前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『Z世代のための昭和戦後宰相論』★『中曽根康弘首相の長寿逆転突破力』★『戦後総決算」を唱え、歴代内閣が実現できなかった行財政改革を敢然実行した』★『「ロン・ヤス」の日米関係蜜月、韓国を電撃訪問し、日韓関係を一挙に改革、胡耀邦氏と肝胆合い照らし日中関係も改善。口先だけではない即決断実行型の首相だった』

   

『Z世代のための昭和戦後宰相論』★『中曽根康弘首相の長寿逆転突破力』★『戦後総決算」を唱え、歴代内閣が実現できなかった行財政改革を敢然実行した』★『「ロン・ヤス」の日米関係蜜月、韓国を電撃訪問し、日韓関係を一挙に改革、胡耀邦氏と肝胆合い照らし日中関係も改善。口先だけではない即実行型の首相だった』

  2019/12/14  「中曽根康弘元首相の戦略とリーダーシップ」再録編集記事。

   前坂 俊之(ジャーナリスト)

中曽根康弘元首相が2019年11月29日午前、101 歳で逝去した。

世界第2位の経済大国がピークを迎えていた1982(昭和57)年11月に総理大臣に就任し5年間務めた中曽根氏は「戦後総決算」を唱え、国内的には行政改革「国鉄(JR)、電電公社(NTT)、専売公社(JT)の民営化」を敢然と実行した。

対外的にはレーガン米大統領との間で「ロン・ヤス」の親密な日米関係を築き、83年の大韓航空機爆破事件では傍受した防衛機密情報のソ連機パイロットの撃墜の交信記録を勇気をもって国連安保理で公開し、ソ連の非人道的な武力行為を世界にむけて糾弾した。

その後の東欧革命(1989)、ベルリンの壁崩壊(同)、ソ連崩壊(1991)へと続く冷戦崩壊のきっかけをつくった。国際社会での日本の貢献とプレゼンスを大いに高めたインテリジェンスあふれる戦略家の大宰相だった。 

1946(昭和21)年4月の戦後初の総選挙で田中角栄とともに当選した海軍主計大尉出身の中曽根氏は①憲法改正②首相公選論➂吉田首相の造船疑獄事件では退陣を要求するなど保守本流に対抗する青年将校として頭角をあらわした。東大法学部でカント、西田幾太郎らの哲学を学んだ中曽根氏は日本では数少ない理念型政治家として、小派閥を率いて奮戦した。

一方、実弾(金)が乱れ飛んだといわれる「三角大福中戦争」「自民党戦国時代」には権謀術策を巡らして目白の闇将軍・田中角栄の協力を得て政治家生活38年後にしてついに政権を奪取し「田中曽根内閣」を発足させた。

その間の変幻自在ぶり、変わり身の早さから「風見鶏」とのマスコミから悪評をとったが、「風の方向を知らずに政治はできない。日本に一番大事なのは風見鶏だ」(1978年)と全く意に介さず胸をはった。まさしく陽明学(知行合一)実践した大統領型の首相だった。

中曽根氏の陣笠代議士の頃から、毎週、読書会を開いて共に勉強してきたという渡辺恒雄読売新聞グループ本社代表取締役主筆は「彼ほどの無類の勉強家、読書家は見たことがない」というほど、その戦略、インテリジェンスは傑出していた。

中曽根氏は総理になるやいなや、83年1月11日には米国ではなく日本の首相として戦後初めて韓国を電撃訪問し、全斗焼大統領と会談。大統領主催の夕食会では、韓国語でスピーチを行い、韓国歌謡を韓国語で歌って韓国側を感激させ、行詰まっていた日韓関係を一度に改善した。

 引き続いて米国を訪問し「日米両国は運命共同体」と述べた部分が「日本列島を不沈空母にする」と通訳によって意訳されたため日本側では野党、マスコミから一斉にたたかれたが、逆にレーガン大統領の信頼を勝ち取り、「ロン・ヤス」とファーストネームで呼び合う仲を築いた。

 当時、中曽根氏の総理秘書を務めた柳本卓治参院議員は「中曽根政治の基本は他国の犠牲の上に日本の幸せを築いてはならない」というものだ、と述べている。同じ年に胡耀邦氏は中国共産党中央委員会の総書記に就任し、改革開放路線と自由化路線を打ち出した。

ここから日本と中国のトップ同士の交流が始まる。「外交はつまるところ、トップ同士の友好関係である」との信念の中曽根氏は胡耀邦氏と肝胆合い照らす仲となり、家族ぐるみの付き合いを始まった。83年11月、日中間の基本原則として「平和友好、平等互恵、相互信頼、長期安定」 でまとまり、「2000年の歴史で最良の日中関係」と評されるまでになった。

その点では昭和戦後の宰相では最高の『戦略家』であり、外交の名手であった。

そののリーダーシップの秘訣とは「目測力」「説得力」「結合力」「人間的魅力」の4つ

乗客・乗員269人(日本人乗客28人)を乗せたニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空007便が、ソ連のジェット戦闘機に撃墜されたのは、1983(昭和翌年9月1日未明のことだった。

この航空機撃墜事件は三沢の航空自衛隊基地で傍受したソ連機パイロットと地上指令所との交信記録に撃墜の命令が記録されており、中曽根氏はこの交信記録(50分)を、国連緊急安保理に日米共同で提出し事件の全容を明らかにした。この結果、ソ連も撃墜を認めざるを得なくなった。

