片野勧の衝撃レポート(59) 戦後70年-原発と国家<1945 ~52> 封印された核の真実④-隠されたヒロシマ・ナガサキ②
2015/07/25
片野勧の衝撃レポート(59)
戦後70年-原発と国家<1945 ~52>
封印された核の真実④-隠されたヒロシマ・ナガサキ②
原爆報道を厳しく制限する「プレスコード」
占領直後からGHQ(連合国軍総司令部)は日本の民主化を進めた。政治犯の解放と特高警察の解体、新憲法の制定、財閥解体と農地解放、自衛隊の前身である警察予備隊など。なかでも、マッカーサーは9月21日、「プレスコード」を発令し、原爆報道も含めて占領軍にとってマイナスとなる報道は一切禁止した。
たとえば、11月に開かれた文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査研究特別委員会で、マッカーサーは医師や医学者に対してこうも言ったという。
「職務がら、患者がきて診てくれと頼まれたら、これは診てよろしい。しかし、その結果を記録したり、複数の医師で研究したり、論文に書いて発表したり、あるいは学会で報告したりするのは一切、ダメ」
こうして1952年に占領が終わるまで、日本のマスメディアから原爆報道は消えたのである。そんな中で、禁止命令が出されるほんの1カ月前に、放射線障害に関する研究論文を発表した日本人医学者がいた。東京大学教授の都築正男(1892-1961)である。
彼は、先の原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学部門の責任者として広島市内に派遣され、現地調査の結果を医学雑誌に発表した。広島で被爆した人の死因は「原子爆弾症」。カルテには「ストロンチウムという放射性物質が骨に沈着して、骨の中にあるリンという化合物を放射性リンに変える」「紫斑が出て、粘膜出血を起こして死んでいく」などと書いた。
都築博士は公職追放処分に
しかし、この研究資料はGHQの逆鱗に触れ、ただちに没収された。都築博士は真っ先にマッカーサーの名指しで公職追放処分となり、東大教授を退官させられてしまったのである。
京都大学医学部も8・15敗戦直後、広島に入って調査した。しかし、それらの研究記録もすべて没収された。以後、日本の学会の調査・研究は禁止され、原爆放射線の被害に関する情報は、すべて没収された。
これによって、広島・長崎の被爆者たちの苦しみは、日本国内だけでなく、全世界の人々の目からも遠ざけられてしまったのである(肥田舜太郎『被爆と被曝―放射線に負けずに生きる』(幻冬舎ルネッサンス新書)。
「米国が日本に原爆を投下したことは大変な罪悪です。それにもまして米国が罪深いのは、自分の落とした原爆によって、被爆者の生きる道を閉ざしたことです。それは、原爆という新しい爆弾の秘密が、よその国に漏れることを恐れたからにほかなりません」
その後、日米安全保障条約が結ばれ、日本は米国の「核の傘」に守られるために軍事機密として被爆の実態を隠した。さらに肥田さんは言葉を継いだ。
「私もGHQから何度も睨まれ、捕まりました。よく殺されなかったと思います。でも、誰も被爆者の治療をやらないなら、私は殺されても、やる覚悟でした」
“わしは原爆にあっとらんのに”――。被爆者は原因がわからないまま、診た人は次々と死んでいく。しかし、隠しても隠しきれるものではない。なぜなら、軍事機密である原爆の秘密の一部を被爆者は自分の体で知っていくわけだから。
世界を震撼させたバーチェット記者
原爆被害に関する箝口令を敷いたGHQ――。その第1の被害者は国際的に著名なジャーナリスト、ウィルフレッド・グラハム・バーチェット記者だった。バーチェットは「デーリー・エクスプレス」や「ロンドン・タイムズ」などの特派員をしたことのある記者で、『ベトナム戦線』『六〇年のソ連』などすぐれたドキュメンタリー作品を出していた作家である。
バーチェットは9月2日、日本に上陸してきて、多くの記者たちが米艦船ミズーリ号の甲板で歴史的無条件降伏の取材に腐心していた時に、それを見向きもせず、汽車に乗り、約30時間かけて広島に潜入。翌3日早朝、広島市の郊外に立っていた。
バーチェットは、朝の太陽がさし始めた広島を見て、「スチーム・ローラーをかけられて消滅した大都会」と言った。また彼はその惨状を見て、他のいかなる戦場とも違って、“死の臭い”を感じ取っていた。
壁や舗道には黒焦げの人々が死んでいた。25から30マイル四方(約49キロ四方)は見渡せ、建物ひとつ建っていない。病院では毛髪が抜け落ちた患者であふれていた。バーチェットは瓦礫の上に座り、「ロンドン・デーリー・エクスプレス」紙のためにタイプを打った。
その記事は、いまだ余燼くすぶる広島の惨状を余すところなく描写した歴史的文献の第1号になった。「原子の伝染病」という見出しで全世界に報道され、センセーションを巻き起こした。
原爆によって、その「日常」が一瞬にして切断された広島の人々を淡々とした筆致で描いた文章は、リアルで胸を締め付けた。それはバーチェットの視線が低く、市民に寄り添うような一体感があったからだろう。そして文章は「広島はあらゆる戦争終了のシンボルになるに違いない」と結んだ。
