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終戦70年・日本敗戦史(135) なぜ国際連盟を脱退し「世界の孤児」と化したのかー「満蒙の特殊権益」を死守するためで、 新聞は一致して脱退を支持した。(2)

      2015/08/15

終戦70年・日本敗戦史(135)

<世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月24日  前坂俊之 

◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』

<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、

どこに問題があったのか、

500年の世界戦争史の中で考える>⑭

 なぜ国際連盟を脱退し「世界の孤児」と化したのかー

日露戦争で「十万の生霊、二十億の国帑」を費やし獲得した

「満蒙の特殊権益」を死守するためで、

新聞は一致して脱退を支持した。(2)

 前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

 国際連盟脱退(2)新聞が脱退をバックアップ

 連盟報告書の誤謬を正すためとして政府は11月18日、意見書を国際連盟事務総長あてに提出した。満州国を承認し、その育成を計ることこそ紛争を解決し、極東並に世界の平和を招来すべき最善の策であると強調した。 リットン報告書の出された翌日の各社は一斉に国連を非難し、激しく罵倒した。冷静、客観的であるべき社説にはヒステリックで挑戦的な見出しが並んだ。

『東京朝日』――「錯覚、曲弁、認識不足――発表された調査団報告書」

『大阪朝日』――「認識不足と矛盾のみ」

『東京日日』『大阪毎日』――「夢を説く報告書――誇大妄想も甚し」

『読売』――「よしのズイから天覗き」

『報知』――「非礼誣匿たる調査報告」

『時事新報』――「報告書は過去の記録のみ」

 このほか「現実無視」など、最大級の悪罵が一斉に並んだのである。

『東京朝日』の「錯覚、曲弁、認識不足」の社説では「始めより調査委員の頭脳を支配したものは事態の如何を問わず、撤兵論に終始する連盟理論であって、自ら称する所の『現実を無視するもの』の誤りに陥ったものである」。『東京日日』も普段の二倍の2段見出しで「誇大妄想も甚し」というセンセーショナルな社説を掲載した。

今、歴史を振り返ってみると、どちらが、「誇大妄想」であり「錯覚」「曲弁」「認識不足」があったか、考えさせられる。

「報告書は満州国をもって日本の作り上げたものだと断じているが、それは実に憶断も甚だしいものである。……かくの如く提言と称するものの2,3挙げてみても、調査委員がユートピアを夢みているのではなく、身心羽化して既にユートピアの中にいるとしか思えない。吾等はこの結論を読みて、来るべきジュネーブ会議に日本が十分の用意と断乎たる決意をもって臨むべきと教えられたといって差支えないと思う。吾等は政府が理として争うべきはあくまで争い、しかして後、徐々に我国の最後の態度を決すべきことを主張する」

『大阪朝日』は三、四日と連続で「調査団の報告に就いて」という社説を掲げた。

三日は「容認し能はざる点多く解決提案は断じて不可」と題して「事変勃発当時の我軍の行動を自衛手段と認むるを得ずとなし、また満州国新国家の発生を自発的運動の結果とみず、日本の文武官憲の行動によるものの如く断ぜるは、許すべからざるところである。……我国としては調査報告の如何にかかわらず、断乎として既定の方針をもって邁進し、連盟をして、我が正しき主張と現存の事実を承認せしむるにあるのみである」と述べた。

 四日の「認識不足と矛盾のみ」では「現実の情勢に関する認識不足は依然として存在しこれがために該報告書は結局において矛盾撞着に陥り、その価値を減却するに至ったことを遺憾に思うものである」。

 満州事変以降、同音異曲のこうした新聞の強硬姿勢に対して、知識人の間でも批判があった。特に、外交は強い要求ばかりで行えるはずがない、妥協、譲歩の産物であるという外交の第一歩さえ踏みにじり、軍部の独走に全く歯止めがかけられなかった点について新聞は全く目をつぶった。

