片野勧の衝撃レポート(54)太平洋戦争とフクシマ(29) 『なぜ悲劇は繰り返されるのかー内部被ばくと原発- -6000人以上の臨床体験(上)
片野勧の衝撃レポート(54)
太平洋戦争とフクシマ(29)
『なぜ悲劇は繰り返されるのかー内部被ばくと原発-
–6000人以上の臨床体験(上)
片野勧(ジャーナリスト)
東京西部、JR中央線の立川駅から歩いて7、8分。と、ある学習館の一室は講演を聞く人たちでいっぱいだった。150人はいただろうか。平成26年(2014)3月16日午後1時――。その講演内容を私はICレコーダーとビデオカメラに収めた。
「3年前の福島の原発事故による放射線被害は、北は北海道から南は九州の果てまで広がっています」
肥田舜太郎さんは静かに語り始めた。肥田さんは大正6年(1917)1月1日生まれの97歳。陸軍軍医学校卒業。軍医少尉として広島陸軍病院に働いていた1945年8月6日、その時、被爆した。28歳だった。
肥田さんは原爆が投下されたとき、たまたま急患の往診で爆心地からおよそ6キロ離れた戸(へ)坂(さか)村にいたため、奇跡的に生き延びた。しかし、その直後から被爆者の救援活動や治療に当たった。
6000人以上の臨床体験を踏まえて、「原爆ぶらぶら病」と呼ばれる症状や、低線量内部被ばくの影響に関する研究に携わってきた内科医である。肥田さんは語る。
「子どもが眠れなくなったり、鼻血を出したり……。今、全国に広がっていますが、放射線被害は広島、長崎が始まりでした」
原爆報道を厳しく制限する「プレスコード(新聞規制)」
「しかし……」と話を続ける。
「日本人は広島、長崎の原爆のことを口では言いますが、その中身が何であったのか、全然、知られていません。ただ、町が1つ、吹っ飛ぶような大きなエネルギーを持っている程度の知識ではないでしょうか」
なぜ、原爆の本当の恐ろしさが知らされていないのか。原因究明が進まないのは、なぜなのか。
昭和45年(1945)8月30日、神奈川県厚木海軍飛行場に降り立ったマッカーサーは、日本のお役人の前で、こう言い放った。
「自分が、ただ今から日本を占領して国民を支配する。……天皇も総理大臣も一切権限はない」と。これが米軍による占領の始まりだった。
そして9月2日に降伏文書の調印を終えて占領が始まると、今度は広島へきて、次のように言った。
「原爆で被害を受けた人間は、自分の見た、経験した、聞いた、その被害の現状について、一切話してはならぬ。……書いても、写真を撮っても、絵にしてもいけない」(肥田舜太郎『被爆と被曝』幻冬舎ルネッサンス新書)
原爆報道を厳しく制限する「プレスコード(新聞規制)」が敷かれたのである。さらに、医師は職務がら、患者がきて診てくれと頼まれたら、診てもよいが、その結果を記録したり、論文に書いたりしたらいかん。もし、このことを破れば「厳罰に処す」という。当時の厳罰とは銃殺を意味した。
「アメリカは最初から放射線被害はなかったという立場で原爆の真相を隠したわけです。そのため日本も原爆に関しては黙ってしまいました。しかし、いくら隠しても人から人へと伝わっていきます。多くの人たちが死んでいくわけですから」
こうしてアメリカは終戦直後から軍の機密として医師や被爆者に沈黙を強いて、世界に隠ぺいしてきたのだと肥田さんは考えている。
「黒い雨」と「内部被ばく」
原爆で舞い上がった「キノコ雲」。それは放射性物質の塊と肥田さんは言う。そのキノコ雲が雨に含まれて降ってきたのが、「黒い雨」だった。
「黒い雨は島根県や山口県、佐賀県などにも降りました。しかし、放射性物質と知らずに、吸い込んだり、雨に当たった野菜を食べたりして体内に入ったのが、内部被ばくというものです」
内部被ばくとは、放射性物質を体内に取り込み、長時間にわたって身体の内側から放射線を浴びること。恒常的に被ばくすることで遺伝子が傷つけられ、ガンなどを誘発すると言われている。
