世界一の授業をみにいこう(3)初代総理大臣・伊藤博文による『明治維新論の講義』ー攘夷論から開国論へ転換した理由
世界一の授業をみにいこう(3)
初代総理大臣・伊藤博文による『明治維新論の講義』
なぜ、ワシは攘夷論から開国論へ転換したのかーロンドンから
下関戦争で『国が亡びる』と帰ってきのか・・>
前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)
で小沢は民主党政権を「基礎的な勉強をしないで偉くなっちゃったヤツばっか。危機が起きるとどうしたらいいか分からなくなる」と酷評。07年に福田首相(当時)と進めた大連立構想については「民主党に経験を積ませたかったし、政権交代への近道でもあった」とのべたというね。大学で2年先輩にあたる小沢の心境は痛くわかるよ。
この国の上から下まで、自国の歴史についてはとんと無頓着で、日本が世界の中でどのくらい沈没していってるか、沸騰する中国、アジアと、お通夜状態の超高齢衰退国家となりはてた日本の現状について危機感がまるでない。とくに政治家、既得権に固執している老害は危篤なのを自覚していない。
菅さんだって、高杉晋作を尊敬してるなんて、言ってるが、高杉が上海に初めて行って西欧列強の植民地になって中国人がさんざんやられている姿に衝撃を受けて、奇兵隊を作って、腐りきった幕藩体制を打ち破った絶対絶命の危機感は持っていないね。
そこで、今日は日本の初代総理大臣の伊藤さんの直接授業を聞くとしましょう。伊藤さんは百姓上がりの最下級の貧乏サムライ出身なので、とても庶民的と言うか、人付き合いがいい。気楽なおしゃべりにどこにでも出かけて行って、自らの体験を気楽に国民に語りかけた総理大臣はいないんだよ。
これは
1897年(明治30)3月20日に経済学協会で『書生の境遇』と題した講演録で、自らのイギリス密航や維新の志士として活躍して、鎖国論を打ち破って開国を成し遂げたかーをザックバランに語っていて、とてもおもしろいよ。
20代の若き伊藤のイギリス密行の経過を活き活きと語っており、「開国か、攘夷かーの論議」は当時は「開鎖の議論」といわれていたこと、強硬論、大声のいけ猛々(たけだけ)しい攘夷論の背景には、もし開国論を本当にする者があると、立ち所に暗殺されるテロを恐れて誰も開国論をいえなかったこと。
そうした声高の強硬派をどうやって鎮めたかーなどそのリーダーシップの手の内をやさしくに語っている。
いま、震災復興、原発事故で、FTA,TPP加入問題、移民、外国人労働者の受け入れ問題などが吹き飛んでしまっているが、この問題こそ重要なんだよ。日本を鎖国の状態を打ち破るFTA,TPP加入を実現しなければ、『日本沈没』にますます早まるよ。
ご先祖様の筆頭、伊藤さんから第一回講義を拝聴します。
伊藤博文の演説『わが書生(学生)の境遇』
私の学問は元来、八百屋学問(耳学問のこと)であって、御話しすることも又、八百屋的であるから、左様、御承知を願う、この席に御出の方を見渡すと、概して私より若き方々が御出のやうであるが、私共が若い書生の時の境遇と、当時の若い書生の境遇と比較すると、私共の若い時の書生の境遇と云ふものが、又如何なる有様であったかと云ふことが分る、そこでこの書生の境遇と云ふ表題に付て、私が幼年より国事上に関係を持った時からの事を一と通り御話を致します。
今の書生の御方は誠に結構であるが、私共、書生の時にはヨーロッパに行かう
と云っても、帆前船に乗って行くやうな訳であって、行く者も少ない、当今は皆あちらへ行くは立派な蒸汽船に乗って御出になれる、又初から立派な洋服を着て向ふへ行かれると云ふ有様で、誠に私共が若い時の事に比較して見ると如何にもうらやましい訳である。
今日はどう云ふ学問をしようと云っても、各種の洋書が沢山に日本に輸入されて居るから、少しは価の高いむのもあるかは知らぬが、金さへ持って行けば直ぐに間に合ふ、又、翻訳書なども幾らも出来て居る、私共が洋行する時分には如何なる有様であったかと云ふと、堀辰之助といふ人の翻訳した薄いイギリスの辞書が、たった1冊あった。この辞書も翻訳の上に沢山間違ひのある辞書であった。
それは其筈である、当時はなかなか本当に英書を読み砕く者が無かった、其間違ひのある一冊の辞書と、頼山陽の「日本政記」とを携へて私共は洋行をしたのである。
鎖国論は「閉鎖の議論」と称していた
