『オンライン入門講座/シルバーYou tuber(前坂俊之チャンネル)になる方法』★『ネット動画の時代に乗り遅れる既存メディアー 情報をあまねく広げる「個人」の出現で社会が変わる』(2012年でのインタビュー)記事全文再録)
2021/01/11
取材場所:日本記者クラブ (インタビューの聞き手:沖中幸太郎氏)
前坂俊之のProfile
1943年、岡山市生。慶應義塾大学経済学部卒、毎日新聞社に入社。京都支局を経て、毎日新聞東京本社調査部、同情報調査部副部長などを歴任。
取材テーマは司法犯罪の冤罪から「国家犯罪としての戦争」に移して、「兵は凶器なり」「言論死して国ついに亡ぶ」の2冊を刊行。1993年4月、静岡県立大学国際関係学部教授に就任。ジャーナリズム、メディア、国際コミュニケーション論を担当、2009年3月に退官し名誉教授に。現在は一ジャーナリストにもどり、日本記者クラブを拠点にして、取材と執筆の日々。カヌー、フィッシングや海を年中楽しみながら、「生涯現役」「晩年悠々」「百歳健康学」の創設をめざしてブロガーライフ。
前坂俊之Youtubeチャンネル https://www.youtube.com/user/TOSHIYUKI1812
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ー「ネット動画の時代に乗り遅れる既存メディアー情報をあまねく広げる「個人」の出現で社会が変わる」
前坂俊之さんは、新聞社勤務時代、冤罪事件や新聞の戦争責任などについて調査、執筆を行い、独立後は大学教授、作家・ジャーナリストとして広範なテーマで活動。最近では、You Tubeでの動画配信に活躍の場を広げ、ネットメディアの可能性に関しても積極的に発言しています。前坂さんに、日本の報道メディアの問題点、情報発信の重要性などについてお聞きしました。
――前坂さんはデジタルビデオカメラでの動画アップロードなどに言論活動の舞台を広げていますが、お仕事の近況をお聞かせください。
前坂俊之氏:
基本的な考え方についてはWikipediaで出しています。Wikipediaは「Who’s Who」のようなものです。どういう仕事をやっているかをリアルタイムにWikipediaに載せて、データは自分のブログなり、動画の場合はYou Tubeに載せていく。そういうコンセプトでやっています。
――動画のよさはどこにありますか?
前坂俊之氏:
事実を最もよく伝達できるものは、動画,ハイビジョンです。
高画質で、ミクロな物も鮮明に撮影することができるし、インタビューでもその人がどういう表情でどういうしゃべり方をしているのかというのは動画でないとわかりません。活字媒体だと一時間話をしても、A4で1ページぐらい、写真1枚になってしまいます。本人の了解さえ取ってインタビューすれば、You Tubeにアップできるんですから、活字媒体には、動画情報はニコニコ動画やYou Tubeに無修正で載っていますというように、リンクを張るべきですね。例えば、昔の政治家なんかは実際に会いに行くだけで全然違います。田中角栄とか、田中軍団の末端にしても一見しただけで目つき、迫力が違う。今の人は「オーラ」とか言っていますが、あれはオーラじゃなくて「殺気」なんです。侍と同じで殺気が満ちている。角栄だったら、あの独特のダミ声でしゃべっていると、どういう感じの人だったのかよくわかりますし。
――前坂さんは新聞も出版もテレビも100年遅れているとおっしゃっていますが、日本の報道メディアの状況をどのようにご覧になっていますか?
前坂俊之氏:
せっかくデジタル社会になっているのに、100年前、150年前の活字ベースですからね。100年前に誕生したマスメディアが、デジタル社会への移行を抵抗勢力となって足を引っ張っているわけです。新聞がまだ中心にどかんと座って、記者クラブが政府と一体となって情報操作する構造になっているわけでしょう。動画の時代に大転換しているのに、相変わらず活字の目でしかものをミクロに見ていないわけです。
――映像メディアという意味で言うと、テレビも大きな存在ですが、テレビについてはどのように感じていますか?
前坂俊之氏:
テレビも、トップは新聞社の天下りですから。デジタル変換する段階でもうテレビからパソコンに取って代わられているのに、相変わらず地上波テレビを生き残らせるためにスカイツリーとかを作っている。電波なんか飛ばす必要はないんです。全くガラパゴス体制で、ワンセグなどという一昔前の特殊な技術をやっているわけでしょう。結局テレビも新聞と一体となって総務省の天下りで、オープンじゃないんです。
民主主義の根本は「あらゆる情報の公開」であり、「見える化(動画化)」です
ネットで色々な情報にアクセスできるようになっていますが、マスメディアの役割はどのようなことでしょうか?
