片野勧レポート『太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災②『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』ー仙台空襲と津波<下>
2015/01/01
片野勧レポート
太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災②
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』
―仙台空襲と津波<下>―
片野 勧(フリージャーナリスト)
福田町南1丁目公園の仮設住宅で
仙台市福田町南一丁目公園の仮設住宅で、平山軍治さん(72)は静かに仙台空襲について語り始めた。平山さんは当時、岡田小学校の1年生。
「頭上を低空でB29の編隊が金属員を響かせながら通過していきました。すごく怖かったです。空襲でやられた街は一面、焼け野原。仙台駅から向こうは一望千里でした」
岡田小学校は今も仙台市宮城野区の海沿いの田園地帯にあり、近くには貞山堀がある。この貞山堀の設計と開削を行ったのは、伊達政宗によって招かれた毛利家浪人の川村孫兵衛重吉だった、と作家・司馬遼太郎氏は『街道をゆく―仙台・石巻』で書いている。
ここは江戸期、仙台米を江戸に積み出す港で、北の石巻とともに栄えた町。貞山は政宗の死後の謚名だから、かれが掘らせた運河を意味するらしい。この運河が仙台を「沃土」としたのだが、この豊かな海辺も今回の津波で流されたのである。
同じ仮設住宅に住む遠藤サツ子さん(73)も平山さんと同じ学校で同級生。住まいは仙台市宮城野区岡田字浜通り。今回の津波で家が流された。
「わたしたちは助かってよかったかわかりませんけれども、助かった人のドラマは皆、違います」
2万人の死者・行方不明者、30万人を超す避難者の一つ一つのドラマはいろいろ。形を異にする悲しさ、寂しさがある。阪神・淡路大震災のあと、ビートたけし氏は語っていた。
「死者6千人の災害が起きたのではない。1人
が死んだ災害が、同時に6千件起きたのだ」
が死んだ災害が、同時に6千件起きたのだ」
震災で苦痛をなめるのは、一人一人の個人という指摘だ。しかし、一つ一つのドラマが違えども、そこから目をそらさず、きちんと向き合うことでしか未来は切り開かれないと、遠藤さんは思う。その日、遠藤さんは一睡もせずに朝を迎えた。
「津波はただ海面が高くなって来るのかと思っていましたら、家も車も流されているのでびっくりしました」
まるで、SF映画が描く終末戦争の中に自分が置かれたような底知れぬ恐怖。しばらくは放心状態だったという。
「津波は戦争より恐ろしいです。空襲は警戒警報が出ましたけれども、地震は予告なしに来ますので」
戦争は避けようと思えば、人間の力で避けられる。しかし、地震ばかりは科学の力でも、どうにもならない。最後通牒も何もなしに突然、襲ってくるからである。
――ご主人は?
「車で逃げましたけれども、2週間後に遺体で発見されました」
今、遠藤さんは仮設住宅で一人暮らし。最後にこう言った。
「空襲との違いは人が焼けていないだけです」
本土空襲のなかの仙台空襲
太平洋戦争末期、米空軍B29による日本本土空襲は昭和19年6月16日の北九州爆撃によって開始され、敗戦の日である昭和20年8月15日まで、1年2カ月間にわたって行われた。その中で仙台空襲はどう位置づけられるのか。(以下、松浦総三『天皇裕仁と地方都市空襲』大月書店刊を参考にする)
日本の本土空襲は米軍の戦略目標や爆撃戦術、戦局の位相から見て、3期に分けることができる。第1期は昭和19年6月16日の北九州八幡製鉄所の爆撃から、翌20年3月4日朝の東京市街空襲まで。爆撃はたいてい昼間に行われ、高高度(1万メートル)から製鉄工場や港内船舶などを破壊した。
第2期は昭和20年3月10日未明、東京都江東地区に対する夜間無差別焼夷弾爆撃に始まった大都市への市街地空襲で、5月上旬まで続いた。第2期空襲の特徴は300機以上のB29による夜間超低空(1500メートル―1800メートル)から明らかに人員殺傷を目的とした大都市密集地空襲だった。いってみれば、“皆殺し戦争”の爆撃だった。
主なものは3月10日・13日・15日の東京空襲。同12日・19日・25日の名古屋空襲。同13日の大阪空襲。同17日の神戸空襲など。これら第2期空襲のなかで、最も凄惨だったのは3月10日の東京大空襲で、一夜にして10万人以上が死んだ。
第3期空襲は昭和20年5月24日・25日の東京山の手空襲から始まり、敗戦の日の8月15日まで続いた。
