『リーダーシップの日本近現代史』(4 )記事再録/日本国難史にみる『戦略思考の欠落』④ 『明治維新後、世界に初船出した日本丸はどこを目ざすべきか』― 明治のトップリーダーの『インテリジェンス』 長期国家戦略「富国強兵」政策はビスマルクの忠告から決まった。
2019/08/26
2015/11/24日本リーダーパワー史(608)
『明治維新後、世界に初船出した日本丸はどこを目ざすべきか』―
元寇の役、徳川幕府を崩壊させた外交失敗の歴史を踏まえて、明治維新を達成したトップリーダーがとった『戦略思考』は第一に外国からの侵略を防ぎ独立を保つために、岩倉使節団(1871年(明治4)12月―1873年(明治6)9月まで、アメリカ、ヨーロッパ諸国に岩倉具視正使、大久保利通副使、伊藤博文ら明治の高官、福沢諭吉、留学生ら107人】という大使節団を派遣して先進国の政治、軍制、軍備、経済、産業、教育などを調査,研究し封建日本を近代化する全面改革するプログラムを立案したのである。
このような大々的な政治トップの決断と方法論を実行した前近代国家はない。鎌倉幕府、徳川幕府の失敗に学んで、開国と多国間外交を思考したのである。
ビスマルクの忠告―西欧列強は万国法(国際法)と武力の二重基準
米英、ヨーロッパ、フランスと順番に約2年間以上にわたり国交のあいさつと各国の政治制度、統治機構、文化などの調査を行い、1873年(明治6)3月、ドイツの首都ベルリンに到着した。
米英仏の文明の発達、科学技術の進歩には驚いたものの、その議会中心主義、市民主義、フランス民主革命による政治体制などは、日本は封建主義から脱したばかりで民主主義制度への理解に全く欠けており、その点、ドイツは
- 300ほどの小国をプロシアが統一して大ドイツとなった点で300諸藩があった日本とよく似ていた。
②ヨーロッパではドイツは後進国であり、国民性は質実剛健で日本人と共通している
③皇帝を中心とした立憲君主制は、天皇主義の日本のモデルとなりうる④職人芸、モノづくりによる富国、殖産政策も日本がまねできるーと親近感をもった。
岩倉使節団一行は3月11日、ドイツ皇帝ウイルヘルムに謁見し、翌12日にはビスマルク首相、プロイセン陸軍をヨーロッパ最強の陸軍に育て上げたモルトケ参謀総長にも会見した。モルトケこそ、のちの明治陸軍参謀総長・川上操六、桂太郎(陸相・首相)、田村怡与造(参謀次長)などがその教訓を受けて、その戦略の信奉者となり、日本陸軍をフランス式からドイツ式に転換させる原因をとなった人物である。
15日にはビスマルクは東洋の小国からやってきた使節団を歓迎しパーティー開催し、今後の国づくりに率直にアドバイスした。
①「世界の各国は表面上礼儀を持って交際を行っているが、内実は食うか食われるか、一時も油断のならぬ弱肉強食の世界である
②秩序を守るために、一応ルールとしては万国公法が存在するが、それは自国に利があると認められるときにのみ守られるのであって、不利となれば平気で武力に打って出ることになる。
③こうした国際社会にあって、小国が自らの国権、自主権を保持していくには軍事力を有していなくては生き残れない。英仏など強国は植民地を有し、武力を欲しいまにしており、諸国はその行動に困っている。
④こうした英仏は信用できないのであって、日本にとって最も親睦な国が国権・自主権を重んずるドイツである」と熱意をもって語った。
万国公法の遵守を信じていた使節団
後進国日本が欧米列強の中で、生き残っていく道は西欧の国際法である万国公法を遵守していくことと信じていた使節団には、西欧の国際関係の本質はダブルスタンダード(2重基準)であり、「万国公法よりも力である」と知らされ大きなショックをうけた。
明治のトップリーダーたちは習い覚えた国際公法こそ、弱小国の自立と独立を保証してくれると信じていたのだが、それは建前であって隣国のアジア随一の強大国・清国の食い荒らされている『弱肉強食』の現実を見れば一目瞭然のことだった。
ビスマルクは「小国が自主権を守ろうとすれば、軍事、経済両面で実力を培わなければならぬ。そして、強国の論理に対抗し、自国の経済、軍事力を増強し、対等に強国(イギリス、フランス、ロシアなど)と渡り合えるように自力つけることを数十年にわたって努力し、近年になってやっとわが国(プロイセン)はその望みを達成することができたのである。」と結論を語った。