私の洋行をしたのは文久3年(1863)で、今を去ること三十五年前のことで、この時に私は今日の東京、当時の江戸を去って京都に行って居ったが、当時日本の国内の議論と云ふものは、なかなか今日の政党の議論や、又議会の議論なぞよりは、もつとやかましかつたやうに考へる。いわゆる当時、称して閉鎖の議論と言って居った、閉鎖の議論と称して居ったけれども、この開国の議論を唱ふるものが甚だ微弱にして、鎖国と云ふ議論が勿論勝ちは占めて居った、この鎖国の議論の当時の有様を今日例へて申すと、丁度、外交強硬政略と云ふものに頗る縁の近いのである。
何ぜかと云ふに、強い議論を云ふ人程、滅多に抵抗し難い議論はない、強い議論を唱ふる人程大手を振って歩ける議論はない。
しかしながら強い議論ほど又実行の出来難いものはない、依って私はここにちょっと歴史的の事を間に入れて、言葉を仮りて御話をしますが、彼の豊臣公の朝鮮征伐の時、明の大軍が押し寄せて来た時に、平壌に居る所の我日本の兵は最早戦ひ疲れて居って、到底兵数に対して見ても、亦糧食の数量に対して見ても、彼れの十分の二にも足らぬ、所が当事諸将の議論は城を枕にして討死をすると云ふやうな甚だ強い議論である。
強い議論ほど又実行の出来難いものはない
故に三奉行も大いに困って日々、軍議をするけれども唯一人退かうと云ふことを云ひ出す者がない。そこで小早川隆景は思慮のあるものだから、あれを呼んで相談したら宜からうと云ふことに評議がなって、隆景を呼んだけれども病気と云って出て来ない、なんでこの時隆景は出て行かぬかと云ふと、諸将が城を枕に討死すると云ふのは虚言である、虚喝である。あれはただ、自分達が強いと云ふことを装ふて、誰れか弱い事を言ひ出すのを待って居るのである。
是れは今出て宥った所が仕方がない、そこで隆景は窃に病気に事寄せて糧食の数量等を調べて見た所、到底十日は支え難い、所が諸将の議論は石を食ってやると、こう云ふことを言って居って、毎日軍議しても評議がまとまらぬから、隆景は巳むを得ず出て行って、諸将に会して、さて諸将の意見はどう云ふ御考であると云ふと、諸将は城を枕にして石を食っても討死する積りだと言ふ。
小早川隆景のインテリジェンス
そこで隆景の言ふに、今、諸将が言はるるに、石を食っても戦はねばならぬと言はるるが、此隆景が率ゆる兵卒は石を食っては戦へませぬ、又あなた方はこの少数の兵を以て彼の大軍と戦ふと仰っしやるがただ骨をこの地に埋めるのみが日本国の為であるか承まはらん。
誰れも一言もないなら、然らば兵を退くより仕方がないぢやないかと隆景が言ふと、今まで強い事を言ふて居った先生達が如何にも至極だと云って、石を食って死ぬると言うた先生達ちが其晩からコソコソ兵を退き出したから、隆景大いに憤って日く、是れは驚入る、兵を退くには順序がござる。無暗に兵を退くことは出来ますまい、兵を退くにはどうしても、ここで一戦、敵を挫いて退かなければならぬ、唯このまま明兵に追まくられて退いてはならぬ。是非一戦して退かなければならぬ、その一戦に付ては隆景、御引請申さうと言った、諸将は実に驚いた。
さうして彼の碧蹄の戦において彼れは実に摩利支天の如き勢を振って、僅に少数の兵を以て明兵を敲き挫いて、兵を順次に引上げたと云ふ事がある。
攘夷論の空虚
そこで攘夷論も丁度其通りで、えらい勢で外国人を打はらわなければならぬと云ふ。よろしい、それならどうして打掃ふかと云ふと、日本国の海岸一面に大砲を残らず並べて並べる、それならばその鉄砲の地金はどこから持って来るかと云ふと、お寺に釣ってある釣鐘を持って来て鋳潰すと云ふ、位が関の山であった。
また本当に開国論を主張する者がない。もし、開国論を本当にする者があると、立ち所に暗殺されるから、誰もする者がない、それであるから先づ開国の論をする者は一身をなげうつ、一身を投げうって然る後に国を開かねばならぬと云ふことになった、丁度、その攘夷論の焼点に達したる最中、私は西京に居った。その年であったと思ひますが、将軍家茂が上洛になって、加茂に行幸があった……………その前年であったか能く覚えぬが、なんでも将軍在京中に撰夷の廟議が極らなければならぬと云ふ危機で、程なく攘夷の勅誼が出るといふ喧しい際であった。
その時に是非、西洋へ行かうと云ふ仲間が出来た、今居る井上馨と鉄道に居たる井上勝とそれから山尾庸三、それと造幣局に居った、一昨年死んだ遠藤謹助と、私と都合五人であった。
所が私は攘夷論仲間に少し頭を突込んで居ったから、相談しなければなかなか出て行くことが出来ない、そこで巳むを得ず私は自分の志を久坂玄瑞と云ふ同志の人に相談した。この人は後に京都の騒動に死んだ人だ、此人に相談した所が、それはいかぬ、今日になって外国へ渡航なん云ふことは既に晩し、是非やめろと云うて止められた、それから是れは相談した所が連もいかぬ。