この第3期空襲の特徴は、第1期と第2期空襲で焼け残った大都市への焼夷弾攻撃と残存工場・軍事施設への
爆撃、製油施設の破壊、そして6月中旬から始まった地方の中小都市への焼夷弾攻撃だった。非戦闘員の殺戮であり、戦意喪失を狙うものだった。
爆撃、製油施設の破壊、そして6月中旬から始まった地方の中小都市への焼夷弾攻撃だった。非戦闘員の殺戮であり、戦意喪失を狙うものだった。
東北地方の仙台空襲や青森空襲、八戸空襲、釜石の艦砲射撃などは、この第3期空襲に当たる。無差別爆撃による都市破壊の目的は軍事施設や工場、鉄道、港湾などの爆撃と異なって、日常生活そのものの破壊にあった。
この地方中小都市空襲は6月17日の第1回から数えて合計16回。8月15日まで約2カ月間、続いた。動員されたB29は延べ7313機。爆弾投下量合計は5万3126トン。B29一機に平均7・3トンの爆弾を積んでいた。焼失したのは57都市。35万人前後(非戦闘員は5万人前後)の死者を出したという(奥住喜重『中小都市空襲』三省堂選書)。
これだけの数のB29が、約2カ月間、日本の上空をわがもの顔に乱舞していた。しかし、日本空軍はこのうち撃墜したのは、たったの3機だったという。これでは戦争にならない。
搭乗員や兵員の生命を大切にした米軍と、日本の「特攻作戦」を比べると、まさに月とスッポンである。米軍のB29にとって日本の戦闘機は全く相手にされなかったようだ。
地方中小都市は「無防備都市」だった
ところで、地方中小都市空襲の最も不幸なことは、日本軍に防空意識が全くなかったこと。戦闘機も高射砲も見せかけのもので、B29には歯が立たなかったのである。3・10東京大空襲の後、群馬県前橋市に旅行したジャーナリスト清沢洌は『暗黒日記』にこう書いている。
「前橋にゆく汽車からみると田舎では、まだバケツで防空演習をしている……東京の焼跡をみれば、敵は機械力で爆撃していることがわかる。結局、知識のない連中が指導していることがこうなるのである」
初期消火は手工業的な火たたき、バケツリレー。これでは米軍の近代的科学の粋を集めたB29の爆撃を防ぐには全く役に立たない。しかも男性は戦地や兵営・軍需工場にいたから、その主体は女性だった。このように日本の地方中小都市は「無防備都市」だった。
同じように、3・11「東日本大震災」も、日本の防災は無防備状態にあることを露呈した。避難・誘導体制や広域避難場所などは適切に機能していたのか。都市や社会構造の変化に対応した防災措置は取られていたのか、など東日本大震災は多くの課題を残した。
一方、地震予知研究にも疑問が残る。地震学会と火山学会の連携は十分だったのか。単なる過去の統計と確率論に基づく知見でよかったのか。また一定説以外は絶対に認めようとしない専門家の権威主義など、地震国ニッポンの予知・防災体制は欠陥だらけだったのだ。
M9という地震と、それに伴う15メートルを超える津波が来るという「予知」もできず、それに対応する防災対策が杜撰であったが故に、東北三県の沿岸部の市町村はことごとく破壊され、何万人という尊い命が奪われたのである。
防空と防災――。一字違いといえども、両方に共通しているのは国民への安全性の欠如と、その対策の杜撰さである。それは我が国における近代都市建設は防空や防災を念頭に置かずに、政治・経済・流通などを重点に置いていたからである。
寺田寅彦の警世の書『天災と国防』
戦前の物理学者で随筆家の寺田寅彦は書いている。
「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害が劇烈の度を増す。……(中略)天災に対する国防策は政府のどこでだれが研究しいかなる施設を準備しているかはなはだ心もとないありさまである。陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然」(『天災と国防』講談社学術文庫)
この小文が書かれてから80年近く経っているが、今読んでも驚くほど示唆に富む。国民必読の警世の書と言われる所以である。「防災も国防であり、外敵への備えより防災が優先すべきである」という主張も輝きを失っていない。
今回、大震災で大きな被害を出したのは、「想定外」だったからではない。為政者が寺田の警鐘を忘れていたからである。
もう一つ、注目すべきは、この小文が書かれた時代と今日の状況が極めてよく似ていることである。日本の構造的システムは戦前も戦後も、本質的に変わっていないようだ。寺田の時代は満州事変(1931年)が勃発、「満州神話」を利用した軍需産業の利権が横行した。エッセイストの山本夏彦氏は書いている。
「(満州事変で)世間はうるおったがそれはほんの一部で、全体はまだ不景気だった。ネオンは輝きデパートに商品はあふれカフェーバーダンスホールは満員だった。金さえあれば贅沢は出来た」(『「戦前」という時代』文藝春秋)
