知的巨人の百歳学(150)ー『日本で最も聡明な女性・野上弥生子(99歳)の晩年の生き方』★『もし文学者たらんと欲せば、漫然として年をとるべからず、文学者として年をとるべし(夏目漱石)』★『今日は昨日、明日は今日よりより善く生き、最後の瞬間まで努力する』
日本で最も聡明な女性・野上弥生子(99歳)の晩年の生き方
野上弥生子は一八八五年(明治十八年)五月、大分県臼杵市の酒造業者の家に生まれた。明治女学校在学中から同郷で2歳年上の東京帝大文学部英文科の学生の野上豊一郎と交際し、卒業後の1906(明治39)年8月に結婚した。野上豊一郎23歳、弥生子21歳。野上の同級生は安倍能成、藤村操、岩波茂雄らがいたが、英国留学を終えて帰国した漱石の授業を受け、漱石山房で開かれている「木曜会」へ参加した。
木曜会は2部制で昼は一般客人たち、夜は門下生が多数集まり、深夜一時ごろまで文学論や議論を戦わせていた。文学少女だった弥生子は、小説『明暗』を書いて夫経由で漱石に見てもらった。漱石から1メートルにも及ぶ巻紙の返事が返ってきた。そこには懇切丁寧な作品評と文学の根本義、作家の心得として
「もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず、文学者として年をとるべし」
としたためられていた。
感激した弥生子は、漱石のアドバイスに従って、『縁』という作品を仕上げた。漱石はこれを高浜虚子主宰の雑誌『ホトトギス』に推薦し、掲載された。これが作家・野上弥生子の文壇登場となった。明治40年のことである。野上は20歳過ぎ、漱石は雲の上の存在で門下生はこわい先生の前で、小さくなって口もきけないような状態だったが、弥生子は漱石と4,5回あったという。
一九○六年八月に『吾輩は猫である』を書き終えた激石40歳は、翌明治40年(1907)4月に東京帝大を辞めて、朝日新聞に入社した。長編小説を新聞連載してくれれば月給200円出すという条件、この月給は当時の大臣クラスのほぼ10倍という高給で、本格的に職業作家としての道を歩み始めた。朝日入社のころに取材のために京都へ旅行した。
漱石は旅に出ると門下生にお土産をなどを買ってくる癖がある。弥生子は、手紙の端に「お人形買っていらしてください」とおねだりして書いて出した。すると、漱石は忘れず「小さな京人形を買ってきてくれたという。弥生子はこれを宝物のように大事にして終生、保存していた、という
弥生子は三十代から日記を付けており、漱石の門下生の集まりである「木曜会」などの様子も初期の日記に書かれている。この毎日欠かさず日記を書くという規則的なカタツムリの歩みが百寿と膨大な創作につながった。
90歳代になっても1年の半分は軽井沢の山荘に一人でこもって、自伝小説「森」を悠々と書き続けていた。
NHKのインタビューで東京成城の広い家に1人で住み,年の半分は軽井沢でも1人暮らしを続けている点について「孤独ではないでしょうか」と質問された時、「孤独っていうと人間だれでも孤独ですけどね。私は年を取っているから、孤独っという気持ちは全然ないわ。1人ほどいいものはないというような気がいたしますよ」と答えている。
三十代から書き始めた日記は亡くなる十七日前まで書いていた。
ただし、その日記は関東大震災で焼失し、残っているのは一九二〇(大正九)年から一九二三年までのメモと日記が混ざった手帳と、同年七月から本格的に始まった日記帳に書いたものや、その後は大学ノートに書かれたものなど、一九八四(昭和五十九)年七月から八五年3月13日付の最後の日まで合計119冊が残されている。近代文学者の日記では最も資料価値が高い。
ほとんど毎日書いているが「日記5日怠る。執筆のため」など多忙なときは書いていない日もある。最後となった三月十三日の日記は、雪が残る庭の様子のあと「ソヴェート・ロシア。ゴルバチョフの出現で別な世界をつくりあげることが果たして可能であらうか」と書いている。
世間では夫婦仲がよいと見られていたが、その日記に時々夫婦げんかのことも記されている。「こんな事が起る度に夫婦生活といふものの一面の暗黒性が私をおびやかす。私たちのように比較的調子よく行っていると信ぜられている人間のあいだでもこれである」(大正十四年七、月三十日)など、外からはうかがうことのできない夫婦間の機微がにじみ出ている。
最晩年、これらの日記が公開されることについて、「私個人のこともいろいろはっきりするでしょうけれども、それよりも社会的な出来事がみんな書いてあって、新聞の切り抜きも入れてあるわけ。……私の日記だけを研究する意味もあるでしょうね」と語っている(『図書』「山荘閑談」一九八五年六月号)。
『今日は昨日、明日は今日よりより善く生き、最後の瞬間まで努力する』
代表作の『迷路』は戦前からの構想を一九四八年(昭和二十三)、六十三歳のとき第一部を出版、七十歳で六部作を完成した。最後の作品となった『森』は、八十二歳のときから書き始め、亡くなる直前まで、十八年にわたって書き継がれた。ゆっくり時間をかけて息の長い巨編を紡ぎだしていくタイプであった。それが大河となり『野上弥生子全集』(全23巻)に結実した。