なんとかして渡航したいと苦心して居る所が、井上などは是非私を引張って行かうと云ふ考へだ、共時に私は東京に来なければならぬ用向きを言ひ付かって東京に来た。
さうすると後との四人も又東京に出て来て、是非行かうぢやないかと云ふから、それなら行かうと云うて私は一緒に出掛けた、私は亡命で、後との者は内命を蒙って出掛けた、しかしながら、幕府においてはこの海外渡航といふことは厳しく禁じてあって、横浜に這入って来るのでさへ大小を差してははいれぬ。はいるには大小を脱いで町人の姿にしなければ這入れぬと云ふやうに、なかなか厳重であった。
井上馨らと5人でイギリスへ密航
その時、東京の藩邸に村田蔵六と云うた人が居って、後に大村を改称し、維新後兵部大輔となり、後に此人は殺されたが、是れは古い蘭学者であって、屋敷内で教授をして居った。
それなどにも相談した所が、宜からう、行ったが宜からうと云ふから、それなら何分跡を御頼み申す、一片の書面を認め置いて出るから、お前に依頼すると云つて私は出て行った。
行く時にどうして行ったかと云ふと、どうも外国船に来るには外国人に付て依頼しなければ連も出来ぬ故、丁度其時、横浜運上所のそばにイギリス一番の商館があって、前から両三度も行って知って居るから、このイギリス一の方へ頼って、さうしてガールと云ふ人が日本語に能く通じて居るから、それに依頼した。それなら宜しい、私が船に乗せて上げませうと云ふことになった、そこで五人で五千両持って行ったから、それを横浜の弗(ドル)に交換して貰った。交換して貰ったら丁度八千弗になった、五千両の金が八千弗になった、其金は途中入費の為に少しばかりづつ、各々用意金に懐中して大部分は、もちろんガールの方へ頼んで為換して貰った。
さうして神奈川の台に今の高島嘉右街門が住んで居る、丁度あの下の所に下田屋という茶屋があった、ここは長州の出入りの者にて長州人が始終休む茶屋である、そこへ行って大小を脱いで町人の鉢になって横浜に這入り、或る宿屋に泊って居って、そうして窃に西洋人の店へ買物に行った。
その時分は横浜は今のやうに、なかなか町を為して居らぬ、あっちに離れ、こっちに離れて、チラパラ家がある、そこへ行って襦伴を買った、洋服と云つても水夫の着るやうな古着ばかりよりないから、仕方なしにそれを買った、それから靴を買った、所が片一方の靴に両方の足が這入るやうな大きな靴で、殊に其時分はまだ髷(まげ)をみんな結って居るときであるから、服を着て靴を穿いた、其様子は実に妙であった。
それから上海へその頃、始めて蒸汽船が通ふことになって、それで今晩乗せるから夜中時分にイギリス一番に来い、船長が食事をするから食事が済むと船へ連れて行って乗せてやるからと云ふことであった。
なんでもイギリス一番は今でもある、あすこの塀の中に小さな山がある、その山の所に来て待って居れと云ふから、そこの庭のへ隅に屈んで居った。
この待って居る中に各々は斬髪になった。当時は洋学医者には撫髪と云ふのはあったが、元服頭がにわかに斬髪になったのだから、実に妙な様子であった。
さうすると食事が済んで、最早十二時にもならうかと思ふ頃、ガールがでて来て言ふのに、能く船長と談じたがどうも幕府の禁制の人を連れる訳にはいかぬ請合はれぬといふから、いやそれはどうも困る。もはや頭は斬髪になり、こういふ姿になって居るから、ここで連れていかれなかったら、必ずこの姿で外へ出れば疑われるに違ひない、それならよろしい腹を切る、どうせ縛られて殺されるならここで腹を切るといふ一同決心をした。
腹を切ると談判して船に乗せてもらい上海に
さうしたらガールも驚いてそれなら少し待って呉れと云って、奥へ行って段々談判になって、遂に連れて行くといふことになった。なんでも夜の二時頃、人静まって四隣寂莫たる時、船長は先きへ行って仕舞った。ガールは私共を案内して連れて行くのに、ビクビクして運上所のある其前を通らなければならぬから、なんでもよろいから日本人に分らぬやうなことを私が英語で話をするから、お前達運上所の前を通るとき、大きな声で話をして来いといふから、それから其教への通り大きな声でなんだか訳の分らぬことを言って、この運上所の前を通って、波止場に行った。
