『百歳学入門(215)』100歳時代の世界のシンボル・ギネス芸術家・平櫛田中(107歳)の長寿パワー(気魄・禅語)に学ぶ』★『悲しいときには泣くがよい。つらいときにも泣くがよい。 涙流して耐えねばならぬ。不幸がやがて薬になる』
記事再録/2010/07/31
日本リーダーパワー史(77)
『超高齢社会日本』のシンボル・107歳平櫛田中翁に学べ
<ギネス世界一長寿芸術家・平櫛田中の気魄・禅語>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
平櫛田中(1872・2・23~1979・12・30 百七歳)
百歳を超えても木彫家・平櫛田中の情熱、気力はいささかも衰えを見せなかった。毎日朝から、黙々とノミをふるい、筆を執り書にも親しむ。百寿を迎えた際に、六百万円出して材料の直径二メートルのクスノキ材を三本も買い込んだ。つまり百三十歳まで仕事を続けるつもりなのだ。
六十、七十 はなたれ小僧、男盛りは百から、百から。
いまやらねばいつできる。いまやらねばいつできる、
わしがやらねば、だれがやる。
このころ、四十歳下の友人に病気見舞の手紙を送った。
「わたしもとうとう満百歳、まだまだ仕事が残ってる、
朝から工房 晩めしがうまい、
ぶどう酒ばっちり、粥(かゆ)一椀(わん)、
とろりとまぶたが重くなる
「いまやらねばいつできる、わしがやらねば、だれがやる」が口癖で、生涯現役、百七歳までこの驚くべき気迫で創作に取り組み、「六十、七十洟たれ小僧、男盛りは百から、百から」を実践して見せた。
ピカソ(92歳)、豊田三郎(洋画家、107歳)、日本画家・小倉遊亀(105歳)、片岡球子(日本画、103歳)彫刻家・北村西望(102歳)、奥村土牛(101歳)ら世界の長寿芸術家の中で、百七歳というのはギネス世界最長寿の芸術家なのである。
平櫛田中は一八七二(明治五)年二月、岡山県井原市の肥料商の長男に生まれた。十五歳で、大阪に丁稚(でっち)奉公、二十六歳で、好きな彫物の道に。高村光雲に師事しながら、独自の木彫刻を切り開いた。
一九〇七(明治四十)年ごろ、生涯の師・岡倉天心と出会い、一九一四(大正三)年、天心が作った日本美術院研究所で西欧流の塑造研究にも取り組み、伝統的な木彫りを西洋彫刻と融合した。代表作は『活人箭』(かつじんせん・三十六歳)、鬼が人間を吐き出す構図の代表作『転生』(四十八歳)、天心像の『五浦釣人』(五十八歳)など。
木彫家。九十一歳で文化勲章を受章。九十八歳でアトリエを新築。
こだわるな、こだわるなこだわるな、こだわるな。人間本来、
住むところなし、どこに住んでも心は同じ、
仕事ができればそれでよい。
もともと食えない木彫刻の世界で、一心不乱に作品作りに取り組んだ。やっとできた作品もなかなか売れず、若いときは無論、還暦を過ぎても貧乏の連続だった。あるとき、思い余って天心に「先生、彫刻は売れません。どうすれば売れますか」と相談した。「みんな売れるようなものを作ろうとする。だから、売れないのです。売れないものを作りなさい。
そうすれば、必ず売れます」という天心の言葉にハッと悟りが開けた。そして創った『活人箭』は傑作と評価され、高く売れた。まさに「貧乏極楽、長生きするよ」の人生である。
もう一人の師は西山禾山(かざん)禅師である。西山老師の教えで坐禅を組み、作品にもその教えが色濃く反映されている。中でも、金剛経の二郎「応無所住而生其心」(おうむしょじゅうにしょうごしん)が、その後の生き方の核となった。
長い人生、長寿の道には喜びよりも、時につらい悲しみがつきまとう。親にとって子に先立たれるほどつらいことはない。五十代に子ども三人が相次いで結核にかかり、愛児二人を失った。悲しみから立ち直るのに数年間が必要だった。長年、苦楽をともにした妻にも七十六歳のときに先立たれた。
仕事に没頭することで、悲しみに打ちのめされる心を鼓舞し、気力を振り絞ったのである。
「九三六(昭和十こ年、歌舞伎の名優六代目尾上菊五郎をモデルにした『鏡獅子』(座高二メートル、彩色付)に取り組み、二十二年の歳月をかけ、八十六歳で完成した。この大作は現在、国立劇場の正面ホールに展示されている。
一九六二(昭和三十七)年、文化勲章を授章したときは九十歳だった。親授式の日、昭和天皇から「いちばん苦心したことは」と開かれ、「それは、おまんまを食べることでした」と答えた。貧乏こそが創作の源泉だった。
悲しいときには泣くがよい。つらいときにも泣くがよい。
涙流して耐えねばならぬ。不幸がやがて薬になる。
平櫛田中の自伝によると、「貧乏は骨の髄までした。三十四歳で妻・花代をめとったから、晩婚といえる。そのころ平櫛は、二軒長屋のひとむねを借りて住んでいたが、作家、彫刻家の女房などというものは貧乏なもので、世帯のやり繰りには、人一倍苦労した。
生活は貧乏そのもので、月四円五十銭の家賃が、どうしても払えない。コツコツ仕事に打ち込んではいたが、作品ができ上がっても、すぐに売れるわけではない。家主は、何度も家賃の催促に来たが、貧乏で払えませんと、十か月も家賃をためたことがあった。
