『リーダーシップの日本近現代史』(199)ー『先日101歳で逝去され中曽根康弘元首相の戦略とリーダーシップ』★『「戦後総決算」を唱え、国内的には明治以来の歴代内閣でいづれも実現できなかった行財政改革「JR,NTT,JTの民営化」を敢然と実行』★『「ロン・ヤス」の親密な日米関係だけでなく、韓国を電撃訪問し、日韓関係を一挙に改革し、胡耀邦氏と肝胆合い照らす仲となり、日中関係も最高の良好な関係を築いた、口だけではない即実行型の戦後最高の首相だった』』
中曽根康弘元首相の戦略とリーダーシップ
前坂 俊之(ジャーナリスト)
中曽根康弘元首相が11月29日午前、101 歳で逝去した。歳だった。世界第2位の経済大国がピークを迎えていた1982(昭和57)年11月に総理大臣に就任し5年間務めた中曽根氏は「戦後総決算」を唱え、国内的には行政改革「国鉄(JR)、電電公社(NTT)、専売公社(JT)の民営化」を敢然と実行し、対外的にはレーガン米大統領との間で「ロン・ヤス」の親密な日米関係を築き、83年の大韓航空機爆破事件では傍受した防衛機密情報のソ連機パイロットの撃墜の交信記録を勇気をもって国連安保理で公開し、ソ連の非人道的な武力行為を世界にむけて糾弾した。その後の東欧革命(1989)、ベルリンの壁崩壊(同)、ソ連崩壊(1991)へと続く冷戦崩壊のきっかけをつくった。国際平和への日本の貢献とプレゼンスを大いに高めたインテリジェンスあふれる戦略家の大宰相だった。
1946(昭和21)年4月の戦後初の総選挙で田中角栄とともに当選した海軍主計大尉出身の中曽根氏は①憲法改正②首相公選論➂吉田首相の造船疑獄事件では退陣を要求するなど保守本流に対抗する青年将校として頭角をあらわした。東大法学部でカント、西田幾太郎らの哲学を学んだ中曽根氏は日本では数少ない理念型政治家として、小派閥を率いて奮戦した。
一方、実弾(金)が乱れ飛んだといわれる「三角大福中戦争」「自民党戦国時代」には権謀術策を巡らして目白の闇将軍・田中角栄の協力を得て政治家生活38年後にしてついに政権を奪取し「田中曽根内閣」を発足させた。その間の変幻自在ぶり、変わり身の早さから「風見鶏」との悪評をとったが、「風の方向を知らずに政治はできない。日本に一番大事なのは風見鶏だ」(1978年)と全く意に介さず胸をはった。
中曽根氏の陣笠代議士の頃から、毎週、読書会を開いて共に勉強してきたという渡辺恒雄読売新聞グループ本社代表取締役主筆は「彼ほどの無類の勉強家、読書家は見たことがない」というほど、その戦略、インテリジェンスは傑出していた。中曽根氏は総理になるやいなや、83年1月11日には米国ではなく日本の首相として戦後初めて韓国を電撃訪問し、全斗焼大統領と会談。大統領主催の夕食会では、韓国語でスピーチを行い、韓国歌謡を韓国語で歌って韓国側を感激させ、行詰まっていた日韓関係を一度に改善した。
引き続いて米国を訪問し「日米両国は運命共同体」と述べた部分が「日本列島を不沈空母にする」と通訳によって意訳されたため日本側では野党、マスコミから一斉にたたかれたが、逆にレーガン大統領の信頼を勝ち取り、「ロン・ヤス」とファーストネームで呼び合う仲を築いた。
当時、中曽根氏の総理秘書を務めた柳本卓治参院議員は「中曽根政治の基本は他国の犠牲の上に日本の幸せを築いてはならない」というものだ、と述べている。同じ年に胡耀邦氏は中国共産党中央委員会の総書記に就任し、改革開放路線と自由化路線を打ち出した。ここから日本と中国のトップ同士の交流が始まる。「外交はつまるところ、トップ同士の友好関係である」との信念の中曽根氏は胡耀邦氏と肝胆合い照らす仲となり、家族ぐるみの付き合いを始まった。83年11月、日中間の基本原則として「平和友好、平等互恵、相互信頼、長期安定」 でまとまり、「2000年の歴史で最良の日中関係」と評されるまでになった。
