前坂俊之オフィシャルウェブサイト

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*

正木ひろしの思想と行動(’03.03)

      2021/04/26

ジャーナリストとしての正木ひろしー戦時下の言論抵抗―
-Hiroshi Masaki as a Best Jurnalist-Struggle for freedom of the press under wartime in his Magazine-

前坂 俊之(ジャーナリスト)

1 はじめに

正木ひろし(1896-1975)は弁護士兼ジャーナリストであり、1937年(昭和12)に個人雑誌『近きより』1を創刊し、日中戦争、太平洋戦争、敗戦という暗黒の時代に、多くの知識人、言論人が戦争に協力したり、沈黙していった中で、ただ一人で良心のペンで鋭い戦時体制批判、軍部批判を書き続けた稀有の抵抗のジャーナリストである。

国家を支える最大の暴力装置はいうまでもなく警察と軍隊だが、一番過酷な弾圧のあった戦時中に、権勢並びなき総理大臣・東条英機2を弾劾するなど前代未聞の命がけの言論キャンペーンをおこなった。1944年、首なし事件では警察の拷問によって死亡した人を墓から掘り出し、首を切り取って東大に持ち込んで鑑定し、警察官を告発するという超人的な勇気で不正に立ち向かった。

(写真は書斎で裁判記録に埋もれて研究中の先生ー著者撮影)

1945年以降は「首なし事件」「三鷹事件」、「チャタレイ裁判」「菅生事件」、「八海事件」、「丸正事件」などの数多くの冤罪事件の弁護を手がけ、正義の追及と人権救済に後の人生を賭けた。足尾銅山の鉱毒問題で戦った田中正造3がわが国の公害反対運動の先駆者とすれば、正木は巨大な国家権力にただ一人で立ち向かい冤罪や誤った裁判、警察の不正と戦い、犠牲者の自由と人権の救済に立ちあがった人権運動の先駆者といえる。

明治以来、日本の知識人で個人で権力と真正面から対峙して勝利した人物は数少ないが、正木はその稀有の実例であり、まさに「日本の良心」と呼ぶのにふさわしい人物である。

正木についての評価は「洗練された野人、夢見る実際家、公共心を説くエゴイスト、努力家肌の才人、孤独な社交家、論理的な情熱家、日本人離れした国士、共産党嫌いの天皇制廃止論者」4と弁護士・古賀正義が評すれば、歴史家・家永三郎は「正木は権力悪とのたたかいに、最も生き甲斐を見出している稀代の刑事弁護士であるとともに,『近きより』に見られるように戦前から戦闘的民主主義的ヒューマニストであり,ジャーナリストであった」5として、「私の人生でこのような人物にめぐり合ったと言うだけでも20世紀日本に生まれたことを感謝したい」6と最大級の賛辞を呈している。

また、評論家の青地震は「正木氏はかけがえのない人間である。おそらく半世紀後の日本は昭和の義人、正義の人としてあおぐことになるだろう。」7と書いているし、牛島秀彦も「権力悪に対し断固として挺身した『数少ない日本知識人』の一人である」8 と高く評価している。 1

私が正木に初めて会ったのは一九七四年(昭和四十九)夏のことである。当時、私は毎日新聞記者をしていたが、八海事件の取材のため、勤務地だった広島県呉市から上京し、東京・中央線の市ケ谷駅からほんの目と鼻の先にあった自宅を訪ねた。壁全体をツタがおおい、今にもくずれそうなオンボロ二階建てに住んでおり、「高名な先生がこんなボロ家に・・」、と思わず胸が熱くなった。

二階に上がると正木の書斎があり、その入口には「空襲警報発令中」という看板が掲げてあった。部屋に入ると、所せましと積み重ねられた本や机の上に山積みされた資料の間に、天井からクサリが二本つるされていた。

「これ何と思う。こうやるんだよ」といきなりクサリにぶら下がり、グルりと一回転したのには度肝を抜かれた。正木はこの時七十八歳。こちらは大丈夫なのかな、とヒヤヒヤしているのに、「体を鍛えるんだ」と意気軒昂であった。若々しく、顔にはツヤがあり、血色もよく、情熱がみなぎっていた。

八海事件の取材が一段落した時、奥に引っこんだ正木はしばらくして「これを記念にあげるよ」と一枚のプリントを私にくれた。茶色っぽく変色したガリ版ずりの「近きより」であった。

正木が戦時下に独力で個人誌「近きより」を刊行し、体を張って言論抵抗したことは知っていたが、まさか、そんな貴重なものが残っているとは思ってもみなかった。
よくみると、敗戦の日、昭和二十年八月十五日の手書きのガリ版ずりであった。これを読んだ時の感動は今も忘れられない。

『敗戦日本』

日本は降伏した、神の審判は厳に下ったのである
敗北して尚お生存を続けているのは、宏大無辺なる神の恩寵である
神が日本民族絶滅一歩手前に、一度反省の機会を与えたのである
もしこの恩寵を理解し得なかったならば、直ちに 恐るべき最終の審判!
民族絶滅へと移行するであろう、
罪悪の国 日本! 遠き野蛮未開の時代は知らず
中世以後において日本ほど、愚昧にしてかつ悪徳の国があったろうか
(「近きより」昭和二十年九月号)

新聞社に入って以来、常に私の心にあった問題は「なぜ、国民やジャーナリズムの間に戦争への抑止力が生まれなかったのか」「知識人でファシズムと正面から戦った人物がなぜ少なかったのか」ということである。正木弁護士に会い、「近きより」を直接、手にし、目で見たことにより、これが一挙に具体的なテーマとなった。9

正木については「近きより」の言論抵抗に象徴されるジャーナリストとしての活動に焦点を当てた研究は数少なく、今回はジャーナリストとしての正木を研究していくことにする。

2 生い立ち、少年時代、青春―「近きより」刊行まで

 

