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『Z世代への歴史の復讐問題』★『日本リーダーパワー史(85) ー日本最高の英雄・西郷隆盛の最強のリーダーシップとは何か(上)』

      2024/10/26

/日本リーダーパワー史(85)記事再録編集

<頭山満の「言志録より」>

●西郷隆盛―近代史上最大の英雄は死後も「西郷伝説」でよみがえる。

●西郷は巨体・巨眼。180センチ、116キロ、眼は顔からあふれるほど大きく、黒目がちでらんらんと光ると、誰も正視できなかったという。
明治4年7月の廃藩置県の決定では「断の1字あるのみ、反対は拙者が引き受ける」と巨眼をむいた一言で決まった。維新後に高官たちが贅沢にふけるのを苦々しく思い、参議になってもいつもこぶし大の握り飯を持参,清廉潔白な生活ぶりは変わらなかった。大久保が高価な英国のサーベルを買うと預かって、ほしがる書生にさっさとくれてやった。
 
西郷の革命のエネルギーは「知行一致」と「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」の精神力である。竹馬の友の大久保とは、征韓論でたもとを分かち、西南戦争で両雄の対決となった。鹿児島・城山に敗走し腹部に被弾した西郷は別府普介に「普ドン、ここらでよかろう」と座して介錯を命じて果てた。村田新八ら約300名が後を追った。
 
明治維新最大の立役者は西郷隆盛。今も、人気は一向に衰えない。その西郷が西南の役で敗れて鹿児島・城山で自決したのは明治10年(1877)9月24日のこと。享年51歳。腹心の桐野秋、村田新八らもそろって討死し、約三百人の部下があとを追って腹を切った。日本の歴史上、これほど多数の人間が殉死した例はない。いかに西郷がカリスマ的な魅力があり、慕われていたかの証拠である。西郷は士族たちにとっては神に等しい存在だった。逆賊の汚名をきせられ悲劇的な死によって民衆の崇拝は逆に強くなり、以後、「西郷生存説」「西郷伝説」が生まれてくる。
源義経が奥州藤原で亡くなったのではなく、生き延びて延びて大陸に渡り、ジンギス・カンになったという伝説と同じ民衆の英雄願望であり、メディアの虚報である。
 
 明治22年(1889)には憲法が発布され、大赦によって西郷は朝敵の汚名を晴らして、正三位が贈られた。この名誉回復で西郷は一挙によみがえってきた。「西郷は城山で死なず、シベリアでロシア軍の訓練をしており、日本に近く帰ってくる」「朝鮮に亡命している」「インドに身を隠しており、天皇の招きで帰ってくる」というウワサが一層広まってきた。ロシアのニコライ皇太子はシベリア鉄道の起工式出席のためウラジオストックにくることになり、途中約一カ月にわたって日本に立寄ることになった。
このニュースが西郷生存説と一緒になって「西郷はロシアで生きており、ニコライ皇太子と一緒に軍艦で帰国する」と新聞に生還説が次々に登場、人々にパニックを起こした。
 
これを真に受けた滋賀県の巡査・津田三蔵が明治24年(1891)5月9日に大津市内で人力車に乗って観光中のニコライ皇太子に斬りかかり重傷を負わせた。いわゆる、大津事件が発生し、明治の日本を震撼させた。

坂本竜馬の西郷評は「大バカ」である。

 
●坂本竜馬の西郷評は「大バカ」である。勝海舟の紹介で西郷に会った坂本龍馬は、その印象を「西郷は馬鹿である。大馬鹿である。小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴る。その馬鹿の幅がわからない。残念なのは、その鐘(かね)をつく撞木(しゅもく・鐘をつく木の棒のこと)が小さいことである」
 
