「今、日本が最も必要とする人物史研究④」★『日本の007は一体だれか』★『日露戦争での戦略情報の開祖」福島安正中佐④』★『副島種臣外務卿が李鴻章を籠絡し前代未聞の清国皇帝の使臣謁見の儀を成功させたその秘策!』
2023/07/23
副島種臣
前坂 俊之(ジャーナリスト)
「インテリジェンスとはスパイの戦いではなく「智慧の戦い」である」
「敵を知り己を知り、万事体験が駆け引きのコツ」(榎本の言葉)
1883年(明治16)3月、福島安正中尉(30歳)は大尉に進級し、正式に北京駐在公使館付武官を拝命した。この時の任務は清国全般の調査、特に清国軍に関する情報収集の仕事に当ることで「隣邦兵備略」の補備修正作業に従事した。北京駐在公使はオランダ海軍に留学した経験を有し、当時、政府きっての国際通であった榎本武揚である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A
福島安正中尉は榎本から数々の政治、外交、軍事インテリジェンスを教わった。
明治初期外交の数少ない成功例の1つは明治6年3月に当時の外務卿(大臣)副島種臣卿が支那(中国)始まって以来の前例を破って、直接、清国皇帝の拝謁を賜わったケースである。
「歴史的にみても支那皇帝が外国使臣の下役の者に直接、会見することは皇帝の権威、威厳の上からも絶対に有り得なかった。と榎本公使は説明し、当時のヨーロッパ列強の米英仏の公使でさえ未だに拝謁を許されないのに、誕生したばかりの小国日本の外務大臣が修好条約締結の打ち合わせに来訪したに過ぎないのに、いの一番に直接皇帝が拝謁を許されたので、当時の西欧外交官たちに大ショックを与えた。
この時の副島卿の秘策を榎本公使から聞き出して記録していた。
以下は榎本公使の証言である。
『現在も当時も同じだが、清国宮廷に最も信頼を得ている人物は季鴻章.http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%B4%BB%E7%AB%A0
である。
この李鴻章という政治家は学識も極めて高いといわて自他共にこれが自慢の種であった。しかし、いかに学識が高いといっても限界があり、恐らく評判程のことではなかろうと副島卿は見当をつけて1計を案じた。
副島卿も日本では漢書に造詣が深い中国通の第一人者だが、自分自身も評判ほどでないことを十二分に自覚しており、この種の評判と実際の乖離をよく心得ていた』<島貫重節著「福島安正と単騎シベリヤ横断」(上)(原書房1979年)>
交渉術①「相手の誇り(プライド)をくすぐれ」
『そこで副島卿は支那で有名な言葉や比喩、絶句、それに古来からの名訓の数々を、すっかり暗記していって、李鴻章に会ったときに彼にぶっつけた。
「学識の高いことで有名な閣下ならば良く御判りの事でございましょうが・・」
というと、季鴻章は大きくうなづいて「もちろん皆よく判っている」という。
次に副島卿が、これまた達筆を揮って漢書の名文をすらすらと書いて、「閣下はどれが御好きですか」と尋ねた。
李鴻章は書道を褒めた後に、質問には答えず、副島卿に対して語った。
「貴方のように学識の高い方は、この清国にも私の外には指を数える程しかいないと思う」と大いに賛辞を呈した。
実はこの書の中に全く意味のないものを故意に入れてあったのだが、副島はこの返答に李鴻章のインテリジェンスレベルを見破ったのである。いささかも表情を変えず、さらに李鴻章を褒め上げて
「貴方が清国宮廷から最も信頼を得ているわけは御人格の外に、やはり学識が高いためであると私は従来から信じていましたが、今回このように御会いできて、その判断の正しいことを確認できた点は、私の最も大きな収穫でありました」
と伝えると李鴻章はまんざらでもない様子だった。
副島卿はさらに畳みかけて「日本の高官が清国を訪ねたのは末だ僅少であり、そのため閣下が清国第一の知識人で清国皇帝から格別の御信頼を得ているという事実を見た者がいないのは残念であります。外務卿である私が今回清国を訪問した最高の目的は、閣下が皇帝に信頼されている事実をこの目で確認して帰国し、日本の高官たちに伝えることであります。是非、このむねを皇帝に秦上していただきとうございます」と請願したのである。
気を良くした李鴻章は早速、皇帝に秦上し、「日本の賢人を皇帝が引見なさることは皇帝の御高徳を一層日本にも普及することになりましょう」と李鴻章の立会のもとに、ここに前代未聞の皇帝の使臣謁見の儀が実現したというのである。