正木の生い立ちから成長、青春時代、「近きより」発刊までの人生については、この論考の主旨ではなく、また別稿にゆずるとして、簡単に年表風に記述しておく。10

正木ひろしは一八九六(明治29)年9月29日、東京市本所区林町で父・義漠の二男として生まれた。義漠は幕臣の家に生まれ、正木家の婿養子になって当時、郵便局に勤めていた。母・しげは東京府立高等女学校(府立第1高女の前身)を卒業し、日本における女子の小学校正教員第一号として小学校の教師をしていた。

正木家は、祖父の家屋敷と小さな貸家二、三軒をもっていたが、三人のこどもに女中一人をかかえて、生活は決して裕福でなかった。
しげは病弱で、当時死病とさた肺結核で四年間ほど病床にあった。3人の子供がいたが、子どもたちへの伝染を恐れて、自宅を離れて神奈川県・葉山に長く転地療養していた。明治35年、しげ28歳で肺結核で亡くなったが、ひろし6歳、長男8歳、妹3歳の小さな子供3人と父と、祖母やすが残された。

正木にとって生母の記憶は薄く、「一度抱きあげられたのを覚えている程度である。しかし寂しかったにちがいなく、ある日、ボール箱に砂を入れて、母へのミヤゲとし、二年とし下の妹を連れて、葉山へ行くつもりで、道路をさまよっていたのを、つれ戻されたことを記憶している」11と書いている。

正木が中学校に入った頃、父は再婚したが、「祖父や父から聞いていた亡母の像が、あまりにも美事だったためか」12(同上)継母になじむことができず、祖母が母代りを勤めた。祖母は維新前に教育をうけ、小学校の裁縫代用教員をしていたという。

一九〇三 (明治36)年4月、東京市立中和小学校に入学。同42年4月 東京府立第三中学校に入学、一九一四(大正3)年3月卒業した。9月、第八高等学校理科(名古屋)に入学、エマスソ論文集(英文)に熱中し、10数年にわたって読みふけった。

一九一六(大正5)年 9月、21歳で八高(理科)を退学した。
翌年9月第七高等学校(英法)に入学、一九二〇(大正9)年 7月七高を卒業、東京帝国大学法学部(独法)に入学、翌年5月、東大在学のまま千葉県立佐倉中学校英語教員となった。

一九二二 (大正11)年 5月 東大在学のまま、長野県立飯田中学校に赴任。翌年(大正12)年 3月 東大法律科を卒業し、当時の制度で、弁護士の資格を得た。 28歳。9月、関東大震災で自家が全壊し父の弟一家が全滅した。一九二四(大正13)年9月 飯田中学校を辞職し、上京した。

一九二五(大正14)年 5月 東京府立第三中学校の英語教師となる。その前後、結婚し、以後の数年間、生活費と画事の研究の余裕を得ることに苦労し、売文、売画、英・数の私塾の経営等に疲れ果てた。29歳で生計のため弁護士業を始めた。

一九三〇(昭和5)年3月 『上級学校選定より突破まで』を木星社書院より公刊、その中で社会批評を試みた。翌年(昭和6)年3月 東京薬学専門学校女子部英語講師を兼業する。

一九三三 (昭和8)年3月、三鷹の住所を引き払って市ヶ谷駅前に移転、住宅兼事務所とした。この頃から弁護士業(民事)が繁昌してくる。一九三四(昭和9)年2月 『上級学校選定より突破まで』を『志望選定秘訣五十箇条』『受験必勝秘訣五十ケ条』の2冊に改編して刊行した。(39歳)

一九三五(昭和10)年 40歳の前後数年間は、中堅の弁護士として、世俗的には最も華やかな享楽的の生活を経験した。一方、軍や官は、天皇を擁して国民を威嚇、沈黙させた上、わがまま勝手な振舞をやり始めていた。

一九三七(昭和12)年4月5日 個人雑誌『近きより』を創刊して、時局批判を行うスタートを切った。7月 日中戦争が始まった。

正木が個人雑誌「近きより」を発刊したのは昭和十二年四月である。この時41歳。弁護士業務を始めてからすでに約12年、民事を中心とした中堅の弁護士として活躍し、約3000人の交友者があり、裁判官からの信任も篤く、法曹界で成功を収めていた。雑誌を発刊するだけの財政的な余裕があり、交友者たちと環を広げる『サロン』的な雑誌を出して、名前を売ってさらに大きな存在になりたいという野心、商売い気があったことも事実である。
正木は創刊の言葉で次のように動機を書いている。

「私はいろいろな意味から雑誌を出して見たくなった。私の本質の中にある公共心と社交性とが私の心臓を雑誌発行の方へと駆りたてていた。公共の利益が私欲や無神経のために踏み踊られているのを見ると、堪え難い憤りを感じ、心臓の血圧が倍加して来るのを覚える。時々は検事になりたいような気分になる。

本誌発刊のもう一つの理由は、私の社交性の満足である。私は私の知人三千余名に対し、私の信念に従って呼びかけ、生命の交流を生ぜしめることが、現在の私に許された生命実現の有力なる道であると確信する」

「近きより」と命名したのはカーライルの言葉に「汝に最も近い義務を果たせ、汝が義務と思う所を果たせ」「道は近きにあり」とあり、これから取った。「私はあらゆる意味に於て『近きより』始めようと思う」と書いており、正木の知行一致の精神が現れている。ちょうど時代は、二・二六事件から約一年余で、日中戦争勃発前夜の軍靴とファシズムが急速度に亢進していた段階で正木の公憤が創刊の動機となった。

3 言論弾圧、統制の暗黒時代、ファシズム勃興―

創刊された当時の時代的背景をここで見ておこう。
1937年(昭和12)4月は満州事変以降、急激に軍国主義が勃興して、国内のファシズム体制がほぼ完成し、日中戦争が起こる直前にあたり、以後、日独伊三国同盟の締結、昭和16年12月には太平洋戦争へと突入し、昭和20年の敗戦にいたる日本のファシズム体制が猛威をふるった時期と「近きより」の言論活動はちょうど重なる。