●頭山満いわく。「己れを空(むな)しうすることが、即ち一切を得ることぢや。坂本龍馬が、始めて南洲翁に逢った後に、その時の感想を聞かれたとき、
 「西郷といふ人は大鐘のやうな人で、大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く。憾(うら)むらくは龍馬の撞木(しゅもく)が小さかった」
と評したさうぢや。よく西郷の大度量をいい現して居る。」
 
 勝海舟は幕臣中の切れ者であったが、御一新の前に、九州を遊歴した時のことぢや。彼は先づ熊本の横井小南を訪うた。ところが、当時横井の名声は非常なもので、
 「横井小南さんなア実学なさる」
 とはやされた時分だから、勝と対談すると、雄弁潜々数千万言、時勢を論じ人物を評し、盛んにまくし立てたので、勝はおしまひまで一言も吐くことが出来なかった。
学問といひ、識見といひ、加ふるに弁舌といひ、聞きしに優る大先生だと、殆んど感服してしまった。それから鹿児島へ下って西郷南洲翁に逢って見ると、横井とはまるで正反対で、自分から一口もきかず、たゞ勝のいふのを「ハアハア」と聞いているばかりである。
仕方がないので、今度は勝の方が説法する役回りとなった。流石に勝ぢや「これアとても段違ひの人物だ」と覚って、「説法するのと、説法させるのとでは、千里の違ひがある」と後ちに人に語ったさうぢや。こうになると天品と人品との相違ぢや。(頭山満の弁)

大西郷遺訓を読む(頭山満)

 
●万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正くし、驕を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。
一、        
然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間数也、今となりては戊辰の義戦も、偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し、戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。
 

【立雲先生(頭山)日く】

 
 此の一項目は、特に政治家にとつての名教ぢや。「家屋を飾り、衣服を美妾を抱へ、蓄財を謀りなは……」とあるが、これを聞いては、穴に這入りたいどころか、鋭利な刀で腸をゑぐられるやうな気がするものが多からうテ。
 
西郷従道侯も随分これで兄さんから叱りつけられたものと見える。自分が丁度この文そっくりのことを従道さんにいって、責めつけたことがある。その時従道さんは頭を下げて、黙って聞いて居られたが、今から思へば、丁度兄さんから叱られてゞもゐるやうに感じられたものだらう。
 
 従道さんばかりではない。近ごろの政治家で、堂々たる邸宅を飾らぬものが何処にあるか。
 

  子孫に美田を残さず

 
●「西郷2世」とよばれた荒尾精が、西郷さんのところにごろごろして「俺は日本一の玄関番だ」なぞと威張ってゐたころのことぢや。荒尾が話して居ったが、西郷さんの家はボロボロの古家で、雨が降る屋根が漏(も)る、玄関が漏る、台所が漏る。ひどい家であった。するとある日、奥さんがしびれを切らせていうには、
 「もう屋根ぐらゐはお直しになっては如何でせう」
ときかれたさうな。すると西郷さんは、
 「まだお前には俺の心が解らんと見える」「お国の方がもっと大変な状況なのにわしの家はどうでもよいのじゃ」とこたえられたそうじゃ。
 
此の頃の西郷さんは永世禄の二千石もあり、月給は五百円ぐらゐもあったのであるから、屋根がへぐらゐに不自由をされる身分ではなかった。
それらは皆んな人にやってしまうて、自分では、いつでも冷飯、草履(ぞうり)に尻切れ羽織で、あゝもし、かうもしと、朝から晩まで国家民生の為めにのみ心を砕いて居られたのである。
弟の従道さんが、兄の南洲はとても自分では手をつけられる気遣(きづかい)はないからといふので、私かに兄さんの為めに住宅を新築しょうとしたことがあったが、その事が南洲翁の耳に入って、火の出るやうに叱りつけたということじゃ。
 

