『クイズ『坂の上の雲』>明治陸軍の空前絶後の名将とは・・参謀総長・川上操六の略歴③
2015/02/16
『クイズ『坂の上の雲』>明治陸軍の空前絶後の名将とは・・児玉源太郎ではない参謀総長・川上操六の略歴③
前坂俊之(戦史研究家)
川上操六の略歴
川上操六は幼名宗之丞。嘉永元年十二月11日、島津侯譜代の臣、石高五十石、川上伝左衛門の3子として鹿児島城外吉野村に生れた。11歳にして学を鎌田右衝門に受け、句読を授けられる。薩摩の士風、当時は武を尊び文を疎にし、たまたま師あるもこの鎌田右街門のように唯、句読を授けるに過ぎなかった。
父伝右衛門はこれを嘆き知人を語らい、私費をもって郷学を設け、同藩の子弟教育に尽くすところがあった。操六また弟丈吉と共に父の開いた郷学において学ぶこと数年、学はおおいに進むんだ。
1日、藩侯の前に孟子を講じてその学才の非凡なことを認められ、後、藩校造士館に入ることを許される。同館は城下にあり、城外の吉野村からは往復16キロの道程であったが、操六は一日も欠かさずここに通い、刻苦勉励、学を重野安、小牧昌業、三原甚五左衛門らに、武術を師範役・隈元氏に受け、家に帰れば1村の子弟修養所である『賢二の杜』に赴いて質実剛健の気風を養った。
慶應2年、18歳にして選ばれて「造士館の師」員に列した。同3年3月、藩に洋式の兵制が布かれると、又特に選ばれて分隊長となる。
これが操六の軍人として世に出る第一歩となった。明治元年正月、薩長軍に従って上洛、鳥初伏見、次いで越後、出初、角館に転戦して度々軍功をあげた。凱旋後、朝廷より武人貸典を賜ふ。明治画年、初めて陸軍中尉に任ぜられ、御親兵隊付を命ぜられる。御親兵隊は、同年3月、山口、薩摩、高知より致した各級によって初めて設けられたもので、これがわが国最初の陸軍常備軍にして、近衛師団の起源である。直ちに大尉に進み、9年2月、少佐に進み、近衛大隊長となる。
明治9年4月、参謀局出仕を命ぜられ、10年2月、西南の役が起こるや熊本城に行き、十三連隊を指揮する。
11年9月、中佐に任じ、正式に第十三聯験長を命ぜられる。翌年、大阪の歩兵第八連隊長に補せられ、14年1月、仙台連隊長となる、15年2月、大佐に進み、近衛歩兵第一連隊長に補せられる。
明治17年2月、陣軍卿大山巌に従い、中将三浦梧棲、少将野津道貫、大佐桂太郎以下十余名と共に、兵制視察のためヨーロッパに赴き、フランス、イギリス、ロシアを巡った後、ドイツに戻り、同年8月、特に大山陸軍卿とただ二人、ポツダム離宮にてドイツ皇帝に謁す、更にハンガリ、ブダペストにてオーストリア皇帝に拝謁し、次いでアメリカに渡り、18年1月、帰朝、五月、少将に任ぜられ、参謀総長/山県有朋の下にその次長となる。
常時、川上操六よりも先輩にて参謀次長たるべき経歴ある人物に、長州出身にては河原、佐久間、開司、滋野、狗江、薩摩出身にでは野津、野崎、今井、その他、黒川、山路、原田の諸輩あり、又同輩には黒木、乃木、大泊、山溶、永山の俊英あり、その中で、川上操六が若年の身をもって断然頭角を抜いて参謀次長となった事は、異例の抜擢として人々の耳目を驚かした。
翌19年参謀本部條例の改正に基き、従来の参謀次長の地位が失はれるに至り、操六は本職を免ぜられて近衛歩兵第二放団長に親補された。ところが、第二旅団は創設後間がなきため未だ定制の兵員を有せず、放団長の職責も閑なるを以て、政府これを利用して、19年10月、川上操六にドイツ留学を命ず。