軍需景気で潤ったのはひと握りの特権階級で贅沢三昧な生活を送っていた。一方、貧しい庶民はその中を糊口をしのいで、かろうじて生きていた。
「安全神話」を利用した「原子力ムラ」の利権構造
戦後同様の豊かさに危うさが潜む今回の原発でも「安全神話」を利用した「原子力ムラ」に利権構造が横行した。官僚と政治家、財界、学界が一体となって予算を好き勝手に使う。
その予算から外れた国民は一方的に税金を収奪され、ひたすら貧しい生活に耐え忍ぶ。
その予算から外れた国民は一方的に税金を収奪され、ひたすら貧しい生活に耐え忍ぶ。
満州事変当時と同じように、ひと握りの特権階級だけが甘い汁を吸い続ける、この不条理な日本。国民の命が使い捨てだった戦前の天皇制時代と何ひとつ変わっていないのだ。こうした構造をマスコミは知らないはずはない。なのに、マスコミも時代に迎合し、権力と一体となって甘い汁を吸う。
写真家の野田雅也氏は座談会「震災から一年―ジャーナリストたちは何を見てきたか」(『世界』2012・7)でこう言う。
「マスコミは戦時中に戻ってしまった感がある。いや、元に戻ったのではなく、戦後も変わらなかった」
つまり、それはメディア自身が戦争に加担したことを反省せず、また同じことを繰り返さないための検証もしてこなかったからだという。
今回のような大規模な災害が起こると、戦時中と同じことが繰り返されるのは、そのためだろう。この国の責任の主体が曖昧なことも、それに輪をかけている。その典型が戦争責任であり、戦後、論じられることはなかったのである。
日本人の加害者意識の希薄さ
しかし、反省や検証がなく、責任追及が曖昧にされてきた背景には、我々一人一人に加害者意識が希薄であったことも見逃してはならない。日本人は被害者意識の強い国民だと言われる。東京大空襲や地方中小都市空襲、広島・長崎への原爆投下があったからである。
反対に加害者としての自分を語るのは嫌いな国民である。同じ日本人が兵隊として戦地に赴き、加害をしてきたことに無自覚、無責任であった。だから、南京やフィリピン、東南アジアなどで行った虐殺については口を拭って語らないのである。
先の大戦に突き進んだのも、バブル経済に踊ったのも、そして今回の原発事故も官僚や専門家集団、政治家に委ね、それを傍観し狂奔してきた我々日本人の倫理と規範の敗北である。我々は被害者であると同時に加害者でもある。そのことを厳しく見つめ直さない限り、またどこかで同じ過ちを繰り返すだろう。
遅すぎた「ポツダム宣言」受諾
先に日本が不幸だったのは日本軍に防空意識がなかったと書いたが、もっと不幸だったのは1945年7月28日、米英中によるポツダム宣言を知っていながら、受諾しなかったことだ。受諾は8月10日だったが、もし、7月28日の段階でポツダム宣言を受諾しておれば、7月28日以降の空襲も8月6日の広島と8月9日の長崎の原爆もなかった。
ポツダム宣言後の地方中小都市空襲の人的物的被害を見てみると、「死者30万3693人、負傷者10万3079人、戦災者132万1588人、焼失家屋27万2986戸」(奥住『前掲書』)と。ポツダム宣言受諾の遅れが、被害を拡大させたのである。
なぜ、こんな悲惨な被害が生まれたのか。なぜ、回避することができなかったのか。日本の指導者の“決断”が遅すぎたことはいうまでもないが、「国体護持・天皇制」に拘泥していたと指摘する識者は多い。
古川空襲では7人が即死
石巻市の仮設開成第11団地でカラオケ大会があると聞いて集会場を訪ねた。3・11からちょうど1年1カ月後の2012年4月11日。
――空襲体験をお持ちの方、いらっしゃいますか。
私の問いかけに「いますよ」と答える婦人がいた。終戦直前の1945年8月10日午前11時45分ごろ、宮城県古川市の小さな集落を襲い、民家6棟が全壊、7人が即死した空襲である。
「B29が飛んできて、焼夷弾を落としていきました。防空壕に隠れて、じっとしていました」
こう語るのは畠山玲子さん。昭和8年7月生まれの78歳。敗戦時は小学6年生。父は支那事変で戦死。昭和12年だった。その時、母は25歳。兄弟姉妹は4人。
「母は女手一つで私たちを育ててくれました」
玲子さんが結婚したのは昭和32年12月。仕事は魚の加工。工場は海のすぐ近くにあったが、それも今回の津波で流された。女川町に住んでいる妹も津波に呑み込まれ、行方不明。叔父の実家も3人流され、一人は遺体で発見。残りはいまだに行方不明という。
「戦争で苦しみ、震災で悲しむなんて、私の人生は一体、何なんでしょう」
今は一人暮らし。障害者手帳を持っている。
――今、一番、困っていることは?