大ドイツ統一のビスマルクの秘訣を聞いて、大蔵卿・大久保利通と工部大輔・伊藤博文は大きな感銘を受けた。
帰国後、大久保は日本のビスマルクを標榜し、のちに、伊藤博文も自らを東洋のビスマルクになぞらえるほど彼に心酔し、ドイツ流の「富国強兵」政策を導入したのである。
「富国強兵」のための国家戦略の立案では、
長期戦略の「富国強兵」のための国家戦略の立案では、次の政策を即実行した。(この点を一言すれば、事前調査、政策決定即実行のスピード明治政府とその後の大正、昭和の政府、政策実行のスピードが大違いなのである)
①経済産業の発展のためにお雇い外国人を多数を招き、近代的な産業、学問、医学、技術、全分野で学んだ。1868年(明治元)―1889年(明治22)までに合計2690人である。内訳は英国人1127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人などである。
②海外留学生を送りこむ。明治維新の2年前に幕府は海外渡航を許可し、幕末期の留学生は約150人に達した。明治になって官費留学が制度化され、私費留学も増加し。明治年間で官私費留学生は2万4,700人に達した。
③軍制改革で徴兵制による各藩の武士から国軍の建設、
④韓国との通商、外交関係の締結、不平等条約の改正―などを目指した。
徳川230年の旧弊打破は簡単にはいかない。
しかし、徳川230年の旧弊の打破は簡単にはいかない。帰国した途端、留守役の西郷隆盛らの征韓論(明治6年9月)を明治天皇が裁可していたのに大久保は驚き、これをひっくり返し、そのため西郷とその一派は野に下った。これが原因で各地で内乱が勃発し、1978年(明治10)の西南戦争によって西郷は斃れ同年、大久保も非業の最後を遂げ、木戸孝允の病死で、『維新の三勲』がいずれも姿を消し、以後は伊藤博文,山県有朋、大隈重信らの時代に入る。
いわば「幕潘体制の全面破壊期」がこれで終了し、主役が交代し『明治新政府」の本格建設期に入ったのである。
明治10年代には国内的では自由民権運動の国会開設論議が沸騰し、対外的に日韓外交交渉が清国の干渉もあり何度も挫折、ロシアはシベリアからの朝鮮半島、満州への南下、膨張政策をとり、英国も中国、韓国、日本を虎視眈々と狙う『弱肉強食』の植民地獲競争の砲艦外交が迫ってきた。
話を少し戻す。
1870(明治3年)7月、山県有朋、西郷従道等らを軍事研究のため欧米に派遣し調査させ、同年10月に兵制を改革し、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式を採用し、軍服は西洋式を採用し、軍靴とともに大阪で国産で製造することを決定した。同年11月には徴兵令を決定した。
明治4年12月に、兵部大輔・山県有朋、兵部少輔・川村純義、同西郷従道の連名で、軍事新政策の建議が出された。
- 軍備の重点を対内的な国内の反乱の鎮圧から、対外的軍備増強に移すこと。
- 「将来的には対外的で対外的軍備が充実すれば、対内的問題は順次解決される。
- 国防の急務はロシアの東方政策に対する防衛策であるとした。想定敵国にロシアを決定している。
- 徴兵制度の必要性と、造兵廠、兵器庫、兵学校の必要性をも指摘した。
この中で注目されるのは③で元寇の役、徳川幕府の国防政策の失敗の教訓を生かしたものであった。
明治維新後の内政混乱がなお続いていた時代に、近代国家建設のための防衛政策として、早くもこれだけの戦略思想を持っていた点は注目に値する。
韓国との通商、外交関係の話し合いは明治維新の直後から日本側から交渉を何度も持ち掛けたが、朝鮮側はそれを拒否、遅延、引き延ばし戦術で外交交渉はとん挫し一向に進まなかった。
これに日本側は憤激して明治5年には征韓論の論議が噴出して、西郷と大久保との路線対立が表面化、国内分裂時代に入る。
1878年(明治10)の西南戦争によって維新の大立者・西郷隆盛が斃れ、相次いで大久保利通の暗殺、木戸孝允の病死で『維新三傑』が政治の舞台から去り、国内内戦は終結した。
しかし、明治陸軍は、薩長の藩閥抗争が依然としいて尾を引いて、陸軍トップは旧藩派閥解消に努力はしたが、旧弊の打破は容易でなかった。
つづく
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