するとバツテーラが着して居って、それに乗って本船に行った、所がまたこの所に運上所の見張りが居るからそれに見付られては溜らぬからと言ふので、蒸汽船の蒸汽釜の側に入れられて、出帆するとき、そこに屈んで居った、間もなく夜が明けて観音崎あたりまでやって来ると、出てもよろしいと云ふから甲板に出た所が.横浜を出てから上海に行くまでの間は非常な暴風雨で、波が荒いので、船中でロクに物も食ふことが出来ぬといふ有様であった。
それで上海に着して久し振りで陸地を歩いて見たが、流石は外国の居留地などは余程能く行届きたるものである。そこで我々一行の中に多少英語の分るのは鉄道の井上で、外は皆分らぬから井上を以てこれれからどうしてヨーロッパへやって呉れるかと聞いたら、ヨーロッパに行く船便のあり次第乗せてやるといふことであった。
なんでも今考へて見ると、上海の河に繋泊して居る航海の出来ない蔵船に乗せられたと思ふ、阿片を積んで置く蔵船に使ったものと思うが、その船に乗せられた、食物はパンと洋食の食ひ残りで、犬にでも食はせるやうなものを食はされた。
併し時々上陸もすることがあって、イギリス一番の代理人をして居ったケセキといふ人が折りおり呼んでは御馳走をして呉れた。上等の御馳走といふのではないが、マズイものばかり食って居るから非常な御馳走のやうに思はれた。
さうして書物などを呉れたり何かして今にヨーロッパに送ってやるからといふことであった。ところが向ふでは小児の如く思って居るが、こっちはどうかと云ふと、私は旧暦で二十三歳、井上は私より六つ歳が上だから二十九である、鉄道、井上は私より一つか二つ下だ。
遠藤、山尾は私より三つか四つか上であるが、なかなか日本では子供どころではない、やかましい議論をやって、大騒ぎをやって居る者が、向ふでは誠に小児の如く取扱はれることになった。それから丁度、そ頃に支那よりヨーロッパへ茶を積んで行く船があった。今で考へるとなんでも一千四五百トン位の商船で、三十間ばかりの長さの帆前船であったと思ふ。
4ヵ月かけてイギリスに渡航
それへ大きな方の井上(馨)と私が乗せられた、どう云う所に乗せられたかと云ふと、船に舳(へさき)がある、其舳先の側にちょいとした水夫の部屋がある。東側にちょいと二段になって居る所がある。そこへ二人押し込れたが、もとより我々を待遇する所には尋常の厠(トイレ)はなし。
用あるときは舳先の地の横に桁が出て居る、そこで皆厠の代りをすることであるが、激浪の時には身体、潮水に湿れて実に困り切った、それから後との三人は一週間余り遅れて外の船に乗った為に、なんでも中等の船客位の扱ひを受けて食事する時なども食堂に出て一緒に食はされたようである。
我々の方は船の乗込みの者が食うた後とでなければ食はせない、勿論、水夫と一緒には食はせなかつたが、船乗りにでもなるものとでも思ったか、水夫からでも教へる積であったか、雨の降ったり、何うかすると水夫の手が足りないと、綱を引く手伝いなどを水夫と共にさせられた。
さうして朝寝でもして起きていかぬと、水夫が綱の先きを持ってピシャピシャ尻のあたりを打って、日本人起きろと云って来る、大変苦んだこともある。それで当時はまだスエズの掘割(運河)を通るといふやうな訳にいかぬで、喜望雌を回って行くというような有様で、上海を出て以来ロンドンのドックに入るまでの間、どこへも着いたことがない。
ほとんど四ヵ月近くの歳月を海上で費した、それで土地に沿うて行ったかち喜望峰の土地も見えれば、彼のナポレオン一世の流されたセント、ヘレナの如きも皆目の前に見える、けれども寄れば日数も掛るし、入費も要ることであるから寄らぬ、唯頗る難儀をしたのは水である。
水は天水を取って居る、桶をならべて天水を取って居るのであるが、雨の降らぬ時は飲用水に困難をする。食物は何だと云ふと、乾からびたビスケットで、中にウジのわいて居るものと、それから樽詰の塩牛の角に切った、それを食ったり、一週間に一遍、豆の汁を吸ふが最上の馳走である。
そこで乗組みの人や何かの話しに、英語を覚えなければちっともいかぬと云ふし、まだ其時分は二人は英語が分らぬから、この航海中に苦し紛れに堀辰之助の字引によって頻りに研究した。その為にロンドンに着いた時には多少、水をくれ、湯をくれといふやうなことは楽に言へるやうになった。さて船はまもなくロンドンのドックに這入ると、向ふに運上所(入国管理事務所)の役人が居って、それが来て一切の荷物より小さな手回りのものなどを残らず調べる。
乗込入の方は一人も残らず上陸せしめた。さうして船は全く運上所の役人の保管となった。これは所謂禁制品などが隠しちやないかといふことを調べる為であったと思う。井上はその朝、船の炊夫と共に上陸した。私は共時一人で残って居った。所が出て行ったのは宜いが、晩方になっても帰って来ない。追々、腹は減って来るし、茶を呑むことも飯を食ふことも出来ない。