着替えのない参議閣下・西郷隆盛

 
●「西郷が三千坪の大宅地を買ったらしい」隆盛の質素ぶりを知っている人々は、驚いた。江戸・小網町の宅地に建設が始まった。
「無理もなか。大将となり、参議となったいまの身分じゃ、相当の家は必要じゃろ」
と、みんなが肯定した。ところが出来上がった家屋は人々が予期した邸宅ではなく、みすぼらしい十数棟のバラック長屋。それは薩摩(鹿児島)出身の後進でたちまち満員、しかもすべて無料であった。西郷自身も、弟の慎悟(従道)とともに、その一軒の六畳と三畳きりの家に住んでいたのだ。
 
これを知った旧藩主の島津久光が西郷を招いて「そちも、むかしの軽輩、吉之助ではない。陸軍大将近衛都督兼参議、西郷隆盛となったからは、身分相応の邸に住まねばなるまい。幸い、この邸は不用になった故、そちに遣わす」といった。
西郷は「お言葉は恭(かたじけ)なく存じますが、ただ今の長屋でも雨露はしのげます。大将、参議になりましても、吉之助は吉之助、ご辞退申し上げます」と断わってしまった。
 
足軽小者から成り上がった大官連中が、急に贅沢になったのを、西郷は身をもってい戒めたのである。右大臣の岩倉具視も、久光からこのことを聞いて忠告した。
「おいどんの国の家な、馬糞に包まれており申したので、それよりこの家のほうが、はるかに上等でごわす」西郷は、とりあわなかった。

 
●また、ある時の太政官会議に、珍しく西郷が遅刻したことがあった。かれがいなくては議事が進行しないので迎えの使者が馬を走らせた。小網町の長屋にかれを訪ねると、折柄、真夏のことで障子を開け放しにしてあり、家のなかがまるみえ。ふとみると、西郷閣下が、一人、座敷のまん中に、ふんどし一つで大あぐらをかいている。
「閣下、会議が始まりますのでお出ましを」
「ご苦労じゃった。今日は雑用の熊吉がおらんので、洗濯をしたところじゃ。もうすぐ乾くじやろうから、そうしたら出かけよう」
 
西郷は苦笑しながら庭のほうへ目をやった。二坪ばかりの庭に、白がすりの単衣(ひとえ)が、竿にかかって揺れていた。またある時、参議たちの従僕の間で、
「西郷閣下はご倹約な方だそうだが、体格がりつばだから食物だけは良いのだろうな」という話がでた。従僕・熊吉が、西郷の弁当包みをあけてみせると、大きな握り飯に、味噌がべタベタ塗りつけてあっただけだった。
 

西郷隆盛と西郷従道

 
● 陸軍少将に欠員が生じて、だれを任命すべきかが問題となった。当時陸軍大将は、西郷隆盛一人であったから、西郷の意見を聞いて決定することになり、大山巌が使者に立って西郷を訪ねた。
すると西郷は、「慎吾どんがようごわしょう」といった。慎吾(従道)は西郷の実弟である。
「しかし、慎吾どんな、あぎょさん(兄きん) の実弟ではごわはんか」
「実弟ならどうしたというか。おいは、陸軍少将に適任のものを推薦せよといわれれば、いまのところ慎吾のほかなかと思うとる。陸軍少将と、おいの弟とは、別のもんじゃごわはんか」といった。
 
人びとはそれを開いて、西郷の私心なき公平に服し、ただちに従道を任命したが、はたせるかな評判がよく、のち海軍に転じて大将となり、海軍大臣としても内務大臣としても、りつばに職責を果たした。かれは、人を用いることに長じ、山本権兵衛を見出し、剃刀大臣といわれた
陸奥宗光を外務大臣に引き上げた。
 当時の政府は薩長か土佐人に限られていたので、藩閥外の陸奥を起用することを嫌い、入閣を拒む重臣が多かった。従道はそれを開くと、俗論を一蹴した。「二頭立ての馬車で市中を回らすれば、貫禄はつき申す。役に立つもんなら入閣させるがよか」
 