1・・清沢洌は新聞の態度を批判

 戦時下の言論抵抗の一例として有名な『暗黒日記』の外交評論家・清沢洌はリットン報告書に示した新聞の態度を次のように批判し、慨嘆している。

「(リットン調査団)が日本に立ち寄った時も朝野が下にもおかぬ歓迎ぶりであった。年頃の娘を持った両親が身許調べに来た興信所の人に対する気兼ねと心遣いが当時の日本人の態度だった。

 その調査の報告書が電報で日本に来た時に筆者は、たまたまある新聞記者の会合に出席っていることに驚嘆した。無論その内容については、種々な意見はあったが、しかし極めて短時間によくこれだけのことが書けたという点については異論がなかった。

 ところが、その翌日の紙上には世にも不思議な現象が現われた。昨日、個人としてリットン報告に敬意をすらも持っていた新聞記者が実際、筆にしたところは猛烈な漫罵以外の何ものでもなかった。

政府発表のものの中にもただの一言の『遠来の労を謝す』というような礼儀の言葉すらもなくて、直ちに悪罵になっていたし、新聞の論説、雑報に至っては××がつかまった時はモッと優しい言葉が連なっていた。中にはリットン一行が、支那の大官から賄賂をとった、と特筆している一流紙もあった」

 満州事変の論理を押しすすめていくと、国際連盟脱退は必然になることは目に見えており、政府、重臣グループの一部に根強い反対論があった。西園寺公望や斎藤実首相らは「好んで脱退すべきでない」ときつくクギを刺していたが、軍部、内田康哉外相ら外務省の一部、政友会の森恪らの強硬派に押しまくられてしまった。

 その原動力となった陸軍の考え方は荒木貞夫大将の次の言葉に要約されていた。

「連盟に入っていればこそ、すべての点で拘束されて自由がきかない。連盟さえ出ればどんなことでも思いのままやっていい。たとえば、天津地方だって必要に応じて占領することもできるし、どこにどう兵を出しても何等の拘束も受けない。だからこの際思い切って連盟を出てこそ、むしろ自由な立場になって自由の天地を開拓し得る(12)

2・・新聞がアクセルを踏んで、国際的孤立へ突進

 こうして暴走した軍部に対して、ブレーキをかけるべき新聞が逆にアクセルを踏んで、国際的孤立へと突き進んでいったのである。 先に紹介した『新聞及新聞記者』(1932年11月号)の「軍部は言論界に斯く希望す」という特集のなかで、新聞記者が書いたと思われる江川楓亭の「軍部の新聞操縦-ペンは剣よりも鋭し」という文章がある。 江川は当時の新聞人の情けない態度を嘆いて、こう書いている。

「確乎たる新聞人の気魂が欠けている。……重要事件に関しても、一致結束して当局にその自由報道と記事解禁を迫るべきであるのに事実は全く反対で、他社の功名を嫉視して、軍部や当局の手先でもあるかの如き、口ぶりをもらし、お互いに報道の自由を牽制し合い内務省や軍部におもねりすぎる。だから、当局は頭から甘く見てかかり、全然、定見なき幇間のようにしか考えていない」と。

「幇間」(ほうかん)とはいうまでもなく男芸者、たいこもちのこと。新聞の態度をみていると、残念ながらそう言われても仕方のない部分があった。

 リットン報告書の公表以来、政府や軍部から公然と国際連盟脱退論が叫ばれ出した。手足をしばられた国際連盟から脱退すれば、自由に行動できるという考え方である。十二月十九日、全国百三十二社の各新聞は、共同宣言を第一面に掲載、「いやしくも満州国の厳然たる存在を危うするが如き解決案は、たとい如何なる事情、如何なる背景に於て提起さるるを問わず、断じて受諾すべきものに非ざること」を日本言論機関の名において茲に明確に声明した。

これは新聞各社が自発的に行ったものではなく、白鳥敏夫、鈴木貞一らの脱退論者による思想統一工作の結果であった(13)

