<日中韓三国志・新聞資料編>『日清戦争の原因の1つの金玉均暗殺事件の真相とは・・・・』
<日中韓三国志・新聞資料編>
『日清戦争の原因の1つの金玉均暗殺事件の真相』
●「金玉均、清国公使に招かれ上海に行く」〔明治27年3月27日 時事〕
金玉均氏は、去る二十三日、神戸発の便船にて上海に赴けり。右はたぶん先年本邦に駐
在せし清国公使李経方氏と懇意にしたる由縁にて、同氏より招かれ漫遊かたがた赴きしも
のなるべく、李経方氏の実家は蕪湖と云える処なりといえば、或いは同地まで赴くの意な
るやも知れず、兎に角今度の旅行はおよそ1ヶ月位の見込みにて出発せしやに聞けりや
(註・李経方は李鴻章の息子である)
●『上海の日本旅館で暗殺される」〔明治27年3月30日 時事〕
明治十七年京城変乱の後、落魂流離の孤客となり、名を岩田周作と改めて、あたかも十
年の久しぎを我が邦に送り、その間に志を得ず、或いは病魔のために苦しめられ、或いは貧苦のために追われて、終始、不如意の境遇にしんぎんしたる朝鮮国の亡命者金玉均氏が、本月二十三日、支那人呉静軒、韓人洪鐘宇、及び邦人和田延太郎と共に上海に向け神戸よ
り上船したる次第は、過日、本紙に報道せしが、氏のこの行に就いては、世間種々の説を
なすものあり。或いは先年我が邦に駐在せし清国公使李経方の招きたるがためなりと云い、
或いは全く商売上の所用ありたるがためなりと云い、或いは清国に渡りて大いになす所あらんと欲したるがためなりと云い、或いは一時の漫遊なれば、一、二ケ月を経たる後、
再び我が国に帰来すべしと云い、諸説紛々一も信憑すべきものあらざりしが、今や俄然同
氏暗殺されて、長逝不帰の人となりたる凶報に接す。
これを彼の一、二ケ月の後再び日本に帰来すべしという最後の説と思い合わすれば、うたた悲哀の惰なきにあらず。よって本件に関係したる諸の報道は、聞くがまま左に転載す。
金氏暗殺の電報・
金氏を乗せたる西京丸は、二十七日夕、もしくは二十八日の朝、上海に着したる日取りなるが、1昨日居留地の日本旅館に於いて、同行者韓人洪鐘字のために殺害され、憐れむべき最後を遂げたリ。すなわち一昨夜八時発、同十二時外務省着の電報は、左のごとし。
金玉均、日本旅館に於いて同行者洪鐘宇(朝鮮人)のために暗殺せられ、刺客は逃亡したり。
●『日本人名を偽称、投宿した三名に疑惑』〔明治27年3月30日 時事〕
金玉均氏の変報当地に達するや、我が邦在留の朝鮮人は、いずれも疑わくの念を抱き、異様の感を起すもの多からんが、中にも先年来、我が国に流寓漂居し金玉均、朴泳孝等の間に往来し居たる権東寿、権在寿、李逸植物の三氏は、去る二十七日午前九時過ぎ、芝区桜田本郷町四番地の、旅人館安井軒に投宿し、宿帳に左のごとき氏名を記載したり。ただし投宿の際、同行の一人目から筆を執りたるものなりと。
長崎県対州国厳原二百六十番戸
平民商業 中 野 耕 心 五十五年
長崎県対州国厳原二百五十五番戸.
