★5日本リーダーパワー史(782)『明治政治史の謎を解く』★『秋山定輔が仕掛けた日露戦争の引き金となった前代未聞の奉答文事件の真相」
2017/03/18
★5日本リーダーパワー史(782)―
『明治政治史の謎を解く』
★『秋山定輔が仕掛けた日露戦争
の引き金を引いた前代未聞の奉答文事件の真相」
前坂 俊之(ジャーナリスト)
以下は『秋山定輔は語る』(松村梢風との共著、講談社、1938年)「秋山定輔伝第2巻」より。
奉答文事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E7%AD%94%E6%96%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6
秋山定輔
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E8%BC%94
河野広中
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%BA%83%E4%B8%AD
私達の同志、河野広中、尾崎行雄、小川平吉、日向輝武、鈴置倉次郎、秋山定輔の六人はホテルの1室で会合して、奉答文問題に就いて十分に意見を交換し、打ち合せを遂げた。
奉答文中に時の政府を弾劾する言辞をさしはさんで、議会の政府に対する不信任を表明する手段が、異例には違いないが決して違法でないということが分り、その結果は正しい国論を沸騰させ国運の進展に向つて最もよい刺激を与える方法であることに、一同の意見が一致した以上は、明日の議場において断然これを実行するよりほかに考える余地はなかった。
私達は、あらゆる細かい注意を払って、我々の計画を完全に遂行すべくその手段について打ち合せをした。
しかし、一体世の中の事は、実行前と出来てしまった後とでは大変ちがうものである。仕事をやった後で、それが大成功だとでもいうと、誰しも自分の計画の図に当たったことを誇りたいものだが、事実はというと大概、予定通りにはいっていないのである。いくら用意周到、綿密に考えてやって見ても物事は事前に考えたようにはなかなかいかない。
むしろ思わぬ結果ばかり出て来る、つまり、人間の力ばかりでは物事はやはり遂げられない、天意がこれに加わって始めて成就するのだといえる。
源平合戦では一の谷で一夜にして源氏が勝った。
『一の谷の戦い』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%83%8E%E8%B0%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
義経が猟人に道案内をさせ鵯(ひよどり)越へ出て来た、これが勝利の原因だが、もし、谷へ落ちて死ねばそれまでだ。前もって将兵にこれをはかったなら必ず反対があったろう。
が、源義経は、鹿が通る以上は馬でも通れるという、ただこれだけの結論から突進した。乱暴といえば乱暴だが、これが信念である。やれると思ったら、あくまでもやることに邁進するがほかない。
この奉答文も、結果から見ると1日にして議会を解散に導き、日露戦争を早めた一大政治事件である。が、これも決して前から考えて段取りをしたことではない。
一日にして急に出来上った問題だ。義経の鶴越と同じく、奇道といえば奇道、無謀といえば無謀な話だが、それが国家のために善い事である。我々の力でやり遂げることが出来ると考へた同志の者の固い信念が、ついに大事をなしとげたのであって、我々の智恵や小細工が手伝って手柄をしたわけでもなんでもなかった。
しかし、私達は、あらゆる準備、あらゆる手段を研究した。
その一例を挙げると、とにかく今まで例のない奉答文の文句である。それを河野君が読む。議場が大混乱に陥ることは火をみるよりも明らかで、その大混乱を排して自分達はこれを成功させなければならない。そこで、河野君がまだ読み切らんうちに誰が一番早くその事に気が付くかということについて考えた。島田三郎君か、大岡育造君か、元田肇君か、犬養君か、何びとか気が付いて、『異議あり』と叫ぶ人があるだろう。
異議ありといおうとしたら、先づこれに妨害を加えようと決めた。真っ先に起って異議を発しそうな人々を我々は予想してその人達の身辺にブン殴り役をつけることにした。
随分と乱暴な話だが、我々の目的を貫徹するためにはどんな犠牲をも払う覚悟だった。その時、自ら進んでこのブン殴り役を取った人が現鉄道大臣・小川平吉君であった。
私は、河野君の身辺を擁護する役目を一身に引き受けた。議場が混乱に陥り、議長席へ駆け上って議長を引き摺りおろさうとする者が現われた場合に、腕力を以て議長を擁護して最後まで奉答文を読み了らせるやうにする役目を私は自分で引き受けた。
尾崎君も、少々年は取っていたが其の点で一歩も若い者に引けを取らず一二の人物を担任した。
些末な点までも協議した上、夜になって別れた。
私はその足でわが「二六新報社」の福田、小野瀬の両君に話して急に奉答文の文案を作って呉れと頼んだ。河野君はそれを宮崎晴轡君に頼んだ。即ちあの有名な奉答文は大部分は晴轡君の文だった。当時の事を知らぬ若い人の参考までに奉答文の全文を挙げて置く。
奉答文
恭ク惟ルニ草駕親臨シテ茲二、第十九回帝国議会開院ノ盛式ヲ挙ゲ優握ナル聖詔ヲ賜フ臣等感激ノ至リニ堪ヘス
今ヤ国運ノ興隆洵々ニ 千載ノ一遇ナルニ当リテ、閣臣ノ施設之ニ伴ハス内政ハ弥縫ヲ事トシ、外交ハ機宜ヲ失シ
臣等ヲシテ憂虞措ク能バサラシム 仰キ願クハ聖鑑ヲ垂レ賜ハンコトヲ 臣等協賛ノ任ニアリ慎重審議以テ上