前坂俊之氏:
これだけ情報が爆発しているのに、朝日新聞でも読売新聞でも1日に読めるのは40ページぐらいで、活字量はその20%です。世界中で複雑な問題が毎日のように発生しているのに、短い情報にしなくてはならないんです。尖閣列島の問題だって、「日本外交文書」に台湾出兵の問題、日清戦争の問題などが書いてあります。出版社や新聞社は1次情報の概略だけを載せていって、もっと知りたい人にはネットで詳細な情報を出して、もっともっと知りたい場合には、「日本外交文書」も全部リンクで張っておけば読めるわけでしょう。
そのようなことを、Googleは情報民主主義を掲げで、すべての情報を世界中の人間に無料で、ボーダレス(国境を越えて)でくまなく流通するとによって「情報の自由こそ、貧富の格差をなく教育レベルを高め民主主義社会を作るという壮大なミッションのもとにやっています。それに対して日本のメディアは防戦一方で、自分自身の昔からの既得権をしっかり守っというて、Googleに反対し、SoftBankに反対し、新しいメディアに対して全部反対しているわけです。
――最近では、震災と原発の問題もメディア不信を助長しているのではないでしょうか?
前坂俊之氏
: 震災の惨状というのは活字では全然わからない。あれだけの津波がやってくるのも映像で見たら大変な迫力です。それが本当の姿です。
新聞は文字と写真でしかできないし、テレビのニュースも1時間ぐらいで、ニュース1本当たりだとせいぜい3分から5分です。方法論的にはハイビジョンで全部撮影してYou Tubeに出していくのが、取材する側も一番簡単でいい方法だと思います。
原発の問題では、国会事故調査委員会が、関係者の質問も一般に全部公開するという方式でやっています。だからそういう方向には徐々には進んでいっているんですけど、まだ政府は、自分たちの失敗を国民には知らせたくないということで秘密行政をずっとやっています。
民主主義の基本は情報の公開です。
原発の問題で政府が絶好のチャンスを逃したのは、あの事故に関しての情報を徹底してリアルタイムにYou Tubeなりニコニコ動画で全世界に流して、「今の事故現場はこういう状態です」とか、「ここまでの対応をやっています、ここまでははっきりわかりません」という情報をどんどん出していったらよかったんです。
いいことも悪いことも全部出せば逆に信頼感が高まるし、失敗をしても「今度はしっかりやっているな」となるんだけど、メディアも一体となって悪い情報を隠そう隠そうとしています。NHKの原発事故の特別番組もせいぜい1時間なんです。だから皆、You Tubeで海外の情報を一生懸命探しています。日本のマスコミはもはや誰も信用していない状態です。
日本は個人の能力が発揮される社会になっていない
――報道されないことが、You Tube等によって知られるところとなるという現象も起こっていますね。
前坂俊之氏:
ジュリアン・アサンジは捕まったけれど、WikiLeaksなんかは立派なものです。GoogleのミッションとWikiLeaksのミッションを一緒にしたコンセプトでやれば、絶対に成功しますよ。You Tubeを戦略的に活用すれば一躍、テレ朝もNHKも、CNNもアルジャジーラも超えられますから。
――メディアだけではなく、日本の産業全体を見ても停滞していると感じますが、構造的な問題があるのでしょうか?
前坂俊之氏:
いまだに20世紀の大量工業生産の物作りに固執して、政府も製造業を成長戦略で立ち直らせたいとばかり言っているわけでしょう。その結果がSHARPの失速、SONYの失速につながっています。結局、日本は個人の能力を発揮するような社会になっていないわけです。
その間に韓国のSAMSUNGは、日本のソニー、パナソニック、SHARPを全部ひっくるめた以上の利益を上げています。韓国がなぜ変わったかというと、金大中が1995年ごろに大統領になった段階で、韓国を世界一のブロードバンド大国にするということで、閣議全員にパソコンを持たせて、金大中も60歳から勉強して、国内を全部ブロードバンド化して、インターネットの普及率、IT化が90年代の後半に世界トップクラスまで行ったからです。
グローバル化で国境がなくなっている中、日本の組織ではSHARPのように垂直産業で技術開発、工場まで国内で上から1本でやっていますが、Appleはアプリを開発して、部品は世界中から集めて、台湾、中国等最適な工場で製品を作らせました。負けるのははっきりわかっています。
新しい発想で電子書籍の可能性を広げるべき
――そんな中、電子書籍の登場は出版業界のみならず産業界で大きな流れとなっています。電子書籍についてはどのようにご覧になっていますか?
