『米中日のメディア・ジャーナリズム比較検討史』★『トランプフェイクニュースと全面対決する米メディア』★『習近平礼賛の中国共産党の「喉と舌」(プロパガンダ)の中国メディア』★『『言論死して日本ついに亡ぶ-「言論弾圧以上に新聞が自己規制(萎縮)した昭和戦前メディア』
2020/07/22 『オンライン/日本ジャーナリズム講義①』記事再録
https://www.maesaka-toshiyuki.com/person/28353.html
CNNは2018年1月15日、「トランプ米大統領は認知症ではないのか」と米、カナダ、ドイツなどの専門家70人が検査を求める書簡を大統領の主治医に送付した」と報じた。
「発言にまとまりがない、ろれつが回らない、古くからの友人の顔が見分けられない、同じ内容の発言を繰り返す」などが認知症を疑う理由である。
これに対し、トランプの主治医は翌16日に検査結果を発表し、トランプ氏は30問の認知検査のすべてに正しく回答し「認知症やアルツハイマー症の兆候は全くみられない」と完全否定した。
トランプ自身は「私はとても精神が安定した天才だ」とツイートしていつもの通り自画自賛を繰り返した。
この『認知症騒ぎ』もいつもの通り、これまたやぶの中だが、大統領就任1年を迎えたトランプ氏がこれまで発信したニュースの中で『2140回はウソで、1日平均6回に及んだ』ともワシントン・ポスト紙は1月21日にその検証結果を報道している。
- 『言論死して国ついに亡ぶ-戦争と新聞1936-1945」(前坂俊之著、社会思想社 1991年)「軍民離間声明と新聞」(22-30P)の以下の原稿は別バージョンです。
「言論弾圧以上に新聞が自己規制(萎縮)した」
桐生悠々が、『信濃毎日』の社説に「関東防空大演習を嗤う」を書いたのは一九三三(昭和8)年八月十一日である。
この頃(同年七、八月)のある日の閣議で小山松吉法相が「最近の社会不安は新聞が思うことを書かないからだ……」と発言し、斎藤実首相をはじめ居並ぶ大臣たちが「そりゃ、そうだ。たしかにそうだ」と口をそろえて相槌を打った、という。
これは当時、『国民新聞』論説委員の長谷川光太郎が『新聞及新聞記者』(一九三三年十月号)で紹介している話だが、長谷川はつづけてこう嘆いている。
「五・一五事件から私たちは自分の思うことを率直にいい得ない立場におかれている。誰がとりたてて言論を抑圧されたわけでもなく『こんなことを書いて不都合な奴だ……』とお叱りを受けたわけでもないが、何となく遠慮しなければならぬような立場に追いつめられたような気がする」
これまでみてきたように、新聞は、一九三一(昭和6)年九月の満州事変以来、国論統一にまい進し、満州国建国(一九三二年三月)、国際連盟脱退(一九三三年三月)など、国民の愛国精神を鼓吹し、政府を難局に立ち向かわせてきた。
『日本新聞年鑑』(一九三三年版)では一九三二(昭和七)年を振り返って、「我が新聞界は国民とともに、よくこの非常時を戦い、国家とともによくこの非常時を突破し、また突破しようとしつつある」と自画自讃している。
この自信に満ちた新聞界が翌年には一転し「昭和八年度の言論界は無気力、不気味な沈黙を守ってきた。今や統制との分岐点に差しかかっている」「半身不随の言論」と百八十度転換した。
この自信から沈黙への転換の背景には、長谷川がいうように、思うことが書けなくなってきた状況があった。
なぜ、書けなくなったのか。その原因は「社会不安と名づける一種の力が社会の一部分である言論界をも脅威しているためである」と、馬場恒吾は『読売』(一九三三年十一月二十七日)で指摘した。
長谷川、馬場ともこのなかで遠慮してはっきり書いていないが、五・一五事件以来の軍部やそれを支持する国民の有形無形の圧力で言論の自由が揺るぎ、危機的状況に陥ってきたのである。
しかし、それももとをただせば、満州事変以降、新聞が軍部の対外強硬論を積極的に支持し、煽り、国家非常時のキャンペーンにまい進した結果であった。
軍部の独走をバックアップし、国民の支持基盤を得ていっそう巨大化した軍部の脅威におびえたのである。軍部への批判ができない雰囲気を新聞自らがつくり上げてしまった。