   豪傑のけた違い

 
●一方、「西郷は豪傑の中の豪傑で、無策の大策で行く大豪傑ぢやった」とは玄洋社の親玉・頭山満の弁。土佐の有志で島本仲通というのが司法省にいたころ、衆人環視の中で、西郷をののしった。「西郷々々と世間では人間以上のようにいうとるが、その意味が分らぬ。同志がみな刑獄につながれているのに西郷のみひとり維新の元勲ぢや、というのは非人情じゃ。何が大人物じゃ。
わしから見れば、虫けら同然じゃ」。
一座はシ-ン、誰一人口を出す者がない。西郷も黙ったまま。島本は「それ見たことか、西郷!一言の弁解もなるまい」と追い打ちをかけた。西郷はついに黙したままだった。
 
 翌日、西郷の崇拝者たちが南洲宅に押しかけて、「アンナふそんな奴は生かしておけぬ」といきりたった。すると西郷はおもむろに口を開いて、「はア、あの人が島本さんでごわすか。エライ人じゃ。西郷は一言もごわせん。ああいふ人が司法省におられるので、オイドンも安心でごわす」といったので、一同口開あんぐり。
これを聞いた島本は「これは大分ケタが違うとる」と初めて、西郷の偉大さに感動した。

白井小介は山県有朋、三浦悟楼を小僧のやうに叱り飛ばした

 
●それで思ひ出すのは長州の白井小介といふお爺さんぢや。此のお爺さん奇兵隊生残りの豪傑で、山県有朋でも三浦楼悟でも、小僧のやうに叱り飛ばしたものぢや。山県なぞが、先輩の高杉東行(晋作) や久阪玄瑞のことを「高杉がどうしたの、久阪がどうの」と呼び捨てに話しをしてゐると、白井は真赤になって怒鳴りつける。
 
 「貴様らが何ぼし出来るごと、大ぎゃうな口の利きやうをするな。高杉先生や、久阪先生が死んでゐられるからいゝやうなものの、若し先生がたが生きて居られたら、末席にも出られたものぢやないぞヨ。貴様らとは元来人間の段が違うとるのぢや。
 
先生らのお蔭でからに少しばかり頭を持ち上げたからといって、偉さうに高杉が久阪がなどと、呼び捨てにするとはナ怪しからぬ不心得ぢや。以後は気をつけて、高杉先生、久阪先生と、チャント先生をつけて話をしろ。小僧の癖をして、失礼な口の利きかたをするなよ」とひどくきめつけたものぢや。
 
 その後、山県が立派な新邸を建築したと聞いた白井は、黙っては居らぬ。早速、長州から飛び出して来て、綺麗に磨き立てた新邸へ下駄ばきのままで躍り込んだものぢや。すると山県の女房が驚いて、
 
 「白井さん、いくら何といっても、それはあんまり酷いではありませんか」。
 少々気色ばんで詰めよせると、白井はムツとしたと見えて、細君の顔を下駄の先で蹴あげたもんだ。そしていふには、
 
 「女なんぞの知ったこっちやない。訳の分らんことをいふな。山県が少しばかり偉くなったからといって、こんな御殿のやうな家を建てるとは、何といふこっちや。久阪先生や、高杉先生が、命を捨てて働かれたればこそ、今日のやうな身分にもなれたのぢや。それを早や忘れてしまうてからに、お城のやうな家を建てて、殿様気取りをするとは、何といふ不心得なことぢや。どだい考へが間違うてしまうとる。馬鹿者奴がかういふ家に来るには、下駄ばきで通って丁度よい……」としかりつけた。
 