前坂俊之氏:
問題なのは日本の場合、消費者ではなく全部生産者、業者サイドの発想で、旧来の大手出版社が自社の持っているものを一時的に電子媒体にしていくというコンセプトでやっているわけです。それでは成功するはずがないですよ。そういう物を壊して新しいベンチャーがApple、Google、Facebookのように出てこないといけません。日本の場合、インターネットの世界では新しいものが全然ないでしょう。楽天も古いモデルだし、GREE、モバゲーだって、全く新しいコンセプトで大学ベンチャーなどとして始まったものはないですしね。
――既存の紙の本をスキャンすることはお考えになったことはありますか?
前坂俊之氏:
私が静岡の大学に行った時、本が10万冊ぐらいあったのですが、静岡の大学側が提供してくれた家の3LDKの6畳間2部屋に本がいっぱいになって、大学の研究室もいっぱいで困って、どうやってスキャンするかという問題を考えたこともあります。
しかし、新しい印刷物だとスキャンして読み取ってデジタル化できますが、古い本の場合だと旧漢字やふりがながあったりして、なかなか認識率が悪いんですね。イギリスでは電子出版でシェークスピアの原書をアーカイブ化していて面白いですよ。
革表紙の茶色の200年ぐらい前の全集が並んでいて、音声を選択すると、イギリスの老紳士が読み上げて、本をめくっていってくれる。映像的にも白黒の活字ではなくて少し黄ばんだ羊の皮に活字で印刷しているから美術工芸品的に見てもなかなかいい感じです。日本の電子書籍は、美術工芸品的なビジュアルのものはないですね。
――日本で、復刻すると面白い昔の本はありますか?
前坂俊之氏:
日本経済の財産になるような、明治からの経済人の伝記とかはいいですね。いろんな復刻屋さんが出していますが、まだまだ出されていないものがいっぱいあります。私は復刻屋さんと一緒になって、『日本経済人全集』を全100巻でやれといって、30冊を出したのですが、その会社は倒産してしまいました。それから『日本犯罪全集』という古典的な犯罪物もやって、それも20冊ぐらい出したんだけれどその会社も倒産。私の関係した会社は全部倒産しています(笑)。
戦後の「教養主義」の中で知識を追い求めた。
――前坂さんと本との出会いや、本に深くかかわる職業に就いた経緯をお聞きしたいと思います。
前坂俊之氏:
私は1943年、太平洋戦争の2年目に生まれて、2年後に敗戦でした。自宅から100メートルぐらい行った場所に「岡山市公会堂」という鉄筋の素晴らしい建物があって、爆弾で天井にぽっかり穴が空いたのですが、その天井のない公会堂で「青空幼稚園」に行っていました。
小学校に行っても、運動場に2メートルぐらいの焼夷弾がまだ刺さっていましたね。子どものころは自宅から200メートルぐらいの旭川というでかい川で魚釣りばかりしていました。子どもはみんな家から帰ったらかばんを投げ出して魚釣りです。トトロの世界と同じで、周りは全部野原だから、カブトムシなんて家にばんばん飛んでくる。
川で魚を釣って、しじみをバケツいっぱいに掘って毎日持って帰っていました。そういう中で、小学校3、4年の時に家から50メートルぐらいの場所に貸本屋というものがあって、今の漫画の源流である『少年画報』(少年画報社)とか『冒険王』(秋田書店)という漫画の貸本を毎日通い続けて一生懸命読んでいました。貸本屋兼古本屋でしたから古い本もいっぱいあったし、そこから始まりましたね。
――テレビ放送は、おいくつのころからご覧になっていますか?
前坂俊之氏:
テレビは昭和29年くらい、小学校3、4年ごろに広島駅前のバスステーションに白黒の街頭テレビがあって。すごい人だかりで、力道山がシャープ兄弟をぶっ倒すところを見ていました。
――活字の本を読むようになったのはいつごろからでしょうか?
