片野勧の衝撃レポート㉕ 太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災 ー第4の震災県青森・八戸空襲と津波<2>
片野勧の衝撃レポート
太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』㉕
第4の震災県―青森・八戸空襲と津波<2>
片野勧(ジャーナリスト)
学徒動員で国鉄盛岡工機部に配属
昭和16年(1941)4月。盛岡工業学校機械科に入学した年の12月に真珠湾攻撃があり、日本は太平洋戦争に突入。中里さんは3年生で学徒動員され、国鉄盛岡工機部に配属された。国鉄の機関車など車両を整備するところで、昼夜2交代制の旋盤工場で働いた。
昭和20年(1945)3月10日。いつものように深夜12時、工場でおにぎり1個とみそ汁の夜食を済ませ、ストーブの周りにむしろを敷いてごろりと横になっていた時である。
「ザアー」と雨がたたきつけるような音がした。「なんで今ごろ、雪でなく雨なんだろう」と思っていたら、工場は一瞬のうちに火の海。雨音と勘違いしたのは実は焼夷弾の落ちる音だったのである。
「私たちは当時、焼夷弾で火災に遭ったら、ぬれたむしろをかぶせて砂をかけ、バケツリレーで水をかけろ、火の粉ははたきでたたいて消しなさい、と教わりました。しかし、砂やはたきが役に立つような状況ではありません。あっという間に火の手が広がり、逃げるのが精いっぱい。われ先にと、一目散に防空壕へ飛び込んだものです」
日本の勝利を信じた軍国少年
中里さんは日本の勝利を信じる軍国少年だった。しかし、この時、初めて戦争に対して率直な疑問を持った。空襲で焼夷弾が雨のように降る現実は、神風神話を遠く押しやるのに十分な迫力だったからだ。
そのころ、「日本が負ける」という蒙古からの留学生がいた。しかし、「そんなことはない。日本は絶対に勝つ」と中里さんは反論したこともあったという。
盛岡工業学校は5年制だが、戦時下で1年繰り上げ。空襲のあった3月に4年で卒業し、中里さんは日本砂鉄鋼業八戸工場(現日本高周波鋳造)に就職した。齢18歳だった。北沼から三沢・淋代一帯の海岸で採れる海砂鉄を原料に、大砲の砲身に使われるバナジウムなどを生産する軍需工場だった。「欲しがりません勝つまでは」「撃ちてしやまん」――戦時下のこのスローガンのもと、若い青年たちは軍需工場で働いた。
当然、この軍需工場も米軍の攻撃目標になった。就職したこの年(1945)の7月と8月、2回空襲に遭い、グラマン戦闘機の機銃掃射も受けた。
もし、宿直で工場にいたら……
終戦の6日前の8月9日早朝。この日、中里さんは宿直の予定だった。しかし、故郷から知人が訪ねてくることになり、八戸出身のSさんに交代してもらった。ところが、工作工場の事務所わきに爆弾が落ち、大きな穴ができた。
また事務所の中は砕けたガラスや壊れた備品が散乱。いつも事務所でいすを並べて仮眠していた場所も無残な状態だった。宿直を交代してもらったSさんは、この夜は防空壕の中で仮眠をとり、空襲のときは事務所にいなく、命拾いしたという。
「もし、この日、宿直していれば、私の命はなかったはずです。Sさんは私にとって命の恩人です」
九死に一生を得た2度目の空襲で日本砂鉄鋼業八戸工場は操業不能に陥ったのである。
8・15「終戦」虚脱感に襲われる
8・15「終戦」。それまで信じてきた価値観を根底から覆され、何をどうすればよいのか、空しい虚脱感が続いた。
そんな時、職場の上司から「もう一度、学校で勉強し直してみては」と秋田鉱山専門学校(現秋田大学)を勧められた。決心し、昭和21年(1946)4月、秋田鉱専へ。しかし、アルバイトの仕事が面白く秋田鉱専を中退した。以下、中里さんの簡単な経歴を記す。
――秋田鉱専を中退後、1960年、八戸市の東北建機工業社長。1964年、八戸鉄工協同組合理事長、八戸鉄工連合会長に就任した。1967年、八戸市議初当選で政界に進出。1期目途中で青森県議に転身。4期目途中の1985年、市長選に初挑戦。現職の市長に敗れたものの、1989年、市長選で初当選を果たした。
東北新幹線八戸開業を見据え、八戸駅前にユートリーと立体駐車場を整備。八戸港の国際物流拠点化と東南アジア航路の開設にも尽力。全国市長会理事や全国水道企業団協議会副会長、全国漁港協会理事などの要職を歴任。2001年11月、任期満了で市長を勇退した。
大型漁船が無残にも横転
――ところで、3・11のときはどこにおられましたか。
「八戸港の造船所にいました。津波で船が転んでいました。警察官が来られて、ここにいたら、『危ないですよ』って。Uターンして高台のほうへ行って、助かりました」
立体駐車場もあって、そこに多くの人たちが避難した。イトーヨーカ堂の駐車場にも約600人が避難。全員、助かった。
3月11日午後2時46分、宮城、福島、岩手、青森の各県を襲った東日本大震災。マグニチュード9・0。八戸では最大震度5強を記録し、館鼻付近の痕跡からは6.2メートルに及ぶ津波を観測。岸壁には大型漁船が何隻も乗り上げ、無残にも横転した。
岸壁に並ぶ加工工場も激流に破壊され、まるで廃屋の姿を呈していた。八戸は水産の町。その水産に元気がないのは、人間でいえば、半身不随の病人状態といっていいだろう。