こちらを見れば運上所の役人が、きつと容儀を正して居るのみで誰も居らぬ。まさか運上所の役人に空腹を訴ふることも出来ず、困ったものだと思って居る中に、予ねて日本に来て居った英一の持船の船長が私を迎に来た。それから直ぐとタワー、オブ、ロンドンという所に行って、「アメリカン、スクエアー」に旅宿をした。ここはおもに船乗りの泊る場所である。
翌日其人が風呂屋へ案内して呉れて、ちっとは身なりも奇麗にしなければならぬからと云って、理髪店に連れて行かれ、仕立屋へも連れて行かれ、それから靴屋へも連れて行かれて、ようよう一人前になった。
まだこの時まではあちらに日本の書生といふものは居らなかった、我々が書生(学生)として行ったのが一番初であった。そこで英一の書記が其後「プロフエッショナル」などの所へ連れて行って、どうだいお前の所へこの日本人を預って世話をしては呉れぬかといふと、何分日本人は初めて見た位であるから様子が分らぬと云って段々受付けられぬ所もあった。
ロンドン大学の化学教授の世話になる
しかし、とうとう仕舞ひにロンドン大学の化学専門の教授をしておるドクトル、ウィリアムソンという人の世話になることになった。井上と山尾は別にある画工の家に行くことになった。私はそこにおった所が、毎日のようによく世話をして呉れる。ウィリアムソンの妻君も能く世話をして呉れて、学校の先生だから朝に晩に来て教へて呉れる。
さうして日々、学校に行って、あるいは電気の世話をしたり、それから管を吹いたり色々のことをやる。その間に一方では算術を教へて呉れ、一方では言葉を教へて色々の物を書かせるけれども、なかなかタイムス新聞を読むといふ理屈にはいかぬ。
所が家内の中で新聞を読む者があって、お前日本はどこだといふから、長州だと言ふと、長州といふのは下の関ではないか、下の関では外国船を砲撃した、そうすればお前の所だらうと言ふ、どんな事が書いてあるかと思って、井上にお前もう一遍能く読むが宜いと云ふと、是れはなかなか容易ならぬ本当だ、「バアリヤメン」(野蛮人)でもどうしても征伐しなければならぬといふ議論があると云ふ。
そこで熱々考へるに、ヨーロッパの形勢を見ると非常な開け方である、日曜の休みの時などにキエウガデンの天文台や、グリンニッツチの大砲製造所や、軍艦製造所とかいふやうな、大概、ロンドンのさう云ふやうな大きなものは見せられた。
「きっと国が亡びるに相違ない』の危機感から
そこでこれはどうもこの文明の勢であるのに、長州などが攘夷を無謀にしようというのは以ての外だ、思ひもよらぬ、これは此有様で打捨てて置くと、取り返しの出来ぬことが起る。きっと国が亡びるに相違ない。我々はかりにここで学問をして居って、業成るも自分の生国が亡びて何の為になるか。
これは我々の力を以て止め得るや否やは分らぬが、身命を賭けても止める手段をしなければならぬといふことに井上(馨)と私と二人が決心して、それから直ぐに山尾に鉄道、井上と遠藤の三人に向って貴様等三人は残って居って我々五人がヨーロッパに学問をしに来た志を継いで学業を遂ぐるが宜いと、固く約束して私と井上は分れた。
然るにウィリアムソンはなかなか心配してやかましいことを言ふ、聞けば、もっとものように聞えるが、お前達ちはまだ青年の身分であって国へ帰った所が何程の効果はない。詰りお前達は学問をするのが嫌やになって、さういふ口実を設けて帰るのだらうと言ふけれども、そんな勧告でやめられるべき筋ではないと云って、断乎として帰ると言ひはなった。
そんなら仕方がないから帰るが宜いと云って、また船に乗せて貰って喜望峰を回って帰って来たから、思ひの外に日数が掛って、上海に着いたのが子年であって、最早その頃にはちょっと話しは出来るから、段々様子を聞いて見ると、近日、馬関へ砲撃に行くらしい、そりゃお前達連も帰っても間に合わぬといふ話だ。
しかし、折角帰る積でここまで来たからどうでも帰ると云って、長崎には船が寄らないからその船で横浜に帰って来た所が、あに図らんや長州邸は焼かれ、長州人は東京の屋敷を追い払はれて、長州人と言へば、広き日本国中を歩くことも出来ぬといふ有様であった。
