辛亥革命(1911年10月10日)百周年ー『孫文の辛亥革命を日本の新聞はどう報道したのか』①
辛亥革命(1911年10月10日)から百周年
―逆転した今後の日中関係を考える基本歴史情報②―
『孫文の辛亥革命を日本の新聞はどう報道したか』①
孫文・サイゴンから革命軍を指揮〔明治41年2月22日 東京日日〕
孫逸仙の率ゆる革命軍及び一部の暴徒は陰暦一月七日、既に廉州を占領して、彼が煽動せる遊勇及びその他の暴徒は、露結山脈(支部、安南の境)の北麓に沿うて進軍し、江州、羅白の間に出没し、ために安南江の水利は全く暴徒の占有する処となれるがごとし。
更に
同江の溝口、三口、浪州近海に遊よくせる支那軍艦は、しばしば上陸して如昔及び古森附近に出でんとせるも、沿道土民の反抗はなはだしきにより、掠奪、殺傷をほしいままにして引き上げたるを以って、附近一帯荒廃せり。故に同軍艦の兵員は広西の民心を失い駐屯しあたわず、わずかに南寧に引き上げたり。
しかして暴徒は、鎮南の道台を縛もて孫逸仙の命を待つ者のごとく、城内外に約一万八千余の徒党、跳梁してすこぶる喧騒を極めしも、土着人の避難、逃走は全くなかりき。けだし同地に仏人の宣教師、家族と共に客住しっつありしが、事変の当初、一時安南に引き上げ、この頃再び釆住せり。
かくのごとき有様なるを以って、支那官憲は策の出ずるを知らず、ついに仏国官憲に請うて、孫逸仙の捕縛及び同氏に附随せる数十人の内外人を放逐せん事を要求せしに、仏国官憲は、一に兵力を以って広西の地に屯在せる革命軍及び暴徒を討伐せんと答えしかば、支那官憲は絶対にこれを謝絶せるを以って、仏国官憲もその懇請を容れずサイゴンに在る革命党員の宿舎には巡らを立哨せしめて清官の刺客を防ぎ、かつ同党員の行動にはいっさい放任してそのなすがままに任せ置き、また市内の秩序を保たんため、支那官憲の刺客及び行為の疑わしさ者は厳重に査弁せり。
これを以って支那官憲ははなはだしく仏国官民の処置に掃忌し、公然サイゴンの警庁に就き孫逸仙の引き渡しを要求せしに、警庁は戸籍簿を示して、高野長雄なる者は日清いずれの人たるや知らざるも、現に某街に支那人と一緒に在るの外、孫逸仙なる者は在住し居らずと答え、嘲弄的に拒絶せり。
しかして仏国人の人気は痛く孫氏に同情し、訪問引きも切らず。同地二、三の新聞は、筆を揃えて同氏の人物を称揚せり。孫逸仙は目下サイゴンに在りて、党人の行動を指揮し、更に数十人の フイリビン旧独立党の敵将等と合同してシンがポール及び香港に向かって去り、他の.一部は山塞に入りしもののごとし。
当初フイリビン人の投合するや、仏国官民は日本人ならん事を疑い、孫氏に訊問する処ありしも、そのしからざるを知り、今は敢えて怪しまざるに至れり。この頃孫氏は、兼ねて香港上海銀行に蓄積せる銀三百五十万元を引き出して、これを分配せるを聞きしが、今後に於ける行動は大いに目覚ましかるべし。
また頃日香港に於いて泰和洋行の所有に係る輪船(千六百七十トン)は、常に革命党負と目せられ居る豪商李某購買せし由にて、これがため香港及び襖門 マカオの風聞、非常に喧しと。
活動の時来たる、革命党は孫文の命待つ〔明治41年11月17日 東京朝日〕
今回の清国凶変に際し一問題となり居れる革命党の動作は、大いに注目すべきもの.あるを以って、記者は在京中なる革命党領袖某を訪問せしに、その談にいわく。今回の北京変事は必ず尋常の出来事にあらざるべく、何者かの陰謀に出でしものならんと信ぜらる。
吾人はこれを以って、活動すべき時機到来せりと信ず。しかれども1言断わり置くべきは、日下東京に在る革命党員と称するものは約八百名内外あるも、真の党員なるものはその内僅少のみなれば、我が党員が東京に於いてなんらの企画をもなせざるは余の断言する所なるも、一首領孫逸仙の一命によりては、党員は直ちに某地に去りその命に赴くべし。