五・一五事件以降、そうしたムードはいっそう強くなっているが、それ以前にもすでにその兆候を示す事件がいくつか起きていた。
新渡戸稲造の舌禍事件もその一つであった。
新渡戸は、貴族院議員、大阪毎日新聞顧問、元国際連盟事務局次長で、当時、日本で有数の国際通であった。一九三二年二月四日、愛媛県松山市へ講演に出かけた新渡戸は、地元の新聞インタビューに答えて、歯に衣を着せず次のように語った。
「近頃、毎朝起きて新聞をみると、思わず暗い気持になってしまう。わが国を亡ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが恐しいかと問われたら、今では軍閥と答えねばなるまい。軍閥が極度に軍国主義を発揮するとそれにつれ、共産党はその反動で益々勢を出すだろう」
また、同年二月二十二日に勃発した上海事変に対する国際連盟の批判についても「一体誰れが国際連盟を認識不足にしたか。連盟本部は遠く離れているのだから、それはあるだろう。しかし、日本として当然国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずるべきではなかったか。上海事変に関する当局の声明は三百代言的という外はない」とズバリと語った。
新渡戸の予言どおり、軍閥が日本を滅亡させたし、上海事変の発端も関東軍の陰謀であることが判明、当局の発表は全くのウソ八百であった。新渡戸は鋭い洞察力によって隠された真相をいち早く見抜き、憂国の情から思わずしゃべってしまったのである。
ところが、熱狂的な軍国熱にとりつかれた連中からかみつかれたのであった。
新渡戸のインタビューは地元紙『海南新聞』夕刊(一九三二年二月五日)で「共産党と軍閥が日本を危地に導く」などの大見出しで報道され、俄然、問題化した(1)。
『日本新聞』(二月十一日)でも「国論の統制を紊る、新渡戸博士の累論」の見出しで「日本否認の常習犯人新渡戸稲造博士は(中略)日本国民として聞き捨てならぬ非国民的暴言を吐いた」と非難した。
愛媛県在郷軍人会は「新渡戸氏のような名士のかかる暴言は上下協力一致を要する秋に当り、統一せる国論を乱し、列国に乗ずべき隙を生ぜしむるもので絶対に許せぬ」として訂正を求める宣言文を出した。
善通寺第十一師団管下の在郷軍人会連合支部は事態を重視、管内各支部と共同戦線を張り、関西、山陽、中部の各支部とも連絡をとり「売国奴新渡戸を膺懲せよ!」の糾弾を始め、全国に広がった。
新渡戸は、神経痛のため東京・築地の聖ルカ病院へ入院したが、ここにも在郷軍人会のメンバーがしつこく押しかけ謝罪を要求、自宅にも右翼らが会見に押しかけた。家には警備がつき、外出するにも警護がついて警戒した。
新渡戸は友人の矢内原忠雄に「今さら死ぬるに惜しい生命でもなし」ともらしながらも、国を思う心が誤解されたことを悔しがった。当時の心境を次のような歌に託して友人に送った。
『国を思ひ世を憂ふればこそ、何事も忍ぶ心は神ぞ知るらん』
結局、帝国在郷軍人会本部は「非国民的暴言問題」として、新渡戸の出席を求めて公式の謝罪を要求、三月四日の評議会で新渡戸は「言葉が足らなかったことから世間を騒がせて申し訳けない」と陳謝して決着した。
菊竹六鼓や桐生悠々の言論に圧力を加えたのと同じ在郷軍人会が、暗黙のうちに軍部の意向を受け、ここでも思想統制の推進役を果たした。軍部、在郷軍人会の緊密な連携プレーによって、戦時体制が着々と築かれ、批判的な言論はヤリ玉に上げられ、思うことが自由に言えない状況がつくりだされていったのである。
もう一つ、ここで見すごせないのは、新聞界の内部にも軍部や在郷軍人会と同じ考え方に同調する人間が増えていったことである。 新渡戸の舌禍事件を追及した『海南新聞』は社説「新渡戸氏の奇怪な主張、時局重大な此際、其影響恐るべし」(二月七日)で、新渡戸をきびしく批判した。
その論理はこうである。
「軍部はまさに祖国のため満州の曠野に生命をおとし、血を流し、その職責に殉じつつある。この急迫した時局にこのような発言は不謹慎かつ非常識である。新渡戸氏の思想が世界人化することはやむを得ないが、貴族院議員の公職にある人として、言論は慎重にするべき責任がある」