アメリカは必死になって、体内に入った放射性物質は微量だから人間の体には全く害がないと、8・15終戦から5年ぐらい言い続けてきた。その間、食べ物と水を通して、内部被ばく者は年々、増えていく。
「実は……」と、肥田さんは話を続ける。
「私が習った西洋医学の立場から考えても、内部被ばくの原因が分からない。他の医師に聞いても、答えがない。しかし、内部被ばくのことを知ったのは、原爆投下から30年後のことでした」
肥田さんのもとへ毎日のように、さまざまな症状で苦しむ人たちが来院された。しかし、その原因が内部被ばくによる晩発性障害だと知ったのは、1976年にアメリカのピッツバーグ大学医学部放射線科のスターングラス教授から頂いた『Low-level radiation』(邦訳、『死にすぎた赤ん坊――低レベル放射線の恐怖』)という著書だった。
スターングラス教授は1953年のネバダ核実験やスリーマイル島原発事故、サバンナリバー原爆工場事故によって大量に放射性物質が放出された危険性について警告し続けてきた科学者である。
「私はこれまで目に見える被ばくの体験だけによりかかって、低線量放射線による目に見えない体内からの被ばくという被害の構図に全く無知でした」と言って、肥田さんは自分を恥じた。
スターングラス教授は、この本の中で微量の放射線も、それが体内から放射されると、精子、卵子、胎児、乳児、老人に吸収されて大きな障害を引き起こす。さらに鼻や口から摂取する微量の放射性物質が、何代も経た後世の子孫の中に流産、死産、先天性奇形をはじめ、ガン、白血病などの不幸な犠牲者を、加害者不明のまま作り出す可能性を指摘したのである。
じわじわと命を蝕(むしば)む低線量被ばくの恐怖
じわじわと命を蝕む低線量被ばくの恐怖――。放射性物質はどんなに少量でも体内に取り込めば、確実に細胞の遺伝子を傷つける。その原因が内部被ばくであることを突き止めたころ、すでに日本では原子力発電所は動いていた。
その1つ、福島第1原発の事故。2011年3月11日、我々の生活をがらりと変えた。ある専門家は、「低線量の被ばくであれば問題はない」と言う。肥田さんは反論する。
「彼らは、確かな根拠があってそう言っているのではありません。被害が出るというデータがないと言っているだけです」
低線量、長期被ばくに関するデータはふんだんにある。それを彼らは「なかったこと」にして無視しているに過ぎないと肥田さんは思う。
原発の燃料はウランである。ウランは石炭や石油を使うより安く上がるからと言って、東京電力は原発を始めた。健康よりもお金が大事だったのだろう。
原発は事故を起こせば、人間の手に負えない
しかし、原発は一度、事故を起こせば、人間の手に負えるものではない。広島・長崎だけでなく、チェルノブイリ原発の事故でも、多くの被害者を出した。原発も核兵器も多くの人々の悲しみと命を犠牲にしてきた。肥田さんはこう語る。
「放射線は医者が診てもどうしようもない。薬もないし、治療方法だってないのです。結局、一部の人たちの利益優先の勝手な行動によって、縁もゆかりもない多くの人たちが苦しんでいるのです」
水害や地震だけだったら、家に帰って片づければ、元の生活に戻れる。しかし、放射線だけはどうしようもない。家に帰ろうと思っても帰れない。この現実に肥田さんは、やるせなさをにじませた。
もし、どこかで事故が起きたら、日本は滅ぶ
広島・長崎で被爆者が何十万人もいて、また福島原発事故でいまだに16万人もふるさとへ帰れないという被ばく経験をした日本が54基もの原発をつくるなど、とんでもないと肥田さんは語気を強めた。
「もし、今後どこかで事故が起きたら、日本は滅ぶでしょうね。経済的にも成り立ちません。アメリカやロシアには事故が起きても逃げる場所がありますが、狭い日本にはありますか。ですから、もう、人間を不幸にする原発や核兵器は止めにしませんか」
肥田さんはさらに、こう続ける。