1931年(昭和6)9月、関東軍による満州事変によって中国への侵略が開始され、15年戦争の火ぶたが切られる。中国への侵略、満州国建設の対外的な膨張政策と同時に、国内では軍部、右翼による十月事件,血盟団事件、犬養毅首相が暗殺された五・一五事件、神兵隊事件など相次ぐテロ、クーデタ未遂事件などで、軍部独裁の体制が築かれ、議会政治は終止符を打ち、思想、言論の弾圧、統制が強化されファシズム体制が完成していった。

昭和時代の言論、思想への弾圧、統制の幕開けは、一九二八(昭和三)年の三・一五事件で、共産主義者やそのシンパが治安維持法で一斉検挙された。各大学の社研に解散命令が下り、河上肇、大森義太郎、向坂逸郎らが大学から相次いで追放された。緊急勅令で治安維持法が改正されて厳罰化、死刑、無期刑が追加され、全国の警察に特別高等警察(いわゆる特高)が設置され、司法省に思想係検事が配置された。
当時の世相について毎日新聞社会部長・森正蔵はこう書いている。

『満州事変以来、五・一五事件を契機に、サーベルをがちゃつかせて、現状打破を絶叫、人心を動揺させ、善良な国民を戦争へ、戦争へと駆り立て、遂には悲惨な敗戟の深淵に突き落した軍閥の罪は、憎みても余りあるが、滔々と台頭する革新勢力に便乗、阿訣迎合してうまい汁を吸った右翼浪人、ごろつき共、さては神がかりの学説を唱へて軍閥と結託、国家社会に貢献した有名な良心的な学者たちを、「赤だ」「売国奴だ」「反逆者だ」と、勝手なレッテルを貼りつけ、罵署雑言して、デマ攻撃を繰り返し、強権を発動せしめて、次から次へと社会的に葬り去った右翼の御用学者どもの罪は極めて大きい』13

昭和七年の犬養毅が暗殺された5・15事件が起きるが、唯一、敢然と軍部のテロを指弾したのは『福岡日日新聞』(現『西日本新聞』)の菊竹六鼓編集局長などだけで、朝日、毎日などの大新聞や他の大部分の新聞は軍部、テロに恐れをなし、沈黙し追従していった。言論抵抗らしいものは見られなかった。1

菊竹は「今回の事件に対する東京、大阪の諸新聞の論調を一見して、何人もただちに観取するところは、その多くが何ものかに対し、恐怖し、畏縮して、率直明白に 自家の所信を発表しえざるかの態度である」(社説「騒擾事件と与論」(五月十九日)と新聞の態度を批判し「言論機関として信念を失い、魂を売った」とまで痛憤している。

菊竹の軍部批判に対し久留米歩兵第十二師団や在郷軍人会、右翼などから激しい抗議が起こった。同師団参謀らは論説の取り消しを求め、「社説は軍部を誹謗するものであり、取り消せ」「軍部を攻撃する輩をピストルで撃ち殺してやる」と脅した。しかし、菊竹はものともせず強い調子で論説を書き続けた。15

1933年(昭和8)二月、プロレタリアート作家の小林多喜二が虐殺され、共産主義者、その同調者が大量検挙されたが、満州事変の起きた31年から34年の4年間に治安維持法での検挙者は全国で4万2967人にのぼった。16

共産主義が弾圧され、ほぼ一掃された五年後の一九三三(同八)年五月の京大・滝川事件では思想、学問の自由、自由主義にまでターゲットが拡大され、思想統制の第二幕に入る。

マルキシズムの浸透を防ぐために、反体制とは全く関係のない京都帝国大学法学部・滝川幸辰教授(刑法)の自由主義的な刑法解釈が血まつりに上げられた。「自由主義」さえ〝危険思想″のレッテルをはられるほど思想統制が強まれば、当然のこととして学問、研究の自由は死滅する。
滝川教授の休職の発令を受けて、京大法学部教授以下三十九人の教官は敢然たる抵抗の意志表示として辞表を提出し、結局、佐々木惣一、末川博ら六教授が免官された。学問の自由と独立は消滅していった。17

同年十二月、陸海軍両省は「軍部批判は軍民離間の策動であり断固排撃する」との声明を出した。軍部と民衆を離間させるような言論は厳しく取り締まるということで、新聞は五・一五事件などテロに震えあがって、手も足も出なくなった上に「軍民離間」に引っかかることを恐れて一層、口をつぐんでしまった。18
三五年(同10)、政治問題化した美濃部達吉の天皇機関説事件は思想統制の第三幕であり、一連の総仕上げであった。自由主義や民主主義はもちろん、

批判精神そのものが「国体明徴」の血祭りに上げられ、学問は一挙に一世紀以上も前の暗黒時代に逆戻りした。しかし、東大法学部の教授で誰一人抗議の辞職するものもなく、滝川事件の時のような組織的な抵抗は全く起きなかった。19

天皇機関説の禁止はファシズム化に同調しないものは一切「国体」の名において強制的に排除する運動であった。日本を代表する憲法学者が衆人環視のなかで無法なリンチを受けたわけだが、国民は息をひそめて、その残酷な集団リンチを見守り、美濃部への同情以上に、狂言的に攻撃する側に恐怖し、大勢は保身で盲目的に追従した。中世の〝魔女狩り″と何らかわるところはなかった。