妻は、私の仕事にはほとんど無関係で、院の展覧会すら観に行ったこともなかったから、いっそう世帯の苦労だけが身にしみたであろう。七十七歳でこの世を去ったが、今思うと苦労のかけっぱなしで、かわいそうなことをしたと思うばかりである。
『人間いたずらに多事、人生いたずらに年をとる。
今やらねば、いつできる。おれがやらねばだれがやる。』
人間、貧乏は我慢できるが、子供に死なれるほどつらいものはない。私は三人の子供をもうけたが、上の子二人を結核で亡くした。
そのとき、涙が出てたまらなかった。涙が出なくなるのに三年はかかる。私は自分の体験から、
子供さんを亡くされた方には、「三年は泣いておあげなさい」と言っている。
親が子を亡くした悲しみは、十年や二十年たったとて決して忘れられるものではないし、三年間は泣きの涙で暮らすものである。
子供たちがかなり大きくなったころであった。私の仕事も次第に認められて、内弟子が十人ほどいた。その中に胸の悪いのがいた。
本人は、自分が胸のy病いであることを知っていたと思うが、彫刻がどうしてもやりたいと思うあまり、帰されるのがいやさにそのことをかくしていたのであろう。子供たちは、その弟子と一緒によく遊んだりしていたが、そのために不幸にも発病した。
三人の子供は、長女、長男と二女。この三人が、あいつぐようにして結核で倒れてしまったのである。
当時、私は頑固で、子供が病の床いに臥すまで、どれほど家内からいわれても作品の制作を依頼してもらいにいったことはなかった。
夫婦喧嘩もよくやった。ところが、子供たちが病気になってみると、治療費も転地費も要る。このときばかりは、恥をしのんで生まれてはじめて、ある日本有数の富豪のところへ借金に行ったが、ていよく断られた。
私は言葉もないほどがっかりして、家へ帰るとばったり倒れてしまった。
何等かの因縁があり作品は四年か五年後に届けますからという条件つきで、これなら大丈夫と思う人のところへ行ったのだから、その打撃は大きかった。
しかし、そのあと九人ほどの人から、当時のお金で二万四、五千円ほど拝借でき、そのお金でどうやら子供の治療にあてられたのであった。
長女が亡くなる前日であった。長女は髪を挽き、からだをアルコールできれいに洗い、手を陽射しにかざしてみると、青白く透きとおってみえた。
「ああ、きれいになったわ」彼女は、そう言ってよろこんだ。
亡くなる日の朝、長女は庭掃除をしていたおばさんまで呼んで、別れを告げた。
「永い間、お世話さまでした。おわかれの水をつけて下さい」
澄んだ瞳だった。唇に水をつけてもらうために、しばらく待っていたが、おばさんは泣いてなかなか水がつけられなかった。やがて別れの挨拶をすべて終えた彼女は、静かに、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
と三言唱えて、美しい往生をとげた。人間の死とはこんなにも安らかで美しいものであろうかと思われる臨終であった。
長女は十八で発病、二十歳でこの世を去った。惜しい娘であった。
病床に臥すまで、仏英和高等女学校(現・白百合学園)へ通っており、フランス語が得意だった。
私はこの娘をつれてフランスへ渡り、あちらの美術を観て歩きたいと思っていた。そのことは二人で堅く約束していたのだが、娘も心残りだったであろう。
不幸は重なるものである。長女に続いて2番目の子(長男)が、相次ぐようにしてその短命を終えた。長女の死は安らかであったが、長男は傍らで見ていられないくらい苦しんだ。腸結核であったから、腹が大きく波打っていた。苦しくなるとうめいて言った。
『しあわせとは まどろみであり、不幸とは めざである』
「お父さん、姉さんの唱えたように、念仏を唱えてください」
私は、念仏を唱えてやることはできたが、苦しみを救ってやることはできなかった。そうするうちに息子は苦しみに耐えかねてか、こう訴えた。
「お父さんは禅をやっている。それで禅の念仏になってしまうから苦しいんだ」
この言薬を聞いたとき、二年間も寝ていると、こんなにも利巧になれるものかと驚いた。病児に、父の境遇を看破されたのであった。この子は、七転八倒し、窒息死ともいうべき死を迎えた。言葉では言いあらわせぬ苦しみだったであろう。人間の死とはこんなにも苦しいものでぁるのかと教えられる命終であった。
「しあわせとはまどろみであり、不幸とはめざである」
とは、亡くなられた島崎博士の墓だったと思うが、こうして私は、死苦、病苦、世間苦を味わったのであった。
亡くなった子は死ぬ間際、-
「自分たちの分も生きて、作品をたくさんつくってくださいと言い残して息を引きとったが、その言葉は今も私の耳に残っている」
「人間ざかりは百五歳」(平櫛田中著、山手書房 昭和五四年刊)
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