もちろん二人は帰途船中で頻りに談じて、帰ったらどうしようか、こうしようかと語り合って、先づ当時日本の識見家である佐久間象山、あれが信州に居るから、あすこへ行って一と面会をして我々の所見を談じようといふことに決して、横浜に帰って見れば、なかなか容易ならぬ形勢で、日本人が船から出たと云ふやうな事が知れては一身が危険であるから、ハリソンと云う人が英一の関係から知って居るから、其人に頼んで西洋人の泊る宿屋があるから、そこに泊めて貰うた。
さうした所がそれに通ふに便が日本人であるから、ハリソンの言ふには、どうもお前達日本人と云っては危ぶないから、ポルトガル人と言ふが宜からう、さう云ふ事にしよう、併しポルトガルというたばかりではおかしいからなんとか名字を付けなければならぬと云って、私にデポナーと云ふ名を付けた。
イギリスの公使に泣きつこう
井上はなんと云ふ名だったか覚えぬ、さうしてその宿屋に泊って居って色々考へたが、どうしても陸路では長州まで帰ることが出来ぬ、出れば必ず捕へられるに相違ない。金は少々は持って居ったが、金は何んの用もなさぬ、去りとて海路を取って行くの便なく、殆んど策に窮して居った。
そこで段々様子を聞いて見ると、最早十日を出ずして各国の軍艦が下の関を砲撃に行くという話である。軍艦は幾艘かときくと、十八艘だといふ、是れは到底仕方がない。
それならイギリスの公使に泣きつかう、身をイギリス公使館に投ずるより仕方がないと覚悟をした。その時は横浜に公使館があったので、直ぐにウオルコックといふ「ミニストル」の許に行って頼んだ。
この時は今のサトウも、シイボルトも、ラウダも、皆居って大概、日本語を知って居った人のみだから誠に宜かつた。ウオルコックの所に行って、実は私等ほ「プリンス」から言い付けられて、ヨーロッパに行って居ったが、この度戦争が始まると云ふことを聞いて容易ならぬ事と考へて帰って来たが、この戦争を止める積りである。
私共、其位の言い分は貫くから、どうぞ私共を長州まで送って呉れぬかとこう頼んだ。所がそれはお前達が帰った所がちっとも長州の勢は止らぬ、最早こちらでは大概極めて居るからと云う論であったから、マーどうぞ私ども折角ヨーロッパからその為に帰って来たのである。
私共きっとこの戦争は止めて御目に掛ける積であるから、是非どうか御依頼を申したいと懇々言った所が、それでは待って呉れ、一つフランス、アメリカ、オランダの公使にも相談しょうといふことになって、この各公使とそれから、イギリス、フランスの水師提督なども会合して、こう云ふことが起ったが、どうであるか、是れを送ってやるかどうかといふ評議になった。
アーネスト・サトウも一緒に長州に入る
その評議でさう云ふ訳なら強て戦争を好む訳でないから送ることにしようと云ふことになって、その席へ来いと云ふから其所に行った、さうするとお前達は送って呉ろといふから送ってもやらうが、船は何地に着けようかと言ふから、海図を出して長州の海岸へは砲撃の虞あれば、船が着けられぬから豊後の姫島に着けて呉れと頼んだ、宜しい着けてやる。
そんなら其返答をするに何日掛るかと言ふから、何日と云ふても其地から山口に行って、また姫島まで帰って来なければならぬから、どうしても往復の日数が掛るから、どうぞ二週間待って呉れ、評議もしなければならぬからと言った。所が一週間より待たれぬ、待って呉れ、待たれぬと云ふのでとうとう十二日間待つと云ふ約束をして、乃ちイギリスの軍艦一般とフランスの軍艦一般と都合二隻で送られた。
サトウもこの時一緒に行った、さうして姫島に着いてから私共両人は漁船を雇うて周防の国の戸海と云ふ所に行った、三田尻の直き近辺であるが、船着きだからそこに着けて呉れと言って戸海に上陸した。ところが長州はその時は攘夷論の極点に達して居る時で、男子は勿論、婦女に至るまで白鉢巻で袴をかけて長刀を使ふと云ふやうな騒ぎである。
ところが我々は散髪であって、漸く人に頼んで横浜で単物を一枚買って貰ったきりで、大小を差したり袴を着けたりするやうなことは出来ぬ。それから戸海から三田尻といふ所まで二里ばかりあるが、そこに代官をして居った湯川平馬といふ男を知って居るから、早駕籠で行って実は斯ういふ訳で帰って来たのだから、山口まで急に行かなければならぬ、それまで身体が安全に保てぬと困るから、どうぞ貴様に頼む、やって呉れぬかといふと、それならやつてやらうとなって、そこで袴羽織に着物と大小を借り集めて揃ったが、山口に這入るには途中に関門があってなかなか厳重だ。
命がけで藩にヨーロッパ、軍事力を説明