中島健蔵は「国体明徴」の役割をこう位置づけた。

「『国体明徴』は、日本人の思想の自由の息の根をとめてしまった。それは少数の狂信者の力でもなく、軍の一部のむり押しだけでもなく、それが、軍人をもこめた巨大な官僚組織の職務となり、国民大衆の多くがこれを盲目的に支持していたからである。なかば催眠状態に陥らされ、『覚めた半分の苦悶』になやんでいる人間たちにとっても、国民大衆を向うにまわして何ができたろうか」20
 

昭和11年は動乱と恐怖のファシズムの分岐点となった年であり、国内的には準戦時体制確立された年でもある。

二月二六日のいわゆる二・二六事件は陸軍の皇道派の青年将校と右翼の北一輝、西田税らによって起こされ、反乱部隊が首相官邸、陸軍省などが襲撃され、渡辺錠太郎教育総監、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らが殺害され鈴木貫太郎侍従長は重傷を負った。朝日新開も国賊として襲撃され、軍部のテロに国民各層は恐怖に震え上がった。

二・二六事件で言論の自由は完全に息の根を止められた。銃口を突きつけられた新聞は恐怖に顔が引きつり、八百長的な笑いを浮かべる「悲しきピエロ」になり下ったと作家・広津和郎は書いている。21
 

 

「……日本のあらゆる方面が、みんなサルグッワでもはめられたように、どんな事があっても何も言わないという今の時代は、……新聞が事の真相を伝えないという事はたまらないことです。信じられない記事を書く事に煩悶している間はまだいいと思います。併し信じられない記事を書かされ、『何しろこうより外仕方がないから』と、いわんばかりに八百長的な笑いをエヘラエヘラ笑っているに至っては沙汰の限りです。」22

同年五月、陸軍省は官制を改正し、備考に「大臣及び次官に任ぜられる者は現役将官とす」を加え、その後の軍部独裁のキーワードにもなった軍部大臣現役武官制を復活した。これが広田内閣を自縄自縛して総辞職に追い込み、またその後継内閣に擬せられた宇垣一成内閣の流産した原因ともなった。これで軍部が政治的制覇を握ることになる。23 昭和十二年一月二一日、衆議院で政友会・浜田国松議員から寺内寿一陸相への質問で、軍部を侮辱した言葉がある、なしをめぐって、「もし侮辱の言葉がなかったら、寺内陸相、君は割腹せよ」と厳しく迫った、いわゆる『腹切り問答』事件が起こった。この浜田国松の反軍演説は議会における最後の自由主義的レジスタンスとなった。24
 

以上のようなファシズムの嵐が吹き荒れた政治、言論状況の中で、「近きより」は創刊されたのである。

正木は「少しでも政府、軍部の方針を批判することは、刑罰によっておどされていた状況下にあって、私は、この小雑誌の中で、日に日に衰亡して行った日本国民の生態を記録し、言論なき死の社会に対する批判と考察とを、いわゆる『奴隷の言葉』によって、合法線のぎりぎりで述べ、逆説で表現し、毎号数千部を発行した」と書いている。25

『近きより』は昭和十二年四月に第一巻第一号を発刊。大きさは四六判(十二センチ×十八センチ)、頁数は多い時は50頁、創刊号は四千部。以来、昭和二十四年十月に第十一巻第二号を出して終刊するまで、月刊ペースで毎回、時局に対する痛烈な批判的言論を盛り込んだ内容で発行された。計12年間にわたり活字版のもの九十号冊、謄写版のもの八号冊、合計九十八号冊を出版した。26
 

4 「近きより」の内容―昭和12年―

『近きより』の創刊号は一五頁。内容は『巻頭言』『近々抄』『街路に拾う』「人生断章」 「日常法律問答」「編集後記」などの正木はほぼ1人で執筆したものと、正木の数多くの知人の作家、法律家、ジャーナリストらメンバーの原稿、アンケートの回答など多彩な時局批判雑誌としてとなっている。

正木は記者兼編集長兼発行人と1人三役を忙しい弁護活動と並行しながら、『巻頭言』『近々抄』『街路に拾う』「人生断章」などで、毎月、精力的に体験記、エッセー、至言、アフォリズム、哲学的な断片など多岐にわたって執筆しており、バラエティーに富んだ内容となっている。初めは同人雑誌的なものだったが、だんだんと純個人的雑誌に変っていった。

創刊号は、いわゆる低姿勢で、露骨な表現をさけ、オドケのレトリックなどを使って書いたという。「『少壮軍人の中には、ナポレオンのような自負心をもつ傑物がいるとのことであるが、いまだ池中のもので雲を得ず、いたずらに妖気を発散させているのは遺憾である』といった調子で、横暴な軍部を、オダテながら非難するといった論法」である27

創刊第2号では、政治を正面から取り上げて、陸軍大将・林銑十郎内閣28は「祭政一致」を呪文のように唱えて、神がかり的な政策を推進し軍部の言いなりであったが、正木は「コケオドシの低能内閣」と激しい言葉で一刀両断している。

「気の毒なる日本の古武士的将軍よ。彼の存在は初めから時代錯誤でもあった。組閣第一声のという言葉が既に孔孟時代の代物である。一層のこと、各神社の神主さん達を立候補させて与党を作った方が、よく似合ったであろう」(昭和12年5月号)とからかったり、「辞めると大抵少しは同情されるものだが、林大将ばかりは全く馬鹿者扱いにされた。やはり軍人は政治に干与すべきものではない」(同年7月号)とズバリと斬り捨てている。

国民へ強制された「滅私奉公」については「場所と時代を間違えている御奉公は、眼をつぶり自意識を滅しなければ、とても気まりが悪くって勤まるものではない」(昭和12年5月号)と皮肉り、軍部を「威張るなら威張るだけの権威を示せ。暴騰する物価を号令で止めてくれ」(同年5月号)「非常時、非常時と騒いだところが愛国心が湧くものではない。外国は悪い国だと宣伝したところが愛国心が湧くものではない。況んや国内の異色ある分子に悪名をつけて迫害したところが愛国心が湧くものではない」(同号)と批判している。

