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歴史張本人の<日中歴史認識>講義」➂袁世凱顧問の坂西利八郎が「日中戦争の歴史、国民性の違い、対立>」を語る➂

      2015/01/01

  

 

日中両国民の必読の歴史の張本人が語る

「目からウロコの<日中歴史認識>講義」 ③

 

袁世凱の政治・軍事顧問となった坂西利八郎

(在中国25年)が「日中親善・衝突・対立

・戦争の歴史ネジレ」について語る③

<対立の根源には―『万事おおようで、おおざっぱな

中国、ロシア人に対して、日本人は重箱の隅を小さいようじでほじく

るような細かい国民性が嫌われて、対立した>

これは日本企業がアジア、海外に進出する場合の

大きな教訓である。

 

日露戦後(日露戦争後)の日支(日中)関係

 日露戦役(戦争)が済みますと、満州の戦きをした後には軍政を布きまして、それからまた民政に移りまして、とに角、地方の政治の一部を日本の方でやる、その間にだんだん日本の商人もはいって来る、事業家も続いて来る、その時から目支親善というものの値打が、だんだん下ってまいりました。

 

これを検温器で申しますと日清戦争の時は、日支親善は零度、それから三十三年の役、すなわち北清事変の役(義和団の乱)を経て、三十七、八年(日露戦争)に最高度に達したのであります。それからもっと昇るかと思ったら、昇らずに、日支親善は下り坂になって来たのであります。

なぜ下り坂になったか、

  支那の人のー殊に満州における人のいうのには、どうも日本人はあまりきびきびしておって困る。ロシア人みたいに鷹揚(おうよう)なところがない。ロシア人はどうかすると大変鷹揚で、何かことにぶつかっても、ああ仕方がない、ニーチェウオといって済ましてしまう。

➁支那人(中国人)も支那語を御承知の方はよくお聞きでしょうが、没有法子、仕方がないとか大事ないということをよく申します。丁度それに相当したロシア語がニーチェウオであります。ロシア人はニーチェウオといって事を済ますことが多く、しかして非常に鷹揚である。

➂これに反して日本の人はきびきびして重箱の隅を小楊子(ようじ)でほじくるようなことをやる。当時大連の人力車夫は日本人がやったものでしたが、これに対して支邦人は、日本人はわれわれの労働まで奪ってしまうという感じを起しました。

④ こんな風では日本人には油断ができないとの気を起さしましたので目支親善が下り坂になって来たのであります。のみならずロシア人のように日本人は金の使い方も大ざっばでない。支那人を儲けさせることが少ない。そこへもって来てアメリカが満州の鉄道を共同にしようという案を立てまして支那に持ち出し、日本にも持ち出しました。

 

日本は早速これを拒絶いたしましたけれども、その間にアメリカは、錦愛鉄道と申しまして、錦州から真っ直ぐに北のハルピンを経て黒帯江省の愛輝まで行く鉄道をかけるという運動をいたしました。これは申すまでもなく日本の南満州鉄道との併行線でございます。

そういう運動をしたために、ますます日本と支那(中国)との間というものは面白くなくなったのであります。その時に、日本を満州から追出すために、何でも満州における日本の勢力を牽制し、若くはそれを抑えるために防止同盟ということを企てた支那の人もあるのであります。

とに角、そういう風に、日本の日露戦争後の満州におけるやり方が、支那の人の気風に合わないために、ここに日支親善は下り坂になったのであります。その際に、私は支那を一時辞しまして内地の勤務に服しましたが、その間に明治四十四年がまいりまして、第一革命勃発となりました。

 

北洋系の人物

 

 今まで申上げたのが私の六年間の歴史であります。これからあと十六年、まだ随分長いのでありますけれども、極めて簡単に申上げます。明治四十四年、四十五年、すなわち大正元年(1912)、衰世凱が大総統になりました。

私は、その大総統の顧問になってずっと北京におったのでございます。袁世凱は総統たること六年、この間に例の有名なる二十一ヵ条の談判などもございました。その後、衰世凱の次に黎元洪、次に馮国璋それから徐世呂、また黎元洪、曹錕(そう こん)段祺瑞(だん きずい)

という七代の元首が代りまして、今度は張作霖、こういう順序になったわけでございます。その十六年は支那が何をなしたか。登別申上げた、北洋大臣ということを申上げましたが、それに対して南洋通商大臣というものがあったのであります。

 

何が故に南洋通商大臣というかといえば支那が開港場を開いて通商地をもったので外交に任ぜしめるために、これをおいたのであります。ところが北洋通商大臣は、天津を駐在地にして、北の通商各地を監督していた関係から自然北京と最も密接な関係をもつことになり北京の外交事務はほとんどその一手に引受けている姿となった。

 

そのために、北洋大臣は自ら養って北洋の陸軍というものを作るにいたったのであります。しかして一方の南洋の通商大臣というものは、人を得なかったので極めて微々たる勢力になってしまったのであります。今日までも新聞などの上に「北洋派」とか「北洋系」とか書いてあるのは、この北洋通商大臣をおかれたことから起ったのであります。

この北洋系というのが、文官といわず武官といわず、支那の中央政府の仕事をやっておったのでございます。凡そ国を治めるには、たとえ如何に偉い人があっても、一人や二人の力ではいけない。

今日の言葉を以ていえば、或は政党、或は何とか派というものの意思がお互いに疏通し、お互いにょくその事情も判り、性質も判っている一つの団体があって、その団体で政治をやるということがなければ行われないのでありますが、支那の北京政府は、今日までこの北洋派なる団体が主となって維持しておったのであります。袁世凱は、最も早く直隷総督すなわち北洋通商大臣となり、また革命以後も大総統となりまして、六年の間位におりましたから、勢い袁世凱から使われておったところの文官ならびに武官は、今日までも申している北洋系を形成し、北方の政局に働く人間を生んだのです。

 

袁世凱去ってからの後の各元首、すなわち大総統、若くは段棋瑞の時に一時執政と申しましたが、これ等の元首はみな北洋系の人間であります。只一人黎元洪のみは、革命当時武官であったが、袁が大総統であった時に、黎は副総統であったが袁世凱の死後をうけて大総統になったので、彼一人はいわゆる北洋系ではございませんが、その他の五人はみな北洋系であります。

 

で、言葉を換えて申しますと、支那の統治の能力をもっている或団体は、すなわち北洋系であるということに帰着するのであります。その北洋系が、袁世凱の時には一番よく働きまして、電気でいえば燭光がー番明るかったのであります。ところが袁世凱が六年間位に在って死にました。それから黎元洪になり、

馮国璋になり、だんだんに人物も下ってまいりますし、人物が下って来ると、勢い人を統御するものがなくなりました。以前は袁世凱の下に第二流、第三流の人物が幾人かあった。しかるにその後は、統御の力をもつ第一流の人物がなくなった。従って残った第二流、第三流の人物の一人が大総統になりますと、他のものは、あの人が大総統になれるなら、俺もなれるという気がするのは人情の当然であります。

 

同時に、その大総統になった人に対して、その部下の服従心が十分でないのも、またやむを得ないことであります。

俗の言葉を以て申しますならば、表の死後の支那政界はドングリの背比べでみな同じょうな人問でありますがゆえに、大総統という名を持ち、或は総理大臣という名を持っても、この人に対して他のものは、それまでことごとく同じつき合をして居たのでありますから、服従心が足らない、従って仕事が秩序的に運んで行かないということになります。支那の統一がとうとう出来なくなって、今日のような有様になったのは一にこのためであります。

                              つづく

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