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日本リーダーパワー史(323)「坂の上の雲」の真の主人公「日本を救った男」-空前絶後の参謀総長・川上操六(41)

      2015/02/22

日本リーダーパワー史(323
「坂の上の雲」の真の主人公「日本を救った男」
空前絶後の参謀総長・川上操六41
前坂俊之(ジャーナリスト)
 明治のリーダーの大多数は、清国、ロシア、西欧列強の超大国を前にしてその圧倒的な軍事力、国力、外圧に怖れおののき、日本全体が敗戦ムードに入りつつあった。
  その時、陸軍参謀総長川上操六は日本が侵略される「最悪のシナリオ」を想定し、軍事力の増強につとめて「あらゆる危機から目をそむけず」清国、満州、シベリア、ヨーロッパ、ロシアに情報網を張り巡らせ、的確な情報収集と諜報に基づいて、断固たる行動をとり、先手必勝で日清、日露戦争での勝利の礎を築いた。
 「最悪を怖れず、準備した」稀有のインテリジェンス・リーダー・川上操六のおかげである。
  3の敗戦、原発事故で国敗れて初めて理解できる「真のリーダー」とは誰かーその日清・日露戦争裏話
⑤日中経済パワーが逆転した今,尖閣問題でなぜ再び「日中30年冷戦」に逆もどりさせる愚を冒かしたのか。自民党反中国派が政権を握ると、対決、冷戦勃発は必至で、満州事変後の満州国建設、日中戦争の近衛首相の[中国を相手にせず」の外交大失敗の再び繰り返すのではないかと危惧する。

季刊雑誌『日本主義』2012年冬号(10月)掲載
 
ガラパゴスジャパンの「第3の敗戦」 

明治維新によってアジアの端っこに大陸とは海をへだてて誕生した「まことにまことにちっぽけな貧乏島国」の日本が「富国強兵政策」によって、軍事・経済大国にのし上がっていった。その最大の要因は何と言っても軍人の力でこれが結局、日本の現実的な歴史となり、今日の日本の骨格を形成したのである。有能、無能な国家官僚としての旧軍人たち(今の国家公務員たちと当時の軍人政治家といってよい)が明治を興し、昭和戦前に「大日本帝国」をつぶしたのである。

これが明治維新から昭和20年までの約80年の歴史であり、ここでいったん降り出しに戻り、昭和20年8月の廃墟の中から再び、軍事を捨てて経済再建、「富国経済政策」でがむしゃらに働き(封建時代の武士の精神、戦前の軍人たちの滅私奉公とおなじ)世界第2の経済大国へのぼりつめた。 

1990年のピークアウトで、昭和バブルがはじけて、平成大不況の長いトンネルの末、奈落の底へ(国の借金1000兆円、世界最悪の借金大国)、そして現在「第2の経済敗戦」「日本崩壊」の国難に直面している。明治維新以来ほぼ150年間で2回の興亡をくりかえした。歴史は繰り返し、『日本官僚(軍人)失敗国家』は2度死ぬーこの『死に至る日本病』を私は『ガラパゴスジャパン』と名付けている。日本国家、民族はこの『第3の敗戦」を脱することができるのか。私はこの日本病を『ガラパゴスジャパン』と名付けて、ブログ、HPで「日本リーダーパワ−史」として連載している。


司馬遼太郎は『坂の上の雲』の登場人物で最も知謀にすぐれていたのは海軍では秋山真之、東郷平八郎か山本権兵衛などをあげており、陸軍では100年に1度の参謀と言われた児玉源太郎か、大山厳、山県有朋、西郷従道などに触れているが、川上操六が全く忘れ去られている。 

川上は一体何をやった軍人なのか、それをしるには明治初期の日本軍の編成をみることが必要である。当時の陸軍は、鎮台(ちんだい)という名前のしめす通り、国内の内乱を鎮めるのが主目的だった。しかし萩、佐賀、熊本の乱、西南戦争(明治10年)を最後に内乱はなくなった。逆に清国、朝鮮にはイギリス、フランス、ロシアから開国を迫る砲艦外交の魔の手がのびる。日本への危機は年ごとに増大、ロシアは虎視眈眈(こしたんたん)と満州、朝鮮を狙っている。