『日本新聞』の論調も同じ論旨である。
「今日は国軍の威力を中堅とし、国を挙げて建国以来未曽有の大偉業を建設している時である。この寸亳の徴と雖、国家行動としての確信の上に水を注し、微動を与うることを許さざる時である」(二月十一日)
いずれも、国家の非常時には国策への批判はつつしむべきだとする大勢順応主義的な考え方である。新渡戸のような批判組が少数派とすれば、こうした多数派がいよいよ大きな流れとなり、言論の自由、批判的精神は押し流されていった。
新聞界でもこの二つの考え方が対立した。そして、流れは「言論の自由」から「言論の統制」へと、外圧とともに内部の意識も切り替わっていった。
五・一五事件当夜、光永星郎電通社長は都下の各新聞社編集幹部に連絡、対応について意見を交換した。事件がどのような広がりをもっているのか、かいもく見当がつかず、事件発生についての号外を各社のほとんどが差し押えられていた状況で、各社幹部は不安な表情のまま集まってきた。 光永は会合の理由を述べた。
「今回は軽々に速報することが場合によっては皇軍の威信を傷つけるところあり、国家的見地よりよろしく陸海軍の面目を失する報道は協定して慎みたい」
自己規制し報道をさし控えようという申し出であった。これに対し、『読売』の柴田編集局長は反対意見を表明した。
「この際、事件そのものに対する協定をしておくことは尚早であり、言論使命に矛盾する点がある。皇軍の威信尊重はもとより必要であるが、むしろ国民に対して正しき認識標準をあたえることに誤りがないようにしたい」
これに『朝日』の緒方竹虎編集局長も同調、「この際、当局に利害一致する言論取締緩和について内務大臣にあらかじめ注意を促しておくべきだ」と主張、大勢はこの方向に傾いた。結局、光永の自己規制案はとおらず、内務大臣へ言論取締緩和の要望を出すことになった(2)。
しかし、五・一五事件での東京の各紙の論調は弱々しく、本質から目をそむけたものばかりであった。「今回の事件に対する各社の批評ははなはだしく活発を欠くものがあった。ある方面に対して必要以上に遠慮した傾きは否定できまい。平素よろしく言論の公平を誇張した新聞街もこの時ばかりはおよそ惨めに畏怖して口もロクにきけなかった観があり……」
ここにいう「ある方面」、長谷川のいう「遠慮」、馬場のいう「社会的不安」の源泉はいうまでもなく軍部の無言の圧力であり、光永の「皇軍の威信を傷つけたくない」という配慮も軍部への恐怖からの〝自己規制″であり、〝言論萎縮″であった。
こうした新聞の反応について、当の軍部の対応はどうだったのだろうか。青木成一陸軍歩兵中佐はこう弁明している。
「軍部が言論を圧迫しているかのような宣伝も一部に行われている。なる程、我国の言論界は歩調を一にして国策の支持に努めているが、さりとて軍部が強要したことではないことは各言論機関当事者のよく知っている所である。
無論勝手な議論を吐いて、国策を覆し、国防を誤り、軍民離間を企てる類は最も慎しむべきであって、このような言論に対しては軍としても等閑視して置けないのは当然のことであるが、それを以って言論の圧迫をうんぬんするのは全く見当違いだ。……いたずらに畏怖心にとらわれて、それを言論圧迫の如くに幻を描いては、言論の仕事にたずさわることさえおぼつかないではなかろうか(4)」
「言論関係者の軍部に対する畏怖心から生じた妄想である」
と青木中佐に軽くいなされているのである。
しかし、軍部が一番神経質になっていた国策への批判、〝軍民離間″の動きについては一九三三年十二月九日、「財界、政党などの軍部批判は軍民離間を狙ったもので許せない」との、いわゆる『軍民離間声明』をだしてこの種の言論は厳重に監視し、以後、批判を一切封じ込めてしまった。
戦前の言論統制で、忘れてならない一つに〝軍民離間″がある。軍と民すなわち軍部と民衆を離間させるような言論は厳しく取り締まるということで、これが新聞を震えあがらせた。
