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野口恒の<インターネット江戸学講義⑩>第4章 網の目に広がった情報通信のネットワ-ク(下)―“町飛脚のネットワ-ク”

   

日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義
 
4章 網の目のように広がった情報通信のネットワ-ク(下)―飛脚問屋は全国的な“町飛脚のネットワ-ク”を形成。
 
野口恒著(経済評論家)
 
 
 
飛脚が江戸と大坂間にかかった平均所要日数は早いもので3日間、遅いもので6~7日間かかった。最低料金のものは片道30日間もかかったという。江戸と大坂間を6日間で届けることを約束した飛脚便にはその書状に「正六」とか「定六」とか書かれていた。
 
飛脚制度の充実は江戸の情報ネットワ-クの根幹を成すものである。庶民は飛脚が届けてくれる手紙や文書などの通信によって、居ながらにして全国各地の知りたいと思う様々な情報を知ることができた。地方の人たちにとって江戸や大坂の最新情報を知ることは生活や仕事の上で必要であった。とくに商人とっては、大坂の米相場はどうなっているか、江戸では何が流行っているか、最新情報をいち早く知ることが商売上欠かせなかった。また、一般の庶民も江戸や近郊在住の親戚・仲間の近況や安否、地方の友だちや知り合いとの連絡や情報交換に、“人情を運ぶ町飛脚”を利用した。
 
 
「走ることがプロ」の飛脚は、庶民の間で一目置かれる存在だった
 
 意外なことに、江戸時代は走ることが特殊な才能とみなされていた“走らない”社会であった。江戸の人口構成は武士半分、町人半分の社会であったが、普段の生活において武士も町人も走ることはまずなかった。武士が走るのはお家一大事のときぐらいで、日常生活で走ることはきわめて稀であった。商人や職人など町人も走らなかった。普段の商売や仕事をする上で走る必要がなかったからだ。江戸時代、庶民の生活時間は自然の営みに合わせてゆったりと流れる自然時間に従っていて、現代人のように時計やコンピュ-タに厳格に管理された人工的な時間に縛られていなかった。時間がゆっくりと流れていたので、庶民は忙しく走る必要もなかったのである。
 
走らない江戸の社会で常時走っていたのは飛脚と駕篭かきぐらいである。当時、飛脚も駕篭かきも“走ることがプロ”の職業であり、誰もがたやすくなれる職業ではなかった。彼らは早く、長く走ることを鍛え抜いた特別の技能や能力をもった人たちであった。だから、飛脚は特別の能力・技能を持った人たちとして庶民の間で一目置かれる存在であった。
 
 江戸の飛脚は1日平均して60km近く走ったという。場合によっては100km以上走ることもあった。いかに走るのがプロだといっても、その脚力の強さには驚かされる。飛脚の走り方は「飛脚走り」といって独特の走法であった。飛脚走りの詳しい内容は分からないが、今日でいう「ナンバ走り」に近いものであったといわれる。ナンバ走りとは右手と右足、左手と左足を同時に出す走り方である。身体を捻らない、踏んばらないこの走り方は、
 
     身体を必要以上に捻らないのでスタミナが消耗しにくい
     上半身の捩れが小さいので姿勢が安定し、ムダな動きが少ない
     片側の腕、腰、足を合わせて同時に動かすのでパワ-が出やすい
      
などの特色がある。ナンバ走法は身体のムダな消耗を極力抑えて、スタミナを長く維持するにはきわめて合理的な長距離走法である。実際に飛脚がこのナンバ走法で街道を走っていたかは分からない。一説によれば、明治以前の日本人は右手右足、左手左足を同時に出し、身体を捻らないナンバ歩きをしていた。
 
それが明治以降西洋人のように身体を捻る歩き方をするようになったという。江戸時代に日本人が本当にナンバ歩きをしていたかどうかはよく分からないが、いずれにしても、飛脚走りは江戸時代においても、かなり高度に訓練された走り方、厳しい訓練を経て会得できた技能ではなかったかと想像される。一般の人がたやすく真似できるものではなかった。だからこそ、飛脚は特殊な技能をもった“走りのプロ”として認められ、庶民に一目置かれていたのではないか。
 