前坂俊之氏:
昭和30年くらい、中学生のころに、おやじが新潮社の『日本文学全集』を全部買って本箱に入れて、「読んでみろ」というから、夏目漱石をはじめ、森鴎外、幸田露伴なんかを読んでいました。おやじに「読んだか」と聞かれるから(笑)。
高校では、河出書房版の『世界文学全集』を一通り読めと先生からがんがん言われて、ドストエフスキーなんかを1日30ページから50ページ一生懸命読みましたよ。でも、自分自身の理念は「文武両道」だから、子どものころはチャンバラごっこを隣町のガキ大将としょっちゅうやっていました。けんかに強くなることと本を一生懸命読むことが2大方針でした。
野球部にも入ったけど、野球が終わった後は本を一生懸命読んでいましたね。
――本を読む土壌というか、世の中に活字を求める雰囲気があったのでしょうか?
前坂俊之氏:
当時は「教養主義」というのがあって、先生は、とにかく本を読みなさいと言っていました。知識欲というか、色々なことを勉強して知りたいという欲求が世の中に満ちていました。
本も少ない時代だから活字に対する飢えがめちゃくちゃあるわけです。そのうえ、戦争があって、どうしてこんなに戦争でみんながいっぱい死んだのかということを知りたいと思っていました。戦時中の新聞は、戦争に関してほとんど報道を禁止されていたので、戦後には「どうしてこうなったのか」を知りたいという知識欲が非常にあったわけです。私の知識欲は、われわれの時代では平均値です。
――慶応大学に進学してからはどのような生活でしたか?
前坂俊之氏:
東京にやってきてからは、新宿の紀伊國屋書店に行って1日1冊岩波新書を立ち読みして、速読術をマスターしました。立ち読みなら一銭もいらないから(笑)。
それで「読書ノート」というのを毎日書いていました。それから、当時は名画座という100円で2、3本、世界の名画を上映しているところがいっぱいあったんです。今の新宿伊勢丹の前に、日活名画座があって、世界中の名画を全部見てやるぞと思って見ていました。新宿の牛込柳町に住んでいて、当時の慶応は日吉ですから、日吉に行く前に新宿に脱線して「大学なんか行かん」と言っていたら2回落第しましたか(笑)。
大学には6年行きましたけれども、その間に本は最低1日1冊、名画は1本と、文武両道だから野球部にも入っていましたが、野球がだめで、「よし今度は1人で勝負してやる」というのでボクシング部へ入って、ボディビルもやって、でもこれも全部だめでした(笑)。
●新聞社は「文筆千日回峰」の修行道場と考えた、以後、60年間の「文筆2万日回峰」に挑戦中!
――新聞社に入社するきっかけはどのようなことでしたか?
前坂俊之氏:
落第も2回しているし成績も悪くて、作家になりたいという希望もあったので、ちょっと新聞社を受験しようということです。
当時の新聞社は、成績は一切関係なくて試験で1発勝負でしたから。あとは、映画の助監督の募集にも応募しました。でも当時、国際放映は不倫ドラマ、いわゆる「よろめきドラマ」ばかりやっている。私は高校生のころから黒澤明や石原裕次郎の活劇が好きで、そういうのばかり見ている人間ですから、「こんなの男のやることじゃねえ」って嫌になって入社して1ヶ月で辞めまして、新聞社しかないというので毎日新聞社に入ったんです。
――毎日新聞社ではどのような仕事をされていましたか?
前坂俊之氏:
調査部というところにいたんです。調査部というのは切り抜き、スクラップをやっているところで、政治家、有名人に関する記事を人物別、項目別に図書館の十進分類法によって切り抜いて、紙にはりつける仕事です。そこを志望して行ったんです。
というのは、そこに行けば8時間勤務で朝の10時から6時までの勤務ですから。社会部とか政治部だと、毎日午前1時半が締め切りだから2時に交換室へ行ってほかの新聞に抜かれているかチェックして、抜かれていなければ「じゃあ休もう」、抜かれていると、寝ずにまた取材に駆け回っていました。
新聞社に入った目的は「作家にでもなって将来本の100冊でも出したろか」と思ったからなので、20代、30代でそんなことをやっていてもしょうがないと思っていました。
――大阪から東京勤務となり、逗子にお住みになったそうですが、なぜだったのでしょうか?
