片野勧の衝撃レポート/太平洋戦争とフクシマ原発事故『悲劇はなぜ繰り返されるのか』<ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ>①
2015/01/01
太平洋戦争とフクシマ原発事故
『悲劇はなぜ繰り返されるのか』
<ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ>①
片野勧(ジャーナリスト)
豊かな緑も土色一色に
昭和20 年(1945 )8月6日、広島市に原爆が投下された。次いで3日後の8月9日、長崎市上空で原爆が炸裂した。この2発の原爆投下で広島15万人、長崎10万人の死者が出た。
私は福島県南相馬市に広島、長崎で被爆した人がいるというので、太平洋沿岸の「浜通り」を訪れた。2012年8月20日――。
津波に運び去られた集落は一面、雑草が生い茂っていた。ところどころにコンクリートの礎が残っていた。いつもなら豊かな緑があったのに、土色一色。無人になった、そんな殺風景な村に入った瞬間、息をのんだ。
そこはさながら、爆風で何もかも吹き飛ばされた広島の爆心地を数十倍、拡大したような死の村だった。めくれ上がった道路のアスファルトや、湖と化した田んぼが津波の威力を物語っていた。
しかし、眼前の悲劇だけに目を奪われてはいけない。この地で育ち、地域の再生を願う人々には、また別の視線があるはずだ。福島第1原発から約28キロの南相馬市鹿島区大内――。後ろには山があり、そこから海の方を見ると、広大な田畑が広がっている。閑静な佇まいに時折、聞こえる野鳥の声。
ここで酪農を営む岡実さん(87)宅は、津波が数百メートルの地点まで押し寄せたが、少し高台に建っていたために難を免れた。港から1キロ近く離れていた。岡さんは振り返った。
「津波があと1メートル高かったら、家は流されました。60頭の牛も全滅したと思います」
危うく助かった。ところが、もっと恐ろしいものが襲ってきた。それが原発事故による放射能汚染。野菜は塩害と放射能の影響でつくれない。コメ作りもあきらめた。
「これがいつまで続くかわからない。放射能は怖いよ。コメは作りたいけど、役所が作ってはいけないという。以前は作れ、作れと言っていたのに」
「ピカッ」広島は一瞬に破壊された
「ピカッ」
1945年8月6日午前8時15分。広島市の上空で人類史上はじめての原子爆弾(ウラニウム爆弾)が炸裂した。
その時、岡さんは爆心地から2キロの広島市南区の旧陸軍船舶通信補充隊(通称・暁部隊)の兵舎の2階で寝ていた。当時、19歳。この日は連日の防空壕造りで疲れきっていたので、午前中は就寝休暇だった。兵舎は2階建で1部屋75人ぐらい。ベッドは狭く、幅50センチぐらい。
「ピカッっと光って、ドーンという轟音に飛び起きました。兵舎は吹き飛ばされました」
棟が落ちてきて瓦がガラガラと崩れた。目の前は土煙で見えない。誰が倒れているか、わからない。原爆の惨禍をじかに体験した。
「胸が圧迫されて苦しかったことを覚えています」
下着姿で裸足のまま、近くの比治山に向かった。焼けた瓦礫を裸足で踏み越える。
「兵隊さん、助けて。兵隊さん、水、水、……」
髪の毛が抜け、男女の区別がつかない小さな子どもたちが、消え入るような声を出していた姿は今も目に焼き付いている。古井戸から水を汲んで子どもたちに飲ませた。
四囲を見渡すと、地上も空も真っ黒い不気味な雲ができていた。「キノコ雲」である。岡さんは死者の搬送や負傷者の救助に駆り出された。火傷のひどい人は皮がむけていた。
「生まれて初めて、死んだ人の体に触れて運びました。死体は硬く伸びたままで随分、重いものだと感じました」
爆風は家屋を倒壊させ、放射能を含んだ「黒い雨」を降らせた。放射線は人体の細胞を破壊し、爆心地から1キロ以内にいた人は大半が死亡した。
岡さんは大正15年(1926)2月、福島県相馬郡鹿島町に生まれ、昭和18年(1943)に軍需省に入り、大阪の近畿管理部で約半年間、勤めた。その後、昭和20年(1945)4月24日ごろ広島の船舶通信補充部隊第16710部隊に現役召集され入隊したばかりだった。通信の幹部候補生で毎日、モールス信号の訓練に励んでいた。最後の2等兵だった。
8月15日の終戦の放送は、無線機を通して聞いた。部隊は9月20日に解散。ところが、生家では終戦後、1カ月以上も経つのに、岡さんの消息がつかめず心配して、いとこや姉たち3人が広島まで迎えに来た。
「私だって手紙を出そうと思っても、着くかどうかもわからない混乱状態で連絡のしようがありませんでした」
9月下旬。ようやく故郷に戻ったが、1年間は体がだるくて倦怠感を覚えた。「原爆ぶらぶら病」と呼ばれる原爆特有の倦怠感だった。しかし、幸いにもその後、体には異常はなく、5年後に酪農を始めた。
その2年後の昭和27年に結婚し、3人の子どもに恵まれた。後遺症を恐れていたが、その喜びは想像以上に大きかった。2世検診でも異常なしで孫も7人。5年前にはひ孫が生まれた。助かったのは「奇跡だった」と思う。
偏見恐れ、「被爆」を伏せていた
「でも、当時は不安でした。結婚した時も、被爆のことは伏せていたんですよ」
妻のフク子さん(84)に黙っていた。“隠れ被爆者”――。岡さんだけでなく、多くの被爆者は結婚の時、話していない。話したとしても、子どもには隠し続けた。それが被爆者の人生観となっていたのだろう。
当時、原爆の意味も知らないまま、「紫斑が出た」といった症状を目の当たりにした人たちの間に、「被爆者に触ると、うつる」という偏見と誤解が生まれた。健康被害はもとより、本当の被害は人権にかかわる精神的被害だった。