由来世間一般には、革命党は統一を欠けりとの誹謗もあれども、いよいよ大団を組織する場合には、必ず統一し得べき準備成り居れり。なお果して革命党が今回の機に乗ずべきや否やは疑問にして、そのlいずれの時に乗ずべきや一-は未だ予測しあたわず。とにかく北京政府の革命党を恐るる意外にはなはだしく、現に端方総督のごとき、徐錫麟の恩心巡撫を巣せし以来、北京政府と相呼応してその撫査に腐心しっつあるは事実なり。
現に在京党員の動作を探らんがため、該総督は年数万両を投でて細作を渡来せしめつつあり。壷するに今後の北京政界とともに、我が党の世人に注目さるるは当然の事なりと信ず云々。
京都滞在説に警察動く〔明治41年11月19日、東京朝日〕
清国革命党首領孫逸仙は、十七日夜、其方面より入洛したりとて、京都府警察部を始め市内各署にて物色しっつあるも、その所在を探知し難し。なおこれに関連して、一昨年来京都市に遊学し居れる清国人劉方義なるものあり。
光緒十五年の生れにて、清国四川省寓遠府の出身なるが、入洛以来、上京区出水通り室町西へ入る旅館井尻増蔵方に下宿し、染色学校へ通学し、、常に傍若無人の言論を弄し居れり。
彼を知れる者の談によれば、同人は昨年、清国公使館に血書の請願書を送り、一学資補助の事を迫りたる外、一箇月以前、同人の友人なる張農(三十二)は、今出川通り室町岡本与三郎方に下宿せる同国人の許にて、本国に向け一種の血判状を発送したる事実確実にして、午の他にも同人が、満洲政府の転覆は近さに在りとの語気を洩らしたること一再ならず、
殊に最も怪しむべきは今回清国大事変数日前、すなわち去る十三日、下宿を引き払い、前記張と共に帰国の速に就き、なかんずく同人等出発の前、東京某方面より張の名義を以って金三百円を送付し来たりたるなど、かれこれを綜合すれば、今回の変にはたといなんらの関係を持たずとするも、孫逸仙の入洛説を耳にせる折柄、由来劉方義と革命党の間になんらかの連鎖あるべしとしきりに風評されつつあり。
一挙手一投足に清朝、脅える〔明治43年6月30日 郵便報知〕
清国革命党の主領孫逸仙が、桑港(サンフランシスコ)より孤影瓢然、横浜埠頭に現われしは六月初旬なりし。彼が東京に潜むこと約一ケ月間、怪傑は六月前、再び瓢然として香港方面に去りぬ。
肝胆相照らす 胸に熱烈火のごとき革命思想を抱いて、しかも事成らざる事ここに二十有余年、老いたれど熱烈なるその志想は更に枯れず。時は去ぬる明治三十三年、南洋の孤島フィリピンの英雄アギナルドと、日本政府の知らぬ間に東京の某所に相会して、一大密約を締結し、清国革命党を提げて、アギナルドの愛国心に満腔の同情を注ぎ、フィリピンの独立に、彼の全勢力を挙げて援助せんと握手せし事あり。
当時彼は日本の一政客・平岡浩太郎と親交あり、彼は平岡に向かい、ああフィリピンにして一たび米国の手に人らば、マラッカ海峡以南の東洋諸国の危険知るべからずと豪語せり。しかるにアギナルドの目的はついに達せられずして、孫の同情もあわれ水泡に帰し、延いてかの布引丸事件さえも惹起しぬ。
当時この布引丸事件に就いての孫の態度と行動は、真に高潔にして堂々たるものありき。ああ孫逸仙なる名辞が、一種尊敬の意を以って迎えらるるに至りしは、まさにこの時より始まれり。
かかる性格を有する孫が、今は米国政府よりほとんど国賓に近き待遇を受け、巧妙なる外交政略の下に、手も足も出せぬ義理合いに悶えつつある彼が、アギナルドの住む北米に志して航せしは、いかなる意義が含まるべき。
全世界の一勢力