軍部大臣現役武官制をタテにして軍部は字垣一成内閣成立を阻止したが、「陛下 の大命を受けた字垣に煮湯をのませ、国民の感情を蹂躙し、国務を停頓せしめ、国威を海外に失墜せしめた独善の本体は、今ぞその力の限界と、知恵の限界と、而して自己陶酔の限界とを知るべきである。日本を暗くしていた無責任なる存在よ。それに躍った分限知らずの大将共よ」(昭和12年6月号)

一番の問題の軍部大臣現役制も「現役でなければ大臣になれないような規則を作っておいて、そして機械的に権力を獲得せんとする方法は、国民の心服する方法ではない」(同号)と指弾している。

「日本人の中の特殊の人だけにしか通用しないような思想をもって、世界を征服することはむつかし過ぎはしないだろうか。況んや肉弾を以って煙に対抗するなんて、おかしくってしょうがない。支那の抗日思想にも困ったものだが、日本の無思想にも困ったものである。思想が出来かかると妙ちきりんな国体観念とやらで、国士業者達が寄ってたかって妨害してしまうので、いつも発育不全に終ってしまうのである。日本の思想を貧困にするのは国士業者である。」(昭和12年9月号)

ここではタブー化されていた国体論を暗示した「思想」、共産主義思想を「煙」とレトリックに包んで政治の貧困性と、軍隊の残虐性を突き、「日本兵が強いのは、生きていても面白いことがないからだろう」とまで揶揄したが、このためかこの号は発禁になってしまった。
「自己の路を見失った者には、『世の中』が標準となる。けれど『世の中』に忠実に従っても、『世の中』には責任者がいない。大衆の走り赴くところ、往々にして大正十二年九月一日の被服廠のようなところがある」(同月号)。

関東大震災で最も犠牲者が出たのは陸軍被服廠跡で、約三万八千人が亡くなったが、ファシズムに従順に押し流されていく国民の行く先は同じように、戦争、空襲による無惨な死しかないことを鋭く予見している。

日中戦争の戦火は拡大一方で、連日、上海事変の戦闘報道が掲載され「部隊長は塹壕に飛び込み血達磨となって切りまくり、壮烈なる戦死を遂げた。」など「血達磨」という言葉が記事に氾濫していた。
正木は「達磨は日本では玩具で、滑稽で無抵抗のシンポル。傷ついた将士を手もなく足もなく達磨にたとえ、その鮮血にまみれた状態を彷彿させるのは不謹慎である」(同10月号)と批判し、その後、新聞から「血達磨」という表現は一挙に減ったと言う。「近きより」がジャーナリズムの中で、広く読まれていた証拠である。

正木は検閲の網の目をごまかすために表現には細心の注意を払い、各種の迷彩やトリックを用いた。官憲や軍部の横暴、無知、圧迫、恥知らずを非難するに当って、ヒューマニティというかわりに、「大御心」と書き、悪虐、非人道というべきところを「不忠・不臣」と置きかえた。そのためにかなり大胆な時局評ができた。

正木が最初に出版した本は昭和5年の「志学校・選定より突破まで」(同年3月刊、木星社版、後に三成社が「志望選定五十箇条」と改題して再刊)というものだが、思想弾圧時代のレトリックはすでに、ここで実験ずみであった。これに磨きをかけて正攻法だけではなく、一見『奴隷の言葉』の裏に比喩、暗喩、エスプリ、ジョーク、トリックとからめ手からの巧妙な表現方法を多彩に駆使したのである。29
 

5 「近きより」の内容―昭和13年―

ただし、スタート1,2年くらいの正木の文章を順次見ていくと、正木の自由主義、民主主義的な思想、思考、見解や反軍的な批判、時流への先を見通した的確な論評ばかりではない。南京事件などで見せた正木の態度には、中国、中国人に対する抜きがたい侮蔑、逆に日本精神への思い入れ、優越心、いわゆるエスノセントイズム(民族的優越心)が随所に感じられる。奴隷の言葉、時流におもねる表現も散見され、正木の本音のニュアンスが強く、エスノセントイズムから解放されてなかったことを示している。

昭和12年12月、日本軍は南京を攻略して占領したが、昭和13年1月号「巻頭言」で、は「日本開闢以来の理想、東洋制覇の夢は、実現されようとしている。夢!まことに夢の如き事実である。日本も南京を落して見たらば東洋の盟主になっていたのである。七十年前に封建時代を卒業した日本は、今日島国的日本を卒業したのである。大陸大日本帝国の第一年が始まった。我々は今、あらゆる島国的のケチ臭い根性と、陋習から脱却し、真に世界最優秀の国民としての資格を具有しなければならない」と誇らしく書いている。

「頼まれもしないのに、英語を第一外国語として、全国の中等学校に強制までして親英の実を尽くして来た日本に対し、何という侮蔑か。英国に触れて来ると、初めて我々の血液の中の民族意識が眼を醒ます」30

一九三八年(昭和13)1月16日、対中国和平交渉に行き詰まった近衛内閣は、「帝国政府は、爾後国民政府を対手とせず」と声明を発表(第一次近衛声明)、対中国和平交渉を打ち切り、以後、日中戦争はますます泥沼化を深めた。『国民政府を対手とせず』は誠に結構だが、『国民、政府を相手とせず』ということにならない用心が肝要である」(昭和13年2月号)とからかい、「日本が国際的に苦境に陥ったり、日本の進展が障げられるのは、日本人が日本の歴史を暗記していないためではない。余りに暗記し過ぎるからだ。忠君愛国が足りないためではない、宣伝が過ぎるからだ。英国のように、静かに進展して行けば、もっと早く最後の目的を達成することが出来るのだ」(同月号)

