米占領下の国内政治はどうだったのか(1945-50)ー占領下での各政党の歩みー
2016/02/02
2008,1,01
米占領下の国内政治はどうだったのか
ー占領下での各政党の歩みー
前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
昭和戦後、日本の議会政治は日本自由党、日本進歩党、日本協同党の保守政党と、日本社会党、共産党の革新政党によって再出発したが、それぞれ四分五裂の離合集散、そして内部闘争などを繰り返すこととなった。一九五五年のいわゆる「五十五年体制」が確立するまでの、各政党の歩みを簡単にまとめてみよう。
① 進歩党から民主党・改進党・自由民主党へ
一九四五年十一月、かつての大日本政治会所属議員の大半である二七三名を集めて日本進歩党が結成された。戦前の旧民政党、旧政友会などさまざまな勢力を結集しての新党立ち上げで、初代総裁には元民政党の町田忠治が就任する。
当時、もっとも保守的な政党であり、また圧倒的な単独過半数を誇る第一党だったが、一九四六年の公職追放令により、総裁の町田忠治、幹事長の鶴見裕輔をはじめ、九割以上もの現職議員が追放令に該当、総選挙に立候補する資格を失った。その結果、同年の戦後初となった総選挙では九四議席しか獲得できず、第二党に転落する。
その後、幣原喜重郎を総裁として再建が図られ、修正資本主義と中道路線を掲げる新党結成運動を展開、自由党の芦田均や国民協同党にも呼びかけ、改革的保守政党としての「民主党」を四十七年に結成する。その後、党内では分裂が表面化し、五十年に連立派は自由党に合流、野党派は国民協同党と国民民主党を設立し、さらに二年後の五十二年には日本改進党と改めるなどしつつ最終的には自由党と合流し、五十五年に「自由民主党」が誕生する。
② 自由党から自由民主党へ
一九四五年十一月に鳩山一郎を総裁、河野一郎を幹事長として日本自由党が結成された。日本自由党は、旧立憲政友会系の自由主義派の政党人を中心に結集され、四十六年四月の戦後初の総選挙で第一党になるが、組閣直前に鳩山が公職追放されて、吉田茂が日本進歩党と連立して第一次吉田内閣を組閣。八月に吉田が総裁に就任した。その後、日本社会党との連立や保守合同による新党設立を模索したが成立せず、四八年三月、少数の民主党議員をくわえて民主自由党となった。同年十月、第二次吉田内閣が単独少数政権で成立。つづいて四九年一月の総選挙で絶対過半数を確保して第三次吉田内閣を組閣。五十年三月、民主党連立派の一部を吸収して自由党を結成した。それは保守政権の安定とサンフランシスコ講和条約(五十二年発効)後の体制固めをめざしたものだった。
一九五一年八月、追放解除となった鳩山は、自由党を離党して五十四年十一月に新しく日本民主党を結成する。この間、自由党は鳩山派を排除して単独政権の第四次吉田内閣を樹立するが、五十三年四月の選挙で過半数をわって第五次吉田内閣は五十四年十二月に総辞職し、日本民主党第一次鳩山内閣が成立。翌年二月の選挙で自由党は第二党になる。日本民主党第二次鳩山内閣をへて、五十五年十一月には自由党と日本民主党が保守合同して自由民主党が誕生。第三次鳩山内閣を組織した。
③ 協同党から協同民主党・国民協同党などを経て自由民主党へ
戦前の翼賛政治会を脱退した、護国同志会系の船田中、赤城宗徳らが中心となって四十五年十二月、協同組合主義による修正資本主義をめざす中道政党、日本協同党が結成された。同党は四十六年の総選挙前には二十三議席を確保していたが、公職追放令により二十一名が追われ、総選挙での当選者は十四名にとどまった。総選挙後、他の政党に呼びかけて協同民主党を結成、三木武夫らの無所属議員を加え、四十六年の第九十回帝国議会会期終了時には四十五名の議員を有するまでに回復する。さらに四十七年四月の総選挙を控え、その年の三月には同じ中道政党の国民党と合同して国民協同党を結成し、三木武夫が書記長に就任する。以降、日本民主党の野党派と国民民主党(五十年)、国民改進党(五十二年)、日本民主党(五十四年)を経て、五十五年、自由民主党と合流する。
④ 社会党
戦後、一九四五年十一月に日本共産党をのぞく戦前の無産政党関係者が大同団結して日本社会党が結成された。具体的には、河上丈太郎、河野密、浅沼稲次郎、三宅正一らを中心とする戦争に協力的だった「日本労農党」、片山哲、西尾末広、水谷長三郎、松岡駒吉らを中心とする右派であるが反軍部の立場をとっていた「社会民主党」、鈴木茂三郎、加藤勘十、黒田寿男らを中心とする共産主義をも容認する最左派の「日本無産党」などを、片山哲、西尾末広ら右派が主導して結成したのが日本社会党である。