今回の福島第1原発事故でも、被曝を怖れ、福島県から避難してきた子どもたちが「放射能が怖い」と偏見を持たれるケースがあった。公園で遊んでいると、地元の子供たちから露骨に避けられた。そのために兄弟は深く傷つき、両親らは別の場所へ避難した。
タクシーの乗車や病院での診察を拒否された人もいる。知識の欠如に基づく差別と偏見――。「あの人はフクシマの被曝者」というレッテルが「差別」という最も目に見えない深刻な事態を生む。ヒロシマ・ナガサキ以来、深く静かに日本社会を蝕んできた病巣といってもよいだろう。
岡さんは原爆手帳を県に申請したが、却下された。その後、同じく広島の宇品の軍隊にいたNさんの証言で、ようやく交付された。岡さんは怒りを込めて語っている。
「原爆なんて戦争の最後の手段で使ったのでしょうが、ひどいものです。今、お金が万能な世の中ですが、お金のために国と国とが対立するのをなくさなければ戦争はなくならないと思います」
被爆後、酪農に生きてきた
ヒロシマ被爆後、岡さんは酪農とともに生きてきた。昭和25年(1950)、1頭から飼い始めた。その後、北海道で乳牛を買い付けるなどして60頭まで増やした。最盛期には1日700リットルの牛乳を出荷。長男もあとを受け継ぎ、親子で牛の世話をした。
岡さん一家は平和な生活を送ってきた。その平和を奪ったのが福島第1原発事故だった。酪農に必須の水の確保ができなくなった。放射性物質のあおりを受けて、牛乳の出荷もできなくなった。それは酪農家にとって「死」を意味する。そこへ屋内退避区域の指定も受けた。
「事故が起こるまで原発など考えたこともありません。牛乳を捨てるなど夢にも見ませんでした」
岡さんは原発事故で停電と断水の被害に遭い、家族5人とともに自宅を離れ、福島県内の親類宅や山形県河北町の避難所、ホテルなどを転々とした。20日ぶりに帰宅した時は、すでに長男が手塩にかけた60頭の牛すべてを売り払ったあとだった。酪農は諦め、搾乳機も手放した。
東日本大震災で建物には大きな被害はなく、今は落ち着いた生活に戻りつつある。ただ、原発から20~30キロ圏内の「緊急時避難準備区域」に当たるため、いつでも逃げられるように荷物はまとめている。
長男は乳牛の代わりに肉牛の繁殖牛6頭を購入した。しかし、今度は放射性セシウムで汚染された稲わらの問題が浮上しているという。
牛の涙
私は岡さん宅に取材でうかがったのは、3月11日の震災から1年5カ月余り経た、暑い盛りのころだった。原発事故は収束するどころか、牛肉をはじめ食べ物の汚染の実態が次々に明るみになり、影響は拡大していた。
この終わりの見えない事態を岡さんはどう見ているのか。牛との生活の日々について聞いてみた。
――原発事故で牛はどうでしたか。
「私は昭和25年(1950)に1頭から飼って、原発事故が起こるまで60頭いたんですが、放射能で全部、売り払いました。牛の値段は軽く見て、3千万円、損しちゃいました。でも、お金を一度に出して集めたんではなく、少しずつ増やしていったから、まだいい」
――命を奪われるような気持ちでしょ?
「金の問題ではありません。牛も生き物、人間と同じ。売り払われるのがわかっているのか、目に涙をためていました。可愛そうでした」
――どんな風に泣くんですか。
「泣くといっても、声はあまり出さないけれども、涙、ポロポロ出してね」
この話を隣で聞いていた長男の嫁さんが言う。
「いや、声を出して泣いていましたよ。本当に可愛そう。自分の子供みたいで……。牛たちには申し訳ない気持ちでした」
手放した時の牛の表情を思い浮かべたのか、嫁さんも顔を後ろに向けて、すすり泣いていた。私も一瞬、声を詰まらせた。
2つの国策に翻弄されて
私は原発災害について、どう思っているかを尋ねた。
――政府の対応については?
「正直な政治をしていればいいけど、情報を知らさないから国民は政府を信用しない。政治家は国のために働くといっていながら、何もしてくれない」
――原爆と原発という2度の国策に翻弄されて、どう思われますか。
「私の考えでは原爆も原発も同じです。原爆は人を殺すために造られました。原発はエネルギーのためですが、同じ核です。原爆と原発という2つの国策に一体、いつまで翻弄され続けねばならないのでしょうか。原爆は絶対に許せません。原発はいつでも止められるという条件をクリアしなければ、稼働してはいけません」
この言葉は原発を推進してきた者たちへの抗議であり、同時に心からの願いのように聞こえた。国の舵取りにもまれて、使い捨てにされてしまうのか――。岡さんの一語一語は胸に迫る。68年前に原爆放射線にさらされ、今また放出の続く原発の放射線の脅威に直面するとは……。岡さんはやりきれない思いで日々を送る。家や仕事を失う不安も募る。
原爆による被爆と原発事故による被曝――。漢字は一字、違うけれども、核が持つ本質的な脅威は変わらない。
「放射線は色も匂いもない。原爆はボーンと音を立てて炸裂したけれど、原発は音もなく、ちょびちょび出ているから、怖い」
原爆のエネルギー放出は10秒ほどだが、原発のエネルギー放出は今も続いている。しかし、原爆と原発の障害はともに体と心を蝕む。放射線被害の恐ろしさだ。
片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
つづく
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