平民商業 車 野 貞 志 三十七年
同県同国厳原二百五十番戸
平民商業 和 田 常一 四十年
●『刺客洪鐘宇、逮捕される』〔明治27年3月30日時事)
在上海大越領事より、咋二十九日午前六時発、同午後一、時五十分外務省昔の電報によれば、一時逃亡したる刺客洪鐘宇は、ついに同地警吏の手にて描縛せられたりと見ゆ。その電文は、左のごとし。
金玉均を殺したる洪鐘宇は、昨夜上海居留地に於いて公庁巡査の手にて捕縛せられ、
直ちに会害衝門の裁判に附せられたり。(註・会審衝門とは、上海外国人居留地内で起った犯罪事件の象紺青専権に関する清国と関係国との、協定に基づいた立会裁判所)
●『金玉均か岩田周作と変名した由来』【明治27年4月1日時事〕
岩田周作の由来 金玉均氏の岩田周作と称したるは人の知る所なるが、今その由来なり
と云うを聞くに、明治十七年の変に、氏等一味の人々汽船千歳丸に乗り込み、我が国に来
たる際、日本にて韓名を名乗るも面白からざればとて、各々船長某に請うて仮の名を附け
て貰いたるに、金玉均氏の名をばすなわち岩田周作と命ぜり。
その時、氏は船長某に向かい、余の名には何か意味あるかと問いたるに、船長は微笑しながら、足下の事業はあたかも岩田を作るがごとく労して功なく、今後の程も想い遺らるるが故、かくは命ぜりと云うや、氏は手を拍って妙と呼び、ついにこれを以って通称としたるにに、図らざりき船長の言、せんをなし、十年の久しさ我が国に転々流落したる末、ついに労して功なき最後を見るに至りしは、名詮自称とや云わん。兎に角、志士の末路、憐れむべきの至りにこそ。
●『銃声、爆竹のため気づかす-「暗殺の詳報」〔明治27年4月5日 時事〕
〔四月四日午後二時二十五分神戸特発〕
金玉均氏の随従者和田延次郎氏の乗り組み居る西京丸は、今四日朝七時半、当神戸港に帰着、同船は、去月二十七日午後五時を以って清国上海に到着せり。呉静軒、洪鐘宇の両氏は旅宿捜索のため直ちに上陸し、金玉均氏は和田延次郎と船中に留まり居りたり。
かくておよそ二時間を経たる頃、旅宿を取り極めたる趣きにて迎えの入来たりしかば、金氏は和田と共に上陸し、居留地東和洋行に投宿して、金氏は第二室に入り、その他一同は別室に入る。
翌二十八日は共に朝飯を喫し、食後に至り、呉静軒、洪錬宇の両名は買物のためとて外出
したるも、その用向きは判然せず。金氏は旅館の主人吉島徳蔵氏と共に外出して市中を散
歩し、午時前一同帰宿したるも、呉氏ひとり帰り来たらず。
この時洪鐘字は洋服を脱し朝鮮服に更め、暫らくして一同共に会食せり。食後、金玉均氏は気分悪しとて上衣を脱し、寝台に上り横臥して雑書を読み居れり。この時洪鐘宇は各室に注意する模様なりし。
午後三時半ごろ、金氏は西京丸事務長松本良吉氏の来館を請うべき旨和田に命じたり。
よって和田は室を出で階段の半ばまで下りたる途端、三発の銃声とも覚しき音を聞きたる
も、この際近傍にて爆竹の音ありしかば、その時は銃声とは気づかざりし。この時洪鐘宇
は慌てて出で来たり。和田を押し退けて階段を下り、館外に逃げ出したれば、和田はその
事のなんたるを知らざれど、そのまま追跡したるも行衛を見失い、やむを得ず旅館に引き
返したり。
時に館内一人の倒れたるものありて、しきりにこれを呼ぶものあり。近づいて熟視すれ
ば、これぞ金玉均氏にして、その室を出で階段の傍らに倒れたるなり。よって直ちにその
身体を検すれば、右の頬より脳部に懸けて一丸貫き居り、その他背部腹部に各々一箇処の
傷を負い、口よりは出血せり。
倒れし当初は人の呼ぶ声に応ずる模様なりしが、そのまま絶息、顔色はごうも平常に異ならざりし。