東京へ戻ったバーチェットは米人ジャーナリストや軍人、科学者に一刻も早く広島に行くよう説得した。しかし、彼らはバーチェットを「日本のプロパガンダに毒された人物」と非難した。これに対して、バーチェットはこう反論した。
「私が書いた記事は、実際を、この目で見て、この足で歩いて、そして広島市民に聞いてたしかめたものだ」
しかし、勲章をたくさんつけた将軍や科学者たちの耳には、この声は届かなかった。彼らはこう言った。
「広島に放射能がありえたということは不可能だ。爆弾は空中の高いところで、爆発するように仕組まれていた。もし、いま現に死んでいるものがあるとすれば、それはそのとき受けた被害のため以外にない」と。
しかし、バーチェットの記事が出た後、占領軍は外国人特派員を一切、広島と長崎に足を踏み入れてはならんと報道管制を敷いたのである。バーチェットに対してアメリカ側がなぜ、こんな弾圧的態度に出たのか。それは原爆がマンハッタン計画とよばれる製造過程から、投下に至るまで、きわめて厳しい秘密主義で一貫していたためである。
しかし、この秘密主義が占領軍のその後の方針になり、占領下における検閲の基礎になったのは言うまでもない(松浦総三『占領下の言論弾圧』現代ジャーナリズム出版会)。
正田篠枝『さんげ』の地下出版
私は本稿を書くために、『マッカーサーの二千日』(中公文庫)などの著書を持つ評論家・袖井林二郎法政大学名誉教授に話を聞いた。彼は占領研究の第一人者。原爆に関する報道に対して、彼はこう言った。
「占領下においては、日本に原爆報道はなかったですよ。あっても、それは地下出版ぐらい」
連合国側の記者であったはずのバーチェットでさえも、ひとたび原爆否定という立場で報道するや否や、たちまち占領軍当局からけんもほろろの扱いを受けたのだから、被占領国の日本人の原爆報道が規制されたのは当然のことだろう。
地下出版――。非合法または秘密の反体制的な出版のこと。アングラ出版ともいう。もともとは政治体制からの追及を逃れて「地下」で出版される雑誌・図書類の総称と言われた(日本大百科全書)。
地下出版の一つが、原爆歌人、正田篠枝の歌集『さんげ』である。この歌集は昭和22年12月5日、プレス・コードに抗して印刷され、ひそかに配布された歴史的な原爆歌集である。正田は爆心地から2キロのところで被爆した。
正田は弟の経済学者・正田誠一(九州大学教授)から「原爆の歌集など出版すれば死刑は免れない」と忠告されたが、正田の出版の意思は固く、GHQの検閲を受けず、手渡しで親戚や知人に配布した。
当時、GHQは「連合国の利益に反する批判」「占領軍に対する不信や怨恨を招くような事項の掲載」を禁止。その中に原爆投下に関する一切の情報も含んでいた。袖井氏は言う。
「正田は死刑になってもよいという決心で、やむにやまれぬ気持ちで、秘密出版したのでしょう」
事実、正田も死刑覚悟で出版したと、『耳鳴り』の手記に書いている。こうして正田の、この『さんげ』はGHQから発見されずに、大勢の人々に読まれたのである。飢えと死の危険に脅かされながら、広島を忠実に歌った記念碑的作品である。
米国の対日占領政策は「反共の砦」
すべての雑誌が事前検閲されていた中で、原文を削られながらも、検閲を通った作品もあった。原民喜の小説『夏の花』は昭和22年6月に『三田文学』に載った。もっとも、『三田文学』は数千部しか印刷されていない少部数の雑誌だったから、GHQで見逃されたのだろう。
また日本では出版できなかったが、外国で出版できたものもあった。作家の芹沢光治良『サムライの末裔』はフランスで出版されてベストセラーになった(今堀誠二『原水爆時代』三一書房)。
流行語にまでなった永井隆『長崎の鐘』も一足先にアメリカで英語版が出された。昭和24年のことである。大田洋子の『屍の町』も、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』も出版されたのがこの年である。
昭和24年(1949)は、ソ連が原爆所有を宣言した年であり、米国の対日占領政策は「反共の砦」としての性格を色濃くしていた。占領軍にとって、もはや原爆を秘密にする意味もなくなって、部分的に出版を許可したのだろう。
「核の恐怖」封印する姿勢は今も同じ
しかし、「核の恐怖」を封印する占領軍のこうした態度は、基本的に70年後の今日まで変わっていない。それは「核密約」で証明されている。日本の原子力政策の隠蔽体質は、「平和利用」と名を変えた60余年後の東京電力福島第1原発事故でも繰り返されている。
被害の実態を過小に見積り、メルトダウンしているのに、すぐに認めようとしない東電や原子力安全・保安院と、広島に原爆が投下された後も、それが原爆であると発表しなかった軍の指導者たちが重なる。
また政府が原子力災害対策本部の議事録をまったく残さなかったことと、敗戦が決まった後、ほとんどの諜報記録を焼却し、責任の所在をわからなくしてしまった戦争指導者たちの隠蔽体質はそっくり。
さらに大事故を引き起こしたにもかかわらず、誰も何の責任も取らずに同じ場所に居続けていることと、戦争を継続し多くの犠牲者を出したにもかかわらず、戦後も亡霊のように生き永らえてきた軍の最高指導者の、その姿はよく似ている。このように戦中、戦後も日本の構造的システムは何も変わっていないのである。(かたの・すすむ)
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