その当時は攘夷論なり、幕府に反対するなりで、他から探偵などに這入って来るやつを厳しくやっておるので、鑑札がなければ通れぬ。ようよう代官から鑑札を貰って、夕方に山口に着して、その晩、宿屋に泊って、翌日君側の役人をしておる毛利登人といふ者に逢って、予ねて知っておる人であるから、実はこうこう云ふ訳で帰って来たのだから、君公の前に出て殺されても宜しいから、どうかあわせて呉れと云ったら、大きに驚いて、マー能く帰って来た、この国難の時に当って能く帰って来た、早速君公に蓬はせてやるから安心せよ、それは誠に有難いと云って宿屋に帰って、翌日呼び出しになって家老、始め列席の所に於て尋ねられたから、なんでも四時間ばかり先づ地図を指して我々の耳目に見聞して居るだけのヨーロッパの文化の形勢をいふより仕方がないと思ってその事を述べてそれから今、正さに横浜に集って居って馬関の砲撃をなさうとする所の十八隻の船はかくの如き構造である、大砲の数は幾門、弾薬はそれに応じて備えてある。
且ツ一切の兵器の備っておることも述べて、是れに抵抗して戦争をした所が勝てる目的はない、のみならず毛利家が僅かに一藩を以てこれに抵抗して何等の益があるか、それよりは寧ろ立で和睦して、王政を復古して、日本の国力を統一しなければ、外国には抵抗することは出来ぬといふ議論であった。
長州藩はヨーロッパ共通の敵
所が横浜を発するに当て各国の公使から毛利公にあてたる書翰を出して、お前達、帰るなら持って行って呉れと云ふから受取ったが、この手紙の中に何が記してあるか分らぬ、うかつにこの手紙を出すことは出来ぬ、出せば西洋人の御便に帰ったとしか見られない、不徳義かは知らぬがこれは出さぬと極めて握り潰した。その手紙にはヒドイことが書いてある。
長州は関西十一国の諸侯と共同して日本和親を結んだ各国に対してゆえなく砲撃を加ふる、かくの如き所為は世界のコンモン、エネミー(共通の敵)と認める、公敵はそのままに差し置かぬから近日、各国申合せて軍艦を送って砲撃する積である、併ながら殿下が…其時分、プリンス、ハイネスを用いて居るが……殿下の命を以て欧州へ学問をさせに道はされてあった、両名の青年は自国の危難を救はむとて、わざわざ帰って来て各国公使に申出たに依って、殿下の許へ送る、付てはこの送るだけの好意に対しても各国が敢えて長州の砲撃を好むものでない、故なく戦争をするものでないと云ふことが、御推察が出来るだらう。
併しながらそれに拘はらずおやりなさると云ふことなら致し方がない、砲撃する、砲撃した以上はどうするかと云へば、かって英仏両軍が合して北京に攻入った如く、天子の勅許を請ふて開港するより外ないと斯う云ふ文章であった。
それは私は出さなかったが、さう云ふやうなことも一々私は話をした、所が久し振りで座ったものだから急に君公の側を立つことが出来ぬ、それからマア座って評議の模様を見て居ったが、どうしよう、斯うしようと云ふことでなかなか急に決せられない。
そこで我々は旅宿に退きたり、井上は山口で私は萩だから、なんでも御互にない命だ、三日保てるか、四日保てるか分らぬから、とにかく、父母に久し振りで逢っていとまごいをして来てはどうかと云ふから、それなら行かうとなって出て行った。
彼是れする中に議論が動いて来た、動いて来た時に、先鋒隊というて君側を警固して居る隊から、是りや井上、伊藤がヨーロッパから帰って来て色々の事をいうた為めに、藩議が動くことになったからあれを置いてはいかぬ。
伊藤、井上に暗殺隊せまる
今夜、暗殺するという事になった、そこで井上は言ふに、我々は折角、帰って来たが志を得ずして人手に掛っては遺憾だから自殺すると云ふから、私は井上に向ってそれはいかぬ、最早どうせ斯うやっておる以上は人手に掛っても仕様がない。
若し今夜来たら多勢に無勢でも刃向って切り死をしようということに決して、腹を切ることは止めた。さうした所が幸に藩から先鋒隊を制したために暗殺と云ふことも止んだ。その当時長州に騎兵隊と称する攘夷隊あり、元は高杉が作りたり、山県も其内に加はわり居たり、高杉と云ふものはその後政府の役人であった。皆懇意であった。
高杉は故ありて、我々帰国の当時牢に入って居る時であった。騎兵隊の連中は時々やつて来て君等は以前同志だから仕方がない、同志だから殺す訳にいかぬといふことで、そのお蔭を蒙った。今の改進党自由党の間にもさういふ訳があるかも知れぬ、それから段々する中に日限が経過する、其間に余程危ぶない事が沢山あったが、細かいことはよして大体を御話するが、十二日間といふ日限が切れるといふ事になって、軍艦は待って居るし、どうしても返答をしなければならぬ。
