『各国新聞からみた東アジア日中韓150年対立史⑪』日韓パーセプションギャップ、大倉喜八郎の明治10年(1877)の『朝鮮現地レポート』
長期化する日中韓の対立をみていると、日中韓の150年戦争史の既視感(レジャビュ)がよみがえります。
あと4年(2018)後は明治維新(1868年)からちょうど150年目に当たります。
この間の三国関係を振り返ると、過去100年以上は対立、紛争、戦争の歴史であり、仲良くしていた時期はこの最近3,40年ほどの短いものであり、単に「近隣関係、近隣外交は仲良くしなければ」という建前論からではなく、その対立、戦争のとなった原因までさかのぼって客観的に調べなければ、何重にもモツれた歴史のネジレを解いて真の善隣友好関係は築くことができません。
その意味で、ここで紹介する1877年(明治10)7月12日付『東京日日新聞(現・毎日)』報道の大倉喜八郎の『朝鮮現地レポート』は日韓パーセプションギャップ、文化摩擦のルーツを伝えており、これがその後の日韓の紛争、日清戦争へと発展していったきっかけであることがよくわかる点で、大変、参考になる』。
〔1877年(明治10)7月12日、東京日日新聞(現・毎日〕
◎『朝鮮に活躍しつつある豪商大倉喜八郎よりの消息』
大倉喜八郎氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%89%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E
は、宿志の通り六月初旬に朝鮮に渡られたるなり。
釜山浦は日本商人の互市場なり是は兼て徳川家の初頃より、封州に開きたる和館と称する地にて甚だ隘狭なれども、近ごろ大に補理を加へて略ぼ開港場の形を成せり、弁天町と本町の二街あり、海岸通りには数棟の倉庫連なりて其後に房屋あり、管理官は本町の上に在りて、にわかに海上を見晴し、左右は松杉、森々として生ひ繁り風景ことに宜し。
前に一島の横はるあり牧島と云ふ。韓府の牧馬場なるよし是また一景を漆得て妙なり。
○右の居留地内には、現今日本人は二百余人ほど住居せり。此外に旅客と旅人などにて二百五十人ばかりも有るべし、大小の和船三十余腹も入港碇泊せり。
○酒もあり、魚類もあり、気候もさほど悪しからず、併し友達はなし、新聞はなしモーっもなし、誠に不自由云はんかたなし。(岸田吟香云ふ。僕はかって大倉君と共に台湾に従軍せしが、其の時は酒も魚類もなく気候は悪し、友達も新聞も其モ一ッも無った)
○海岸に一小丘あり、籠尾山と云ふ、清正の祠ありて頗る好景なり。然るに韓人の海岸に来る者、多くは此処を以て放尿所と為す。故に其周囲は甚だ不潔にして臭気甚し。或は時、疫等を醸すの恐れあり、近ごろ管長近藤氏の発意にて、その小丘を洗ひ清めて、居留地人民の遊歩地と為し、人民の健康を害すると無からしめんと専ら着手中なり。
又居留地中に在る川を浚へて不浄を掃除し、井水を注意しなど両三年前に比すれば実に面目を改めたりと云へり。
○朝鮮の国法として、従前より婦人は日本人の居留地館内に入ることを許さず。若し法を犯す者ある時は断罪なりと云ふ。然るに昨年以来、韓地一般の大飢饉にて貧民の飢餓に迫る者多く、婦女子夜間病かに和館の内に来りて(居留地を総て館内と云ふ)食を乞ふ者多
し。
是に於て船人または居留の商人ども、是を憐れみ、遂にまた是を愛し、衣食を与ふる者あるを以て、婦女子は容易に去らず。実に横浜のラシャメン的と一般相似たる景況なり。(西洋人は綿羊毛を以て製したる羅紗を服とす。ラシャメンの名は蓋し是に因るか、朝鮮は虎皮多し、故に此等の婦女子は宜しくトラメンと名づくべきなり)
先ごろこの売淫のことが韓史の耳に入りて、東来よりトンビ来り婦人玉名を捕縛したるよし。(捕縛更をトンビと云ふ)、然れども此厳法を犯して、夜間ひそかに来て食を乞ふ婦人は今に絶えず、凶年の惨状その一斑を見るべし。
○釜山浦より日本道の三十里ほど北に大邱と云ふ所あり、毎年旧暦の二月と、十月に日数二十日ほど大市あり、是を大市邱と云ふ。此時は韓国八道の商人が競ひ集りて、互ひに物貨を交易などして大なる商内あり、重に日本品を持出し、見物もあり、商人もありて甚だ
繁昌する事のよし。
又、平安道の義州昌城にも同様の大市ありて、是には重に支那の品物を持出すよし。此市には支邦人も来りて、朝鮮全国の商人が雲集するとの事なり。
○朝鮮政府の人民を牧するや、殊に圧制を極めたる者にて、人民もまた権理の何者たるを知らず、貧を常とし苦を甘んじ、富貴を羨やむの念なきが如く、鹿食を喰らひ水を飲んで足れりとする風あり。(其くせ狡猾なること猿の如くなれ共)
偶々民間に富裕の者あれば府使より強て献金を命ず、命に従ふ者には位記等を与ふのみ。(徳川氏の時に御用金を出したるものへ、苗字帯刀を許したるに同じ)