3・・毎日は脱退論を強硬に支持、朝日は慎重

 ところで『朝日』と『毎日』の報道ぶりは少し違っていた。『朝日』は止めようにも止まらない全体の流れの中で、連盟脱退には慎重であった。ただ、その態度もしばらくして変わってしまう。一方、『毎日』は軍部と一体となって連盟脱退論を打ち上げて世論づくりに貢献した。まず『朝日』をみると、国際連盟脱退論が大きくなってきた段階で、軽々しく脱退論をはくことを戒めている。連盟は規約第一条第三項で「連盟国は2年の予告を以て連盟を脱退することを得、但し脱退の時までにその一切の国際上及び本規約上の義務は履行せられたることを要す」と規定している。

 たとえ、脱退したとしても、この規約によって二年間はしばられる。この点を第一にあげ、1932(昭和七)年5月3日社説「連盟脱退の可否」では、脱退の場合の経済上の孤立が自殺行為につながることをはっきり指摘した。

「国際連盟は単に国際間の紛争を平和的に処理するばかりでなく、経済、財政上にも重要なる活動をなしている。

世界から孤立して経済、財政政策を樹立することの出来ない時代にあって、国際連盟から脱退し経済、財政上の問題に関する連盟の重大会議に直接参加することが出来なくなることは経済上の自殺行為である。日本が連盟に加盟していないことから生ずる経済、財政上の不便のみにても想像以上であろう」

 国際連盟総会は1932年12月6日に開会、スウェーデンをはじめ4ヵ国からリットン報告書の即時採択、満州国不承認決議が出されたが、イギリスの反対によって、19人委員会に問題を付託することになった。翌年2月14日、19人委員会はリットン報告書を採択し、満州国不承認を全会一致で可決した。こうしたきびしい情勢の中で、『朝日』の慎重論も一変する。「この結果による非は連盟側にあり、わが国には全くないとして、ゆきつくところの戦争も辞さない」という脅しさえ述べている。

 4・・朝日も一変、連盟を罵倒

 2月11日社説では「我が代表は引揚げよ、連盟は我が誠意を解する能はず」として、激烈な口調で連盟を罵倒している。

「日本の根本最高の政策たる満州国正式承認の歴然たる大事実を無視し、幾度びとなく中外に宣言して来たわが本質的主張の主旨を全然顧みないで、日本の態度を故意に正反対に解し、その諒解の逃避を質問し来るがごとき非礼を敢てするに至った。

(中略)連盟自らかく日本の誠意を容れず進んで和協手続を放棄せんとする以上、日本としては最早交渉の余地なきもの……よろしく我が全権は速かに引揚げて然るべきである。再び、極東の事態は9・18事変以前以上の混沌に逆転し、延いてはいかなる世界的先機を発生せんも、測りがたき状態となっても、それはわが日本の関り知るところではない。こうなっては、日本はただ静かにジュネーブの交渉舞台から退場し、国民は絶大の困難に対する覚悟と決心とをもって、ゆきつくところまでゆきつくの外はないのである」

 

 19人委員会の結論によって、それまで脱退に批判的だった海軍も態度を変えた。新聞論調も脱退論に統一された。政府は二月二十日の閣議で十九人委の報告が連盟総会で採択された場合、日本は連盟を脱退することを正式に決定、「総会席上は反対投票し、のちに代表を引揚げる」よう電訓した。『大阪朝日』は、わが国始まって以来の危機として国民に覚悟を促している。

「直面する重大危機――連盟の対日態度はますます悪化」(2月14日)では、その後の事態を正確に見通している。「今回は世界中の大小国悉くが日本の味方ではなく、日本は文字通り孤立状態に陥るのおそれがある。日本が今日の如き国際的危機に直面せるは開闢以来ないのである。吾人はかくの如き危機が避け得られんことを衷心切望し、またそれを未然に解消すべく努力しなければならないが、若し万一不幸にしてそれを避け得られなかったならどうする。わが国民はこれを回避する最善の努力をすべく政府者を鞭達すると同時に、他面また最悪の場合につきても考究を怠らず、これに処するの方途を十分に講じて置かねばならぬ」