「忠君愛国を我物顔する貴族院の動脈硬化議員、某教授の著述の中の片言半句をとがめだてす。明治大帝の左の御製を繰り返し拝誦せよ、浅緑すみわたりたる大空の ひろきをおのが心ともがな」(同月号)と大学への思想統制をけん制した。

1937(昭和12)年10月、国民精神総動員31中央連盟結成以後、国粋主義や偏屈な排外思想が横行して国民生活の統制と干渉が本格化してきた。ダンスホール禁止、パーマネント禁止、広告用の日の丸の旗禁止などなど「まるで感化院に入れられたるが如し」と正木は歎いて、次のような巧みな比喩を駆使して批判している。

「肺臓が病魔と闘っている時には、胃腸はなるべく美味な物を沢山喰べて、血液を豊富にし、循環をよくしなければならぬ。肺が苦しんでいるのだから、胃腸まで苦しめと言うのだったら全身衰弱だ。戦線で同胞が苦闘しているのだから、内地もあらゆる娯楽を遠慮しろというのは、国家百年の長計を考えない阿世の徒だ。」(昭和13年2月号)

三月号では読者欄に、旭硝子の大塚進中尉の戦死状況報告の公文書の全文が掲載された。当時、戦死者は「天皇陛下バンザイ」と叫んでから死ぬことになっていた。「同中尉が、敵弾によって、心臓を打ち貫かれた後、天皇陛下万歳を唱えて死んだ」と書かれており、正木は国民を愚にした軍部のヤリカタを証拠をあげて暴露したのである。32

「日本は天皇が機関でない如く、国民もまた機械ではない。これを動かすにはこれを動かすに足る最高の原理の発現を要す。国民精神総動員は、先ずこの最高原理の骨董化を救うことより始めよ」(昭和13年4月号)

陸軍大将・松井石根 陸軍中将・柳川平助は二・二六事件後の粛軍で一旦、予備役に回り、日中戦争後は司令官に復帰して軍功を上げたが、正木はこの点から軍部大臣現役武官制を「松井大将、柳川中将等が現役に非ずして、あの大功績を成就したのを想う時、軍部大臣を現役に限ったあの法令が、如何に非科学的なものであったかが明瞭となったであろう」(4月号)と論評した。

「(軍部の)息がかからねば、いきて行けない政治家の何と多いことよ。そしてまた実業家も。いきのかかった人間の何と鼻息の荒いことよ。『にらまれる』という言葉が、しばしばお役所の下級官吏や大会社のサラリーマンの会話に出る。この言葉が通用する限り、日本の社会は明朗にならないであろう」(同年5月号)
このように、一貫して軍部批判、軍部大臣現役制の批判のペンをとり、寸鉄人を刺す論評を続けている。
「日本の中等学校で外国語をやめることを主張するのが愛国主義者であるかの如く流行しているが、ムッソリーニが独、仏、英、何語でも自由に会話するのを知ったら、ちょっと意外に思うであろう」(昭和13年5月号)

十月号で、正木は皇軍失明勇士に感謝する法曹有志の素人絵画展を開くことを予告した。上海ではトーチカ戦が始まっており、軍は素人の新召集兵を古参兵より先にトーチカに入れた。トーチカのノゾキ穴から打ち込まれる敵弾によって、新召集兵の多くは眼をやられた。その中には美術家や画学生もいたが、突然の召集に次ぐ失明によって、絶望し、発狂者をが数多く出た。それを知った正木は戦争の悲惨を国民に広く知らせると共に、失明者に同情して慰問展覧会を思い立ったのである。

十一月号「漢口陥落33記念号」では「外国の雑誌に、蛇が豚を呑んで、苦しがっているフウシ画があった。その蛇にジャパンと書かれ、豚にチャイナと書いていた。もし日本が支那を同化することができなければ、このような結果になるであろう。いたずらに各地に新政府を樹立したところが、その勝利は一時的な桜の花のごとく散ってしまうであろう」と書いた。


6 「近きより」の内容―昭和14年―

昭和14年4月に、約一カ月間にわたって、正木は中国を旅行した。日本軍の中国人の過酷な取り扱いやその実態に触れて、そのことを書くと同時に反戦的な意識がますます強くなってきた。「近きより」の内容もその後は一層、反戦、反軍、反官的な色彩が強くなっていく。

「弱い者いじめが一番いけない。そうでなくても島国根性を清算しなければならなくなっている時代なのに、一部の人間はますます島国根性を発揮しょうとしている。貧乏人が初めて金を持ったように、権力を初めて持つ人間はそれに陶酔し易いものだ。陛下の赤子を大切に扱え、大御心に副わぬような勝手な振舞をする者は、軍人であろうと官吏であろうと不忠の臣、非国民である。官吏や軍人の古手ばかりがのさばる時ではない」(昭和14年3月号)

「『右向け左』という号令をかけられたら、如何に優秀な兵隊でも迷うであろう。親善のための戦いというのは、中々むつかしい問題だが、不可能ではない。昔マホメットは『剣かしからずんばコーランか』という題目を掲げて戦争をなし、支那の如く広い中央亜細亜を回教によって統一した。日本は今、それ以上の大仕掛な戦争をしている。『剣かしからずんば親善か』である。このコーランに比すべき親善は、コーラン以上のもの、すなわち『大御心』でなければならない。支那大陸に大御心が浸潤しなければならない。日本人の精神はコーラン以上に高められているであろうか」(昭和14年6月号)

荒木貞夫文相34は戦時態勢化強化として早起励行、勤労奉公、節約貯蓄、心身鍛錬など七綱目の「国民生活綱要」を発表したのに対して、「荒木氏も畑違いの国民教育をやるより、真面目に軍隊教育に専心した方がいいのではあるまいか。今日ほど軍隊に教育を要する時代はないのだ。荒木氏よ、易を去って難につくのが日本精神ではあるまいか」(昭和14年8月号)

