「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙は「日韓併合への道』をどう報道したか⑯「朝鮮における日本」(下)「英タイムズ」(明治40年9月27日)
2018/01/12
「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙は「日韓併合への道』をどう報道したか⑮
「英タイムズ」(1907(明治40)年9月27日)
「朝鮮における日本」(下)
<これまでの朝鮮の政治危機の顕著な特徴は,殺人的な暴虐だったということだ。
暗殺というおなじみのやり方が失敗すると,今度はやむなく別の策略がとられた>
確信をもって言われているのは.前皇帝は19日夕方,閣僚からの強い勧告を受けて上記の詔書に署名したが,その一方で,彼自身が首謀者ではないにせよ,彼が同日深夜に大臣全員を暗殺する陰謀の存在を知っていたということだ。
閣僚たちは宮殿において夜通し非公開の会議を開いていたが,ちょうどそのとき宮殿の警護にあたっていた朝鮮兵たちがこの陰謀を実行に移す手はずとなっていた。
ところが,危険を察知した大臣らは統監に急使を送り,援軍を求めた。かくして,宮殿に到着した日本軍派遣部隊が朝鮮の警護隊を解散させ,血なまぐさいクーデターを未然に食い止めたのだ。万が一この暗殺計画が成就していたなら,宮廷勢力は少なくとも時間稼ぎができただろう。
そしてそれについて判断する際に思い起こすべきことは,これまでの朝鮮の政治危機の顕著な特徴は,殺人的な暴虐だったということだ。暗殺というおなじみのやり方が失敗すると,今度はやむなく別の策略がとられた-
それはまず第1に退位詔書が皇太子への部分的かつ一時的な権限の委任を意味しているに過ぎないことを証明し,第2には退位した皇帝の得た新たな肩書が後継者の権威を上回るものであることを証明しようとする努力の形をとった。
このような詭弁が退けられたとき,前皇帝とその側近も,ついに現実の状況を認めざるを得なくなった。皇太子が即位し,新皇帝の誕生に合わせて元号が変えられ,外国総領事たちはそろって若き皇帝に謁見した。
だが,そこにはまだ大きな問題が控えていた。それは,日本がいかなる行動をとるかという問題だ。譲位劇に対して高みの見物を決め込んできた伊藤侯爵は,日本が元首の交代に関与してはいないこと,そして,いかなる意味でもそれがこれまでの事態への当然かつ正当な償いであるとか,現状の十分な解決策であるとか見なすっもりもないことを,事実上公に示していた。
日本の新聞は.朝鮮における恒常的な騒乱や政治的陰謀や不毛な努力にはこれを最後に終止符が打たれるべきだとこぞって要求した。日本の政治家たちもこうした要求に共感を寄せていると見られていた。しかしながら,伊藤侯爵がようやく正式な要求を行ったのは退位から6日後のことだった。
7月23日、内閣に対して要求書を提出した侯爵は,非常に苦心を重ねながらその趣旨と目的を説明した。当然ながら朝鮮側は承服しかねる様子だった。とはいえ実際にはもっと過酷な事態さえ予測されていたのだ。
しかも侯爵は,この要請をまるごと認めるか,あるいは全面的に拒否するか,とるべき道は2つに1つであり,後者の場合,彼はソウルから引き揚げるだろうということをはっきりと理解させた。
かくして24日午前1時,新皇帝は協約に署名を行い,朝鮮は日本の保護下からその支配下へと移行した。協約の文面は以下の通り。
日本政府および朝鮮政府は,速やかに朝鮮の富強を図り,朝鮮国民の幸福を増進させる目的を持って,次のように合意した。
第1条 朝鮮政府は,その施政の改善に関するあらゆる事項について統監の教示指導を受けなくてはならない。
第2条 朝鮮政府は,法令制定に関するあらゆる事項,行政に関するあらゆる重要事項について,あらかじめ統監の承認を得なければならない。
第3条 朝鮮の行政と司法とは明確に区別されなくてはならない。
第4条 朝鮮政府高官の任免については,統監の同意を得なくてはならない。
第5条 朝鮮政府は,統監の推薦する日本人を朝鮮の官吏に任命しなくてはならない。
第6条 朝鮮政府は,統監と協議せずに外国人を朝鮮の官吏に任命してはならない。
第7粂1904年8月22日に調印した協定書の第1条は破棄される。
(ここで言及されているのは次の条文だ。
「朝鮮政府は日本政府の推薦する日本人1人を朝鮮政府の財務顧問として任用し,財務に関するあらゆる事項に対処する際にはその意見を踏まえるものとする」。新協約の第5条によって,1904年の協定の上記項目は不要となった)
