終戦70年・日本敗戦史(94)『大東亜戦争とメディア②ー嘘と誇大発表の代名詞の<大本営発表>はコミュニケーションの断絶によって自己崩壊
2015/06/23
終戦70年・日本敗戦史(94)
『大東亜戦争とメディアー戦争での最初の犠牲者は
メディア(検閲)である』②
市民、メディアの言論・表現・出版・発言の自由
と権利がない国はGDPがいくら大きくても、
衰退、滅亡していくのが興亡の歴史
法則である。戦前の大日本帝国、現在の中国、
北朝鮮の将来もこの法則から逃れ
ることはできない。
前坂俊之(ジャーナリスト)
近代民主社会での市民の基本的人権は自由で平等な生存権、言論・表現の自由、政治参加の選挙権などである。
明治以来約150年たつが、明治から大正、昭和戦前、大東亜戦争敗戦(1945年)までの約80年間は国民と新聞、メディアの「言論・表現の自由」は厳しく制限し政府は新聞、出版物の検閲、発売禁止措置を行っていた。
15年戦争になると新聞記事は20近い言論統制法規でがんじがらめにされて自由な記事は書くことができなり「メディア死んだ日」となった。
戦争に負けた結果、「言論・表現・メディアの自由な国」(アメリカ合衆国憲法第一条は「言論の自由である)によって、今のような「完全な言論・表現の自由」が与えられたのである。このことを忘れてはならない。
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4 大正の大阪朝日新聞「白虹事件」
大正デモクラシーの高揚は憲政擁護、閥族打破、言論擁護の運動でもあった。その 中心的な役割を果たしたのは民衆とともに、新聞であった。大正はじめに政党と結び、 憲政擁護で第3次桂内閣を倒した新聞は、今度は民衆と歩調を合わせ、寺内内閣と の対決姿勢を強めた。 寺内内閣の非立憲的な態度は、新聞への姿勢でもかわらず弾圧的態度に終始した。
シベリア出兵問題(1918年)、米騒動(同年)に対して発禁を連発、とくに、米騒動に 対しては一切の報道を禁止したため、『春秋会』(新聞社の社交クラブ)は「言論の自 由への圧迫」として再々にわたり、取り消しを求めたが、寺内内閣は応じなかったため、内閣打倒へ立ち上がった。
1918(大正7)8月 25 日、寺内内閣糾弾の関西新聞社大会が大阪・中之島で開か れた。村山龍平・朝日新聞社長を座長に関西の新聞、通信社など計86社約170人 が集まって開催され、「大阪朝日新聞」は同日夕刊(26日付)社会面のトップで次のよ うに報じた。 「我大日本帝国は今や恐しい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。
6 『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として…‥」
この記事の「白虹日を貫けり」が問題化し、日本の言論史上に残る一大筆禍事件「白 虹事件」へと発展していった。「白虹日を貫けり」とは中国の故事で、白い虹が太陽を 貫いて見えるときは、国に内乱が起きるしるしであるという意味だが、当局は「日」が 天皇をさし、不敬に当たるといいがかりをつけて、記者と編集発行人を新聞紙法違反 (安寧秩序素乱)で起訴、2 人は禁固 2 ヵ月の有罪となった。
かねてより、当局は政府へ批判的な「大朝」の弾圧の機会をねらっていたのである。 この事件で鳥居素川、長谷川如是閑、大山郁夫らの編集幹部が総退陣し、村山龍平 社長も退陣した。『大阪朝日新聞』は廃刊の危機を迎えたが,当時の原首相は上野理 一社長を呼び、編集方針の変更などの釈明を聞いた上で,発行禁止を見合わせた。こ の事件をきっかけに,新聞自体の批判精神は低下して,新聞の企業化が一層進んでいった。
5 出版警察の核心・
検閲は発売頒布禁止で 戦前の日本の検閲制度、出版警察の核心は原稿検閲制による発行禁止ではなく、 世界にも類例のない内務大臣による発売頒布禁止であった。
政府は西欧ブルジョア主義の「出版の自由」を認めず、大量印刷物の流通に対して事 前検閲をすることは実際上不可能であるため、ときに応じて権力を行使できる発売頒 布禁止を導入したのである。[奥平、1983.132 貢】。
この発売頒布禁止権は新聞紙法第 23 条、出版法第 19 条でそれぞれ定められてい たが、司法審査から独立した絶対的なものであった。 さらに、内務大臣が行使するこの権限は中央集権警察組織下で実質は地方の末端 警察が握り、より一層、恣意的に運用、処分がおこなわれたのである【奥平、1983、 160-161 頁】
6 検閲の基準は当局にとって伸縮自在の弾力運用
では、具体的な検閲の基準はどのようなものであったのだろうか。 当局が新聞紙法第 23 条、出版法第 19 条での「安寧秩序素乱」、「風俗壊乱」と規定 する基準一検閲担当官が参考にしたものは次のようなものであった。