新憲法施行直前の一九四七年四月の総選挙では、二・一ストなど労働運動の高まりを背景に社会党は一四三議席を獲得して第一党となった。自由党との連立も模索されたが、結局一二四議席の日本民主党と三十一議席の国民協同党と連立をくむこととなり、社会党委員長片山哲を首班とする三党連立内閣が組織された。しかし、この内閣は、大蔵省と経済安定本部(経済企画庁の前身)との財源確保をめぐる政府内の対立が、政権与党である社会党左右両派の対立に飛び火する形で四十八年二月に崩壊した。
新憲法施行直前の一九四七年四月の総選挙では、二・一ストなど労働運動の高まりを背景に社会党は一四三議席を獲得して第一党となった。自由党との連立も模索されたが、結局一二四議席の日本民主党と三十一議席の国民協同党と連立をくむこととなり、社会党委員長片山哲を首班とする三党連立内閣が組織された。しかし、この内閣は、大蔵省と経済安定本部(経済企画庁の前身)との財源確保をめぐる政府内の対立が、政権与党である社会党左右両派の対立に飛び火する形で四十八年二月に崩壊した。
その後日本民主党総裁芦田均を首班とする同じ三党連立内閣が一九四八年三月に成立したが、GHQ内部での権力闘争を背景に発覚した昭電疑獄事件(※2)で社会党の西尾末広副総理が逮捕されるにおよび、この内閣も同年十月に崩壊した。
翌一九四九年一月に実施された総選挙で社会党は議席を四八と激減させ、この結果をうけて四月の党大会では、党の再建と路線をめぐって大紛糾した。いわゆる「森戸・稲村論争」である。森戸辰男はソ連型社会主義と共産党流の公式理論が強く反映されている国民政党論を主張し、稲村順三は科学的社会主義の立場から階級政党論を主張した。ここで書記長に選出されたのは左派の鈴木茂三郎だった(委員長は空席)。
一九五〇年の朝鮮戦争勃発、五十一年のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約の調印は、社会党内での対立をよりはげしいものとした。左派は(一)全面講和、(二)中立堅持、(三)外国軍事基地反対、(四)再軍備反対のいわゆる「平和四原則」にもとづき両条約とも反対、右派は全面講和は非現実的と安保条約のみ反対の立場をとり、五十一年十月の第八回臨時党大会で乱闘の末ついに分裂した。時を同じくして五十年にGHQの支持をうけて結成された日本労働組合総評議会(総評)は急速に左へ転回し、左派社会党の大衆運動方針に呼応して同じ平和四原則を運動方針として採択していた。当時のソ連国連大使マリクは「平和共存、平和四原則による大衆行動」をよびかけていた。五十三年四月に実施された総選挙の争点は再軍備であった。左派社会党は「青年よ銃をとるな」のスローガンをかかげて議席をややのばした。この選挙結果が左派主導の路線を「正しいもの」と認識させ、その後の社会党の方向を束縛することとなる。
保守勢力による「逆コース」とその頂点に位置する憲法改正への動きをみて、左右社会党は統一へとあゆみだした。五十五年十月の大会で、左派が主張する階級政党論と右派が主張する国民政党論を折衷して「階級的大衆政党」として左右両派の再統一が実現、委員長に左派の鈴木茂三郎が、書記長に右派の浅沼稲次郎が就任した。しかしこの状態も長くはつづかなかった。再分裂のきっかけとなったのは安保改定というやはり外交問題であった。左派は日本共産党とも共闘して安保改定阻止国民会議(→安保闘争)を組織・指導したが、西尾末広を中心とする右派はこれに反発し、やがて六十年一月に脱党して民主社会党(→民社党)を結成することになる。
保守勢力による「逆コース」とその頂点に位置する憲法改正への動きをみて、左右社会党は統一へとあゆみだした。五十五年十月の大会で、左派が主張する階級政党論と右派が主張する国民政党論を折衷して「階級的大衆政党」として左右両派の再統一が実現、委員長に左派の鈴木茂三郎が、書記長に右派の浅沼稲次郎が就任した。しかしこの状態も長くはつづかなかった。再分裂のきっかけとなったのは安保改定というやはり外交問題であった。左派は日本共産党とも共闘して安保改定阻止国民会議(→安保闘争)を組織・指導したが、西尾末広を中心とする右派はこれに反発し、やがて六十年一月に脱党して民主社会党(→民社党)を結成することになる。
⑤ 共産党