「実に多くの軍人が、政治的に野心をもって飛び出しては失敗して行く。なげかわしいことである」「日本の思想が本当に成熟しているならば、共産思想など何で恐れよう。しかし、もし日本の思想が幼稚で未熟ならば永久にその脅威をまぬかれることは出来ない。敵は外にあるよりは内にある」「自分の犯す不始末を蔽わんために言論に不当な圧迫を加えるものは、陛下の行政上の大権を私するもので、不忠この上ないものである」(以上、同月号)

また、「軍部が国境で闘っている間に、国内の思想の水準をドンドンと高めなければならない。マゴマゴすると、三民主義に対しても負けてしまうだろう」「そうでなくてさえ国民は段々と不自由になって行くのであるから、わざわざ不自由にするようなことは慎んだ方がいい。本当に不自由になった時に、国民はそれが人為的のものであるような誤解を持ったら大変である」「物は惜しめ。精神は出来るだけ自由にせよ」「精神をヒン曲げて、強い国民の出来ようはずがない」 「少女、父に向い、『お父さん、本当のことを言ってはいけないんですってね』」(同月号)とますます、切れ味鋭く、問題の本質を直接批判したり、多種多様の形で、官憲の暴政や社会の矛盾への抗議、時局批判が続けられた。

このように、正木はきわめて危険な綱渡りのごとき表現をつづけたが、「この雑誌が敗戦の日までどうして続いたかは、不思議としかいいようがない」と鶴見俊輔35は書いている。

『近きより』が摘発をまぬがれたのは「おおむね『奴隷の言葉』を用い、一応表面的には天皇制を讃美し、戦争を支持するかのごとき偽装を行ない、『パラドックス』『反語』『隠喩』『直喩』(いずれも正木自身の用語による)等を縦横に駆使し、なかなかしっぽをつかまえられないようにして、実質的には痛烈な批判をつづけた」ことによるのである。36


7 警視庁・憲兵隊からの呼び出し、発禁処分

それにもかかわらず、「近きより」は、新聞紙法によって、ヒンパンに発禁処分をうけ、その度に警視庁の検閲課に出頭を命じられた。

昭和14年十二月二十三日、東京憲兵隊から突然、正木に「明日朝、『近きより』で話したいことがあるから来てくれ」との電話があった。その後、長谷川如是閑翁を訪問すると「君は誰でも昔から考えていることをズバズバ書いて得意になっているが、やめた方がいい。わかり切っていることを書いて物議を起すことは、君はいいかも知れないが、君の雑誌に登場する人達が迷惑をする」と言われ、正木は冷水三斗で、返す言葉もなかった。

翌朝の十時頃に憲兵隊へ行った。正木を呼び出した若い軍曹が「近きより」(十二月号)を開き、赤い線が引いてある部分をいちいち質問をした。「軍部に反感を持っている」と思った軍曹が正木を追及したのだが、正木の説明で氷解した。

最後に軍曹は「もう注意を受けないように誓って欲しい」といった。正木は「それは出来ません」と断った。
「自分がいいと信じていることを、他人が悪いと言わないと誓うことは不可能です。私が将来貧乏はいたしませんと誓ったところが、世間が不景気になれば私は貧乏するでしょう。聖書の中にも汝等誓うことなかれといっている、私は誓う事は出来ません」
「此方では誓約書を入れて貰わないと困る」

「悪い雑誌と思うなら発行禁止してもらった方がいいんです」
結局、押し問答となり、誓約書はウニャムニャになった。
憲兵隊長が会いたいというので、翌日もう一度来ることになった。正木は持っていた翌月号のゲラを渡して、「この中でいけないところがあったら指定して欲しい」といって2ヵ所が削除された。

翌日、隊長の大尉に会うと、いきなり「やあお待たせしました、あなたの雑誌を全部読んだら趣旨に大賛成です。私にはよく解る、誓約書なんて水臭いものはいりません」ときっぱり言った。

このドサクサ時代、万一の場合、憲兵隊に十日や二十日に不法監禁されることくらいは覚悟しておかねばなるまいと正木は覚悟していただけに、一度に疑念は解け、率直に喜んだ。37

このような呼び出しがひんぱんにあり、憲兵が時どき正木宅を訪問した。検閲は警視庁と憲兵隊とが二重に行なっていた。「誌面の各所に赤線をひいて、”ここが悪い″と言ったわけだが、しかし、なぜ悪いのか、その説明をきいたことは一度もなかったように記憶する」38と正木は書いている。
時代は日中戦争の泥沼化から、太平洋戦争へと坂道を急速に転がり落ち、言論の最暗黒の時代へと突入していくが、正木は命がけの勇気をふるって書き続けた。

「亡国後、数年または十数年の後に、生き残った少数の子孫によって、『近きより』の一冊、二冊が偶然の機会に、日本のどこかの防空壕の跡からでも拾い出され、『昭和の晴黒時代にも、こういう言論があったのか』ということ、またわれわれの父兄たちは、こういう悪魔の支配によって、家畜のように殺されたのか、という事実を知ってもらい、これを教訓とし、反省してくれればいいのだ」と考え、空襲下の深夜、ひそかに自らのなぐさめとしていたのである」39
 