しかるに孫逸仙が昨年の初め、英領シンガポールに潜める頃、清国湖南に暴動突発せりし暴動そのものは極めて小事件なりしといえども、その声の大なることは相場にも影響する所ありたり。その理由は、単に孫がシンガポールにありしというに止まる。
それをみても孫の一挙一動は清廷をして恐怖せしむるのみならず、今や彼の行動は日,英、独、仏、米の列国に一種の疑惧を与えほとんど列国環視の状態にあけ。彼の勢力が侮るべからざるものある事勿論なるも、実に不思議なるは孫逸仙が行く先々の各国は、たちまち北京政府と各国との外交談判に故障を生じて、必ず行き悩みの状態に陥るを常とす。
しかして清国は孫をたずねもとめて、一族絶滅の酷刑に処せんとし、また北京政府は各国政府に書を寄せて、彼の逮捕を依頼し来たることしばしばたり。かくのごとく、孫は現に世界の一大勢力たるは事実なれども、果して彼は兵を湖南に挙げて、革命の目的を達し得るか。
有力なる後援
去歳、彼は同志を訪うの名目の下に、一湖南の秋風に送られて仏国に飛べり。この時仏国政府は、裏面に於いて革命志士として優待しぬ。居ること一、二ケ月にしてハワイに転ず。ハワイには孫逸仙に資金を貢げる富豪の実兄ありしが、不幸にも既に破産して失意の境に沈倫せり。
孫はこれを訪うて、その冬更に米国に渡れり。しかるに米国政府の待遇法は、アギナルドのごとく公然ならざるも、孫逸仙をして満足の笑みを漏らすだけの優待を尽したり。されど巧妙なる外交政略は、孫をして目的を達せしめず、英雄アギナルドにも会せずして、空しく引き返すに至れり。彼が横浜に姿を現わせしはこの時なり。
その時在日本の革命党員は云う、「我が党は有力なる後援を得たり」と。その一語を事実とせば、革命党が兵を挙ぐるは近さ将来たら
んか。しかして有力なる後援とは、いうまでもなく西半球の某大国を指すなり。
眠れる獅子か
某国が清国革命党の傀儡師となりし.とは恐らく虚偽ならん、これもとより党勢拡張の策略に出でしのみ。更に彼等党員の口癖のごとくに誇る、「事を起すは清国軍人に在り、起ちては一時に、各方面より一時に旗を翻えさん」と。しかも清国各省の陸軍に於ける枢要の軍機を掌握せる人物を見れば、すべ七満洲派の出身者にて、革命党所属の軍人が陸軍の実権を捏ちんこと、得て望むべくもあらず。
「孫逸仙は革命売買」なりの一語、実にこれ適評、彼は各国を一巡しては必ず万金を携えて帰る。ああ常識を有し、行動の高潔なる、しかも革命鉄火の洗礼を受けたる彼孫逸仙とその一派は、常に事を湖南に挙げて、革命の旗を翻えすことあたわざるべし。あたわずといえども、この眠れる獅子が一たび躍起して清国に号令せば、
列国の恐るべきボイコットは強烈なる団結の下に起り、各国の経済界に非常なる恐慌を惹起せしむること易々たるのみ。孫もまた一個の怪傑なるかな。彼今や、香港方面にばん居しぬ。来たるべき湖南省方面の風雲や、そもそもいかなるらん。
ロンドンを出発、帰国の遠に〔明治44年11月23日 大阪毎日〕
〔倫敦来電二十一日ロイター杜発
〕孫逸仙は倫敦に一週間滞在せる後、清国に向け出発せり。彼はその友人カンツリー博士に対し、余は共和党政府の太統領たるについては意に介せず、ただ余が就任が清国のために望ましき事ならんにはこれを受けんのみと語れり。また清国を多数の共和国に分割すべしとの思想を嘲笑し、国民は善良なる中央政府を希望すといえり。
・胡漢民と広東に向かう〔明治45年3月31汪兆銘日 大阪毎日〕
孫逸仙〔上海来電三十日発〕 南京発電に日く、孫逸仙は不日、汪兆銘及び胡漠民を伴ない南京出発、広東に向かい、それより湖北に赴くべしと。
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