朝鮮が脅かされれば日本の横腹にドスをつきつけられた形となり、対外戦争に備えた機動本位の師団編制の切り替えが急務となった。
陸軍は幕府以来のフランスの陸軍将校を顧問として、着々兵制の建設を行なってきたが、明治16年(1883)にドイツ式に切り替えた。


ここで、登場するのが川上操六である。「川上の作戦能力は絶大で、兵站総督をもかね、日清戦争を連戦連勝でもって終結させた。川上は空前絶後の陸軍名参謀総長であった」と日本軍事史の権威・松下芳男は『日本軍閥の興亡』芙蓉書房(1975年刊)で折り紙をつけているが、陸軍大改革のキーマンであった。明治大正昭和三代60年以上にわたり日本のリーダーたちを一番身近に観察、人物評価してきた徳富蘇峰は川上について「世の中で大きなことに気づく人は小さなことに気づかない。小さなことに気づく人は大きなことに気づかない。ところが将軍は細大漏らさず、万遍なく気がついた。私は長い間あらゆる人と接したが将軍ほど適材適所で、人使いがうまく、よく気のつく人をみたことがない」〈「蘇翁感銘録」宝雲舎、1944年〉と評価している。

島貫重節「戦略日露戦争」(原書房、一九八〇年)も「稀代の名将、川上操六大将」で「まさに明治陸軍の空前絶後の稀代の名将とは、この川上操六大将のことをいうと、いか程の賛辞を呈しても何人も異存はあるまいと思う。川上操六の政戦両略に関する卓越した知識と技量も素晴しく、軍人として一切、政治に関与することなく、しかも国際政治、外交に関する研究深く、この点も畏敬の的となっていた」と指摘している
 
川上こそ「陸軍参謀本部を創った父」「日本インテリジェンスの父」
 
つまり、川上こそが「陸軍参謀本部を創った父」「日本インテリジェンスの父」であり、日清、日露戦争の国家戦略の実行プランを作り、部下の情報将校を世界中に張り巡らせて必勝の戦略を練り、日清戦争は自ら陸海軍を一手に指揮してでは先手必勝で連戦連勝した自最大の功労者なのである。
ところが、汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)の日清、日露戦争本や軍人の伝記をみても、川上参謀総長について頁を割いているものはほとんどない。とくに、昭和戦後期は戦前の全否定から戦争は絶対悪として、平和主義的な歴史観、侵略史観のムード中で、軍人や自衛隊オール否定の風潮が広がり、日本の戦争や軍人の実態を客観的、複眼的に見ていく姿勢が失ななわれてしまった。
その結果、川上の伝記にいたっては没後百年以上経つ現在に至るまで七〇年前の徳富蘇峰「陸軍大将川上操六」第一公論社(1942年刊)の1冊のみである。
この3/11の大震災、福島原発事故とその後の政府の対応、危機の備えを全くおこたってきたリーダーたちの無為無策を体験した国民の歴史の見方が大きく変わってきた。とくにリーダーを見る視点は、その予知能力と決断と実行力、さらにその結果重視、勝ったのか、負けたのかーの勝利を重視しなけれればならないと180度変わってきた。そんな中で明治のリーダーの決断と実行力が際立って見えてくる、中でも忘れ去られた名将・川上操六は一層、クローズアップされている。
鵜崎鷺城は「山県有朋は無能であった」と断言
 
「日本陸軍の父」といえば山県有朋での名が浮かぶだろう。山県が陸軍や日本の官僚制度の基本をつくったのは間違いないが、一方では、山県閥をつくって陸軍を壟断し、長州閥のイエスマンばかりをあつめて、お山の大将となって、その子分どもが大日本帝国を潰したのだから、山県は『日本の失敗』の張本人といえる。