どうしたら宜からうと云うてその間に政府の役人と相談したけれどもどうも極らぬ。それが到頭日限が切迫して返答に行かなければならぬと云ふ場合になった、その中に山口の政事堂という参政の会する、即ち今日の内閣といふやうなものが開かれておって、その政事堂で相談して、抑々長州が攘夷をやるにも勅命で朝廷の御意を奉じてやったのであるから、この攘夷といふことをやめるに付ても朝廷の命を伺はねば私にやめる訳にはいかぬ。
何れ長門守上京天意を朝廷に伺った上で御返答申さうから馬関へ来ることは三箇月猶予して呉れ、併しそれも聞かぬといふことなら何時でも戦ひの用意をして御待ち申さうといふ返答だ。
それからこの返答では実に外国人に約束した通りにいかぬから甚だ困る、井上とも相談した所が井上の言ふに、どうもさう云ふ訳の分らぬ返答は幾ら外国人と云つても出来ぬぢやないか。
しかし、それもさうだけれども、かくよりこの返答をした方が増しだ、それなら行かうと云って、今度は三田尻より船に乗って姫島に行った。丁度十二日の日切りの満つる前夜、正に明朝出帆しょうと云ふ其晩に着いた。
アーネスト・サトウから「生きていたかと」シャンペンで乾杯
確か、この事は「ブルー、ブック」の中に出て居ると思ふが、サトウに逢うたら能く帰って来た。辻もお前達は活きて居らうとも思わぬだったと云らて、シャンパンを抜いて出して、談しはどうしたといふから、色々尽力をして見たが連もいかぬ、手紙の返答はといふから手紙の返答は別にないと斯う言ったら、受取一もないかといふから、受取もない。
即ち孜々の生命を以て御返答申すと言った事も「ブルー、ブック」に書いてある、そんなら今度何れ弾丸雨注の間に御目に懸ると云ふやうな話で、悄然として我々は分れた。
それから国へ帰った所が、丁度其時、長州では三条公以下七卿を連れて、さうしてこの間死んだ元徳公長門守と云った人が京都に出て行かうといふ騒ぎになった。既に京都には福原、益田、国司の三人に、それに木戸なども居った、さうして戦争を今にも始めようと云ふ容易ならざる所へ、三条以下七卿が出て行くと云ふことになった。
その出て行くのは、表面は哀訴歎願、哀訴歎願だけれども、許して呉れといふ話でなくって、朝旨を奉じてやったと云ふ弁疏的のことである。其実どうかといふと、兵を交へるといふ仕掛だ。
所が近時著さるる維新史料といふ歴史を詮索するに、あの中に書いてある事で我々の知らぬことが一ツ出て来た。其中に長門守上京の趣意はどうだといふに、井上聞多、伊藤俊輔が近日ヨーロッパから帰って来て報告する所に依れば、容易ならぬ外国の景況である。
軍艦を率ひて摂海に乗込んで開国の勅許を迫ると云ふことだ。実に国家重大なことであるから出て行くと云ふやうなことで、我々の帰ったのが口実になって出て行くやうに書いてある。此事は当時聞かなかった、此間も井上とも話したが、御互ひに知らぬことで、是れは全く藩吏が出したものに違ひない。
所が先刻御話をしようと思った、清水清本邸と云ふ家老があって、この清水清太郎といふ人の先祖は清水長左衛門といふ、彼の高松城水責めの時腹を切った、あの家で一日私の話を聞きたいと云ふから、話をした所が貴様の話は如何にも尤だと同意した。この人はどっちかと云ふと、小早川隆景流の男だが、貴様の話は尤だ、今日より貴様に同意する。
而して攘夷心は五十年の間、腹の中に納めて置くから直ぐ京都に行って呉れぬか、今あすこで事を起されてはどうもならぬ、京都に行って宍戸左馬介等と談じて、なんでも貴様の量兄で話して呉れ、どうか攘夷論を止めさして其勢を以て王政復古をやれと云ふから、そんなら宜しい、行かうと云って備前の岡山まで来ると、京都より戦争をした敗兵がヒヨロヒョロして帰って来るに会った。
三条以下七卿は海路播州室の津まで来て引返したと云ふことで、仕方がないから私も三田尻に帰った、所が君公には会議を開くといふことになった、京都で負けたので余程長州の形勢も変じた。
決断できぬ長州藩、時間切れで戦争へ
馬関に軍艦を引入れてもう一戦やるのは甚だ困難だから、何とか之を防ぐ工夫はないかといふ議論になった、夫はムヅカシイ今日になっては…併しやって見ようか、当時、横浜に行かうといふのはムヅカシイから、長崎に出て行くより仕方がない。
それなら工夫して見ようと云って、僅の日数の経過した中に、姫島に十八艘の軍艦が来た報知のありたる其夜、山口の宿屋に泊って居った所が、今、兵庫県の知事をして居る周布の親父の政之助、是れが我々が帰った時には蟄居させられて居った。
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