「お風呂です。体が不自由で足が上がらないので。手すりがないのも困ります。あとは4畳半で狭いこと。マッチ箱に入れられているようです」
東日本大震災は戦後日本の弱点をさらけ出した。最も被害がしわ寄せされるのは社会的弱者。高齢者、女性、子ども、障害者……。特に被災地での障害者の死亡率は健常者の2倍に上るという。
今年(2012)の4月、石巻市内の田んぼの中に立つ仮設住宅で、52歳の男性と知人の36歳の女性の遺体が見つかった。死後1~2週間。男性が先に病死し、女性が後で亡くなったとみられる。
仮設住宅で暮らす被災者にとっては、このニュースは他人事ではない。昨年9月にも別の仮設住宅で一人暮らしの男性が刃物で腹を刺して命を絶った。支援が届かず、孤立していたのだろう。
「健康で文化的な最低限度の生活を営む」――。65年前(1947)の5月3日に施行された日本国憲法の第25条の条文だが、歯がゆく思っている被災者も少なくない。大震災のあと、1632人(2012年3月末現在)が関連死で亡くなっているが、このうち避難生活による肉体・精神的な疲れが原因のケースが半数近くにのぼっているという。この現状を見たとき、日本国憲法は果たして生かされているのだろうか。
生かされていない太平洋戦争の教訓
一方、太平洋戦争で日本は大きな波に見舞われた、その時の教訓はまったく生かされていなかったことが、3・11ではっきりした。
たとえば、10メートルを超える津波は来ないという「想定」は、「戦艦大和は沈まない」と主張した高級軍人と似ている。
「国体護持」と叫び、終戦に抵抗した軍人と、脱原発依存をけん制する経済人が重なって見える。しかし、両者に共通しているのは、「国民の安全」という視点がないことだ。
また瓦礫が残る被災地の光景は、米軍の空襲による焼け野原を連想する。しかし、長い戦争が終わった安堵感があった67年前と違って、今、被災者の胸にあるのは、これから先どうやって生きていけばよいのかという不安ばかり。
大震災から1年以上も経過しているのに、岩手・宮城の瓦礫処理は10%程度という。今回の震災で、瓦礫の推計量が最も多いのは石巻市だ。その量は岩手県全体の瓦礫を大幅に上回る616万トンとされ、同市から出る年間廃棄物の実に「100年分」に相当するという。
その石巻市を見て回ったが、市内24カ所にある一次仮置き場には東京ドームがすっぽりと入るぐらいの瓦礫があった。太平洋戦争の戦後処理でも、こんなに復旧・復興が遅延することはなかった。
海岸は車の山、山、山……
東松島市。無人となった沿岸部を歩いた。私は息を呑んだ。戦慄を感じた。海岸は車の瓦礫の山、山、山……。驚くべき光景だ。田舎になぜ、車がこんなに多いのだろう。しかし、その答えを見い出すのに、時間はかからなかった。
都会に住んでいると、あまり理解できないが、日本の田舎は完全な車社会なのだ。車がないと生活が成り立たない。公共の交通機関のバス、電車が1時間に1本とか、また駅まで遠いために、駅まで行くのに結局、車を使うしかなかったり……。「大人一人に一台」の車社会なのである。
津波で何千台もの車が使用不能になった。平時なら動かなくなった車は自動車整備業者が撤去する。しかし、その整備業者の会社も津波で流され、追い打ちをかけた。
行政・大資本の論理が蠢く復興
今、県や市町村では復興計画がどんどん進んでいる。宮城県では高台移転や漁業特区などが構想されている。復興構想会議の提言の目玉も「特区」の積極活用である。しかし、特区とは「規制緩和の極致であり、『マネー』にとってのバリアフリー化」と経済評論家の内橋克人氏は指摘する。
つまり、「漁業に『マネー』を導入することは、日常的に海を守ってきた人を排除して、漁民をサラリーマン化すること」。要するに、「震災を行政や政治権力が『千載一遇のチャンス』ととらえ、住民の反対を押し切ってでも事業を一気に強行する行政ファシズム」というのである(『東京新聞』2011/10・9)。
もちろん、高台移転など災害に強いまちづくりは必要だろう。しかし、創造的復興の言葉を御旗にして千載一遇のチャンスとばかり、「行政の論理」や「大資本の論理」がうごめく復興計画に住民の理解は得られまい。これでは「第二の津波」となってしまうからである。 (かたの・すすむ)
※太平洋戦争(東北地方の空襲、東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキの原爆、引き揚げ等)と今回の大震災の両方を体験された方がおられましたら、編集部(公評社)へご一報ください。電話03(3264)0078(代)
片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
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