「一日も早く、復興させなければなりません」
中里さんは市長として3期12年、辣腕をふるった地である。早期復興を願う気持ちは人一倍強い。
なぜ、死者が少なかったのか
――それにしても、これだけの津波に遭いながら、なぜ、死者1人、行方不明者1人で済んだのか。その疑問を中里さんに尋ねた。中里さんは身を乗り出す。市長時代の姿がだぶった。
「やはり、八戸は防波堤に力を入れたのがよかったのかな。それと明治29年(1896)の三陸沖地震、昭和35年(1960)のチリ地震、昭和43年(1968)の十勝沖地震、平成6年(1994)の三陸はるか沖地震など、数々の地震(津波)を経験していて、市民の側に心の準備があったからでしょうね」
なかでも、平成6年、暮れも押し詰まった12月28日午後9時19分に起きた三陸はるか沖地震は生涯、忘れることはできません、と言いながら、当時を振り返った。死者3人、重軽傷者783人、道路や建物などの被害額755億円という甚大な被害をもたらした地震である。
「電気、ガスは民間事業者の頑張りで早期に復旧しました。八戸圏域水道企業団が受け持つ水道は約3万世帯で断水しましたが、4日ほどで復旧のめどが立ちました」
と、中里さんは自身の回想録『道を求めて』(デーリー東北新聞社)で書いている。
「あれだけの地震に遭いながら、消防車が出動するような火災が起こらなかったのは奇跡に近い」と他県の防災関係者から評価されたこともあったという。
耐震管と消防緊急通信指令システムの導入
「不幸中の幸いと言えるでしょうが、私にはそれなりの理由があったように思います」
それは水道工事に導入した耐震管である。十勝沖地震を教訓に、八戸市がメーカーと共同開発し、全国に先駆けて昭和47年(1972)から導入を進めたもの。この耐震管を導入したことで地震の被害は少なくて済んだ、と中里さんは回想する。
さらに、言葉を継いだ。
「幾多の先人の努力によって、万一の災害に備え、安全で安心して暮らせる街づくりを目指し、近代消防の基礎が築かれてきました。私も微力ながら、消防防災体制の充実に意を用いてきたつもりです」
その1つが、平成12年(2000)12月に運用開始した消防緊急通信指令システム。広域13市町村を網羅し、世帯主や住所、電話番号などが入力された最新のコンピューターを駆使。瞬時に現場の地図を検索、地図付き指令書を消防車に送ることで、より迅速で確実な対応を可能にしたのである。
2つ目が、市民病院に隣接して設置した防災コミュニティーセンター。ヘリポートを備え、万が一の災害や、洋上救急などの事故に対する救援活動の拠点となるものだ。まさに備えあれば憂いなし――。
もちろん、今回の地震で八戸港の防波堤は倒壊し、岸壁の損傷等は甚大な被害を受けた。施設は津波に呑まれ、流された。しかし、人命には及ばなかったのである。
種差海岸が三陸復興国立公園に指定
八戸市は、3・11後の平成23年(2011)9月、「八戸市復興計画」を策定。「より強い、より元気な、より美しい八戸」の実現に向けて、防災行政の整備や災害公営住宅の建設などに取り組んでいる。そして今年(2013)5月、蕪島を起点とする種差海岸が三陸復興国立公園として指定された。
再び、中里さんにインタビュー。今後の八戸の街づくりについては?
「私は、『街づくりは市民の幸福を創造する総合芸術である』と常々、申し上げてきました。幸いにして、八戸は恵まれた自然や歴史、文化、人情豊かな都市形成資源を有し、大きな可能性を持った街です。また八戸は海と共に発展した街であり、国際貿易港の機能を十分に発揮していかなければならないと思います」
過去を知らずして未来を語ることはできない。先人先達たちは厳しい自然の風土に耐えながら、力を合わせて、たゆまざる努力を続け、荒波のような時代をくぐり抜け、今日のふるさとを築いてくれたと中里さんは強調する。
これからの日本の行く末は?
――これからの日本の行く末は?
「第二次世界大戦がはじまるころ、日本は石油を一滴も輸入できなくなりました。それで石油のあるインドネシアに進出して開戦につながりました。心配なのはエネルギー問題から生じる国際紛争や戦争です。資源小国の日本にとって原発をやめるわけにはいきません」
地震から2年数カ月がたった今も、福島第1原発事故の収束の見通しは立たず、反原発の声が高まっている。それでも原発推進の意見は変わらないのかを中里さんに聞いた。
「変わりません。安全性を確保して防災をしっかり進めることです。日本の優れた科学技術はもっと評価していいはずです」
私は1時間半、話を聞いて中里さん宅を辞した。階段を下りて見えなくなるまで、中里さんは見送ってくれた。原発は本当に必要なのか。私はレンタカーを運転しながら自問した。
※ 中里さんは今回の記事を読むことなく、2013 年7月15 日,急性肺炎のため、死去されました。86歳だった。心からお悔やみ申し上げます。(かたの・すすむ)
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
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