その点では昭和戦後の宰相では最高の『戦略家』であり、外交の名手であったといえよう。その中曽根流のリーダーシップの秘訣とは「目測力」「説得力」「結合力」「人間的魅力」の4つを上げている。
乗客・乗員269人(日本人乗客28人)を乗せたニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空007便が、ソ連のジェット戦闘機に撃墜されたのは、1983(昭和翌年9月1日未明のことだった。
この航空機撃墜事件は三沢の航空自衛隊基地で傍受したソ連機パイロットと地上指令所との交信記録に撃墜の命令が記録されており、中曽根氏はこの交信記録(50分)を、国連緊急安保理に日米共同で提出し事件の全容を明らかにした。この結果、ソ連も撃墜を認めざるを得なくなった。
また、中曽根氏は国内的には1986年(昭和61)に危機管理に対応する安全保障会議を立ち上げ、内閣安全保障室を設け、初代室長には危機管理のプロの佐々淳行氏をあてた。中曽根内閣では官房長官にこわもての後藤田正晴(警察庁長官)が起用してリスク管理に本腰で取り組んだ。
1986(昭和61)年11月21日、、伊豆大島の三原山が大爆発し8千mもの大噴煙を上げ山腹にできた噴火口からマグマ(溶岩流)が役場のある住宅が密集する元町に向かって、流れ出し、数百メートルの地点にまで迫ってきた。この危機に際し、当時災害の担当の国土庁では、この危機に際し対策を打ち出せなかった。
中曽根首相、後藤官房長官、佐々室長は内閣法で対応することを決め後藤田長官をトップに据えて各省の局長を入れ、対策本部を設置。中曽根首相の「全責任はオレが取る」の指示に従って自衛艦を含む39隻の救出艦船団を組織し、全島避難の決定を下した。大噴火からわずか13時間40分で島民1万人、観光客3000人、計1万3000人の全島避難を、1人のけが人も出すことな東京へ脱出させた。日本の歴史上稀有ともいうべきみごとな危機管理であり、中曽根首相のリーダーシップと、後藤、佐々の官邸主導メンバーによる指揮が結合した奇跡的な脱出劇であった。
中曽根内閣は「田中曾根内閣」とか「直角内閣」とか、田中角栄の手を組んだことでマスコミから徹底して批判された。しかし、マスコミに批判されても中曽根は自らの政治理念を実現させた日本政治史上ベスト3に入る大政治家で、明治以来の内閣で公約に掲げながら一向に出来なかった「行政改革」(第2土光臨調)実現した唯一の宰相といえる。これが実現できたのも田中軍団の協力があったからであり、金権スキャンダルばかりにマスメディアはたった数十万円でもスクープ記事として政治家をその政治力、実行力ではなく、金の面で評価する日本の政治報道の貧困が、国益追及の世界的視野のある政治家が育たない大きな原因でもある。http://www.maesaka-toshiyuki.com/history/62.html
『リーダーシップの日本近現代史』(175)★『中曽根康元首相(101歳)が11月29日午前、死去した』★『中曽根康弘元首相が100歳の誕生日を迎えた』★『昭和戦後の宰相では最高の『戦略家』であり、<日米中韓外交>でも最高の外交手腕を発揮した。』
http://www.maesaka-toshiyuki.com/longlife/37268.html
関連記事
-
日本リーダーパワー史(459)「敬天愛人ー民主的革命家としての「西郷隆盛」論ー中野正剛(「戦時宰相論」の講演録①
日本リーダーパワー史(459) 「敬天愛人ー民主的革命家としての「西 …
-
記事再録/百歳学入門(66)<世界一の伝説の長寿者は!?> スコッチの銘酒『オールド・パー』のレッテルに残され たトーマス・パー(152歳9ヵ月)」
2013年1月14日/百歳学入門(66) 「<世界一の伝説の長寿者 …
-