しかし〝軍民離間″という概念はあいまいであり、これがひとたび拡大解釈されれば、軍部へのあらゆる批判が軍民離間の策動に映ってしまう。正当な批判も、反戦や平和の思想も、軍民離間の行動として、軍部から厳しいチェックを受けた。
言論は五・一五事件などによる直接的なテロに震えあがって、手も足も出なくなったうえに、さらに軍部の暴走に批判的な言論まで、〝軍民離間″の策動とみなされることを恐れて口をつぐんでしまったのである。
外交評論家で戦時下の『暗黒日記』で知られる清沢例は「満州事変以来の言論への弾圧は著しく増えたが、その中でも軍民離間に関する取締りの伸びが目立った」と次のように指摘している。(1)
「平和論の高唱などはもちろん軍民離間の一つの策動として取締まられた。非常時において統一されるべき国論というものは常に平和論とは反対の傾向にあり、国論に反する平和論が安寧を破り、軍民離間になることはいうまでもない」
一九三一(昭和六)年九月の満州事変以来、日本は〝非常時″に突入する。深刻な経済的不況、相次ぐ凶作でドン底にあえぐ農村、事変以後、満州国独立をめぐっての国際連盟の脱退、国際社会からの孤立、テロやクーデター未遂の続発と混乱で人びとは不安に陥っていた。
・軍部は、〝一九三五、六年の危機″をあおりたてた
1933年(昭和八)年軍部は、〝一九三五、六年の危機″をあおりたてた。一九三五、六(昭和十、十一)年は日本にとって未曽有の〝国難″がやってくると宣伝した。
その理由は、
- 一九三五年にわが国の国際連盟脱退が発効、正式に断絶する
- ワシントン、ロンドン両軍縮条約が一九三六年で期限切れとなり、一九三六年に米英と比べ日本の海軍力が一番不利な状況となる
- ソ連の第五次五ヵ年計画が完成し、軍事力が一段と強化される ー などで、これに対抗するために強力な軍備増強が必要だと政府に要求した。
こうした〝危機″を迎えて一九三三年十月、荒木陸相の提唱で首相、外相、陸相、海相、蔵相の五相会議が開かれ海軍力の大増強が話し合われた。すでに政党の力は失われており、同会議にも政党出身の大臣は入っていなかった。満州事変以来、軍事費の突出がいかに凄まじかったかは次表を見ればわかる。
一九三一年を基準にして、▽三二年の軍事費は一・五倍、▽三三年は一・九倍、▽三四年二・一倍、▽三五年は二・二七倍と倍増し、一般会計に占める軍事費の割合も、三一年の三〇%が三三年には三八・七%、三四年は四三・六%、三五年はなんと四六・九%とほぼ半分に近いところまでに急増したのである。
各国の軍事費の割合と比較しても、日本は米英の二倍以上、ドイツの三倍以上にも達しており、いかに軍部の発言力が強かったか、未曽有の国難の一九三五、六年の危機が軍備増強のための自己宣伝だったかがわかる。
こうした軍事費の増大は財政を圧迫し、農村再建や時局匡救のための民生安定は犠牲になった。
一般会計歳出と軍事・土木・国債費
(単位:100万円,括弧内は%)
2)土木費は普通と災害の合計.
高橋蔵相は抵抗したものの結局は「非常時」のため、軍事費の増大はある程度やむをえない、と陸海軍の強硬な要求に屈したため、公債費は増え、歳出総額に占める割合の半分に達し、財政が破綻してしまった。
『東京朝日』の「成立せる明年度予算案」(一九三二年十一月十一日)ではー。
「国防はその充実そのものが目的ではない。有事の日はこれを運用し、遺憾なく威力を発揮することが目的であらねばならぬ。従って財政の基調を破壊せんとするが如き、国防計画は無意義だといっても決して過言ではない。吾人は軍部当局が財政を顧慮する所なく、一気に多額の軍事費を得んとした態度に遺憾の情を禁じ得ない」。
同「『非常時』の誘惑」(同年十一月十二日)ではさらに一層強い調子で批判した。
「軍事的行動に依存するより外に能のない外交は改められねばならず、内政方面においても叫び声の高い方にのみ金品を給与するような無思慮な時局匡救策や非常時を口実の放漫施策は更めて冷静公平な判断によって再吟味を受くべきである。……呉々も『非常時』に誘惑されて、理性の光明を曇らせてはならぬ」。
このように『朝日』は軍部の過大要求を批判、「非常時観の打切り」を大胆に主張し注目されたが、一九三三(昭和八)年度の予算編成に対しては新聞はおおむね、反対の意志を表明しなかった。