ドイツでは大参謀総長。モルトケ、同次長・ワルデルゼーについて戦略兵法の奥義を究め、一年有半の後帰朝、22年4月、参謀本部条例の改正があり、再び以前の制によって参謀次長の地位が設けられ、参謀総長には、有栖川宮放仁親王殿下、次長には川上操六が補せられた。12月、中将に昇り、27年、日清戦争が起るや、同年6月、大本営陸軍上席参謀兼兵站総監に任じ、出師の計画を練り、苦心惨憺よくその職を果した。翌28年3月、征清総督府が金州に設けられると、時の参謀総長、陸軍大将小松宮彰仁親王殿下が征清大総督に任じられ、川上操六が参謀長を拝した。
四月、日清の講和条約が成り、同8月、日清戦争の功により華族に列し子爵を授けられる。ロシアの勢力か満州、朝鮮に伸ぴつつあることに危機感をもって国防計画を立て常備軍七個師団を十三個団に拡張することに全力をあげて実現する。
また、対ロシア戦にそなえて諜報体制を整備、天津、南清、安南(ベトナム)を歴遊し、その翌年には、シベリアの東部を踏査してロシアの極東における軍備を観察し、32年2月、参謀総長に補せられ、九月、大将に進む。同年、特別大演習が挙行された。この時に川上操六は対ロシア戦の戦略立案の劇務によって健康を害し、病となっていたが、無理をして演習地に滞留することで悪化して5月12日、突然逝去した。亨年52。
関連記事
-
-
『Z世代のための日本リーダーパワー史(380)」★『児玉源太郎伝(3)『日露戦争は民族戦争・宗教戦争ではなく防衛戦争』★『ドイツ・ロシアの陰謀の<黄禍論>に対して国際正義で反論した明治トップリーダーのインテリジェンス戦略に学ぶ』★『英国タイムズ紙、1904(明治37)年6月6日付記事を読めばよく分かる』
2013/05/04 /記事再録編集 …
-
-
『Z世代への昭和史・国難突破力講座㉒』★『日本経済外交150年史で、最も独創的,戦闘的な国際経営者は一体誰か?」★『出光興産創業者・出光佐三(95歳)』です』★『そのインテリジェンス、独創力、決断力、国難逆転突破力で、「日本株式会社の父・渋沢栄一翁」は別格として、他には見当たらない』
2021/11/17 『戦略的経営者・出光 …
-
-
『Z世代のための<憲政の神様・尾崎咢堂の語る「対中国・韓国論①」の講義⑨日中韓150年三国志―尖閣問題のル―ツの研究(パーセプション・ギャップ)―尾崎咢堂の「『朝鮮(韓国)は助けて、支那(中国)は討て』②
2013/04/03   …
-
-
「オンライン決定的瞬間講座・日本興亡史」⑬」★『国会議員63年間のギネス政治家・尾崎行雄(96歳)の「昭和国難・長寿逆連突破力』★「日本盛衰の原理はー売り家と唐様で書く三代目」で不敬罪で82歳で起訴される』
第5章―国会議員63年間のギネス政治家・尾崎行雄(96歳) ますま …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(254)/『国葬にされた人びと』(元老たちの葬儀)『伊藤博文、大山厳、山県有朋、松方正義、東郷平八郎、西園寺公望、山本五十六、吉田茂の国葬はどのように行われたか』
2018/01/26   …
-
-
百歳学入門(88)農業経済 学者・近藤康男(106歳)ー70才の人生の節目を越えて、以後40冊以上の超人的な研究力
<百歳学入門(88)> 旺盛な研究力を支え …
-
-
百歳学入門(47)荻原井泉水(92歳)の『天寿・長寿10ヵ条』「随」の精神で「天」に感謝し「天」に随い「天」を楽しめば【天寿】となる
百歳学入門(47) 荻原井泉水(92歳)の『天寿・ …
-
-
百歳学入門(188)★『日野原重明先生(105歳)』★『92歳の時の毎日の生活ぶりだが、そのエネルギーと分刻みの緻密なスケジュールと仕事ぶりはまさに超人的!』
百歳学入門(188) 日野原重明(1911-2017、105歳) https:/ …