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(160)』ー『発行部数を「水増し」してきた朝日新聞、激震! 業界「最大のタブー」についに公取のメス』●『米大統領、5月サミット後の広島訪問を検討 』●『李首相も反旗?習主席がおびえるシナリオ「経済政変」 (金子秀敏) 』●『コラム:円高で懸念される外国人訪日客数、3兆円消費に影響も」
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(160)』 発 …
-
日本リーダーパワー史(595)「昭和戦後の高度経済成長を築いた男たち」ー「世界最強の新幹線の生みの親・三木忠直ー零戦の機体で世界最高水準の「夢の超特急」を作る
日本リーダーパワー史(595) 昭和戦後の高度経済成長を築いた男たち …
-
『明治裏面史』 ★ 『日清、日露戦争に勝利した明治人のリーダーパワー,リスク管理 ,インテリジェンス㊹★『明石謀略戦((Akashi Intelligence )の概略と背景』★『ロシアは面積世界一の大国なので、遠く離れた戦場の満洲、シベリアなど極東のロシア領の一部を占領されても、痛くも痺くもない。ロシアの心臓部のヨーロッパロシアを突いて国内を撹乱、内乱、暴動、革命を誘発する両面作戦を展開せよ。これが明石工作』
『明治裏面史』 ★ 『日清、日露戦争に勝利した明治人のリーダーパワー, リスク …
-
『リーダーシップの日本近現代史(18)記事再録/「STAP細胞疑惑』『日本政治の没落』の原因である 「死に至る日本病」『ガラパゴス・ジャパン』『中央集権官僚主義無責任国家』 の正体を150年前に報道した『フランス新聞』<1874(明治7)年5月23日付『ル・タン』―「明治7年の日本政治と日本人の特徴とは・・」
2014/04/21/日本リーダーパワー史(494) & …
-
『リーダーシップの日本近現代興亡史』(227)/『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐/水野広徳(下)』-『その後半生は軍事評論家、ジャーナリストとして「日米戦わば、日本は必ず敗れる」と日米非戦論を主張、軍縮を、軍部大臣開放論を唱えるた』★『太平洋戦争中は執筆禁止、疎開、1945年10月に71歳で死亡』★『世にこびず人におもねらず、我は、わが正しと思ふ道を歩まん』
2018/08/20 /日米戦争の敗北を予言した反軍大佐、ジャーナリ …
-
百歳学入門(238)鎌倉カヤック釣りバカ筋トレ入門(7/17am5)-15cmほどの小サバ君の大運動会であそぶ。
百歳学入門(238) 百歳/鎌倉カヤック釣りバカ筋トレ入門(7/17am5)-朝 …
-
日本リーダーパワー史(787)「国難日本史の復習問題」 「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、リスク管理 、インテリジェンス④』★『日本史の決定的瞬間』★『撤退期限を無視して満州からさらに北韓に侵攻した傍若無人のロシアに対し東大7博士が早期開戦論を主張(七博士建白書事件)』
日本リーダーパワー史(787) 「国難日本史の復習問題」 「日清、日露戦争に勝利 …
- PREV
- 『リーダーシップの日本近現代史』(198)ー『日本敗戦史』㊱『来年は太平洋戦争敗戦から75年目―『日本近代最大の知識人・徳富蘇峰(「百敗院泡沫頑蘇居士」)の語る『なぜ日本は敗れたのか・その原因』②―現在直面している『第二の敗戦』も同じパターン』
- NEXT
- 『リーダーシップの日本近現代史』(200)-記事再録/『日露戦争の勝利が日英米関係の転換となり、日米戦争の遠因となった』★『日露戦争勝利は「日英同盟」、米国のボーツマス講和会議斡旋のおかげなのに日本は自力で勝ったと思い上がり、おごりを生じた。』★『②日米関係を考える上で、〝歴史の教訓″は1924(大正十三)年七月一日に施行された排日条項を含む「外国移民制限法」である。』