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『オンライン昭和史講座/昭和国難突破力の研究』★『最後の元老・西園寺公望、「護憲の神様」・尾崎行雄は敗戦を前にどう行動したか』★『「いったいどこへこの国をもって行くのや、こちは…(西園寺の臨終の言葉)。』

   

日本リーダーパワー史(151)記事再録

前坂 俊之(ジャーナリスト)
 

西園寺公望 嘉永二年(一八四九)生、昭和十五年一九四〇)没。政治家。各国公使・枢

密院議長・各相歴任。政友会総裁時に三度組閣、立憲政治・列国との協調外交を支持し、政党の健全な発達をはかろうとした。パリ講和会議全権。最後の元老

西園寺公望は七十歳となり、政治的に第一線から退いた大正八年(一九一九)に静岡県清水市の隣の風光明媚な興津(おきつ)海岸の旧東海道沿いに別邸「坐漁荘」を建てた。小さな岬の突端に建てられ、海のかなたには三保の松原、東側には伊豆半島、富士山を望む景勝の地にあった。

 約一〇〇〇平方メートルの敷地に、二階建てで六間のある建物と庭園、別棟に警備詰所などがあった。ここで第二夫人の中西房子やその子、養女、女中らと住んでいた。

 

「坐漁荘」とは、のんびり坐って魚を釣るという隠棲の意味が込められていたが、昭和十五年(一九四〇)に九十二歳で亡くなるまでここが激動の昭和政治史の中心舞台の一つとなった。「坐漁荘詣で」の政治家が絶えることなく、戦争と亡国へ急速度に転落していく中で、政治の舵取りをしていた西園寺にとっては一瞬たりとも気の安まるヒマはなかった。


明治以来、「元老」の存在は憲法の規定にないにもかかわらず近代政治機構における最高の地位にあった。

 内閣更迭の場合は、元老が天皇に諮問によって次の総理大臣を推薦してきたため、絶対主義的な支配者として、政党の党首や実力者も元老には頭が上がらなかった。

 山県有朋に続いて大正十三年(一九二四) に松方正義が九十歳で亡くなって以来、西園寺が最後の元老として政界に君臨した。

 西園寺は若くしてフランスに十年間留学しており、中江兆民と交遊するなど根っからの自由主義者。その政治思想は近代リベラリズム、議会政治、シビリアンコントロールを信条とし、国際協調外交を推進し、軍国主義と国家主義を排除し軍人を毛嫌いしていた。

亡国への予感におののく

 昭和に入ると、軍国主義、国家主義が奔流のように高まってくる。昭和三年に起きた田中義一内閣での清洲某重大事件では、西園寺は「犯人が日本の軍人であれば断固処罰して

こそ国際的な信用を維持できる」と田中に指示、「この事件だけは自分が生きている間はあやふやにさせぬ」との決意を見せた。

 ロンドン軍縮会議、統帥権干犯、満州事変、五・一五事件、二・二六事件と軍ファシズムの暴発が続く中で、政治は西園寺の望まぬ方向へ突き進んでいった。

 西園寺が最後の望みをたくし、後継者として期待したのが近衛文麿で、昭和十二年六月の第一次近衛内閣の組閣では強力に支援した。しかし、近衛は優柔不断で軍部に引きずられ、日中戦争の解決を兄いだせず、期待はすぐに裏切られてしまう。

 西園寺は政治の姿に絶望し、このままでは日本は亡国となるという予感がますます強くなってくる。日課となっていた庭の十分間ほどの散歩もしなくなり、体力、気力とも八十七歳で急速に衰えを見せていた。

「わても老齢やさかい、始終、政治に注意しとるのは苦痛じゃ。元老をやめようと思うてますのや」と何度も元老引退を木戸幸一や近衛に漏らすようになった。

 昭和十五年二九四〇)七月、後継総理の推薦の方式については内大臣、重臣会議と相談の上で決める、ということに変更された。

 この年十一月二十四日、西園寺は九十二歳で亡くなった。

 公の最期は、よく聞き取れない言葉で何かつぶやいたので秘書の原田熊雄がその唇に耳を近づけて「何事ですか」とたずねると、「いったいどこへこの国をもって行くのや、こちは…」と吐き出すように言ったそれまでも公は推薦した近衛や木戸幸一内大臣に対する不満の言葉をよく吐いていたが、これが最期の言葉となった。、

 西園寺公が亡くなってほぼ一年後に太平洋戦争に突入し、四年後に無条件降伏した。かつて大正八年のベルサイユ講和会議に出席した際、西園寺は日本がドイツの二の舞いになるのではとの危惧の念をもらしたが、その通りになってしまったのである。

 

 