 5・・天声人語は日米戦争を予言

 同じ日の「天声人語」も次のように指摘して、日米戦争を予言した。「連盟はすっかり調子にのった。強きを扶ける白人の心理として、当然の出方であり、かくて日米の正面衝突は不可避の事態と醸され来る。居ながらにして、満州国の不承認を黙諾しうる日本ではあるまいし、脱退か否か代表部の凝議、納まるところは論理明白である」

 一方、『毎日』はどうか。『東日七十年史』を見ると、『東京日日』がいかに国論の統一と指導に努め国際連盟脱退へと導いたか書いている。

「満州事変当時における日日新聞が言論機関として異常な貢献をしたことはいうまでもない。即ち、連盟がリットン卿一行の調査団を送り、日本圧迫の報告材料を漁りつつある最中において、東日は『連盟を脱退すべし』との長論文を二十回にわたり執筆せしめ、脱退論に関する全面的検討を行い、国民をしてよるところを知らしめた。これと平行して社説において、堂々と連盟脱退論を公にした。

  この事は当時においては言論界の急先鋒としてその勇断を、その後においては先覚的見識を謳われたものである」 このように『毎日』は国際連盟脱退論では一貫して強硬論を主張し続けた。

1932年3月29、30日の二回「連盟脱退論」を展開した。

 趣旨は――「連盟から不当の決議をつきつけられても、規約違反国として指摘されるような形勢があれば、脱退することもまたやむを得ない。われ等は国際的団体からのゆえなき離脱を好まないが、国家の盛衰、国民の死活にかかわる問題だから、連盟とのお付合いはご免だ」

 翌年二月の国際連盟総会前には「連盟脱退か否か、我国の立場」(高二十八日)でこう評論した。「連盟脱退はもとより、我国に取り重大事であるが、満州国独立に関する事態は我国に取って実に生か死かの問題である。連盟が満州国の独立を承認せずといえる場合、正理の上よりも、体面の上よりも、わが国は脱退以外に執るべき途がない」

 6・・『東京日日』は脱退の他なしの大キャンペーン

 一九三三(昭和八)年二月には『東京日日』の社説は計九回も取り上げた。

 二月  八日  「十九人委員会の背信行為--煮湯を呑ませた」

    十四日  「勧告の効力――不応諾差支えなし」

    十五日  「所謂侵略国の定義――錯覚的提案」

    十七日  「連盟脱退の外なし――頬冠り主義を排す」

    十八日  「連盟に留まるは不利――孤立とは何か」

    十九日  「連盟の制裁如何――脱退と否との場合」

   二十二日  「連盟の挑戦に答うるのみ」

   二十五日  「光栄ある自主独往――難局に処するに慎重なれ」

   二十六日  「不当報告書の採択――わが国民の覚悟」

 二月十七日の「連盟脱退の外なし」では、「国家が重大なる侮辱に会してこれに酬いるの道を取らず、頬冠りのまま既定の方針を以って進まんとするも、いずれにこれを遂行すべき力を求むることを得るか。対外的屈辱は対内的精神の萎微となり、遂にわが国策はこれを遂行すべき力の喪失によって倒れなければならぬであろう」続いて翌十八日の「連盟に留まるは不利」では脱退論をくり返して展開した。

「連盟におけるわが国の孤立がわが対満州国態度の変らざる限り、永久的であるとすれば、わが国は何を目的として、孤立の不利と屈辱とを忍んでなお連盟に踏み留まる理由があるか。しかして、連盟内と連盟外の孤立に事実上、何の相違もないことの明かなる以上、わが国は敢然として、無援孤立の境地の中に自己確立の道を打開する以外、取るべき方途はない」

 さらに翌十九日説「連盟の制裁如何」で、脱退反対論者に追い打ちをかけた。「おめおめと連盟の機構内に残り、揚句の果てに、除名の決議を突きつけられても、非脱退論者はその時に連盟を出てもいいというのであるか」と脱退反対論者を批判した。

 21日には見開き2頁で「連盟脱退、怖るに足らず」として「留って外侮を受けるな寧ろ孤立・国威を輝かせ、昭和日本の行くべき道也、国民覚悟の秋来る」と題して、『東京日日』の見解を並べ立てている。ここには脱退論の考えが見事に集約されている。