【安寧秩序素乱出版物の検閲基準】(一般基準) 皇室の尊厳を冒涜する事項∇君主制を否認する事項▽共産主義,無政府主義等の 理論、戦略、戦術を宣伝し、その連動実行を煽動し、この種の革命団体を支持する事 項▽植民地の独立運動を煽動する事項∇非合法的に議主義会制度を否認する事項 -など計13項目であった。
【風俗壊乱の検閲基準】
春画淫本∇性、性欲又は性愛等に関する記述で淫猥、羞恥の情を起こし、社会の風 教を害する事項∇陰部を露出せる写真、絵画、絵葉書の類∇陰部を露出せざるも醜 悪、挑発的に表現された裸体写真、絵画、絵葉書の類∇男女抱擁、接吻(児童を除 く)の写真、絵画、絵葉書の類-などであった。(以上、内務省警保局『昭和五年中に おける出版警察概観』
この基準に基づく適用については取締当局によって伸縮自在の「弾力性」をもって いた。 大正時代には-時縮小した禁止範囲は、1932(昭和 7)年以降、再び急速に拡大し、 社会主義、労働運動に関する著作は以前にましてきびしい取り締まりにあった。
安寧秩序素乱の取り締まりの場合は 1920 年代に一時禁止基準はゆるむが、30 年 代になると再びきびしくなった。(油井正臣他『出版警察関係資料解説・総目次』不二出版、1938年、24頁)。
こうした発売頒布禁止制度とともに、内務省は超法規的な記事掲載差し止めをおこ なった。これは重大事件が起こったとき、この記事を掲載すると発売禁止になるぞ、と あらかじめ警告するもの。新聞側は発禁による不測の損失をまぬがれるために歓迎し制度化したが、もともとは新聞紙法上でも認められた処分ではなかった。
この差し止め処分は禁止事項の軽重によって
- 示達 当該記事が掲載されたときは多くの場合、禁止処分に付すもの。
- 警告 当該記事が掲載されたときの社会情勢と記事の態様いかんにより禁 止処分に付すかもしれないもの。
- 懇 談 当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。
以上の3種類があり、懇談は少なかったが、示達、警告は乱発された。これに触れる と、発禁などを受けるため、無視できない。
さらに、これ以外にも、便宜的処分として発禁処分にするほどでない場合は該当の 部分のみを切除する削除処分や注意だけの注意処分もあった。削除処分は1933、 34(昭和8、9)年に年間200件、注意処分は1932(昭和7)年には約4300件に達 した。
7 15年戦争と幕開けと言論統制の強化
1928(昭和3)年3月15日には日本共産党に対する一斉検挙のいわゆる〝三・一 五事件″によって、労農党の関係者ら千五百数十人を検挙し弾圧を加えた。「新聞 紙法」、「出版法」による発禁件数は一挙にはね上がっていく。
1931(昭和6)年9月、日本軍による満州事変の勃発で、中国への侵略、十五年戦 争の幕が開く。言論統制は一段ときびしくなっていく。 「安寧秩序素乱」による新聞、出版の発禁件数は翌32年には4、945件と1926(昭 和元)年の412件の12倍にも激増して、ピークに達した。 満州事変以降のファシズム化の過程でメディア統制の一つの特徴は新聞紙法、出版 法を補完、併用する形で、他の諸規定が利用された点である。
たとえば、出版法による発禁処分に該当しない街頭での選挙ポスター、ビラの類にも、 治安警察法(1900年)第16条での往来などでの表現の自由を取り締まる規定を適 用するように内務省警保局は指示。
これはレコードにも拡大適用され、従来は各府県 ごとに任されていた取り締まりが1932(昭和8)年10月から、内務省によって統一的 におこなわれ、事実上、レコードの発禁処分をおこなった。
翌34(昭和9)年8月の出版法改正によって、レコード類は出版法による発禁、差し 押さえの対象となった。レコードの取り締まりの内容は圧倒的に風俗取り締まりが中 心で、兵隊漫才が「軍の統制紀律をみだす」などとして取り締まられた。
1937(昭和12)年7月に、日中戦争が起きると、新聞紙法第27条が発動された。 「陸海軍大臣、外務大臣は軍事・外交の記事の禁止、制限をすることができる」という 内容で、陸、海軍省令、外務省令で記事掲載が制限された。
8 検閲から総合的な言論統制へ
日中戦争による本格的な臨戦体制から、マスメディア統制も従来の検閲という消極 的な抑圧統制から、国民を積極的に戦争体制に協力、同調させていく方向へ転換、 情報操作、プロパガンダ機能を重視した稔合的な組織、体制づくりがおこなわれた。 1938(昭和12)年4月、国家総力戦を目指した準戦時体制の国家総動員法が公布 されると、メディア統制も事業面から休止、合併、解散の命令(同16条)という生殺与奪の権限を政府に握られることになった。
記事掲載の禁止、制限という言論面だけでなく、企業体としての生存にかかわる心臓 部を押さえられ、その後におこなわれる新聞の統廃合、一県一紙への道を開く結果と なる。
さらに、積極的なプロパガンダ体制づくりとしておこなわれたのは、内閣情報局と国 策通信会社「同盟通信社」の組織、設立である。