和田は遺骸を元の寝台に安置して、直ちに事の次第を居留地警察署並びに日本領事館に
急報すると同時に、川口の出船を止めて兇行者の逃走を妨げん事を請求したり。
二十九日朝、上海道台旅館に来たる白本医師田口、田鍋の両氏検査の上、死因の銃殺に
あることを証明し,検視死を終わりたる際、道台の属使が洪鐘宇を引き連れ来たりで、更に臨検し、金玉均の衣服、その他証拠に供すべき物品を警察署に持ち帰りたり。
三十日午前十時、居留地巡査旅館に来たり、会審衝門に出頭すべき旨和田に達せり。よって和田は即時出頭したるも、その日は取調べもなくて引き取り、金氏の遺骸は日本に持ち帰る手続をなし、棺に納め石灰にて詰め、当月午前出帆の西京丸に搭載する手筈にて、既に桟橋まで昇ぎ出だしたる時、警察署より取り押えて持ち帰れり。
の処置は保護の意に出でたるか、はた取調べのためなるか判然せず。されど出帆の時刻切迫したるを以りて、和田はそのまま乗船して帰国せり。
一説に洪鐘宇は所持したピストルを海中に投げ捨てたりと云い、また金氏の遭難を初めて見当りしは同船せし島崎海軍大佐なりと云う。
東京より当神戸に出張したる岡本柳之助、甲発軍治、斎藤新一郎の三氏は、和田に面会して今後の処置に就き相談中なり。
○『清国軍艦か遺骸と犯人を朝鮮に送る』〔明治 27年4月11日.東京日日〕
在日朝鮮国仁川駐在領事能勢辰五郎氏より、その筋へ達したる電報、左のごとし。
清国軍艦馬山浦に着す。艦には金玉均氏の 遺骸及び犯人洪鐘宇を載せたるよし。
別に聞く所によれば、犯人及び金氏の遺骸は、天津に於いて朝鮮官吏に渡ざれたりとあり。その官吏が清艦に托して舶載したるものか、または清国より直ちに軍艦にて仁川に送りたるか、後報を待つ。
●福沢諭吉の『金玉均謀殺に「日本人は釈然とせず」〔明治27年4月13日 時事〕
金玉均暗殺に付き清韓政府の処置 電報の報ずる所、また世間に伝うる所によれば、く支那政府は特に軍艦を派して、かの上海にて金玉均を暗殺したる兇湊洪鍾宇と共に、金氏の死体を朝鮮に送り届けたるよし。
上海は支那の領地にして、洪はその地に於いて明らかに謀殺の罪を犯したるものなれば、世界一般の慣例に従えば、その犯人は支那の法律を以って罰すべきものにして、またその殺されたる当人の死体のごとき、すでに検証を終わりたる上は、朋友故旧の請求にまかせて付与すること相応の手続きなるに、しかるにかの政府、においては、謀殺の犯人を罰せざるのみか、その死体と共に朝鮮に送りたるを見れば、洪の処為を無罪と認めたものか、または朝鮮の交際上よりその歓心を買の意にでたるこ
とならん。
或いは支那と朝鮮との条約には、この種の犯罪人、すなわち朝鮮人同士の間に起りたる犯罪事件は、すべてその本国に引き渡す定めなりとの説もあれども、特に軍艦を以って護送の労を取るのみならず、金氏のごとき今日の身分は、決して朝鮮人として取扱うべきものにあらざるにも関せず、また現に引き取りの請求人ありしにも拘わらず、殊更にこれを朝鮮に送りたるは、ただその歓心を買うの手段に出でたるものと認むるの外なかるべし。(中略)
今回の事件に就き、金氏を上海に誘出し、一刺客をして殺さしわたるは、全く朝鮮人の毒計にもて、支那人のごときはごう髪も関係なしと云えり。我輩のごときも事実の上に於いて、その無関係を疑わざるものなれども、さてその全体の成り行きに就き、日本人一般の感情をいかんと云うに、支那人に対して自ら釈然たらざるものなきを得ず。
