日本リーダーパワー史(144)国難リテラシー・66年前の『大日本帝国最期の日』昭和天皇・政治家・軍人はどう行動したか②
<広島原爆でやっと「無条件降伏」を受諾決断、国体護持に最後までこだわる>
「いま大臣が辞めたらどうなるのです。絶対に頑張って下さい。
私たちも頑張ります。いずれにしても、まだ先方の回答は公式には来ていないのです。今日は、大臣は静かに休んで下さい。公電は、私の考えでは六時ごろ着く見込みですが、明朝、着いたことにして各方面へ配布しますから…。今夜は最終的な決定をしない方が有利だと思います」
松本次官は大江電信課長を呼び、スイスの加瀬公使とスウェーデンの岡本公使から連合国側の公式回答文が届いたら、十三日の朝の日付で配布するよう命じ、六時過ぎに外務省を出た。
首相官邸で鈴木首相に会うためである。
官邸に着いた松本は、まず迫水書記官長に二、三の電報を見せ、「総理にも見せたいから」と口実を設けて総理の部屋に入った。
「鈴木総理はひとり薄暗い部屋にボツネンとしていたが、私が入ると『おすわり下さい』と丁寧に迎えてくれた。
2・・松本俊一手記によると
私は形勢の極めて逼迫して、再交渉の余地のないこと、又先方の回答は決してわが国体を即座に破壊しようとするものでないこと等、私の考えを述べて、総理が偉大なるステーツマンシップを発揮せられて、先方の回答をそのまま、呑むことに決意せられたいと懇願した。
松本次官が鈴木首相に「懇願」していたころ、松平康昌内府秘書官長が外務省を訪れ、東郷外相に「寸刻でいいから」と面会を求めてきた。東郷が辞意を漏らしたと聞き、激励に来たのである。「日本には『カケコミ訴え』ということがある。外務大臣として、『カケコミ訴え』をやって御覧なさい。陛下は待っていらっしやるかも知れぬから」という。
東郷外相は松平秘書官長が部屋を辞すと同時に、宮中の木戸幸一内大臣に、この日2度目の面会を申し込んだ。
そして、朝からの経緯を話し、鈴木首相も平沼枢相の意見に同調しているようであり、戦争終結に導けるかどうか疑問であるといった。鈴木首相が拒否派の意見に引きずられていると、聞いて、木戸も驚いた。
陛下の意図は改めて伺うまでもなく、全面受諾で固まっている。木戸は「自分から鈴木首相を説得しよう」と東郷にいい、この夜の九時半から鈴木・木戸会談が行われた。 3・・『木戸口述書』ではどうなっているのか。
「鈴木首相は午後九時半にようやく来られました。首相は今日種々協議せられた経緯に就いて話があり、国体論者の論には余程閉口して居る様でありました。しかして、私は次の如く力説しました。『私は国体論者の論を軽視するのではないが、外相の研究によれば差支えないということである。
この危急の場合、個人々々の意見に左右せられて居てはまとまりは到底着けられない。
しかるるにこれを受諾することにより、万一国内に動乱の起るとも吾々が生命をなげれば良いのであるから、この際、迷うことなく受諾の方針を断行しょうではありませぬか』
これに対して首相も力強く『やりましょう』といわれましたので、私は大いに意を強くしたのでありました。
ポイントの日だったのである。
4・・八月十三日の首相官邸の地下壕
今朝の七時四十分に、在スイスの加瀬公使から公電があったとされていたが、実際は前日の十二日午後六時四十分に着電していたものである。前記したように、松本俊一外務次官の機転で、受諾反対派を封じ込めるために秘匿していたのだ。
正式回答文の到着を受けて、午前八時半ころから最高戦争指導会議の構成員である鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、米内光政海相、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長の六巨頭会談が首相官邸の地下壕で開かれた。連合国回答に対する態度を決定する会議である。
鈴木首相、東郷外相、米内海相は即時受諾を主張、阿南陸相、梅津・豊田両総長は「全陸海軍の武装解除、国民の自由意志に従う政体の樹立」などに難色を示し、修正と条件追加を強硬に主張して、譲らなかった。
ことに阿南陸相は〝聖断〟には従うが「国体問題に不安がある。とるべき手段はとれ」と反対意見を述べ、会議は再び暗礁に乗り上げていた。午前十時ごろ、宮中から梅津・豊田両総長にお召しがあり、会議は一時中断される。
5・・3対3のまま平行線をたどる
止された。この間の午後二時、東郷外相は天皇に拝謁して、連合国の正式回答が到着したことを上奏し、昨日以来の審議の模様を報告した。
天皇は「自分(東郷)の主張通りにて可なるにより、総理にもその旨を伝えよとの御沙汰を拝した」(東郷外相口述筆記)という。
午後四時、会議は閣議に切り替えられ、回答文の審議に入った。
前日、「この回答文では国体の護持が確認されないし、再照会してみよう。もし、聞き入れられなければ戦争を継続するもやむを得ない」と発言して拒否派を喜ばせた鈴木首相は、「私の意見は最後に申します」 といって、閣僚一人一人にきわめて厳しい口調で意見を確かめていった。
東郷外相から再度、天皇の御沙汰を聞いた鈴木首相の心は、すでにこのとき決まっていた。閣議は阿南陸相、安倍内相、松阪法相が昨日以来の再照会論を展開し、「連合国が明確な回答を与えなければ決戦もやむなし」という。