<参考、引用―島貫重節著「福島安正と単騎シベリヤ横断」(上)(原書房1979年)82-85P
つづく
日本リーダーパワー史(423)『日中韓150年対立史⑨「ニューヨーク・タイムズ」は中国が 侵略という
「台湾出兵」をどう報道したか②困難な日中外交を切り開いたのが副島種臣外務卿(外相)の外交力。』
関連記事
-
-
人気リクエスト再録『百歳学入門』(233) -『昭和の傑僧、山本玄峰(95歳)の一喝!➀」★『法に深切、人に親切、自身には辛節であれ』★『「正法(しょうほう)興るとき国栄え、正法廃るとき国滅ぶ」「葬儀は絶対に行なわざること」(遺書)
2012/06/01 記事再録 百歳学入 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(174)記事再録/★『三浦雄一郎氏(85)のエベレスト登頂法②』『老人への固定観念を自ら打ち破る』★『両足に10キロの重りを付け、これに25キロのリュックを常に背負うトレーニング開始』★『「可能性の遺伝子」のスイッチを決して切らない』●『運動をはじめるのに「遅すぎる年齢」はない』
2018/12/04 /知的巨人の百歳学( …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(203)/記事再録ー明治150年「戦略思想不在の歴史⒁」―『明治維新を点火した草莽の革命家・吉田松陰⑵』松下村塾で行われた教育実践は「暗記ではなく議論と行動」★『160年前に西欧によって軒並み植民地にされていたアジア、中東、アフリカの有色人種各国の中で、唯一、近代日本を切り開くことに成功した最初の革命家・吉田松陰の実践教育である』
2017/11/22 /明治150年「戦略思想不在の歴史 …
-
-
百歳学入門(102)日本最長寿の徳川家三代指南役・南光坊天海(108歳)の養生訓ー上野公園内の「墓碑」で長寿健康を祈る
百歳学入門(102) 日本最長寿の徳川家三代の指南役・南光坊天海(108歳)の養 …
-
-
知的巨人たちの百歳学(170)記事再録/元祖ス-ローライフの達人「超俗の画家」熊谷守一(97歳)●『貧乏など平気の平左』で『昭和42年、文化勲章受章を断わった。「小さいときから勲章はきらいだったんですわ。よく軍人が勲章をぶらさげているのみて、変に思ったもんです」
2016/07/10 /百歳学入門(151 …
-
-
記事再録/知的巨人たちの百歳学(133)ー「富岡鉄斎(87歳)ー『創造脳は長寿脳である』★『 万巻の書にかこまれて、悠々自適の晩年』★『万巻の書を読み万里の路を行くー鉄斎芸術の源泉とは』
『知的巨人の長寿学』・富岡鉄斎(87)に学ぶ 『創造脳は長寿脳であ …
-
-
『Z世代のための日本戦争学入門⑥』★『明治大発展のキーマンたちは誰でしょうか?』★『1871年(明治4年12月)の岩倉使節団(欧米12ヵ国を2年10ヵ月間視察調査)の『政府首脳の大半が国外にでる壮挙』この知的探求心、国家改造力、ベンチャー精神こそが『明治の奇跡を生んだ。』
2016/02/22/日本リーダーパワー史(668)日本国難史にみる …
-
-
『オンライン/死に方の美学講座』★『知的巨人たちの往生術から学ぶ②-中江兆民「(ガンを宣告されて)余は高々5,6ヵ月と思いしに、1年とは寿命の豊年なり。極めて悠久なり。一年半、諸君は短命といわん。短といわば十年も短なり、百年も短なり』
前坂俊之×「中江兆民」の検索結果 →69 件 #中江兆民 #大石正巳 …
-
-
百歳学入門(183)-現在、65歳以上の人は「2人に一人が90歳以上まで生きる時代」★『義母(90歳)の『ピンコロ人生』を見ていると、「老婆(ローマ)は1日にしてならず」「継続は力なり」「老いて学べば死しても朽ちず」の見事な実践と思う。
百歳学入門(183) 老いて学べば、死しても朽ちず(佐藤一斎) 今年の「敬 …
-
-
★『リモートワーク動画』★『日本最強のパワースポットへの旅』/『サムライの聖地」、宮本武蔵が『五輪の書』を書いた熊本の霊厳洞を訪ねる」★『宮本武蔵終焉の地・霊厳洞は五百羅漢が立ち並び迫力満点の超パワースポット』★『勝海舟の宮本武蔵評』
<剣聖>宮本武蔵終焉の地・「五輪の書」を書いた熊本の<霊厳洞>を訪ね …