1936(昭和11)年1月に「電通」、「連合」の両通信社を強引に合併させて「同盟通信 社」を誕生させた。内閣情報委員会が万難を排して、合併、同盟発足のために協力し た。 政府は世論指導の中心に、この同盟を置き、毎年莫大な交付金を与えて、朝日、毎 日、読売などの大手中央紙を巧妙に牽制しながら、言論統制を推進したのである。
情報宣伝システムはさらに太平洋戦争へ向けて整備され、言論統制の最終的な決 め手となったのが、用紙統制であった。戦時体制が進行するなかで、不要不急品の 制限という目的で用紙割り当てがおこなわれ、新聞、出版にとっての死活にかかわる 用紙の統制が、一つ加えられた。
政府へ批判的なこ怠納やメディアは用紙割り当てをてこに締め出され、弱小紙の整 理統合が強引に進められた。内閣情報局によって立案された統制団体である「日本出版文化協会」が1940(昭和15)年、「日本新聞連盟」が1941(昭和16)年に相次 いで設立される。
一県一紙を目指した新聞の整理統合は1943(昭和18)年10月に完了するが、新 聞は統合前に2422紙あったのが55紙に、出版社は3664社が203社にされていた(塚本三夫「戦時下の言論統制」城戸又一・新井直之・稲葉三千男編『講座現代ジ ャーナリズム歴史』時事通信社、1974年、147頁)。
9 平洋戦争下の言論統制
1941(昭和16)年12月についに日本は太平洋戦争に突入した。太平洋戦争中に はそれ以前の日中戦争下などとは比べものにならないほど厳重な思想、情報、言論 統制がおこなわれた。
【治安、警察関係】 刑法、治安警察法、警察犯処罰令、治安維持法、言論・出版・結 社等臨時取締法、思想犯保護観察法 【軍事、国防関係】 戒厳令、要塞地帯法、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法、国家 総動員法、軍用資源秘密保護法、国防保安法、戦時刑事特別法 【新聞、出版関係】 新聞紙法、新聞紙等掲載制限令、出版法、不穏文書臨時取締 法、新聞紙事業令、出版事業令 【郵便、放送、映画、広告関係】 臨時郵便取締法、電信法、無線電信法、大正十二 年通信省令第八十九条、映画法、映画法施行規則、広告取締法
このほかにも、新聞にかぎると、さらに内務省差止事項、陸・海軍、外務省による禁 止事項、宮内省の申し入れ、情報局懇談事項、大本営発表、指導原稿でがんじがら めにされた上に検閲が2重3重におこなわれ、情報局、内務省、陸海軍報道部、航空 本部、警視庁検閲課でチェックされた。
検閲の総本山の内務省警保局検閲課
には1942(昭和17)年5月当時、85人の担 当者が目を光らせていた。このなかに新聞検閲係があったが、43年中の新聞の事 前検閲ほゲラ刷、またほ原稿によるもの約9万件(一日平均250件)。 このうち不許可処分は1万2000件(全体の13%)にのぼった。また、電話によるも のは約5万件(一日平均140件)で、合計14万件に達した(松浦総三『戦時下の言論 統制』白川書院、1975年、108P)。
10 コミュニケーションの自己崩壊
こうしたきびしい検閲で、開戦直前の日米交渉での野村・ハル会談は「朝日新聞」の 特派員が60数行の特電を送稿したのに対して、最終的にたった2行半に削られてし まった。
交渉内容が書けないのは仕方ないにしても「2人はまず握手を交し」が対米親近感を 表現する、「会談一時間」が交渉緊迫感をかもし出す、「交渉はなお続行されるだろ う」が前途推測不可でズタズタに削られた結果であった。
太平洋戦争がはじまったころの検閲の実態について、朝日・毎日・読売とわたり歩い た名文記者として知られた高木健夫は次のように述懐している。
「新聞社に報道差止め、禁止の通達が毎日何通もあり、整理部では机の前にハリガ ネをはって、これらの通達をつるすことにしていた。この紙がすぐいっぱいになり、何 が禁止なのか覚えているだけでも大変で頭が混乱してきた。禁止、禁止で何も書けな い状態であった」
こうした徹底した検閲の一方で、太平洋戦争の報道のシンボルと化したのが、大本 営発表である。
嘘と誇大発表の代名詞となった<大本営発表>だが、戦争の最初の半年間は戦果 や被害はほぼ正確であった。それ以後は戦果が誇張され、最後の8ヵ月は嘘の勝利 が誇示された。戦争の全期間を通じて、戦艦、巡洋艦は10・3倍、空母6・5倍、飛行 機約7倍、輸送船は約8倍もその数を水増しして発表された。
事実の徹底した秘匿、検閲というコミュニケーションの切断が逆に虚報を生み、増幅 して、送り手と受け手の相互関係を成立不可能にしていく。戦前のファシズム体制を支えたメディア統制の総合的極限的システムはこのコミュニケーションの断絶によって自己崩壊していった。
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