参考文献

1 「近きより」(全5巻)旺文社文庫版1979年とこれを底本にした現代教養文庫版(全5巻)社会思想社1991年版

2 東条英機(1884~1948)、陸軍軍人。 昭和16年10月、第3次近衛内閣の後を受けて首相。内相,陸相,軍需相を兼務して太平洋戦争に突入,19年には内閣を改造,統帥と国務の一体化と称して参謀総長も兼務、サイパン陥落で7月総辞職。
戦争中は絶対的な権力を握っていた)
3 田中正造(1841-1913)政治家。栃木県生。自由民権運動に参加、栃木県会議となり、第一回総選挙より衆議院議員に連続六回当選、議会でもっばら足尾銅山鉱毒問題を訴え、対策を提議したが効果なく、被害農民の大挙上京事件後は議員を辞職して解決に奔走、一九〇一年に天皇に直訴した。以後、谷中村に移住して残留農民とともに強制配村に抗議して、生涯を鉱毒問題に捧げた。
4 正木ひろし著「弁護士」旺文社文庫1980年5月刊の古賀正義の解説281P
5 家永三郎著『権力悪とのたたかい』弘文堂 昭和39年4月 186-187P
6 同上2P
7 青地辰「反逆者」弘文堂 昭和41年1月刊 188P
8 牛島秀彦
9 このテーマについては15年戦争下での新聞報道、特に朝日、毎日の当時の2大新聞はどのようなものであったのかに焦点を当てた拙著「兵は凶器なりー戦争と新聞1926-1935」「言論死して国ついに亡ぶ戦争と新聞1936-1945」いずれも社会思想社1989 1991年刊として刊行された。
10 「正木ひろし著作集6巻」の巻末の家永三郎氏作成の「年表」、古賀正義「近きより」第1巻の解説などを全面的に参考にして作成した。
11 和歌山太郎ほか著『母の肖像』草土文化 昭和51年7月刊100-101P
12 同上
13 森正蔵著『施風二十年』 鱒書房、昭和21年刊117P
14 「兵は凶器なり」社会思想社89年8月刊 「5・15事件」「菊竹六鼓のたたかい」151-171P、木村栄文「記者ありき六皷・菊竹淳の生涯」/朝日新聞社 1997年6月
15 『西日本新聞七十五年史』 (1951年)、『西日本新聞百年史』 (1978年)、御手洗辰雄『新聞太平記』 (鱒書房、1952年)などによると)
16 塚本三夫「侵略戦争と新聞」新日本出版社1986年 83P
17 「兵は凶器なり」「京大・滝川事件」189-197P
18 「言論死して国ついに亡ぶ」「軍民離間声明と新聞」22-30P
19 「兵は凶器なり」「美濃部達吉と天皇機関説事件」237-251P
20 中島健蔵著、『昭和時代』岩波新書 P
21 「言論死して国ついに亡ぶ」の「二・二六事件でトドメを刺された新聞」(39-55P)、朝日新聞百年史編修委員会編「朝日新聞社史・大正昭和戦前編」朝日新聞1991年10月刊、「二・二六事件おこる」(447-464P)
22 『中央公論』一九三六年三月号
23 注・一八七一年制定された軍部大臣現役武官制。一九〇〇年、陸・海軍大臣・次
16
官補佐資格を現役の陸・海軍将官に限定。一三年にこの制度は廃止されたが、三六年五月、二・二六事件後、「粛軍」の断行によって、かえって政界への発言力を加えた軍部は、陸相寺内寿一によって制度の復活を強行、組閣および閣内における軍部の発言力をさらに増大させ、内閣の死命を制した。
24 松下芳男「三代反戦運動史」くろしお出版 1960年7月312-313P
25 正木ひろし著『近きより』弘文堂 昭和39年12月刊 1,2頁
26 正木ひろし著「事件・信念・自伝」実業之日本社 昭和37年4月139-140P。各号の印刷部数は最大限一万部、平均四千部を上下した。定価は十銭。印刷以外の発送や運搬に関するする労働は、正木一家の手によって行なわれたが、やがて書生は徴用され、家人は遠方に疎開し、私ひとりで全部やらねばならず、昭和二十年五月二十五日の大空襲で市ヶ谷の自宅が焼失した後も、謄写版印刷によって発行を続けられた。
27 正木著「事件・信念・自伝」の「近きよりのテンマツ」144-146P
28 林 銑十郎(1876~1943) 陸軍大将 首相、5年朝鮮軍司令官となり,満州事変勃発のとき朝鮮軍部隊を独断で出動させ」越境将軍」と呼ばれた。広田弘毅内閣総辞職後、宇垣一成の組閣流産の後をうけて,12年(1937)2月成立。「祭政一致」を施政方針で声明するなど神がかった政綱をかかげ,軍部のいいなりだった。
29 正木著「事件・信念・自伝」の「近きよりのテンマツ」142-143P
30 古賀「近きより①」解説406-407P古賀も「第一巻に見られる中国および中国人に対する侮辱的言辞は、当時の日本の支配層から庶民に至るまで極めて普遍的な心理に根ざすものであったとはいえ、はなはだ軽薄である。矢内原忠雄の受難(『植民及び植政民策』の発禁)に対する言及のしかたにしても、首をひねらざるを得ない」と手厳しく批判している。
31 国民精神総動員運動 日中戦争開始後,第1次近衛内閣が挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として始めた戦争協力の教化運動。全国神職会,全国市町村会,在郷軍人会など74団体が参加。12年(1937)10月内閣の外郭団体として国民精神総動員中央連盟が結成された。当初は精神運動が中心であったが,日中戦争の長期化にともない耐乏,不足物資動員教化運動に転じた。
32 正木著「事件・信念・自伝」の「近きよりのテンマツ」146-147P
33 1938年10月下旬、支那派遣軍は漢口を陥落させ、武漢三鎮を完全占領した。
34 荒木貞夫(1877~1966)昭和6年、斎藤内閣の陸相。8年大将。9年軍事参議官。皇道派の巨頭だったため11年の二・二六事件で予備役となり12年内閣参議,13年から平沼,近衛両内閣の文相。
35 鶴見俊輔編「ジャーナリズムの思想」筑摩書房 昭和45年 P
36 家永三郎著「正木ひろし」三省堂 1981年1月刊 P
37 「近きより」昭和15年2月号「新年号のブランク」

38 正木著「事件・信念・自伝」の「近きよりのテンマツ」142-143P
39 正木ひろし著『近きより』弘文堂 昭和39年12月刊 3P
 

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