新聞界全体の状況は、「新聞は戦争によって発展する」とおり、満州事変以後、販売部数は伸び、〝黄金時代″を迎えていた。
軍部の動向には恐れおののきながら、その分余計に、エロ、グロ、ナンセンス、犯罪や個人のスキャンダルをセンセーションに報道する方に傾斜していった。『文香春秋』(一九三三年十一月号)の「新聞匿名月評」欄では当時の新聞界について、「剣は重し、筆は軽し」「資本は重し、記者は軽し」の時代と皮肉りながら次のように書いている。
「現下の新聞は軍閥の前には羊の如く温順であり、狸の如く卑怯である。一発のピストルは彼等の心胆を寒からしめ、一口の秋水はその言説を転向させる。
軍閥のなすところと言えば、必らず筆を揃えて、これを弁護し賞讃する。これでは無冠の帝王も怪しい」
「今日のジャーナリズムを評して黄金時代だと説くものがある。新聞や雑誌が飛ぶように売れて、出版業者が儲ける。
新聞、雑誌に筆を執る者もその利益の分配によって太平楽をならべている。金にさえなれば、売れさえすれば、エロ噺、いい加減な作り噺、流行の戦争もの、講談の焼き直しでもなんでも書こう。載せよう。売ろう。- それが又大当たりというのが、ジャーナリズムの黄金時代か。馬鹿々々しい」
一九三三年末になるとそれまでと一転し、〝非常時″もやや一服し〝非常時小康″を迎えた。不況も軍事費の増加で漸次、景気が回復する兆しがみえ、〝一九三五、六年の危機″も軍部自らが引き起こした幻影であることが国民にもわかってきた。
民生を犠牲にした大軍拡予算に対して、政党、財界から批判の声が起こってきた。政党を除外した五相会議で国策が遂行されていったことに政友会、民政党は反発、中島久万吉商工相が橋渡しして、「軍部の横暴に抗するため」 に連携運動が密かにすすめられた。
-
陸海軍は突如、「軍民離間は断固排撃する」と声明
これに対し、一九三三年十二月九日、陸海軍は突如、「軍民離間は断固排撃する」という声明を発表、各紙はトップで報道、国民は寝耳に水の声明に驚いた。
『東京朝日』(十二月十日朝刊)は「軍部の態度批判に突如、陸海軍が声明『軍民離間の言動断然黙視し能はず』」 (四段見出し) で、陸、海軍当局談を次のように報じた。
「最近予算問題その他に関連して軍民分離の言動をなすものが少くない。
例えば、一九三六年の危機を以て軍部のためにする宣伝となし或は過去の戦役において戦死せるものは庶民階級のみにして高級指揮官に戦死者なしと説き、
或は軍事予算のため農村問題は犠牲に供せらるるものなりとなすが如きこれにして、この種軍民分離の運動は国防の根本をなす人心の和合結束を破壊する企図であって軍部としては断じて黙視し得ざるところである」
「故意に予算問題を利用し農村の軍部に対する反感を誘致せんとするものにあるやにそく聞するは国防上はもちろん国家全般の安泰上遺憾の極みである」
こうした策動は第三インターに基づく反戦運動や軍民分離の策動であるとして、我国にも働きかけられている - と警告した。
これに対して、政党側は反発、民政党の松田幹事長は「大臣以外の軍人は政治論議を慎め」と批判し、政友会(野党)の浜田総務は、「今日の国民は財政問題についても、決して無知ではないから正当な批判を持つであろう」と表明した。
この軍民離間声明は『東京朝日』の十二月三日付社説「決定せる予算案」を狙ったものだという、ウワサも飛んだ。その社説は -。
「如何に最近の予算方針が軍事費を重視しているとは言え、軍事費が年々財政史上の最高レコードを作りつつある事実は国家の全体現象として深甚の憂慮なきを得ないことである。このぼう大なる軍事費の犠牲となりて、時局匡救費は大削減になった。……財政もまた広い意味の国防の内に含まれるべきのものである。財政を離れて国防は成立しないからである」
これは単なる、ためにするウワサとわかったが、政党の反軍部の連携はすすみ、十二月二十五日に中島商工相のあっせんで、政・民両党の懇談会が開かれた。
翌年「月二十四日から第六十五回議会が開かれたが、政友会の安藤正純が衆議院本会議でこの間題を取り上げ、政府に挑んだ。