聞く所によれば、金氏の上海行に就いては、支那政府の筋、すなわち支那公使館の辺にては熱心に周旋して、金氏に対するの情誼は同国の親友もただならず、最も好意を極めたるよしにて、同氏の旅行はもっぱらその好意を当てにして思い立ちたるもののよしなりしに、
ひとたび日本の土地を離れて上海に上陸するや否や、支那人の挙動は全く一変して、殺害当時の始末と云い、死後の処分と云い、ごうも親切の意味なきのみか冷淡水のごとき、その反対に謀殺の下手人なる洪鐘宇に対しては、その取扱いはなはだ寛にして、現に金氏の死体検証の際などは、縛りもせずしてその場に列せしめたるごとき、犯罪人を取扱うの法として見るべからず、またその罪人を罰せずして本国に引渡したるは、両国間の条約に拠りたるものとは云え、特に軍艦を以ってこれを護送するに至りては、鄭重至極の待遇にして、その意のある所を解するを得ず。
かれこれ思い合わしてそ一の挙動を考うるときは日本人の感情は到底釈然たるを得ざるべし。今回の報道ははなはだ簡単にして委細を悉さざれども、次第にその事情を詳かにするに随い、我が国人の感情はますます鋭敏を加えて、ますます疑団を大にすることはなきやと、我輩の今より想像する所なり。
●『朝鮮政府、遺骸を寸断、さらしものにする』〔明治27年4月17日 東京日日〕
ああ金氏の遺骸はついに刑戮(さつ)せられたり。
京城に於ける各国公使は、何等の熱心を以って韓廷に忠告する所ありたるか、韓廷はこれに対していかが答酬したるか、吾曹未だその詳報を接受せずといえども、兎に角、我が外務大臣より特に訓電を得たる大鳥公使が辞を尽して省察を求めたるにも拘わらずかれ韓廷はこれらの忠告を容れずして、無惨にもかねての風説を実にしたるは、左に示す所の在京城本社通信員よりの特電に於いて明白なり。
ああてれを読む、誰か酸鼻せせるものぞ。
金玉均氏の遺骸は昨日午後九時、楊花鎮に於いて寸断し、その頭首と四肢とは各別に梟示(きゅうじ、獄門)とせられ、その他の部分は地上に横たわらしめたり。
l〔十五日午後八時三十分 京城発〕
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●『暗殺に李鴻章父子か関係か』〔明治27年4月20日 東京日日〕
金玉均は逆賊なり、洪鐘宇は忠臣なりとの断案ひとたび下るや、洪は居留地警察署より知県に引き渡され、にわかにていねいの取扱いを受け、その保護を厳にし居る中、去る五日、韓人徐湘橋氏、韓王の命を奉じて天津より上海に赴き、知県に面会の上、金の遺骸及び洪鐘宇を引き渡されん事を要求し、知県は道伊の許可を得て、その翌六日、金の遺骸は湖南会館より、洪鐘宇はその寓居より送りて、小東門外に碇泊せる清艦威靖号にいたり、全く徐氏に引き渡もたり。
清国政府は朝鮮政府より金の遺骸及び洪の一保護を托せられしにや、特に長江水師第四号軍艦を派して護送せしむることとなり、すなわち威靖号は七日早朝を以って当上海港を抜錨したり。
元來、今回の兇変に付いては、李鴻章氏父子の関係少なからずとの噂もありしが、現に今回のごとく軍艦特派の事ありしに就いてこれを見るも、李のこの件に縁故あるを察すべく、その引き渡し請求者のごときもまた、天津に駐在する韓客中すこぶる地位あるものを選び、敏速にことを処せしめたる等、恐らく李の意中より出でたるならんと評するものあり。
金の遺骸を受け取りたる徐湘橋は、十七年朝鮮変乱後、かつて日本に公使として駐在せしことあり、百方、金の捕獲に尽力したれども、金のために探知せられ、その意を果さず、その後崇明人楊某、力よく五百斤を挙ぐると聞き、これを脾して金を謀らしめ、事成るの後は五品衡に保挙し、花れいを加うるの約をなし、種々掩捕(えんぼ)に従事したりしも、これまた金の覚る所となり、ついに事を果さず、今回ようやくその目的を達して、徐氏その遺骸を受け取るに至りしもの深き因縁ありというペし。