「人間がつくった原発は必ず、事故を起こします。事故が起きれば、どうしようもありません。抑えることはできません。ですから、これから生まれてくる子孫のために、原爆投下と原発事故を受けた日本は世界に先駆けて勇気ある一歩を踏み出さなければなりません」
この呼びかけに、会場から大きな拍手が沸き起こった。
大事なのは国民の意思と人間の勇気
肥田さんは最近の風潮にも強い懸念を示した。それはかつて、この国がたどった道である。被災者に寄り添い続ける内科医・肥田さんの証言。
「関東大震災の社会不安を利用して治安維持法が強化され、やがて軍国主義へと進んでいった日本は、3・11以降、再び同じ歴史を繰り返そうとしているように思います。大事なのは国民の意思です。一人ひとりの人間の勇気です。広島・長崎の原爆は昔の話ではなく、形を変えた今の日本の姿です」
肥田さんは、判断する主体は「国民」であると言い放った。肥田さんは1975年以降、欧米を中心に海外渡航32回、37カ国で延べ250回の講演を行い、自分の目で見た内部被ばくの悲惨な実相を伝えるとともに、すべての核兵器と原発を取り除く必要性について訴えてきた。
「当たり前の生活を当たり前に楽しく生きていける国が一番、幸せな国です。せめて、自分の子孫のために、力を合わせて、そういう国をつくりませんか」
広島・長崎で低線量・内部被ばくによる「原爆ぶらぶら病」。なぜ、体がだるくなったり、疲れやすくなったのか。国はそれをどう考えて、救援の手を差し伸べてきたのか。私は老医師の語る明晰な論を聞き、ここは立ち止まって熟考すべきではないのかと思った。
3・11以降、私は原発に関するさまざまなシンポジウムや映画の上映、講演会に出かける機会が多くなった。たとえば、東電株主代表訴訟弁護団長・河合弘之さん監督の映画「日本と原発」であったり、憲法集会と福島原発事故の講演会であったり……。さらに「放射線を浴びた[X年後]」や「遺言 原発さえなければ」の上映会であったり、「東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと」などなど……。
それは私にとって、原発事故をさまざまな角度から考える一つの材料を与えてくれた。また、この先、残りの人生をどう生きていくか。その一つの指針を示してくれたとも思っている。ただ、そうしたさまざまな体験が自分の中にどう整理され、体験が己の日常の中でどう意義づけされているのか。それについては、はなはだ疑問ではあるけれども……。
DVD「チェルノブイリ 28年目の子どもたち」
JR中央線の国立駅から徒歩6、7分のところの、とある公民館。DVD「チェルノブイリ 28年目の子どもたち」が上映されると聞いて、私は出かけて行った。今年(2015)1月30日午後6時。30名は集まっていただろうか。
製作・監督は白石草(はじめ)さんが代表を務める「OurPlanet-TV(アワープラネットティーヴィー)」。上映時間は43分。サブタイトルは「低線量長期被曝の現場から」とあった。子どもたちの健康状態はどうなっているのか?
白石さんはチェルノブイリ原発後の「今」を知るためにウクライナに飛んだ。2013年11月13日~26日の約2週間。学校や医療機関など18カ所。36人にインタビューした。<(以下、白石さんの著書『ルポ チェルノブイリ28年目の子どもたち』(岩波ブックレット)を参照させていただく>
チェルノブイリ原発は東欧の大国・ウクライナにある。1986年4月26日、事故当時はソ連邦だった。4号機が運転テスト中、原子炉が大爆発し、放射線が大量に放出された。それはポロニウム、ストロンチウム、セシウムなどで、日本に落とされた広島、長崎の原爆の数百個分と言われる大惨事だった。
その放射性物質はウクライナ、ロシア、ベラルーシ共和国を中心にヨーロッパ諸国にばら撒かれ、さらに気流に乗って全世界に広がった。「レベル7」。福島原発事故と同じレベルである。
つづく
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