前坂俊之氏:
ガキの時分に魚釣りばっかりやっていましたから、大阪本社管内の支局で10年ぐらい回りましたが、1回も大好きな釣りに行けませんでした。無性に釣りがやりたくなって、35歳で東京の調査部に変わった段階で、鎌倉材木座海岸まで歩いて10分ぐらいのところに引っ越しました。
釣は朝まずめ、早朝が勝負ですから夏はだいたい午前4時にボートで鎌倉海の沖に漕ぎ出して、2時間勝負で魚を釣って7時に上がってくる。、それから家に帰って魚をさばいて料理してメシを食って、鎌倉で8時半の電車に乗って、東京駅までの1時間に本を1冊読んで原稿も1本書いて会社には10時につく、というようにタイムスケジュールを全部決めていました。
それから、このころ出版社ともパイプを付けたんです。東京には全国の出版社の9割があり、神田古書街の周辺にいっぱい集まっていますから、8時間は会社の仕事をやって、あとはしっかり自分自身の原稿を書いていたんですね。
――組織に所属しているときでも、個人としての表現を続けていたのですね。
前坂俊之氏:
人のやらないことをやろうというのが私の主義でしたてね。人が「右に行け」と言ったら左に行く。左に行ったら何かあるんです。今は外部原稿も上司の了解がないといけないとか言うから、一般社員の場合なかなか難しいんでしょうね。そこまでがんじがらめにするのはおかしいですよ。だから黙ってやったらいいんです(笑)。会社の飼い犬になることはないんだから、うまく利用してやればいい。
デジタルビデオで「日本」をアーカイブ化
――現在は、組織がなくてもジャーナリスティックな活動をするためのメディアがそろっていますが、今の若い人に、どのような表現活動を勧めますか?
前坂俊之氏:
個人のビデオジャーナリストがどんどん増えればいいと思っています。それに広告さえ載せれば何とか回していけます。戦場のビデオジャーナリストというほどではなくても、旅番組のように海外にどんどん遊びに行かせればいいんです。
今も私の学生が5、6人世界を放浪しているから、その連中にある程度金を払って、撮影しまくったら行けると思うんですよね。キャスターもどういうしゃべりかたでもいいんですよ。文章を書くときでも、専門家じゃなくても素人のほうが面白いんですから。
今やパックツアーで中国でもあらゆる場所に行っているから、撮影したものを集めて作っていけば需要というのはあると思います。ただ、日本のデジタル社会は匿名社会で、ブログでも匿名中心になっていますよね。
海外ではブログもホームページも実名を出してやっています。匿名で誹謗中傷した人間が逮捕されたりといった事件がありますが、陰湿ないじめ社会をネット社会がますます助長していく面があるのは気になります。
――前坂さんご自身が現在作っている動画など、今後のお仕事の展開をお聞かせください。
前坂俊之氏:
ハイビジョンビデオで日本人の生活ぶり、暮らしぶり、街並み、自然等を観察して撮影していけば壮大なアーカイブができますので、それを個人的にやっています。<これ以降の文章は追加2021年1月10日)「ビデオ民俗学」「ビデオ鎌倉古寺巡礼「鎌倉可カヤック釣りバカ日記」とか何でもかんでもで、今や動画コンテンツは約1万500本です(2021年1月10日現在)。
柳田国男は「常民」という農民生活者の人々の暮らしぶりや伝統を活字によって膨大な資料にしました。宮本常一は瀬戸内海を中心にして漁民、農民の生活を泊まり込みで酒を読みながらじっくり話を聞いて、それを文字にして全50巻ぐらいに残しています。
それと同じ方法論です。あとは、来年の6月に鎌倉が世界文化遺産に登録されます。これはもう文化庁の情報で登録決定なんですが、観光客が鎌倉に来ますから、今年の初めから鎌倉の自然、神社仏閣、歴史、街並みから天気など、何でもかんでも1日最低10本ぐらい撮影してアップしています。
鎌倉関係だけで1000本ぐらい発信しようとしていて、You Tubeに英語のキャプションで、武士とは何で、どうやって生まれたかとか、鎌倉時代の権力構造とか、鶴岡八幡宮に関してなどを書いています。
日本の観光政策の最大の間違いは、土産物、買い物ばかりにこだわっていることです。もっと情報を出さないといけません。京都もYou Tubeに画像とキャプションをしっかり書いたものがない。それは政策としてやっていないからです。観光客もYou Tubeを最初に検索しますからね。
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