『リーダーシップの日本近現代史』(89)記事再録/★『地球温暖化によるスーパ台風19号の日本直撃は甚大な水害被害をもたらしたが、今後とも増えることは間違いない』★ 『100年前に地球環境破壊と戦った公害反対の先駆者・田中正造から学ぶ①』
世界が尊敬した日本人(54)
月刊「歴史読本」(2009年6月号掲載)
『地球温暖化、地球環境破壊と戦った公害反対の先駆者・田中正造』
明治天皇直訴文は幸徳秋水が書いたが、正造は正直一途な男①
前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
「お願いがございます」―1901年(明治34)12月10日、第15回帝国議会開会式からの帰る途中の明治天皇の馬車が東京・日比谷にさしかかった際、男が右手に願書を高く捧げながら、人垣から飛び出して直訴した。警備の警察官に取り押さえられたが、この男こそ田中正造(61歳)であった。
当時、全国最大の「足尾銅山」(日本の産銅量の40%)から出る亜硫酸ガスの煙害や鉱毒によって渡良瀬川流域の農作物は枯死し、魚類も全滅、農民の健康にも大きな被害を出ていた。
被害住民は栃木、群馬、埼玉3府県で約50万人に及んだが、「殖産振興」がスローガンの政府はこれを無視して、因果関係を認めなかった。田中は代議士を辞し、命がけで直訴する決意を固め、社会主義者・幸徳秋水に無理やり頼み直訴文をしたためてもらった。この直訴は大反響を呼び、各新聞は競って号外をだし、足尾鉱毒事件は一躍全国的に有名となった。
田中正造は、天保12(1841)年11月、下野国小中村(現・栃木県佐野市)で名主の長男に生まれた。17歳で名主となり、「予は下野の百姓なり」と語るように、終生、農民の立場に立って行動した。
栃木県議会議長から、明治23年の第一回衆議院選で当選して代議士となるが、口を開けば鉱毒事件ばかりを追及するので奇人扱いされ「栃木鎮台、略して栃鎮(トッチン)」とのあだ名がつけられた。
鉱毒被害は広がる一方で、明治33年2月、3千人の被害農民が政府に請願に押しかける途中で抜刀した憲兵、警官隊が襲いかかり、逆に51名が兇徒聚集罪などで起訴される川俣事件が起きた。
この直後「鉱毒で何の罪もない人が毒のため殺され、その救済を訴えると、凶徒という名で牢屋へほうり込まれる。政府は人民に軍(いくさ)を起こせと言うのか。(古河市兵衛に対し」こんな国賊、国家の田畑を悪くした大ドロボウ野郎!」と田中は国会で「亡国論」の激烈な演説を行い、議場は大混乱に陥った。
あわてた政府はやっと思い腰を上げ、谷中村に遊水池を作る渡良瀬川の治水計画を出した。これは反対運動を抹殺するネライだったが、田中はすべてを捨てて谷中村に移り住み、反対運動の先頭に立った。「辛酸入佳境」、孤立無援の中で、62歳にして「聖書」を初めて読んで帰依した田中は「聖書は読むものではなく実践するもの」と「谷中学」(谷中村の生活と運動と実践に学ぶこと)に没頭した。
田中には数多くエピソードが残されている。ある時、30年連れ添った妻・かつ子に手紙を書いたところ、その名を忘れて想い出せなかったという。それほど救援運動に全身全霊で打ち込んだ「野にいる聖人」なのである。
しかし、政府、栃木県は土地買収と移転を強行し,最後まで残った16戸、約100人の農民たちも明治40年6月,土地収用令で家屋を強制破壊されてしまう。こうして谷中村は水没し、滅亡した。この時の日記には「政府と戦うべし、予は天理によりて戦うものにて、斃れても止まらざるはわが道なり」とある。
正造は最後まで谷中を離れることなく大正2年9月、胃ガンによって72歳で亡くなった。亡くなる数日前、病床で「現在を救い給え、ありのままを救い給え」といって意識を失った。枕元に残されていた全財産はズダ袋のなかに,帝国憲法の小冊子と新約聖書1冊、石ころ数個と書きかけの原稿だけだった。
田中正造について、天皇直訴事件の印象が強いため、一部には、天皇、キリスト主義者とみるむきも少なくないが、切り捨てられていく少数派の人権を最後まで守って戦った明治期では稀有の民主主義思想家であった。憲法の精神の遵守を政府に強く求め、人民の抵抗権と、監督権、自治権をも強く主張している。