また、中曽根氏は国内的には1986年(昭和61)に危機管理に対応する安全保障会議を立ち上げ、内閣安全保障室を設け、初代室長には危機管理のプロの佐々淳行氏をあてた。中曽根内閣では官房長官にこわもての後藤田正晴(警察庁長官)が起用してリスク管理に本腰で取り組んだ。

 1986(昭和61)年11月21日、伊豆大島の三原山が大爆発し8千mもの大噴煙を上げ山腹にできた噴火口からマグマ(溶岩流)が役場のある住宅が密集する元町に向かって流れ出し、数百メートルの地点にまで迫ってきた。この危機に際し、当時災害の担当の国土庁では対策を打ち出せなかった。

中曽根首相、後藤官房長官、佐々室長は内閣法で対応することを決め後藤田長官をトップに据えて各省の局長を入れ、対策本部を設置。中曽根首相の「全責任はオレが取る」の指示に従って自衛艦を含む39隻の救出艦船団を組織し、全島避難の決定を下した。大噴火からわずか13時間40分で島民1万人、観光客3000人、計1万3000人の全島避難を、1人のけが人も出すことなく東京へ脱出させた。

日本の歴史上稀有ともいうべき見事な危機管理であり、中曽根首相のリーダーシップと、後藤、佐々の官邸主導メンバーによる指揮が結合した奇跡的な脱出劇であった。

中曽根内閣は「田中曾根内閣」とか「直角内閣」とか、田中角栄の手を組んだことでマスコミから徹底して批判された。しかし、マスコミに批判されても中曽根は自らの政治理念を決断突破力によって「見事な結果(成功)を残した」。大事なのは「結果力」である。

明治以来の内閣で公約に掲げながら一向に出来なかった「行政改革」(第2土光臨調)実現した唯一の宰相といえる。これが実現できたのも田中軍団の協力があったからであり、金権スキャンダルばかりにマスメディアはたった数十万円でもスクープ記事として政治家をその政治力、実行力ではなく、金銭のみで評価する日本の政治報道の貧困が、国益追及の世界的視野のある政治家が育たない大きな原因でもある。

http://www.maesaka-toshiyuki.com/history/62.html

 

 

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究, IT・マスコミ論

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
速報(137)『日本のメルトダウン』★☆『国防インテリジェンスの観点からみた福島原発事故の対応』『菅の大バカ、野田のドロ沼』

速報(137)『日本のメルトダウン』   ★☆『国防インテリジェンスの …

no image
日本リーダーパワー史(130) 『自滅国家日本の悲劇』ー迫り来る国家破産と太平洋戦争敗戦の類似性②

『自滅国家日本の悲劇』ー迫り来る国家破産と太平洋戦争敗戦の類似性② ジャック・ア …

no image
速報(39)『日本のメルトダウン』54日目ー『後藤政志氏の福島原発最新報告と原発報道(動画ビデオ)』

速報(39)『日本のメルトダウン』54日目 ◎『後藤政志氏の福島原発最新報告と原 …

no image
<書評>田中等著『仏像経験―おもい出の古寺紀行、つれづれの古仏随想』(展望社 1600円)

<書評>田中等著『仏像経験―おもい出の古寺紀行、つれづれの古仏随想』   (展望 …

no image
『中国紙『申報』が報道した『明治日本』― 日中韓150年対立史のパーセプションギャップの研究』①

   『中国紙『申報』が報道した『明治日本』― 日中韓150 …

no image
 日本リーダーパワー史(168)名将・川上操六(26)ー『ドイツ・ビスマルクのスパイ長官』・シュティーベルから学んだのか。

 日本リーダーパワー史(168)   空前絶後の名将・川上操六(26) …

『中国近代史100年講座』★『辛亥革命で孫文を助け革命を成功させ革命家・宮崎滔天兄弟はスゴイ!、宮崎家は稀有な「自由民権一家」であった。(下)』★『1905年(明治38)8月20日、東京赤坂の政治家・坂本金弥宅(山陽新聞社長)で孫文の興中会、黄興の華興会、光復会の革命三派が合同で「中国同盟会」の創立総会が開催され、これが『辛亥革命の母体となった。』

  2011/10/22 『辛亥革命100年』・今後の日中関 …

no image
知的巨人たちの百歳学(173)記事再録/リサイクルの巨人・浅野総一郎(82歳、浅野財閥創設者)の猛烈経営『運は飛び込んでつかめ』

    2010/11/27 &nbsp …

『Z世代のための死生学入門』『中江兆民(53歳)の死に方の美学』★『医者から悪性の食道ガンと宣告され「余命一年半・・」と告げられた兆民いわく』★『一年半、諸君は短促なりといわん。余は極めて悠久なりという。 もし短といわんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり。百年も短なり。 それ生時限りありて、死後限り無し」(『1年半有』)』

     ★『中江兆民(53歳)の遺言』ー「戒名は無用、葬式も無用、灰 …

☆電子書籍で新刊を出版しました。『新聞記者の冤罪: 死刑追求の旅』 (22世紀アート) Kindle版』

☆電子書籍の新刊出版。『新聞記者の冤罪: 死刑追求の旅」 (22世紀アート)&n …