鵜崎鷺城の古典的人物評論「薩の海軍・長の陸軍」(政教社 明治44年刊)では「山県は無能であった」とはっきり書いている。 

「生前、立見尚文(大将)は山県を評していわく、政治家としての山県は伊藤の向うを張ったが、軍人として半分の価値もなかった。日清戦争の際、山県は第一軍司令官だったが、大失敗を演じ、中途で病に托して帰朝させられた。彼は陸軍のローマ法皇であり、また最も執拗頑迷な長州閥の維持者である。憲政発達の上でこの老人ほど有害無用の長物はいなかった」
山県は陸軍内で、将来のライバルとなるとみこまれる優秀な川上を怖れた。山県は参謀本部をのっとり自らの勢力下に置く機会をうかがった。明敏な川上は山県一派の密謀を見抜いて、対露戦争を自ら計画するため、山県のような老骨にこの重要な椅子を渡されないと参謀本部を固守した。
また、鵜崎鷺城は「大山厳は薩の陸軍を代表して、山県の長におけるとその位置を同じだが、彼は過去の陸軍の一骨董品で現実に活動すべき人物ではなく、軍事的才覚は川上の万分の一も持ち合わせていない。ただ、山県のように権勢欲の固まりではなく悪気のなき好々爺にすぎない」と書いている。
もう1つ、頭山満の川上評を挙げる。頭山は国家主義者というよりも「大アジア主義者」の面がつよく、アジアを西欧列強から守るために中国、各国と連携すべきであるという立場である。その面で玄洋社、黒龍会は川上や陸軍と提携し、また別働隊として暗躍した。その頭山は水清ければ魚棲まずで、川上が陸軍部内にある間は、日本の陸軍は大丈夫じゃったが、それだけ川上は元老連から嫌われていた。川上は頭脳の緻密な男で、国防問題を担任、研究する参謀総長として、まことに適任であったと思う。

 

歴代の総長は誰も彼も元老の圧迫を受けて、思う存分の仕事が出来なかったが、川上だけは格段じゃった。いやしくも一国の干城として軍務に携わるほどのものが、左顧右鞭、他の御機嫌を伺うようなことで何が出来るか、川上は近代の軍人中の偉い男じゃ。
川上の身後を飾るべき美徳は一意専心君国のために働いたことである。これまでの役人や軍人が、表面にはヤレ国家のためとか、大君のためとか、体裁のよいことを言うてはいるが、その実、彼等は職務を利用して私腹を肥やしているのだ。立派な面を被って天下を欺き、自己を偽る偽善家の群である。
こういう腸の腐った人間が国政を左右するから、種々忌まわしい問題が起るのだ。その点になると川上は気持のよい程、潔白じゃった。
武人がゼニに執着するようになれば、それでおしまいじゃ。

荒尾精が日清貿易研究所を作って金に窮した時、川上が番町の自宅を抵当にして四千円の金を都合してやったことなどは、今時の軍人には薬にしたくも見ることは出来ない。軍人精神の著しく堕落してゆくにつけ、自分は川上を憶ひ出す」「頭山満翁正伝(未定稿)1943年版」(昭和56年、葦書房)>

つまり、山県もその第一の子分・桂太郎もそろって戦争下手であり、日清戦争では敗北を喫しており、軍政家であってもとても戦上手とはいえなかった。陸軍のエース、最高の戦略家は川上であり、日清戦争では広島大本営にあって川上が上席参謀として、陸海軍を統括して全指揮し、ほぼ完勝したのである。
川上は明治32年に急死するまで14年間にわたって参謀次長、参謀総長を歴任して、明治の日本の国家戦略を立案実行した。日清戦争は「朕の戦争にあらず」と明治天皇は開戦には反対だったが、川上は戦機を見誤らず先手必勝で出兵を指揮したのである。「日清戦争は川上と陸奥宗光が興した戦争である』と言われる所以である。
 