また、地球環境問題が世界的なテーマとなっている今、百年前の田中正造の思想と行動は公害を世界共通の普遍的な課題として先取りしており、その先駆的なエコロジー感覚と環境倫理思想と相まって、現代人にとって大きな啓示を与えてくれる。
日本リーダーパワー史(285)地球環境破壊、企業公害と戦った父・
田中正造―福島原発事故は政府・東電による
地球環境破壊の元凶である (2012/07/25、執筆)
『100年前の足尾鉱毒事件(栃木)は当時、日本最大の公害であり、被害の渡良瀬川流域の谷中村は滅亡した。
福島原発事故は世界で最大級の地球環境汚染であり、政府・東電による企業公害犯罪である。(避難帰還困難住民は約16万人)。
それなのに、現在の政党、政治家の中に1人として『田中正造』的な正義の人がいないのが、迫りつつある日本崩壊・亡国の惨状である。』
妻の名も忘れて命がけで戦った公害反対の先駆者・田中正造
「お願いがございます」 -明治三十四年(一九〇一)十二月十日、第十五回帝国議会開会式から帰る途中の明治天皇の馬車が東京・日比谷にさしかかった際、男が右手に願書を高く捧げながら、人垣から飛び出して直訴した。警備の警察官に取り押さえられたが、この男こそ田中正造(六十一歳)であった。新聞は、「右手に高く捧げたる一封の願書には演劇の佐倉宗五郎を擬したりけん『上』の字に表封筆太に記されたるが…」と書いている。
当時、全国最大の「足尾銅山」から出る亜硫酸ガスの煙害や鉱毒によって渡良瀬川流域の農作物は枯死し、魚類も全滅、周辺農民の健康にも大きな被害を及ぼしていた。被害住民は栃木、群馬、埼玉三府県で約五十万人に及んだが、「富国強兵」「殖産振興」がスローガンの政府はこれを無視して、因果関係を一切認めなかった。
田中は代議士を辞し、命がけで直訴する決意を固め、社会主義者・幸徳秋水に無理やり頼み込んで直訴文を書いてもらった。この直訴は大反響を呼び、各新聞は競って号外をだし、足尾鉱毒事件は一躍、全国的に有名となった。
足尾銅山鉱毒事件の被害状況はどのようなものだったなか
読売新聞<1897年(明治三〇年)1月15日付>「足尾銅山鉱毒事件の由来とその事実」はこう書かれている。
「明治十二年ごろより渡良瀬川の魚族、故なくして斃(たお)るるもの多し。而して漁夫ら皆その理由の何たるを弁ぜず。いわく、これ魚族の疫病ならん、明年にいたらば回復すべけんのみと。
しかるに日を経るにしたがって魚族のて斃(たお)るるものいよいよ多し。十三年夏、栃木県庁は、県連をもって渡良瀬川に産殖せる魚を食うを禁じ、かつこれを販売するをも禁じたり。
このころ東京よりの荷物を満載し渡良瀬川に依りて群馬栃木両県の問を往来せる船あり、水夫ら従来の習慣として渇を医せんために河水を飲用すれば、その唇漸次紫色に変じ、また沿岸の細民出水の際は流木を拾うて焚火すれば顔となく手となく、ことごとく亀裂せり。
(略)明治二十三年両毛地方の洪水に際し、そのいわゆる堤外地は言うまでもなく、堤防破壊して数百町歩の良田は忽然(こつぜん)として一基生ぜず、一穂実らざる不毛の地と化しおわれり。ここにおいてか人皆はじめて鉱毒の害、広大無辺なるに吃驚(きっきょう)せり。」
もともと、渡良瀬川の上流にある足尾銅山は、幕府直轄の銅山。一八七六年(明治九年)、生糸貿易商の古河市兵衛(1832-1903)が銅山を四万八千円で買い取り、翌十年から採鉱を開始した。そ開発がすすむにつれて、銅の産出量は年々うなぎのぼりに増加し、古河は成功して鉱山王とよばれるようになる。
しかし、渡良瀬川沿岸の被害は年ごとにふえた。その原因が足尾からの鉱毒のらしいとわかったのが、一八八七年(明治20)ごろからで、一八九〇年の洪水による鉱毒の被害は一層拡大し社会的な問題となった。
日清戦争中(明治27-8)に、足尾銅山はさらに一段と発展した。しかし問題は依然としてつづいた。一八九六年の洪水は、渡良瀬川ぞいの田畑1000ヘクタールあまりに毒土、毒砂を流し込み、まったく不毛の荒地となった。被害地の農民代表は「足尾銅山鉱業停止請願書」を農商務大臣に提出、田中は被害地をとび回り問題の重大性を訴えて歩いた。翌年二月、神田のキリスト教青年会館では、東京ではじめての鉱毒事件演説会を開き聴衆は七百人に達し、鉱毒事件は東京の知識人たちの関心を引くようになった。