庶民の喜びや悲しみを抱えて街道や町中を走り回り、世間から“人情を運ぶ”飛脚といわれた町飛脚は、その脚力の凄さ、技能の高さに一目置かれながらも、多くの庶民にきわめて親しまれた存在であったことは間違いない。彼らが江戸のネットワ-ク社会を底辺から支えていたのである。
 
 
 
飛行機並みのスピ-ドで相場情報を伝えた旗振り速報の情報ネットワ-ク
 
 江戸時代の経済基盤の中心は「米」であり、米は日本経済そのものであった。“米将軍”といわれた徳川吉宗治世の享保期(1716~1736年)に、日本で作られた米の年間収穫量はおよそ2700万石だといわれる。そのうち、2200万石が年貢などで消費され、残りの500万石程度が米の流通市場に出回っていた。
 
そのうちの4割にあたる200万石が大坂の流通市場だけで取引されていた。まさに、大坂の米市場は“天下の台所”に恥じない米の大市場であった。とくに、近畿地方は大坂や京都など大きな都市を抱え、町人・公家・僧侶など米の消費者が70~80万人もおり、江戸と並ぶ米の一大消費地であった。また、当時は米を船で運んでいたため、大きな港があり、水運に恵まれた大坂は米の流通市場を作るうえで最適な地域であった。
 
 当時諸藩の大名は商都・大坂に蔵屋敷を設け、農民から徴収した年貢米などを蔵屋敷に運び込んで蓄え、これを商人に売って藩の財政に当てていた。この蔵屋敷の管理は当初各藩の武士が行っていたが、やがて商人たちに任されるようになった。これら商人たちは「蔵元」と呼ばれ、蔵米の販売だけでなく金銀出納の金融(金銀出納)まで行う「掛け屋」を兼ねていた。その最大のものが大阪の豪商で、諸大名の蔵元として勢力を揮った「淀屋」である。
 
蔵元は、米商人たちが仕入れを行う際のこんな決まりを作った。まず、米商人は手付け金として蔵元に総代金の3分の1の敷銀(保証金)を支払った。次に、蔵元は実際の米(現物)を引き渡すまでの間、現物ではなく購入したという証明として米手形(一種の証券)を発行した。そして、米商人は米手形を持って残金を支払えば米を買い取ることができた。藩や蔵元は米手形を発行することで実際の米を渡す前に銀を入手することができた。
 
商人たちは、実際の米の売買取引(「正米取引」という)ではなく、米手形の売買による差金取引(実際の米の受渡しをせず、代金の差金の授受だけで決済を行う取引)を目的とした取引(「帳合米取引」という)を行うようになった。これに対して、幕府は「差金取引は米価を不当に吊り上げ、米相場を不安定にする」との理由から米手形の売買による差金取引(帳合米取引)を禁止した。それでも商人たちは大坂・堂島に移って米市場で取引を続けた。
やがて幕府も米手形による差金取引は米価格の暴騰・暴落を回避する効果があることを認めた。徳川吉宗は、大岡裁きで有名な大岡越前守忠相に命じて大坂・堂島市場においてのみ米手形の売買による差金取引(帳合米取引)を認めるよう計らい、享保15年(1730年)に世界最初の先物取引市場である「堂島米会所」が設立され、差金決済による先物取引が公認されるようになった。先物取引とは実際の米(現物)の受渡しを一定の条件のもとに何ヶ月先に実行する取引をいう。今から300年以上も前にこうした米の先物取引・先物市場が世界で初めて行われていたことは画期的なことである。
 
さらに驚かされるのはこうした先物取引を可能にした高度に発達した情報伝達網と優れた金融決済手段が工夫されていたことである。後者の金融決済手段はすでに紹介した米手形の売買による差金決済を指している。前者の情報伝達手段では、なんと旗振りで情報伝達がなされていたのである。
先物取引は情報が生命である。堂島の米先物市場で米相場はどう変動したのか。米の価格はいくら上がったのか、それとも下がったのか、商人たちは一秒一刻でも早く知りたかった。それによって、商売が儲かるか、損するか決まってくるからだ。そのため、彼らは相場情報の速報方法を徹底的に考え抜き、いろいろ工夫した。
 