陛下ノ聖旨二答へ奉リ 下国民ノ委托二酬イムコトヲ期ス 衆議院議長臣河野広中誠恐誠 惶謹ンデ奏ス
私は、事の成功に就いては1点の疑なく確信をもち得たが、気遣はれるのはその結果であった。
弾劾的奉答文を無理矢理可、決めたと仮定しても、後から必ず問題が起る。このような違例の奉答文に上奏手続きを取ることはできない。再議に付すべしといネ議論が出るに違いない。
再議に付せられたらそれまである。我々の苦心は忽ち水の泡である。そこで、二旦通過した奉答文はどんなことがあっても再議に付することがないようにして置かなければならぬ。それには先づ多数党たる政友会をして再議説に反対させなければならぬ、
即ち今回の奉答文は違例ではあるが決して違法ではない、違法でない以上は、議場が一旦可決した奉答文を再議に付することは誤りであるという意見を徹底させることが必要であると私は考えた。
これには、政友会の総裁たる伊藤公の諒解を得る必要があった。
私は、当日だれよりも早く此の結果と事の真相を伊藤公に話して置く必要があると思った。私は種々考慮した結果、これは行ってしまうた上で直ぐに伊藤公に話そうと決心した。それより外に道はなかった。
陛下の臨幸は明日の午前十時である。その後で奉答文の議事がある。私は明日の十時から十一時までの間に伊藤公の居るところを知って置く必要があった。何時、何処から電話を掛けても伊藤公の居るところが直ぐ知れるようにして置かなければならなかった。
そこで友人の帝国ホテルの創立者で、経営者である横山孫一郎君にお願いした。伊藤公と横山氏とも近所で太いパイプがある。
私は横山君に電話を掛けて『明日の朝十時から十一時迄の間、伊藤さんが何処に居るかといふことをハッキリ知る必要があるから、甚だ済まないが伊藤さんには云はず明日私が何時電話を掛けても直ぐ分るやうにして貰ひ度い』と懇々と頼んだ。
横山君は『よし承知した、引き受けたから安心したまへ。君の電話なり使があれば直ぐにお知らせする』と快く引受けて呉れた。
明日、議場で河野君が奉答文を読み終ったら、自分は時を移さず伊藤の爺サンが居るところへ飛び込んで行って、他から事情の分らぬ間に、真相を自分の口から話してしまおうと考へた。
既にあらゆる準備は整った。私はその晩、早く床に就いた。
すると、実に驚いた事が起きた。それは十時過ぎ、ほゞ十一時近い頃になって河野君から断って来た。『折角だが、この事は行れん、これは自分の力でいかないことだから残念ながら悪しからず断る』といって来た。
これには自分も驚いた。数人の同志が寄ってあれまで固く約束した事を一言の下でハッキリと断って来るとは一体何事であるか。
すぐ、私は河野君を訪ねた。『一体どうしたのです』と聞くと、河野君も全く弱った様子で『私の力では行えないのです』といった。
段々聞いて見ると、衆議院の方へ奉答文の手続について問い合せたところが、書記官の説明によると、奉答文の手続きは、朝のうちに必ず各派交渉委員会が開かれ、各派から二人位の割合で十人前後の人が寄って奉答文の文案を審議し、その決議を経たものを議長が受け取る慣例になっている。
自分勝手の弾劾的奉答文を読むことは出来ない、自分はこれまで面倒な手続きのあることは知らなかった。明朝自分は書記官から呼ばれりや出にやならん、出れば交渉会で決められた奉答文を読まなきやならん、すり替へて別の物を読むことは事実不可能であるという。
これには自分も弱った、自分等は全くそのことを知らなかった。河野君がいうまでもなく交渉会で決めたものがあるのにすり変えてて読むという卑劣なことは自分等もやることではない。しかし、私は考へた。
どうせ今まで何十回もあった議会の詔勅に対する奉答文とは違う異例の件なので、従来より何か違った方法論もあるのではないか。
『お話はよく分りましたが、手続きが面倒だから行れんという位なら最初から行かん方がましでしょう、とにかく皆で行うことに決めたのだから、あなたも行ることに決めて、ただ奉答文を読んで下さればよいのです、その他の事は皆自分共でやります、とにかく行くといって下さい』
『我々同志の者は皆一命を投げ出して行うのです、私も微力ながら明日は身命を賭して、あなたが奉答文を読んでしまうまで、あなたの体に指1本ふれさせない覚悟をきめています。些末な手続き位が何んです、行くと決めさえしたら、手続きなぞはどうでもなることです』
『各派交渉会をやらんことに決めましょう、交渉会がなくて、議長一人で責任をとって行ったということになればいいでせう』
『それず出来れば文句はないが、交渉会をやらんで済みますか』
『済むも済まぬも、開かんことに決めましょう、私が専らその方に当って開かせんやうにしますから御安心下さい』
『それならば私は必ずやります』
と河野君は初めて元の通り明るい顔をして云はれた。それから改めて相談をして、文案も決った。種々協議した。
昼間ホテルで会合して事細かく協議し合った中に、河野君が奉答文を読んで弾劾的の意味に触れて来ると同時に、先づ一番に大拍手を送る役目を私が仰せ付けられた。それを合図に同志の者が手を叩く。この半面には、手を叩く音によって幾分弾劾の言葉を議場に不徹底にさせやようとしたのである、
河野君としては其の点に掛って来たならば一段と大音声を挙げて満場へハッキリと分るやうに読まう、何処までも男らしく、神明に訴へる態度を以て堂々とやることに一決した。
二時過ぎだった。いかにも若々しい元気を以て満されている河野老翁の顔を拝み見て私は喜んで暇を告げ、家に帰るとはや三時だった。
つづく
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