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百歳学入門(39)『画家・中川一政、97歳』<よく生きた者が、よく死ぬ。そこになんの理屈も神秘もない>

   

百歳学入門(39)―『百歳長寿名言』
 
<自らの意思でチャレンジせよ>
よく生きた者が、よく死ぬ。それはよく働くものが、よく
眠るのと同じことで、そこになんの理屈も神秘もない。
(画家・中川一政、97歳)
 
                                前坂 俊之(ジャーナリスト)

 
中川一政(1893・2・14~1991・2・5)は洋画家。歌人。随筆家。-九七五年に文化勲章を受章。
 
中川は独学で描き続けたことから、自ら「在野派」と称していた。単なる日本画家、洋画家などというワクをはみ出し、デザイン、書、詩、歌、散文と幅広い芸術分野で創造力を発揮した日本では珍しいマルチ芸術家である。
 
1914年(大正3)に出品した作品が岸田劉生に見出され、以来、画家を志し、1920年(大正九)年に初の個展を開いた。在野派と名乗るだけあって、自らの意思で力強く人生を歩んだ。
「私は画をかいてきて、画かきといわれるけれども、みなのいう画かきであるかどうかわからない。歌を子どもの時作っていたが、歌がもの足りなくて詩を作った。詩がもの足りなくなって画をかき出した。自分を今よりもっと生かす道があったら、いつでもそこへは
いっていくだろう」(『私の履歴書』)とチャレンジ精神に溢れ、「人間が画などに縛られたらつまらない」と書いている。
 
それだけに、活動は絵だけにとどまらなかった。エッセイ、文章にも優れており『中川一政いのち弾ける!』『画にもかけない』『中川一政全文集』(全十巻)といった膨大な著作がある。
一つ山を登れば、次にまた大きな山がひかえている。「それをまた登ろうとする。力つきるまで」と述べた中川は、1975年、八十二歳で文化勲章を受章、その後も旺盛な創作活動を持続し、八十、九十歳になっても創作意欲は一向に衰えかった。
『晩年の中川一政先生』(佐々木惣助、中央公論社、1993年)の年表を見ると、九十歳を過ぎても展覧会、装帳、随筆の執筆、テレビ出演、対談などと予定が毎月のようにびっしり入っている。画家・石井鶴三は「天衣無縫、飛行自在の天人の如き」と評した。
 
 
「生きていれば長所、死んでいれば短所、私はそういう考えで画を描いてきた」
 
『晩年の中川一政先生』(佐々木惣助、中央公論社、1993年)によると、中川の絵画には力強さ、迫力と、中川の息使いが感じられるが、自身は美しい画を描こうとはまったく考えていなかった。
中川は「生きていれば長所、死んでいれば短所、私はそういう考えで画を描いてきた」といつも話していたという。
 
誰もが題材にする富士山はいやだとして駒ヶ岳に熱中して、タクシーや佐々木の運転で通い続けた。芦ノ湖スカイラインの山伏峠で駒ヶ岳を描き続けた。駒ヶ岳にいちばん熱中したのは、一九七三年(昭和四十八年)九月、初の百号に取り組みだした八十歳の時だった。三十号、四十号、五十号、六十号、八十号とじょじょに大きい画を描いていった。
 
 駒ヶ岳時代は一九八三年に百号(六点目)を描き上げた時に区切りがついたと話していた。九十歳の時である。箱根を描きはじめてから十三年目になっていた。
駒ヶ岳と対面して山から出ている「気」を中川が体全体で受けとめてそれをキャンバスに表わしていく。駒ヶ岳のもつリズムを感じとってリズムをキャンバス上に駒ヶ岳が描かれていく。
十二号くらいの画だと、八十代の頃は一気に、一日で描き上げてしまうこともあった。
 
    
風邪をひいて亡くなるケースが多いので、注意すること
 
画に熱中するには体力が勝負である。特に病気には気をつけた。八十代の時は大病はせず、精力的に仕事、旅行をこなした。年を取ると風邪から肺炎を併発して亡くなるので、特に風邪を引かないように気をつけていた。
 京都や奈良に行った時、新幹線のなかで誰かが咳をすると、ご自分の鼻と口を片手でおさえて息を止めていた。ホームや駅構内でもそうだった。そのたびに同行した佐々木は笑いをこらえていた、という。
 
九十五歳までは年に一度か二度、かならず腰を痛めた。近くの小田原に鍼(はり)をする有名な医者がおり、そこに通って直した。歩けないほどのぎっくり腰が鍼をしたあとは痛みも感じず歩けるようになった。そして、最期まで精力的に描き続けた。
 
         NHKの「日曜美術館」では中川が97歳でしたためた書が、「正念場」を紹介した。
洋画家 中川一政(1893-1991)。97年の生涯、独学で絵の道を突き進んだ。還暦を前に神奈川県の真鶴に移り住み、同じ漁港に20年間通い続けて何十枚も描き続けた。
いつも同じような絵を描いているから、最初は珍しがっていた地元の漁師も見に来なくなったという。80代~90代、「駒ケ岳」「ひまわり」「薔薇」など描き続け、100号の大作「駒ケ岳」にも挑戦。「私のアトリエは世界一広い」と言い放ち、ひたすら野外で描き続けた。驚異的な創作意欲である。その中川が97歳でしたためた書が、「正念場」。
 
身体活動のバランスは、健康上も、仕事の上でもきわめて大切なことだ
 
 私は買物一切を家族まかせにしている。ところが、どうでも自分で買わねばならぬものがある。商売用の絵の具その他である。それからシャツと下着とズボンである。めんどうくさがりの私も、これだけは自分で買う。
 この三点は、サイズがちゃんと合っていないと気色がわるい。画を描いていて、妙にカが入らない。他の物は、どんなものをどう身につけていたって構うところでない。つまり、この三つのものがちゃんとそろっていないと、身のバランスがとれないのだ。身体活動のバランスは、健康の上でも、仕事の上でもきわめて大切なことだ。
 お互いは、電車に乗っても、バランスをとるために、露草にさわらず立っていることはできない。金融とか経済とかといっても、要するにバランスの問題。たかがシャツやズボンぐらいといって、軽々しくは扱えない。これが私の健康生活にもっとも大切な関係をもっているのである。      
 
 
うまいものー日本は貧乏国だというけれども、衣食は過剰だと思う
 
巴里から帰った友人に、いちばんうまい物ときいたらアンコウ鍋だといった。岡本一平(画家)は美味を遍歴した人だが・結局あたたかいメシに生卵をかけてたべるのが一番うまいといった。
私も昔、秩父山中に行きくれて泊った、木賃宿のみそ汁の味が忘れられない。なんのことはない、うまいものはごく身近なところにある。料亭やレストランでは、ただこうしたうまい物-もしくはそれ以下のものが、着物をきたり、洋装したり、着かざって出てくるだけのものである。
 
 そのうちに、それにあまり浮身をやつして、本当にうまいものが目立たなくなっているのが現代である。
少なくともその傾向はあるようだ。日本は貧乏国だというけれども、衣食は過剰だと思う。町をちよっと歩いても、どのくらい食物屋があるか分からない。そして、そんなに月給はとっていないだろう青年たちも、りゅうとした服装でうまいものをあさっている。過剰というものは迷いである。
 

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