終戦後、1945年十月に機関紙「赤旗」が復刊され、獄中で非転向をつらぬいた徳田球一、袴田里見、志賀義雄、宮本顕治らによって十二月一日から三日間、戦前から通算して四回目となる党大会を開き、「三十二年テーゼ」によって党は合法組織として再建された。翌四十六年一月には亡命生活をおくっていた野坂参三が帰国し、彼の「愛される共産党とならねばならない」という言葉が流行語になった。当時、党はその民主化政策ゆえにGHQを解放軍と認識していた。「三十二年テーゼ」に批判的だった野坂の民主人民戦線運動や占領下平和革命論などによって党は国民大衆の支持をえるところとなり、四十六年四月の憲政史上初の男女普通選挙による総選挙で五名を当選させた。
一九四九年一月の総選挙では三十五名を当選させた。しかし五十年一月、コミンテルンの後をうけて結成されたコミンフォルム(→インターナショナル)がその機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」に掲載した「日本の情勢について」と題する論文で、野坂参三とその理論である占領下での平和革命論を批判したこと(コミンフォルム批判)(※4)をきっかけに党は分裂する。コミンフォルムに反論する所感をだした徳田球一と野坂参三を中心とする「所感派」と、この所感を批判した宮本顕治や志賀義雄を中心とする「国際派」に分裂したのである。このころ朝鮮戦争の勃発をはじめとする冷戦の激化を背景に反共色を強めていたGHQは、共産党中央委員の公職追放や民間企業などにおけるレッドパージを勧告した。これに対して党は急速に先鋭化し、一九五一年にスターリンによって作成された「五一年新綱領」にもとづき、武力闘争戦術を公然と主張するようになっていった。火炎瓶戦術、山村工作隊、血のメーデー事件など、当局に弾圧の口実をあたえるような事件をひきおこし、五二年の「抜き打ち解散」後の総選挙では、それまでの三五議席から一気に議席をゼロに減じた。 一九五五年七月の第六回全国協議会(六全協)で党は、主流派であった所感派によってひきおこされた極左冒険主義にもとづく武闘路線を自己批判し、国際派の宮本顕治を中心に統一がなされた。この党再建のイニシアティブをとった宮本の党内での指導力が、これをきっかけに強化されるようになる。しかしこのときはまだ「五一年新綱領」は正確なものと評価されており、これが廃棄されるのは五八年である。
一九四九年一月の総選挙では三十五名を当選させた。しかし五十年一月、コミンテルンの後をうけて結成されたコミンフォルム(→インターナショナル)がその機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」に掲載した「日本の情勢について」と題する論文で、野坂参三とその理論である占領下での平和革命論を批判したこと(コミンフォルム批判)(※4)をきっかけに党は分裂する。コミンフォルムに反論する所感をだした徳田球一と野坂参三を中心とする「所感派」と、この所感を批判した宮本顕治や志賀義雄を中心とする「国際派」に分裂したのである。このころ朝鮮戦争の勃発をはじめとする冷戦の激化を背景に反共色を強めていたGHQは、共産党中央委員の公職追放や民間企業などにおけるレッドパージを勧告した。これに対して党は急速に先鋭化し、一九五一年にスターリンによって作成された「五一年新綱領」にもとづき、武力闘争戦術を公然と主張するようになっていった。火炎瓶戦術、山村工作隊、血のメーデー事件など、当局に弾圧の口実をあたえるような事件をひきおこし、五二年の「抜き打ち解散」後の総選挙では、それまでの三五議席から一気に議席をゼロに減じた。 一九五五年七月の第六回全国協議会(六全協)で党は、主流派であった所感派によってひきおこされた極左冒険主義にもとづく武闘路線を自己批判し、国際派の宮本顕治を中心に統一がなされた。この党再建のイニシアティブをとった宮本の党内での指導力が、これをきっかけに強化されるようになる。しかしこのときはまだ「五一年新綱領」は正確なものと評価されており、これが廃棄されるのは五八年である。
⑥ 民自党の過半数獲得と共産党の大躍進
GHQによる占領が始まって五年目の一九四九(昭和二十四)年までに、ほとんどの対日占領改革は成し遂げられていた。同年の一月二十三日にせまっていた戦後三度目となる総選挙を前に、マッカーサーは年頭所感を発表する。その内容は「日本の民主化はすでに終了し、今年は経済の安定に取り組む年である」ことを強調、対日占領政策が転換したことを意味するものだった。