以上の証として,それぞれの政府から正式に信任された次の全権両名は,本協約に調印した。
明治40年7月24日 光武11年7月
24日,ソウルにて
(署名)
統監侯爵伊藤博文
韓国内閣総理大臣李完用
この協約が日本国内で何の異論もなく受け入れられたのは,画期的なことだ。すべての政党,そしてすべての主要新聞が,この協約を朝鮮問題の賢明かつ十全な解決策として承認した。朝鮮においても強い、反対の声があがらなかった。どうやら,日本の交渉担当者たちは.その支持者と同時に敵対者をも満足させるという,まれに見る成功を収めたようだ。
朝鮮国民が,外国人顧問を外国人支配者に変えるような取決めに対して憤激を抱く恐れはあった。だが彼らの目には,帝位が非常に重要な独立の象徴として映っており,帝位が無傷で残されたと分かると,彼らにとって他のことはすべて副次的な意味しか持たなくなったのだ。
すでに協約の締結以前から日本の世論は,朝鮮軍の解散に賛成する意向をはっきりと示していた。そして今では,統監府も当初から同意見であったことは明白だ。だがそこにいくぶんの遅延が生じたのには理由がある。軍隊解散命令の任務が日本人の手にゆだねられることは明らかだし.それを手際よく実施しようと思えば力の優越を誇示することが不可欠だった。
ところがこの時点で日本軍の朝鮮守備隊は1個師団全兵科を合わせてはぼ9000人で.しかも,主に平壌から北の地域に駐屯し,ソウルとそれ以南の地方への配置はかなり手薄だった。
一方,朝鮮軍は7000人を超え,そのうちの4000人は首都に,残りの部隊はまさに日本軍の分遣隊がいない地方に置かれていたのだ。したがって,軍隊解散の計画を進める前に,日本の守備隊を強化することが適当になった。
そこで小倉から釜山に1個旅団が送られ.南の地方にくまなく配置された。この旅団を率いる依田少将は7月27日に,ソウルの統監府に.部隊の配置がすべて完了したとの報告を行った。それを受けた伊藤侯爵は,駐留師団の指導者である長谷川将軍と協議の上,8月1日を期して軍隊解散を断行することに決めた。
こうして7月31日の夜には朝鮮の首相が.軍隊の解散を命じる勅令草案を携えて宮廷に赴いた。この勅令では例外として,特別に選ばれた一定数の人員だけが残され,近衛大隊を編成することとなった。解雇された兵にはかなり高額の退職金が定められ,勅令には兵士たちの過去の労を大いにねぎらう言葉もあった。
このときの日本側の計画は次のようなものだ。-8月1日早朝.首都にいる朝鮮軍の将校を召集して,軍部大臣が軍隊解散の勅令を読み上げる。将校には,次の指示があるまで部下にこのことを口外しないよう命じる。
次に,兵士たちに対しては雑役の態勢で兵営の外を行進するよう命じ,そのまま日本人教官が練兵場まで引率して解散式を執り行う。その間に,兵舎に残された武器を没収する。
すべてがこうした手はず通り進むかに見えたそのとき,予期せぬできごとによって,ここまではうまく保たれていたはずの平穏な雰囲気がもろくも崩れ去ってしまった。
近衛第1連隊の第1大隊が練兵場の行進を続けているさなか,兵営で病床に臥していた同連隊の大佐が自殺したのだ。この事件を聞いて,兵たちは動揺と興奮の渦に巻き込まれ,引率の日本人教官を追い払った。
教官は命からがら逃げのびたが,兵士たちは兵営へとって返し,武器弾薬を奪うと窓から発砲を開始した。そしてこの結果,武器とかなり豊富な弾薬を手にした約1300人の反乱兵が2棟の堅牢な兵舎に立てこもり.付近の道路をライフル銃で制圧したのである。
このときすでに南大門の駐屯地から行進を行っていた日本軍第55連隊第3大隊【原文ママ]は,当初の計画に従って兵舎を占拠するために2個中隊を派遣していた。この中隊は突如として反乱兵の銃火にさらされた。状況が多少あいまいだったので,一時のためらいがあった。だが間もなく兵舎奪取の命令が下り.日本軍兵士の力を知る者にはあえて言うまでもないことだが,この任務は迅速に達成された。
日本軍は4人の死者と29人の負傷者を出した。一方の反乱軍側は23人が死に,90人が負傷,516人が捕虜となった。朝鮮兵の約半数は逃走したが,そのことごとくが武器を遺棄したものと見られている。この結果,地方での部隊解散命令はさして深刻な支障もなく実施された。
新しい協約に実行性を与えるため伊藤侯爵がどのような手だてをとるかは.今後解一明されるべき問題だ。閣下は彼の同僚との協議のため,つい先ごろ日本に帰国したばかりだ。彼が再び朝鮮を訪れるときには,完全な詳細にわたる計画を携えてくることだろう。
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