だが、残る十二名の閣僚は東郷外相の即時受諾論を支持した。そして、注目の鈴木首相の発言となった。
「各位の意見を聞きましたから、最後に所存を申しのべます。私は戦いをつづける決意で今日に至りましたが、ご承知の如く形勢に大なる変化を見たからは考えを変えざるを得なくなった」
と前置きして、昨日は平沼枢府議長の話を問いて、これでは国体護持はできないと思ったが、再三再四、回答文を読むうちに、米国は悪意で書いたものではないことが分かった。
なんとも人を食った見解ではあるが、七十七歳のぼうようとした大人・貫太郎の面目躍如である。
しかし、閣議は全会一致をみることができず、午後七時に散会した。そして東郷外相
は閣議散会後、鈴木首相に「荏昇(じわじわと歳月が次第に過ぎ去っていくさま)時を移すの不可なることを述べたが、総理は参内して御聖断のことをお願いしようといった」 (東郷外相手記)という。
このころ、しきりに陸軍の将校たちによるクーデター説が流れており、もし部下たちの圧力に抗しきれずに、阿南陸相が辞任するという懸念もあったため、東郷外相は首相に早急に決定することを促したのである。
といったまま、首相の部屋へ入った。
私の芝居だったのである。ちょうど最高会議を控えての臨時閣議で、一休されているところらしく、すぐ首相は逢ってくれた。時も時だったから、秘書官やら何やらがいるので、「閣下、お人払いを……」た。
私は早速、「閣下、私は決してポツダム宣言受諾に否を申しあげに参ったのではありません。ただこの文中『自由に表明された国民の意思』というところですが、この自由も抑圧された自由と解せなくはありません。
この点をもう一度おたしかめになってしかるべきかと存じますので、借越ながら参ったのです」一息に言葉になった。
私のいうのをじっと聞いておられた首相は、「もうせぬのじゃ」といきなりいわれるので、「…と申しますと、もうすでに米英に対して駄目をおされたのですか」 開きかえすのえ、「いや、確証が、いや確心があるのじゃ」と慌てていいかえしたが、
「お黙りなさいツ」
私の声はいつか大きくなっていた。
「閣下は今総理大臣の印綬を帯びておられても、たかが千葉の百姓の子ではありませんか。また我々とて同じことです。
しかしいやしくも、天皇と我々臣下との絶対的な相互信頼の関係は、たとえ悪用した者がありましょうとも美しい世界の宝ともいうべきかと思います。
その陛下と万民の今後の関係についての重大な事柄を閣下お一人が確信をおもちになったとて何になりましょう……」
つめよらんばかりに申すと、「いや、わしではないんじゃ」「では、陛下がそうお思い
になっていらつしやるのですか?」
首相は困ったような顔で、「とにかくはっきりいえぬが確心があるんじゃ」
またドアを少し開けて、誰かが様子をうかがっているようである。
「では、陛下は臣下の我々が絶対に陛下を信頼しているので、抑圧下の自由でも大丈夫だとお思いになっていると解してよろしいのですか?」
「君がそう解釈するなら、それでもよい」
思わぬ闖入が帰った後、鈴木首相は小石川の私邸に帰り、東郷外相はいったん渋谷の新官邸に戻って、かねて約束してあった松平恒雄、芳沢謙吉両前大使を中心にささやかな小宴を開いていた。その席に、梅津、豊田両総長が至急会見したいといってきた。
8・・最早一日も遅延を許さぬ
両総長との会談は夜の九時から十一時まで官邸の閣僚室でつづけられたが、東郷外相の手記によれば、会談の内容は「彼我共午前の構成員会同の際の意見を繰返すのみで何等、進捗するところはなかった」という。
「私は少しでも空気を和らげようと思って、とつておきの紅茶やウィスキーを持ち出して接待したが、これらのものには手も触れず、両総長は外相に対して再照会を懇請したが、外相はまったく取り合わなかった。
私は、時々部屋に入っていったが、両総長が懇々と話されたのに対し、東郷外相が鹿児島なまりの特徴のある発音で、簡単に、『そういうことはできません』と断わり、両総長は、とりつく島もないといった形であったのを印象深く覚えている」(『機関銃下の首相官邸』)
会談も終わりに近づいたころ、大西龍治郎軍令部次長が入ってきた。
大西中将は緊張した態度で両総長に終戦決定の一時延期を訴え、「今後二千万の日本人を殺す覚悟で、これを特攻として用いれば決して負けはせぬ」と涙ながらに〝具申〟におよんだ。だが、二人の総長はさすがに一言も発せず、黙っていた。
東郷手記は書いている。
そこに集まっていた各公館からの電報及び放送記録などを見て、益々切迫して来た状勢に目を通した上、帰宅したが、途中車中で二千万の日本人を殺した所で総て機械や砲火の餌食となるに過ぎない頑張り甲斐があるなら、何んな苦難も忍ぶに差支えないが、竹槍やどう弓では仕方がない。
軍人が近代戦の特質を了解せぬのは余り烈しい。最早一日も遅延を許さぬ所まで来たから、明日は首相の考案通り決定に導くことがどうしても必要だと感じた」
(つづく)
<『大日本帝国の最期の日』新人物往来社 2003年7月刊>
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