家が多い。「雑誌ライフ」の「世界の100人」の画家に選ばれた理由もこのあたりにあるものと思われます。

·       画家は長寿、作家は短命

確かに、画家には長寿者が多い。シャガールは97歳、92歳、ピカソ92歳、ミロも90歳、ミケランジェロ89歳、モネ86歳、マティス85歳、マティスは85歳、ダリ84歳、ドガ83歳、ゴヤ82歳などだが、これよりさらに上を行く画家がいる。ティツィアーノは99歳です。ティツィアーノは十六世紀に活躍したイタリア・ルネサンス期の画家で、没年はわかっているものの、生年については諸説あり、一説では86歳頃に世を去ったとも言われている。

 

日本を例にとると、長寿画家、彫刻家らは百歳以上も山のようにいます。抽象画家・篠田 桃紅(108歳)、木彫家、書家・平櫛田中(107)、風景画家・豊田三郎(107)歳、日本画家・小倉遊亀(105)、日本画家・片岡球子(103)、北村西望(102歳)、画家・森田茂(102)、日本画家・奥村土牛(101)、堀文子(100)、画家・中川一政(97)、岩橋英遠(97)、画家・中川一政(97)洋画家・福沢一郎(94歳)日本画家・秋野不矩(93)、横山大観〈89〉ら数え切れない。

画家はボケずに長生きできるのは、絵を描くという行為は左右大脳半球にまたがって多くの部位を使う。脳の司令塔といわれる前頭葉の血流量が増えて活性化するので、アマプロを問わず絵を描く人はボケにくいともいわれる。

·       北斎に話を戻そう。

北斎は『富嶽首景』をかいた際、八十、九十と進み、百十歳まで生きて、ますますよい絵をかくと豪語した。そしてその後も続々『千絵の海』『百人一首乳母が絵説』など、死ぬまで彼は休まず、次々と新しい作品創造に取り組んだ。

北斎は常に現状に満足することなく、前へ前へと進んだ。老後の安穏など、北斎には無縁だった。ひたすら絵を描くことに没頭し、日常生活には頓着しなかった。いつも藍染の木綿を着て、酒や煙草はたしなまず、食事も煮売屋の惣菜ですませていた。ただ、引越しだけはおっくうがらずに繰り返し、生涯に93回も転居したのです。

·       最後まで衰えぬ超人的な創作意欲

晩年の北斎は、三女のお栄と暮らしていたが、彼女も絵師で、画号を「応為」(おうい)と称した。北斎が彼女を「おーい、おーい」と呼んでいたことから、そのまま画号にしたともいわれる。

お栄もまた北斎に似て、ものごとに無頓着なタイプ。炊事や掃除などはほとんどしない。家のなかにゴミがたまり、悪臭を放つようになると、やむなく鍋や釜・蒲団・絵の具などを大八車に積み、引越ししている。平生は蒲団も敷きッ放しで、眠くなれば、昼夜を問わず、そのままごろっと横になって寝る、覚めるとまた絵を画く。家の中は掃除することがない。

 

1848年(嘉永元)には浅草聖天町の小さな借家に移ったが、北斎はすでに87歳です。創作の意欲は衰えず、「雨中の虎」などの肉筆画をものにしている。翌89年(嘉永2)、本所石原から近くの達磨横町へ転居したが、まもなく火事にあい、焼け出された。それまで描きためていた大切な画のすべてが灰になり、さすがの北斎も落胆にくれた。それでもあきらめず、転居先で徳利を割って絵皿代わりに、さっそく絵を描きはじめたいわれます。

体は元気でよく歩いていた。目もよくて、画を描く時だけに眼鏡をかけて、密画を描いていた。しかし、高齢による肉体の衰弱はいかんともしがたく、やがて風邪をこじらせ、床についた。死の淵をさまよいながらも、「天がもし、わたしにあと10年の命をあたえてくれるならば……いや、せめてあと5年の命をもたせてくれるなら、本物の絵師になれるのだが……」と最後まで意欲は衰えなかった。

お栄も懸命に看病したが、そのかいもなく4月18日、北斎は帰らぬ人となった。

生涯現役を貫き88歳の長寿を達成できたのは、生活も貧乏も世俗もすべて投げうって創造の神をめざした「画狂人・北斎」のすさまじい美への執念といえるでしょう。「100歳時代」「超高齢少子化社会」に生きる現代人の素晴らしいモデルにではないでしょうか

 

 - 人物研究, 健康長寿, IT・マスコミ論, 湘南海山ぶらぶら日記

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