②六三年間、議員生活をおくった憲政の神様・尾崎行雄

尾崎行雄 安政五年(一八五八)生、昭和二十九年(一九五四)没。政治家。立憲改進党創立に参加。第一議会以来、政党政治家として活等。隈板内閣の文相時「共和演説」事件で辞職。第一次護憲運動・普選活動に貢献。孤高の政治家。

ワシントンの桜並木

 尾崎は明治二十三年(一八九〇)七月の帝国議会第一回選挙に当選して以来、昭和二十八年(一九五三)まで明治、大正、昭和の三代にわたって連続当選二十五回、議員生活何と六十三年間に及ぶという日本の政治史上で希有の記録を出している。

 

たぶん、これは世界記録、ギネスブックでもあろう。 尾崎は自由主義者で三十三歳で衆議院議員になって以来、生涯、立憲政治を打ち立てることに情熱をついやし明治、大正、昭和の各時代に政党の敵であった藩閥政治、官僚政治、軍閥政治とそれぞれ真正面から戦ってきた。

 特に、尾崎が華々しく活躍し注目されたのは大正期のいわゆる大正護憲運働で、激烈な桂内閣弾劾演説を行い藩閥政治の象徴であった桂内閣を倒して「桂公を気死させた」と称され、犬養毅と並んで「憲政の二柱」とたたえられるまでになった。

「日米をかける友好の桜」として有名な米国・ワシントンのポトマック河畔の桜を贈ったのも尾崎だが、衆議院に議席を持ちながら東京市長を明治三十六年から九年間つとめている。この間、明治四十五年に、タフト米国務長官夫人から「桜の樹を是非送ってほしい」という要望に応えて、尾崎は三〇二〇本の桜を送り、これがりっぱに成長し、日米友好のシンボルとなった。
 

 時代は昭和に入り、次第に軍閥ファシズムが台頭してくるが、尾崎はすでに齢七十歳代の晩年を迎えた。しかし、気力の衰えは見せず軍縮平和を唱えて、軍部にきびしい批判を

続けた。昭和七年の五・一五事件で僚友の犬養がテロに倒れて政党政治は終わりを告げるが、その後も尾崎はただひとり体を張ってファシズムに抵抗した。

 昭和十三年、日中戦争がドロ沼化し、軍国主義がますます吹き荒れる中で、尾崎は国の前途を憂え、老齢と孤独に耐えながら、軽井沢や池の平で山篭もりをする山荘暮らしが増えてくる。八十歳を過ぎて新たにスキーに挑戦するとい気力を見せている。

 太平洋戦争中の昭和十七年四月、尾崎は東条英機首相に対して翼賛選挙をきびしく批判する公開質問状を出した。このシツペ返しで尾崎が友人の応援演説を行った際、「売り家と唐様でかく三代目」の川柳を引いて「日本の憲政も明治、大正、昭和の三代目でよほど用心しなければならぬ」と説いた。

 これが三代天皇の運命を風刺したものとして不敬罪で起訴され、尾崎は八十五歳で巣鴨刑務所に拘置されてしまった。この過酷な弾圧に屈することなく老体にムチ打って、戦い抜いて無罪をかちとった。

九十六歳で初落選

 昭和二十年八月、尾崎の予言通りの敗戦、亡国の結末となった。この時、尾崎はすでに八十八歳になっていたが、その晩年は一層輝きをましていった。

 戦後は一躍「憲政の神様」「護憲の英雄」として一般国民、マスコミから迎えられた。終戦後初の第八十九回の帝国議会で、尾崎は「世界連邦論」を唱えている。

 尾崎は「衆議院議員総辞職論」を唱えていたが、二十一年四月の総選挙では「号室会」のメンバーや支持者の強い要請で立候補して最高点で当選を果たした。

 最長老の議員として生涯現役で活躍した尾崎にとって、ますます多忙とな.り晩年などないに等しかった。

 昭和二十五年五月、グルー元駐日大使やキャッツル米駐日大使ら知日家が集まって作った「日本問題審議会」から、講和条約締結に向けて米世論の支持をもとめて招待され、尾崎は四十日間にわたって渡米して大歓迎を受けた。

 ニューヨークではグルーや湯川秀樹ら約二百五十人が集まり大歓迎会が開かれ、ここでも世界連邦論をぶって「ニューヨークタイムス」「ニューズウイーク」などで尾崎は「日本の良心」と讃えられた。

 昭和二十八年四月の総選挙で三重二区から立候補して落選し、ついに九十六歳で議員生活にピリオッドを打った。この十月に東京都から尾崎は名誉都民第一号を贈られた。

 翌年六月には衆議院より長年の功労をたたえられて、憲政功労金百万円が贈られた。同年十月、逗子の「風雲閣」で息を引き取った。九十七歳である。

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