そして「労働者には様々な負担がかかるだろうが、それは避けられない。だからといって安易にストライキなどに訴えることのないように」と、釘を刺すことも忘れなかった。その発言の背景には米ソの冷戦、加えて中国・朝鮮の共産主義の台頭があった。中国政府樹立に衝撃を受けたアメリカは、それがやがて日本にも及ぶことを何よりも恐れたのである。そこで対抗策として日本・南朝鮮・フィリピンなどを抱え込み、ソ連・中国・北朝鮮を包囲しようと考える。そのためには日本を反共国家にし、アメリカの注文にいつでも応じられるような工場にする必要があった。
アメリカによる対日政策の転換は、すでに前年から始まっていた。「日本を共産主義の防壁とするために、アジアの工場として再建すべきである」と、アメリカ陸軍長官のロイヤルはアメリカ政府に提言している。同政府はそれを受けて、具体的な政策プログラムの作成に着手する。その主なものが対日講和条約の締結であり、日本の再軍備ともいえる国家警察隊の組織、さらには経済安定九原則の指示(※4)や対日援助の増大など、経済の安定化である。これらの任務を背負わされたのが吉田茂である。こうしたアメリカの期待を受けて吉田内閣は一九四八年に成立するが、少数与党で安定せず、その年の十二月二十三日に内閣不信任案が可決されてしまった。吉田はすぐに衆議院を解散し、翌年の四九年一月に総選挙に打って出る。選挙結果は、吉田率いる民自党が解散時から一一二増の二六四議席を獲得して過半数を大きく超えた。逆に、連立三党の社会党は一一二議席から四八議席へと大幅に議席を減らし、民主党も九十から六九議席に後退、国民協同党も二九から一四議席へと半減した。マッカーサーや国内の財界、保守勢力もこの結果には満足だった。しかし、意外だったのが共産党である。社会党の失策に幻滅した革新票をさらって四から三五議席へと大躍進をとげたのである。マッカーサーや吉田、それに財界と保守勢力は一様に危惧するとともに、共産党をはじめとする過激な組合組織にどう対処すべきか方策を練る。
同年の二月に発足した第三次吉田内閣(~一九五二年十月三十日)は、民自党単独でも組閣できたが、吉田は敢えて民主党に連立を呼びかけた。その狙いは党内の鳩山派を牽制して自らの主導権を確立すること、参議院における民自党の劣勢を挽回することにあった。民主党の新総裁となった犬養健は芦田派の反対をものともせず、吉田の求めに応じて二人を内閣に送り、民主党は分裂する。連立には民自党でも鳩山派が中心となって反対したが、吉田に押し切られてしまった。こうした吉田体制の下、これまでの戦後改革に逆行する政治反動、いわゆる逆コース路線が展開されていく。
⑦ ドッジ・ラインとシャウプ勧告
一九四九の二月、いわゆるドッジ・ラインが指示される。GHQの経済顧問として来日したドッジ公使は、当時の日本経済を財政赤字とアメリカ援助の二本足で立つ「竹馬経済」とみなし、「自立経済達成のためには、これらを切り落とさなければならない」とした。そして(一)復金債発行の中止、補給金政策の中止により総予算を均衡させてインフレを終息させ、(二)一ドル=三六五円の単一為替ルートを設定して自由貿易を促進すべし、との命令を出す。このドッジの命令に従って予算作りを担当したのが大蔵大臣の池田勇人である。池田は議員に当選したばかりだったが、大蔵省主計局長を経験した予算作りのベテラン。吉田はそこを見込んで池田を入閣させたのである。だが、あまりにも厳しいドッジの命令と、国内の反ドッジ勢力の板ばさみに悩まされ、一度は辞職も考える。しかし、吉田に説得されて再びドッジの命令する予算作りを敢行、予算を成立させた。
同じ年の五月、アメリカからカール・シャウプ博士を団長とする税制使節団が来日する。彼らの目的は税制改革である。税金の大幅免除と平行して低所得層からも応分の税金を負担させ、企業を発展させるために法人税も引き下げた。さらに中央政府の負担を軽くするために地方へ負担をまわし、地方税を二倍にするなどの諸改革を断行した。強力なデフレ政策によって通貨は縮小し、戦後インフレは急速に収束した(消費者物価は一九五〇年に七・二%の下落を示した)。また、戦後経済を管理してきた経済統制も急速に撤廃され、自由経済への移行も進んだ。しかし、企業は深刻な資金不足に襲われ、整理・倒産が続出し、日本経済は一転してデフレ状態に陥ったのである。合理化に迫られた企業は、設備の合理化をはかる資金的余裕はなく、勢い人員整理に向かわざるをえず、一九四九年二月から翌年六月までの民間企業での人員整理は四0万人にも及んだ。とくに緊縮財政を義務づけられた政府関係企業の場合、人員整理はより厳しく、これに対する抵抗も強いことが予想された。
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