当時先物市場の相場情報は、見通しの良い山の上で旗を振って、山から山へ情報をリレ-して伝える「旗振り速報」で伝達されたからだ。情報伝達の速度は時速500キロ前後で新幹線より速く、飛行機並みであった。大坂から和歌山まで3分、京まで4分、神戸まで7分、備中・岡山まで15分、安芸・広島まで40分で堂島の米相場情報(取引値段情報)が伝達されていたという。ただし、江戸までは8時間かかった。旗振りに加えて箱根の山越えに飛脚を使っていたからだ。
 
それにしても、旗振り速報による情報伝達の速さにはまさに驚かされる。早飛脚を使うにしても、大坂から江戸まで3日かかる。8時間なんてとても無理だ。旗振り伝達では、あらかじめ合図を決めておいて、合図の旗を振ることによって情報をいち速く伝達したのである。なかには、それを盗み見して不正を行うものもいるので、それを防止するため旗振りの合図も暗号化されていた。また、一定の距離で中継地点を儲けて大坂・堂島市場から蜘蛛の巣(Web)のように全国に広がった情報通信ネットワ-クを構築したのである。
 
旗振り速報による情報ネットワ-クは、西は九州・博多から東は関東地方まで、全国一円に張り巡らされていた。大坂堂島を中心に東海道・山陽道に沿った幹線ル-トと周辺各地の支線ル-トがあった。情報を伝える主な中継拠点は、大坂・京都・長浜・桑名・津・岐阜・名古屋・豊橋・浜松・江戸・奈良・和歌山・徳島・神戸・姫路・岡山・下関・博多などに設け、全国をネットワ-クで網羅していた。
 
世界初の先物取引のアイデアといい、今日のWebを先取りした情報伝達ネットワ-クといい、当時の大坂商人の高い先見性と卓越したアイデアに驚嘆の思いを禁じえないのである。
 
世界一の識字率を誇り、庶民教育を支えた草の根の教育ネットワ-ク
 
 庶民の識字率や教育水準の高さは、情報伝達やネットワ-ク社会を支えるもっとも重要な社会基盤(インフラ)である。庶民レベルの識字率の高さこそ、情報伝達の普及と拡大を支える最も重要な要素である。庶民の識字率の高さがどのくらいであったかは、情報社会やネットワ-ク社会のレベルを測る重要な物差しとなる。
 
その点で、江戸時代の庶民の識字率は世界一であったといわれる。とりわけ就学率が高かったことが注目される。英国人の日本研究家として知られるロナルド・P・ド-ア・ロンドン大学名誉教授によれば、幕末期の江戸での就学率は70~80%であり、武士は100%に近く、僻地の農村でも20%ぐらいあった。ほぼ同時期の英国での就学率は20~25%に過ぎなかったという。こうした庶民教育の普及が識字率の向上を生み、江戸の情報社会やネットワ-ク社会を支えた。
 
 福沢諭吉は、明治11年(1878年)上梓した「通俗国権論」の中で、「西洋諸国に比べて、日本の識字率は一番高いだろう」と、こう述べている。
 
「如何なる寒村僻地と雖も、至愚極貧の者に非ざるより以上は、論語、大学の名を知らざる者なし、実語教を読まざる者なし、百人一首を暗誦せざる者なし、二一天作を知らざる者なし、めしやの看板を読み得ざる者なし、凡そ国の人口を平均して字を知る者の多寡を西洋諸国に比較しなば、我日本を以て世界第一等と称するも可なり。いやしくも具眼の人は日本の無学ならざるを知て安堵すべし」(福沢諭吉著「通俗国権論」)
 
江戸の初等教育の普及に大きな役割を果たしたのが、諸藩に設けられた藩士の子弟教育を行う「藩校」(藩学)と、庶民教育を担った「寺子屋」の存在であった。江戸時代は今日のような小学校や中学校などの初等教育機関がなかったので、それに変わるものとして藩士の子弟教育を藩校が、庶民教育を寺子屋が担っていた。
 