六十五蔵のときの随筆「私の信条」では、「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の最後の瞬間まで努めよう」と書いている。あくなき執筆意欲はこの信条の実践だった。
晩年の彼女は、87歳のときから書き続けてきた自伝的長編「森」の完成に向けて、1日に原稿用紙2枚というノルマを自身に課していた。息子の野上素一さんの記録によれば、執筆は昼前に済ませ、2時間ほどの昼寝をとる、朝食は菓子と抹茶、昼食はトーストとミルク、夕食は自分で作る、という極めて規則正しい生活ぶりだった。
『いっぺん満足のゆくものを書いて威張ってみたいのよ!』
90歳の時のNHKのインタビューに対して『私も本当に「私は作家だ」と、いばって言ってみたいわよ。しかしそう自信を持って言えるものを、まだ書いていないということとね。それから作家がどんなにむずかしい生き方かということを身にしみて、年を取るに従って強く感じていますからね。いっぺんそう言ってみたいですよ、大いばりして。』最後の最後まで高みを目指して努力していたのだ。
九十九歳まで、ほとんど病気らしい病気はしたことがなく長寿を保った。晩年は軽井沢の別荘でひとり暮らしの執筆生活を続けた。その生活は簡素で早寝早起きの規則正しいものであった。
毎朝七時ごろから二、三時間で、原稿用紙二、三枚書くのが日課。私はNHKテレビで放送の最晩年の執筆ぶりを拝見したが、倍くらいの大きな原稿用紙に、天眼鏡を使いながら大きな字で一文字一文字とマス目を埋めていく執筆ぶりが印象的だった。
長寿の秘訣について、尋ねられると「いつの間にか私もこういう年になっただけです」。
「皆さん『よくそんな長命ができる』とおっしゃる。これ一つから急に何十なんてことになったんなら、そりゃあびっくりすることだけれども、時間というものが、一時間、二時間、三時間というふうになると同じようにね、時間がいつの間にか積み重なって、ちりも積もったっていうか。無理をなさらなければどなたでもご長命になれますですよ」
一見単調に見える生活を送りながら、野上弥生子の作家としての好奇心と意欲は、最後まで衰えなかった。昭和59年に行われた白寿祝いの席上で「世の中を見る眼も時代とともに変わり、あれもこれも書きたいと頭に浮かんでくるものがあります」とあいさつした彼女だったが、その死後、大友宗麟を題材にした新作品の構想メモや資料が、実際に用意されていたことも分かった。
そして、文壇最長老してほぼ頂点を極めたと思われた九十五歳のときのインタビューでは、「あたくしほんとうに自信ないのよ。自分でどうやらものになっていると思うのは『秀吉と利休』あたりじゃないでしょうか」(「毎日新聞」一九八〇年七月十一日付)と本音を語っている。このいつまでも自分に満足しない気持ちが、作品のエネルギーとなった。
白寿を祝う会では「もう余裕はないと思っていましたが、こうしてお祝いを受けると、もう一度、何か書いておかないといけないなあ、と思います」とあいさつした。
作家の城山三郎は「百歳になると人間はどうなるのだろうか」に興味があり、この白寿の会に出席した。その時の印象をこう書いている。野上さんは謙虚な方で、「そういうことはいやだし、白寿だろうが黒寿だろうが、私にはどうでもよいことなの」と断られた。百歳で現役の作家として連載小説を書いているなんて、世界史にない稀有の例ですから、それにあやかりたいとお願いして、こぢんまりした会を開いた。
野上さんは、何人かの女性に囲まれて手も引かれず、杖もつかず、背筋をのばして、明るい顔で先頭を切るようにして歩いてきた。パーティの間、ほとんど立って話を聞き、自分もあいさつした。
そのあいさつは美しい日本語で、「麗日(れいじつ)という言葉がまさに当てはまるような今日、こうして皆様にお日日にかかれて」というようなことから始まり、漱石の弟子として思いがけず小説の世界に入って、ここまでやって来られたのは幸せであった、とぼとぼ歩いてきてここまで歳をとっただけでおはずかしい限りだ、今やっている連載でやめようと思っていたけれども、こうやって励ましてくださるなら、また次の連載に挑もうと思います」と、実にいいあいさつをさされた。(城山三郎著『逆境を生きる』新潮社 2010年)
いよいよ『森」の最終回の構想を練る段階に至っていた昭和60年3月29日午前9時ごろ、トイレに立って寝室に戻ったところで倒れた。一時意識が混濁、午後には小康状態となったが、翌30日未明、再び意識を失い、血圧が50~60に低下。長男夫妻らに見守られて午前6時35分、静かに息を引き取った。 死因は急性心不全。満百歳の誕生日まで、あと一月余りだった。
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