「日清戦争は川上と陸奥宗光が起した戦争』
 
 
その川上が最初に取りくんだのは藩閥をこえて、広く有為な人材を広く集めることであった。
 当時は明治新政府創設から間がなく、西郷隆盛の反乱(西南戦争)にみるように、大半が封建的思想(藩閥・派閥意識)から脱却し切っていなかった。薩長両藩の派閥抗争や、政府(特に伊藤博文首相)と軍部(特に山県大将)の対立など、閉鎖的、島国根性による縄張り意識がぬけなかった。そんな中にあってただ一人、川上は国家意識なくしては日本防衛はできず、そのための国軍建設の透徹した見識をもっていた。
現在の民主党の内部抗争、小沢は対主流派、これに自民、公明がjからんだ不毛な政争の国民がうんざりした状況は延々と続くが、川上の行動原理を比べると、いかに川上が優れていたかわかる。
川上の最大の功績は当時のヨーロッパ最強の戦略家モルトケの戦略を導入したことである。
幕末、明治初めにフランスを大帝国に築いたナポレオンは伊藤博文も明治天皇も軍人も熱烈な崇拝者であった。ナポレオンの戦術は、臨機応変で天才的な戦術、戦略で天馬の空を駆けて行く英雄そのものだが、個人プレーなのでトップに何かあった場合はすべてが台無しになる。
このナポレオンの「一人の天才」の戦略に対して、「凡人の集団」で分担して英雄的な仕事をしていく参謀本部を作り上げたのがモルトケで、普仏戦争で勝利して大ドイツ帝国を築き、一躍世界の注目を浴びた。川上はナポレオンを打ち破ったドイツ参謀総長モルトケの戦略を導入したのである。
モルトケの参謀制度は普仏戦争の勝利で一挙に世界の注目を浴びて、各国軍は競って導入した。しかし、各国の事情により、その受け入れ方は違い、敗北したフラ ンスはナポレオン戦略から脱皮できず、モルトケの参謀制度をまねても、参謀の書記・伝令的な性格が強く残した。英米、日本海軍(英国流)も同様だが、最も忠実にまねたのは日本陸軍で、その結果が日清、日露戦争につながったが、その欠点である幕僚統帥・独断専行がよりひどくなり、第2次世界大戦でのドイツ軍、日本陸軍もやぶれてしまったーと「参謀総長・モルトケ」を書いた大橋武夫は指摘する。
 
ドイツを興したモルトケ戦略
 
はモルトケの戦略とはーナポレオンのせん滅戦略(戦いの目的は敵軍の戦力を奪うにあって、領土の獲得ではない)を近代化し、技術の進歩と兵力を著しく増大したことである。その特徴は、最新技術を利用して①鉄道の発達②電信の開発③銃砲火器の開発で、これに歩兵砲兵を一体化した。ナポレオン時代の兵力増大の戦法が、会戦前に先ず兵力を集結したのに対し、戦場に向かい前進しつつ展開態勢していく分進合撃戦法を考案した。
これに合わせて開戦前までに入念な戦争準備を行い、情報収集を徹底する。武器の近代化とともに鉄道、通信など最新技術を利用、兵力集中、動員、輸送をスピーディーに行う。同時に兵站、物資の輸送、ロジスティックスの重視、これらを統合したシステマチックな作戦計画を参謀が策定する。
このために優秀な参謀を教育して参謀本部を国軍の中軸に設置して、総合的な戦略立案に当たるのがモルトケ参謀総長の方式で、これでナポレオン3世のフランスは普仏戦争<1870・明治2年―71年>に完敗した。軍事組織の抜本的な改革を行ったモルトケ戦略は現代の組織論、近代マネージメントの基礎となる。
川上はモルトケに弟子入りして教えを請うた。
 