 江戸時代には、まず幕府の学校として昌平坂学問所(昌平黌)が設けられた。もともとは1630年に設置された儒学者・林羅山の私塾であったが、元禄4年(1691年)将軍徳川綱吉の発案で神田・昌平坂に移転され幕府の学校として設立された。幕臣だけでなく、全国の有識者は誰でも学ぶことができた。後に入学資格が制限され、朱子学以外の異学を学ぶことが禁止された。
 
昌平黌から多く人材が輩出され、全国で活躍した。幕府とは別に、諸藩でも藩士の子弟教育として藩校が作られた。幕末にその数は250校以上に上り、とくに幕末にかけて教育改革ブ-ムが起こって全国的に教育熱が高まったこともあり、各藩は藩士の子弟教育に非常に熱心であった。
 
 江戸時代には、町人や農村の子弟を対象とした庶民教育も非常に盛んであった。庶民の教育施設として寺小屋や私塾があった。寺子屋の起源は中世の寺院での教育に遡るといわれるが、やがて江戸時代になると都市や農村、やがては漁村にまで寺子屋が作られ、幕末期には江戸に1500、全国でなんと1万5000ものの寺子屋があったといわれる。
 
一校当たり10~100人ぐらいが学んでいたとすると、その数は15万~150万人にも上る。まさに全国に作られた寺子屋は庶民教育の“草の根の教育ネットワ-ク”ともいうべき存在で、日本人の識字率の向上に果たした役割は非常に大きかった。こうした草の根の教育ネットワ-クこそ江戸の情報通信ネットワ-クを底辺から支える根幹をなすものである。
 
 寺子屋では主に読み書き・算盤を中心に、お茶・お花・裁縫など実務教育が中心であり、教師(師匠)には僧侶・神官・医者・武士・浪人・書家・町人などが多かった。教材としては商売往来・庭訓往来・百姓往来などの往来物(初等教育・手習い用に編集された教科書)の他に、文字を学ぶ「千字文」、人名辞典のような「名頭」「苗字尽」、地名・地理を学ぶ「国尽」「村尽」、儒学を学ぶ「四書五経」「六諭衍義大意」など、歴史を学ぶ「国史略」「十八史略」、古典として「唐詩選」「百人一首」「徒然草」など、それぞれ実生活に役立つ教科書が使われた。
 
寺子屋には、7歳ぐらいに入門し1~4年間ぐらい学ぶ子供が多かった。年謝(年間の月謝)は平均して5両前後であったという。当時の庶民の平均収入(年収)は、中規模の商家の店員なら丁稚奉公で1両、住み込み奉公で2~3両、年季奉公で15~20両、大工や佐官など職人クラスで10~20両ぐらいであった。
 
これらの人たちの年収に比べて寺子屋の年謝5両は決して安くない。誰もが簡単に子供を寺子屋に通わせるのは難しく、とくに農村では名主や比較的豊かな自作農クラスでないと子供を寺子屋に通わせることはできなかった。それでも、当時の日本人は何とか家計をやりくりして子供を寺子屋に通わせた。庶民のこうした教育熱心が世界一の識字率の高さを支え、明治以降の近代日本における高い民力の基礎となったといえる。
 
江戸時代の庶民教育は寺子屋が中心であったが、それ以外にも民間の学者や師匠が独自に設置して、寺子屋より高い教育を行った私塾も非常に盛んであった。たとえばよく知られたものに、儒学者で古文辞学を提唱した荻生徂徠のけん園塾、同じく儒学者で古義学を提唱した伊藤仁斎の古義堂、儒学者で漢詩にも造詣のあった広瀬淡窓の咸宣園、大坂で町人たちが出資して教作った懐徳堂、吉田松陰が作った松下村塾、蘭医者の緒方洪庵が大坂で開いた適塾、適塾出身で塾頭まで務めた福沢諭吉の慶応義塾などがある。
 
注目されるのは、これら寺子屋や私塾では単に実務教育だけでなく人格教育も行われ、師匠と子弟との間には篤い人間的な信頼関係や師弟関係に近いものがあったことだ。当時にあって、これだけ高い水準の庶民教育が広く行われていた国は日本を除いて世界的にも稀であった。
 

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