若し、命に従はざる者あれば罪科に処するに至る、是に依て人民間に富んで罪を得んよりは、貧にして安眠するに若ずと云ふ里諺あり、
故に質素を貴ぶと云ふは口実のみにして、一般に遊惰を事とし、何なりとも口腹さへ満れば足れりとし、又事業を営むの意なし、実に愚民どもなり。此調子にては、幾百年を経るとも文明開化の域に進むの日あるべしとは思われず。
○朝鮮政府の無状なるまた言語に絶したり。昨年の飢饉の如き、人民の道路に飢死する者、陸続として相望めども、官吏は恬として見ざるが如く、尚も例に依りて暴政を行なへり。人民はもとより無気無力なれば、艱苦を忍んで暴政を甘んじ、更に竹槍席旗を掲ぎ出す程の気力も無き者どもなれは、一人として官吏の暴虐を責むるの意なく、政府は斯くの如き者と思ひて只恐るること虎の如く、尊ぶこと鬼神の如し。
是に於て官吏は八道無事にして天下太平なりと云ひ、政府は尭天舜日、万民鼓膜の世なりと思へり。
〇韓人の衣服を見るに、男子は宛も我国の直垂に異ならず。(思ふに我国の衣服も往古は斯く如くなりしを、人の事業いそがしくなりで、平生に小袖ばかり着ることに成り、夫より今の通りに成りたるか。併し、吉備大臣は唐服を模して製せられしと云ふ)
また女の衣服は、大に西洋の農婦や下卑の服に似たり。上は簡袖にして腰より下は支那の女の如く、襞の多くある袴を着せり(台湾生蕃の女は頭が西洋に似たり)。
併し感心な事は、婦人はもとより男子にても、馬子、船頭、人足、乞食に至るまでチャンと衣服着して、胸を広げ祖を脱ぎなどすること無し。日本より出張して居る商人どもが裾を端折り、両脚を出して歩行し猥りに人に肌を見せることを何とも思はぬをは、韓人ども大いに嘲笑し、無礼の野蛮なりと云ふ者もある由。
○韓人一般に今日の応対の礼は甚だ厚きが如く、談上には閣下云々など総て礼敬を尽したる言語多けれども、其座作進退の様は不行儀千万なること恰も支部人と同様なり。
筆談をすれば、終日倦まず長座して下らぬことばかり云ふには大に困却せり。又韓人は店頭に来て、品物を買ふこと両三度に及ぶ時は最はや親友なり、交際厚しとて代金を払らはずして、物品を借り去ること一般の風なり。
若し借さざれは人情薄しとて怨み憎よし。又僅かの買物に来ても、酒を飲ませよ飯を出せよと云ふ。若し断れば交誼しとて嘲る気味あるは変な習慣なり。(我国にも横浜神戸あたりにて、西洋の商館に立入る小商人には此風ある由に聞及べり。)
○昨年の飢饉ゆえか、窃盗は次第に多く、店頭に来りて物を盗み去ること甚だ功者なり。中には用ありげに店に来りて筆談などしつつ右の手には高尚なる聖経賢伝の醇を写しながら、左の手には鼠小僧の流儀を行なう者あり、油断の成らぬ奴等どもなり。
○又下等社会の風俗を見るに、男子は怠惰にして女子田畝に耕し、男子を養う者多し、然れども中等以上に至れば、一男子にして妻妾数人を蓄うる者あり。貴官顕職の者は、六七人より十人位の妾を置くは、珍しからずと云ふ。
○国内仏教は盛なり。十余年前、法国の伝教師ありて、江華島附達まで入込みしに、土人これを憎み乱暴を起しけるにぞ、官史より伝教師を迫ひ払ひ、或は定を殺したることある由。
○近頃、釜山浦近辺へ四十人ばかりの僧侶が雁行して来たりしは、慶尚道晋州の梵魚寺の禅宗坊主なるよし。此寺には僧侶凡そ三千人も居ると云へり。
○和館内にも仏寺の跡あり、封川西山寺より出張して、東向寺と云ふ寺ありし由、しかれども仏寺の取扱は少なくして、重に朝鮮官吏と往復の文書類を吟味するを以て主任とせしよし。
○東向寺跡より三町ばかり北に日本人の墓場あり、此辺を伏兵と云ふ、是は和的以前は総て和館の周囲を柵を以て囲ひ、四方に門ありて其外に朝鮮より番兵を置いて守らしめたりしが、其傍にある墓地ゆえ伏兵の唱へありと云へり。墓の数は数千あり、みな封州人なるべし。
○和館内に病院あり、済世医舘と云ふ、医官矢野氏之が長たり。和韓の人を論ぜず治療を施せり。本年疫病流行の際は、其の効験尤も大たりし由。
近ごろ一韓人あり、リウマチスにて久しく片手はきかぬ様に成り居たるが来りて療治を乞ひければ、院長これを診察し、エレキ器械を手に握らせて是を掛けたれは、患者は大いに驚きしが遂に共感カに依て、数年屈伸の成らざりし片腕が立所に自由を得る様に成りしかば、韓人どもは足を見て、是必らず神農の再来ならんと評判せりとぞ。
○貿易物産の内にて、良好の砂金は威鏡の端川聖代山、平安道の寧辺、江原道の洪川、慶尚道の漆原、威安その外にも、仝羅道の内等より出るよし、人参、牛皮、木綿は諸道に産す、全国すべて鉱脈に富めりと云へり。
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