西郷とく「日本人はどしどし支那に帰化せよ」

 
●識見で思ひ出すが、南洲翁が常々いはれていたといふ言葉に、「日本は支那と一緒に仕事をせんければならぬ。それには日本人が日本の着物を着て、支那人の前に立っても何にもならぬ。日本の優秀な人間はどしどし支那に帰化してしまはねばならぬ。そしてそれらの人々によって、支那を道義の国に、立派に盛り立ててやらんければ、日本と支那とが親善になることは出来ぬ」
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といはれていたものぢや。今日までも日支親善を説くものはあるが、支那人になれといふものは一人も見当らぬ。今日支那と仕事をする上に、我々が痛切に感ずることを南洲翁は六十年も前に、チャンと喝破して居られる。この恐るべき識見は、たゞ知識を広めたばか。で得られるものぢやない。天地宇宙の大道に悟大したるものにして、始めて達し得られるのぢや。
 

何のため学問か

●【立雲先生日く】 着物は自分の身体に着るもので、人に見せるたに着るものではあるまい。学問も同じことぢや。今の学問のしかたを見ると、ほとんど人に教えるために学問をしとるようや。自分の為に心の糧を摂ってゐることを考へてゐるものは少いやうぢや。師範学校なんどの教育も、人に教へる方法を教へてゐるので、ちっとも自分のものにではない。人にみせびらかす学問して、それで教師顔をして国民を教へているのじゃから、真の教育の出来ようはずはない。吉田松陰なんどの「松下村塾」を見るがよい。人に議論をしたり、物知り顔をするために学問はしとらんのぢや。久阪や高杉を初めとして、みんなが銘々に立派な人間になるやうに、松陰先生は苦心してござるのぢや。他日「松下村塾」の生徒達が皆な廟廊に立って、天下の政柄(せいへい)を執ったのも、このやうな教育を施されて、人間となつたからぢや。

 今のやうに人を教へる為に教育をしてゐたのでは、幾百万人、幾千万人の生徒を教へたとて、一人も人間は出来ない。先生が自分の学問をしとらん、も抜けの殻ぢや仕方があるまいテ。
 
●学問をして理窟をいふだけのことなら、何も六ケ(むつ)かしい顔をして勉強するには当るまい。本を読まないのよりは、少しでも読むのに越したことはないが、到底実行者にはなれまいよ。
南洲翁がいわれてゐるやうに「唯だ口舌の上」のことならば、少しも感心したものではない。聖賢の書を文字丈けで読んだものは、矢張。文字だけに止まって居って、少しも実用の役には立たぬのぢや。
 
王陽明なんどが、朱子学派の訓話学を打ち破って、知行合一を説き、良知良能を高調したのは、文字の学問を排斥して、行を主としたものぢや。南洲翁も実際家で、空理空論を排せられたが、陽明学に会得せられた所も少くあるまい。それは南洲翁が、座右の銘として、大塩中斉の『洗心洞前記』や、佐藤二斎の『言志録』を或は書写し、或は手紗して、愛読して居られたといふことでもわかる。
 

西南戦争で勝海舟が岩倉の狼狽をわらう

 
●明治十年の秋の事ぢや、西郷が鹿児島で兵を挙げたと云ふので、日本全国はひっくりかえるような大騒ぎで、議論が沸騰した。

 殊に政府の役人共の驚き方と云ったら格別で、岩倉などは殆んど挙措に迷って仕舞った。あわてて勝の処へ駆け込んで行って、「一大事が出来上った、如何処置したらよろしからう」と問うた。ところが勝は至って平静なもので、「一大事とは如何な事で御座るか」と反問した。岩倉が、「西郷が遂々謀叛しました、実に大変な事になった」と云った。すると勝が、「それが大事ですか、西郷が謀叛したら、陛下の御首でも頂戴せうとでも云ふでせうか」と又反問した。

で岩倉が、「いやそんな事は決して申しませんが、政治の遣方(やりかた)をどうすると云つて居る」と答へると、「それでは大事でも何でもないでせう、貴方等の首でも御渡しになったら、それで済む事でせう」と云つた。これを聞いたので、岩倉も大いに赤面してそこそこにして立帰った、と云ふ事ぢや。
 
 
                          (つづく)

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