(按ずるに徐棚橋は徐相雨のことなるべきか、相雨ならば十八年二月、朝鮮使節として一時我が国に来たりしことあり。その時副使としてモルレンドルフ氏もまた来たりしと覚ゆ。徐氏の金氏を謀りたることありやなしやは詳かならず)(註・知県は清国の官名で県の長官のこと)
●『梟首(きゅうしゅ)はひとまずとり止め』(明治27年4月21日 時事〕
一昨十九日京城発にて、左の電報、或る筋へ達したるよし。金氏の梟首は、昨日を以ってひとまず取り収めたり。ただしこれより八達の要所に暴すべきや、また直ちに逆山に葬るべきやは未定にして、韓延に於いてももっぱら評議中なり。
●『刺客洪鐘宇、各界で称徹され招宴しきり』〔明治27年5月4日 読売〕
有怨六家こもごも洪鐘字を歓待す 甲申の変、金玉均の指令の刃に倒れたる閔台鍋(なべではなくかねへんに高)、李祖淵、超趙寧ら六人の父子たり兄弟たるものは、十年前の怨を呼び起も、一方に於いては玉均を処するに峻律を用うべしと主張し、一方に於いては洪鐘宇を賞するに大官高位を以ってすべしと論じたり。
これらの人々の中には中殿の婚戚に連なるものあり、しからざるもいずれも顕揚の地位に在るなれば、その言論には十分の勢力ありて、すでに玉均の処刑は思いのままに行われたれば、取り敢えずまず洪鐘宇の労を射し、かつは我々のために讐を復えしくれたるに対し謝意を表せんとて、各々自家に盛宴を設けて洪鐘宇を招待したるに、彼は応ぜずして云わく。
厚意は謝するに余りあり、事の形跡よりすれば、いかにも諸公に代わやて仇を討ちたるごとくにはあれど、生が本旨は決して諸公の私敵を討ちたるにあらざるしは勿論、またただに甲申の逆賊たり、国家の公敵たるが故にのみもあらずして、彼が生存は三国の和盟を妨げ、或いは一転すれば東洋全局の乱階たらんも図るべからざるの恐れあるを以って、ついに事のここに及びたるなれば、今諸公の歓待を受くるは生の安んぜざる所なりと辞退したれど、これらの人々はなかなか承引せず、足下に対して謝意を表せざるを得ざれば、曲げて一夕の柾(きへんの王)駕(おうが)を望むと、再三の勧めにに洪もついに辞み難くして、昨今しきりにこれら諸家の招宴に赴く由。
●「遺子・房吉の哀れを境遇」〔明治27年8月2日 読売〕
故金玉均が初めで大坂に行きし時、西高津の船岳慧博氏の世話を以って、生魂鳥居筋の塩町を北に入りたる処の山口はなと云うを妾とし居り、1子を挙げて房吉と名づけぬ。その後、玉均は西に東に流浪の末、空しく宿志をもたらして、兇漢の1発の下に憐れなむ最後を遂げたるが、その子房吉は母の手元にも居り難き訳ありて、天王寺村野室町生魂筋南に入る松本弥助方に養われ、当年十二歳、学校にも入れられず、マッチの製造所に雇わわれて、未の望みもなき身の上見て哀れを添えぬものなし。
その中にも先年大井憲太郎氏等と征韓を謀りた山本梅崖氏は、特にこれを気の毒に思い、己が梅清処塾に入れて学問をもさせ、恥かしからぬ人に育てんものと様々心を悩ましたれ
ど、梅崖氏もとよ清貧の儒者、・徳高けれど財多からぬにより、一人を養わん事、心に任せ
ざるを、このほど河内国の人音跨安治郎ほか三氏の厚意にて、月々何某かの入塾費を与え
る事と成り、養親なる松本弥助にとの由を談じたるに、容易くは承諾せず、幼さより十二
の今まで育てたる代わりに二十円の金を得では、この児人手に渡しがたしと云い張るに、せん方なく話もそのままに成り居各とぞ。父子の薄命一に甘んぞここに至る。