田中正造は「明治の義人」「公害問題の先駆者」であると同時に、中江兆民らと並ぶ「明治の三奇人」の一人といわれた。江戸時代に、悪政に苦しむ農民を代表して直訴し、一家死刑になった義民・佐倉宗五を連想させる人物である。今も「田中正造」信者は後を絶たない。地球環境問題が深刻化してくる21世紀こそ、田中正造の評価はますます高まっている。
田中正造は天保12年11月3日(1841年12月15日)、下野国(栃木県)の名主の家の生まれ、十九歳の若さで名主を継ぐと、農民を苦しめる領主の悪政を改めるため領主六角家の改革運動に参加して投獄され1メートル四方の牢獄に11ヵ月押しこめられていたという闘士である。
明治13年(1880)に栃木県会議員に当選し、一五年に改進党に入った。自由民権運動時代にも一方の旗頭となり、栃木鎮台とアダ名された。しかし一七年、三島通用県令反対運動により再び投獄される。不屈の闘志をもつ正造は二三年の第一回総選挙で栃木県から選出されて、それ以後、六回連続当選を果たす。ほぼ十年間の議員活動の大半を、この日本の公害第一号と呼ばれる足尾銅山鉱毒事件鉱毒問題に注いだ。生涯一貫して、郷土の民衆のために奔走したが、その言行の奇抜さから、とかく奇人として扱われた。議場でもそうであった。
明治天皇直訴文は幸徳秋水が書いたものだが、正造は正直一途な男
明治天皇への直訴文は幸徳秋水が書いたものだが、天皇への直訴など社会主義者のやるべきことではないと当初、秋水は拒絶した。しかし、田中の熱誠に打たれてついに承諾したが、「二十年前ノ肥田沃土ハ、今ヤ化シテ黄茅日華、満目惨憺ノ荒野二為レリ」と書くと、
正造は「それは事実とちがう、一部はそうだが、そうでないところもあり、嘘偽の事実を奏上するわけにはいかない」とあくまで正直一途なのには、「それじゃあ直訴の文章になりませんよ」と秋水も戸惑った。
田中正造は栃木県議会議長から、明治二十三年の第一回衆議院選で当選して代議士となるが、口を開けば鉱毒事件ばかりを追及するので、奇人扱いされ「栃木鎮台、略して栃鎮(トツチン)」とのあだ名がつけられた。
1900年(明治三十三)二月、3千人の被害農民が政府に請願に押しかける途中で、抜刀した憲兵や警官隊が襲いかかり、逆に五十一名が兇徒聚集罪などで起訴される川俣事件が起きた。
この直後、
「鉱毒で何の罪もない人が毒のために殺され、その救済を訴えると、凶徒という名で牢屋へはうり込まれる。政府は人民に軍を起こせと言うのか。(古河市兵衛に対し)こんな国賊、国家の田畑を悪くした大ドロボウ野郎!」と国会で「亡国論」の激烈な演説を行い、議場は大混乱に陥った。
田中は議会で川俣事件についてこう述べている。
「三百人の警察官が、サーベルをそろえて、こじりをもって槍のごとくにして突撃した。またなぐるときには、声をかけた。土百姓(どんびゃくしょう)、土百姓と。それぞれ口をそろえて言うたのである。巡査が人民を捕えて、土百姓というかけ声でなぐった。この土百姓というかけ声はどこから出るのであるか。
これすなわち古河市兵衛に頼まれているからして、鉱業主にあらざれは人間にあらず、土百姓は人間にあらざるように、つねに話で聞いているからして、ついそれが出る。
三百人の警官がことごとく土百姓というかけ声をもってひどい目にあわせた。しかして園の声をあげた。大勝利をあげた。大勝利万歳の勝鬨(かちどき)をあげたのでございます。何たることである。
……被害民の方はこれまでも棒もステッキも持っていなかった。とくに今度はよく世話人が指揮して、品行を方正にし、静粛を旨とせよという申し渡しまでしたくらいでございますから、煙管一本持ったものがないくらい静粛である。これにたいして何である。勝鬨(かちどき)をあげるとは何だ。
ただ今日は、政府が安閑として、太平楽を唱えて、日本はいつまでも太平無事でいるような心持をしている。これが心得がちがうということだ。」
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