明治17 年2月、大山厳陸軍卿(陸相)は、陸軍きっての英才の桂、桂太郎、川上ほか俊英17人を引き連れて、陸軍大改革の準備調査のためにヨーロッパ各国を視察、イタリア、フランス(47日)、英国、ドイツ(70日)、ロシア、米国など回り、翌年1月25日に帰国した。視察の目的は①将来の陸軍の編成、軍政の研究 部隊の演習の実地調査③最新の軍事知識の吸収④ドイツから陸軍大学の教官の1人派遣してもらうーことなどで、ドイツ参謀総長モルトケの推薦で参謀少佐クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル(42歳)を日本に招致することになった。
メッケル小佐は明治18年1月に来日した。この時の日本陸軍は歩兵十三旅団一連隊、騎兵二大隊、砲兵七連隊一砲隊,軽重兵六小隊、屯田兵一大隊一中隊、軍用電信二隊など総兵数はわずか三〇三四二人の劣弱な陸軍をでしかなかった。
これを、兵力百万を超え世界一の陸軍強国・ロシアと戦うことのできる日本陸軍に20年後に育て上げていくために、思い切ってドイツモルトケ戦略に切り替えたのが桂、川上の陸軍きっての俊英コンビで会った。
二人はいずれも少佐で36歳の同年齢であり、山県有朋、大山は若き2人に陸軍建設の将来を託し、調査研究の中心に据えた。旅行を通じて2人は肝胆相照らし、桂(後に大将、日露戦争時の内閣総理大臣)は陸軍軍政を担当し、川上(参謀総長)は国防作戦を担うことを話し合った。すでに桂太郎は明治3年8月からドイツに3年間留学、シュタインの「軍事行政論」などを勉強していた。
ドイツ視察で川上ははじめてモルトケに会い、ドイツ参謀本部の組織に驚嘆した。当時、日本では参謀部は陸軍省の一部にすぎず、内乱用だけであるかないかわからないような存在だった。
ドイツ参謀本部の組織は第一総務課、第二情報課、第三鉄道課、第四兵史課、第五地理統計課、第六測量課、第七図書課、第八図案課まできちんと整備され、常時、情報の収集と分析を怠らず、いざ戦争となれば百万の軍隊がたちどころに動員できる体制が整っていた。
近代軍隊の組織、動員、輸送、兵站の運用、機械化、標準化、システム化が整備されて、参謀総長をはじめ参謀、作戦のトップが急死、戦死した場合にも、スムースに引き継ぐマンパワー体制に備えていた。ナポレオン式ではなかった。
川上、桂はドイツ陸軍を徹底して分析することで、フランス側の猛反対を押し切ってドイツ方式に切り替えのである。
川上はヨーロッパから帰国すると少将に昇進、参謀次長になり、その後、新設の近衛第二旅団長になった。明治20年1月にドイツの軍事体制、モルトケ戦略を徹底して研究するよう乃木希典と2人でドイツ留学を命じられた。
明治天皇はドイツ皇帝(カイゼル)あてに「陛下から2人に恩遇を加えていただければ感謝します」のドイツ語の親書をことづけた。
川上はモルトケにあい正式に弟子入りと教えを請うた。モルトケはこの時、86歳だったが、30年以上も参謀総長の要職にあり、普仏戦争での大功労者、世界の軍事界の最高峰に君臨していた。一方、川上は38歳で、約50歳もの年齢差があり、まるでひ孫を相手に噛んで含めるように「参謀本部の組織は絶対秘密だが、極東の日本とドイツがまさか戦争することはあるまいから、例外として奥儀まで教えてあげよう」と受け入れた。
ワルデルゼ参謀次長が一緒に立ち合いモルトケのロからでる断片的な教訓を親切に注釈して解説してくれた。
「軍、ならびに軍首脳部は政治の党派や潮流から絶対に独立していることが必要じゃ。つまり、参謀本部は平時は陸軍省からもはなれたものにしておかねばならん、スペイン、フランス、イギリスでさえ軍行政が政治とからんで妨害を受けたことはなんどもある」
「時代がかわれば武器の優秀さや、兵力の多数をもって、わがドイツと競う国は出てくる。しかしな、兵を統帥する指揮将校の優秀さ、こればかりは、わしが今、仕込んでいるガイスト(精神)を忘れぬかぎり、永遠にドイツをしのぐ国はあり得ないのじゃ」「軍略などと言ってなにも特別に難しく考える必要はない。常識と円満こそ軍略の精髄である」
モルトケの指示で、川上は実際にドイツ参謀本部付となって勤務し、同参謀本部ロシア課の大尉から動員、準備、戦術、作戦の講義を実地に受けて、ドイツ陸軍の組織、訓練、情報活動の中身まで、その手の内を見せてくれた。
モルトケ自身からの講義は参謀本部総長控室で行われたが、その横窓からベルリン市動物園が見え、そこにドイツ戦勝記念碑が立っていた。
「あれこそ、わしのきたえたドイツ軍人精神のシムボルなのじゃ。日本にも、これが立つようでなくてはならん」
また時として川上は自宅に迎えられた。老元帥は、バラづくりを自慢にしていたが、極東からきた弟子をそのバラ園にまねいて、自ら手入れをしながら雑談的に講義することもあった。
いつも講義の最後に出る言葉は、「はじめに熟慮。おわりは断行」で、これがモルトケの要諦であった。歴史を好んだモルトケはいろいろな例証を上げ、後年、川上が統帥権の独立を明確に決めたのはモルトケの教示によってであった。

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