「日本と連盟の衝突は不可避、勧告案は一種の宣戦」「敢然脱退すべし」「危機は連盟に日本には利益」「国際関係の悪化杞憂に過ぎず」「経済封鎖恐れじ我等、世界に誇る大海軍」「制裁適用は困難」「要は国民の決意千万人と雖も、我れ行かんの気魄こそ」といった具合である。

 特に、日本が一番怖れた経済封鎖という制裁措置については米国、インドと繊維製品で密接な貿易関係にあり、輸出入をストップすれば、互いに損をし経済封鎖は日本の海軍力によって可能とみていた。「連盟の挑戦に答うるのみ」(二月二十二日)では「報告書がいかに不正義不条理にして、わが国の立場を無視せるのみならず、わが国の国家的生存を終熄せしめんとする不隠暴戻のものであるかを断ずることが出来る。

即ち十九人委員会は直截鮮明にわが国に挑戦し来れるものであって、わが国はやむなくその挑戦に応ずるに至ったまでである」「不当報告書の採択」(二月二十六日)でも再び「光栄ある孤立と自主独往」の覚悟を国民に求めた。

7・・『東京日日』は判断力停止、センセーショナルに報道

 警鐘を与えるべき新聞も興奮し、冷静な判断力を停止してしまったのである。

1937(昭和十二)年12月、人民戦線事件で検挙された大森義太郎(経済学者)は満州事変以来の新聞の果たした役割、特にリットン報告書、国際連盟脱退までの経過について1933(昭和八)年1月号『中央公論』の「新聞時評」で、センセーショナルに排外熱をあおり、事実を曲げて報道したとして、特に『東京日日』【現・毎日】をやり玉にあげて批判した。

「この点でひどいのは『東日』である。少し日本に有利なことを云う者があると無暗とのぼせあがり、少し日本に不利な言を吐く者があればヒステリーのようにわめき立てるのはもちろんだが、ここでは支那代表に対する悪罵の方を紹介しょう。まず23日の社会面には『白熱の我代表部、呑気な支那代表部』というのである。

 ジュネーブの日本代表部の方は一所懸命で緊張しているが、支那代表部の事務所の方はすこぶる呑気にかまえて、だらけきっているということを書きたてている。やがて連盟理事会が開かれて、松岡代表、顧代表が演説を始めると、松岡代表に対しては最大級の讃辞をつらね、顧維釣氏に向ってはすなわち『タジタジの弁明』(24日、夕刊)。

 

 第三回の顧維釣氏の演説に対しては、『脱線演説を始む』と見出しをつけている(25日)。万事この調子である。 ところが、そういう演説の内容を実際に見てみると、特に『タジタジ』もしていなければ『脱線』もしていない。支那代表であれば馬鹿で無能だというのは子供だましである」

 2月24日、連盟総会は十九人委員会の報告書を採択に付し、賛成42対反対1(日本のみ)、棄権一(シャム)で採択した。 松岡ら日本代表団は退場した。3月27日にわが国は正式に連盟に脱退通告し、同時に脱退についての詔書が発布された。

脱退の日、陸軍省新聞班は賛成の42は「死に」に行くと日本の1は「興る」などと語呂合わせし、怪気炎を上げた。 25日の『東日』社説「光栄ある自主独往」では連盟脱退は〝孤立無援ではなく「光栄ある自主独往」と断じ「もとより前途は多難であろう。わが国民はよろしく軽挙を戒め、不撓不屈の精神を発揮して、敢然その運命に直面し、光栄ある自主独往を完成に導かねばならぬ」と主張した。

(つづく)

<参考、引用文献>

(11)『激動期に生く』 清沢洌 千倉書房 1934年刊 163-164P

(12)『西園寺公と政局』第三巻 原田熊雄述 岩波書店 1951年刊  14P

(13)『松岡洋右-その人と生涯』 松岡洋右伝記刊行会 講談社 1974 年刊485P

http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/maesaka.html 

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