「近頃、国民の下層階級には一九三六年には必ず戦争が起きるものと思っているものが多い。……国軍を形成するは陸海軍の幹部のみではなく、国民皆兵の国軍であるから、国民にも十分言論を尽させ理解を与えることが肝要であろう。……言論の自由こそ現下の急務である」と斎藤首相、林陸相らの姿勢をただした。
斎藤首相、陸海両相とも「言論圧迫は考えていない」と言明、秘密会にして、経過などを説明した。秘密会では島田俊雄(政友)、亀井貫一郎(無産)らが陸海両相を詰問、「両相のいわれるごとく反戦ビラは重大だが、軍内部の問題で訓令か通達で解決がつく問題なのに、天下に声明して一層疑惑を深めた」 (『国民新聞』一月二十五日) と追及、軍部と政党が五・一五事件以来、初めて本格的にぶつかった。
ところが、新聞は議会でのやりとりは詳細に報じたものの、軍民離間問題を肝心の社説で正面から取り上げたところは一つもなかった。軍部の怒りを恐れたのである。
国会のやりとりについても、報道と実際とでは大きく食い違っていたことを『文芸春秋』(一九三四年三月号)の「新聞匿名月評」はこう暴露している。
「(ある記者が)議会における軍民離間の声明に関する質問応答振りを率直に批評して『ダラシの無い八百長』と書いたところ、さっそく整理部に削りとられて了ったそうだが、新聞によると、政党の武者振りさっそうとして太刀風鋭く軍部に斬り込んでいったかのように見えるが、議会の記者諸君は、口をそろえて『ダラシがなくて見ちゃおれないよ』と語っている。ところが紙面では筆をそろえて政党の軍部に対する武者ぶりを逆にほめたたえているのである」と。
- 唯一正面から堂々と論じたのは石橋湛山の『東洋経済新報』のみであった。
結局、「軍部の問題になると、政党は新聞が腰が弱いと言い、新聞は政党が弱いと言い、資本家は政党も新聞も腰が弱いと言う。どちらも、他のものに言わせて、その尻馬について行うという虫の好い建前を執っている」(同前)と批判した。
こうした大新聞が頬かぶりするなかで、唯一正面から堂々と論じたのは石橋湛山の『東洋経済新報』のみであった。
湛山は『東洋経済新報』(十二月十六日号)の社説「遺憾なる陸海軍省の声明- 軍民分離を防止する唯一策」で厳しく批判した。
石橋は満州事変、満州国独立に一貫して反対しており、この社説のすぐ前にも「中正を欠く思想界、これ言論自由圧迫の結果」(九月九日号)「我国に外戦の危険無し」(十月二十日号)と正論を展開している。
「中正を欠く思想界」では「(日本の)社会全体が、言論の自由、思想の寛容の大切なる事を知らない」と述べ「我国に外戦の危険無し」では、もっと明確に「虚言者が初めは虚言(フェイクニュース)と意識して言っている内に、終に自分でもそれを真実と誤想するに至る心理作用だ。私は日本の現在を非常時だと騒ぐ中には、やはりこの心理作用が働いていると思う」と分析、五相会議についても「日本には今予想せられる限り、外国との戦争に陥る危険は無い」と断定し、平和外交と最小限度の軍備を提言した。
今からみるとおそるべき卓見である。そして「遺憾なる陸海軍省の声明」では鋭くこう述べた。
「一体、わが国の一部には気に入らぬ言論をなす者を売国奴呼ばわりする弊があるり、いやしくも陸軍省及海軍省と銘を打った声明中において以上の如き臆説をなすことはすこぶる重大だ。軍部も、政党も、財界もすべての国民が、互に立場を理解し尊重し、静かに各自の主張を聞き冷静の判断を下すことこそ、国論統一、軍民融和の唯一策である」
軍部はこの声明で、政党に一本とられた形になったが、以後巻き返しに出て、中島商工相を辞任へ追い込んだ。
(つづく)
<参考文献>
(1)清沢『激動期に生きる』千倉書房 一九三四年刊 7p
(1) 『現代史資料42 思想統制』 掛川トミ子編 みすず書房1976年刊 1183-1187p
(2) 『新聞及新聞記者 - 新聞街の屋望』 一九三二年六月号
(3) 『同上』
(4) 『新聞及新聞記者 - 『軍部」畏怖と 「軍部」濫用』一九三三年11月号
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