前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『Z世代のための国会開設、議会主義の理論を紹介した日本最初の民主主義者・中江兆民講座①』★『兆民、大久保利通に知られる』★『 自由民権運動の演壇に股引と印ばんてんの服装で登場』★『伊藤、大隈、山県らの元老たちを罵倒す』

   

逗子なぎさ橋通信、24/06/30/am700]梅雨の合間の夏空に富士山はお隠れです。

前坂 俊之(ジャーナリスト)

中江兆民は「東洋のルソー」自由民権運動の元祖
 

中江兆民は1847年生まれなので、明治維新の時で21歳。幕末維新の頃はフランス語の勉強。1865年に土佐藩から長崎に派遣されて平井義十郎からフランス語を学んだ。1867年には江戸に行き、江戸のフランス学の大御所、村上英俊の達理堂に入門したものの、遊郭遊びで破門され、横浜のカトリック神父にフランス語を教わる。

このころ、フランス公使の通訳となって関西を旅行。1871年に政府が欧米に派遣した岩倉使節団に加わりました。期間は2年5ヶ月でしたが、アメリカ周りのためフランスまで時間がかかり、リヨンで7ヶ月、パリで1年間、フランスで過ごした。リヨンではフランス語を学ぶために小学校に入ったが、児童が騒がしいで勉強できず、家庭教師に切り替えてフランス語とその政治、思想を勉強した。

 
ルソーの『民約論』を翻訳し、フランス、西欧思想を日本にもたらしたため「東洋のルソー」といわれ、自由民権運動の代表的思想家となった。中江兆民は「明治三奇人」の筆頭で酒にまつわる奇行が特に多く、岩崎徂堂著『中江兆民奇行談』(明治34年)という抱腹絶倒本まであるほどだ。
 
兆民、大久保利通に知られる

  兆民が青年時代の話であるが、彼は大久保利通の人物をしたっていた。どうかして会ってみたいと思ったが、いかんともその機会がなかった。
 あるときのこと、今日は大久保の邸に行ってぜひ面会しょぅと、すぐ公の邸に行き面会を求めると、御者が玄関に出て、「そんなに君が会いたいつもりなら会わしてやろう。それでは今、主人が馬車にのって出られるから、君は門外におってくれ。通りかかるとすぐ声をかければ、それを合図におれが馬を引きとめるから」といったので、兆民も大いに喜んだ。

門外に出て馬車の来るのを待ちかまえておると、御者は馬にむちうってやってきたから、このときぞと、「大久保公、大久保公」、とあらんかぎりの声をだして呼んだので、御者も馬を引きとめたところへ、兆民これを得たりと窓に近よって、大久保公に面談を請うた。

大久保公は彼の風采をみて、尋常ならざる者とみて、「この中にはいれ」といって、兆民を馬車に乗せて行った。これから公の知るところとなって、のち兆民はフランスに遊学を許された。

 演壇に股引と印はんてんのいでたち

 明治二十二年のこと、自由民権の主唱者が大阪に会合して、慰労会を開かれた。当時、兆民は大阪東雲新聞社にいて、もっぱら自由民権を鼓吹していたから、この会の一員として席に列したが、むしろこの会の主人公といってもよかった。やがて席が定まり各自はそれぞれ演説することになった。
 するとスミにいた兆民が、意気揚々と演壇に上がったが、このとき場内の観衆がビックリ仰天したのは先生の服装であった。印ばんてんに腹掛け、紺股引(ズボン)という衣装で、まったく大工か、左官としか見えなかった。聴衆はこれを見て驚く者も笑う者もある。

歓声がしばらく鳴りやまなかったが、大工左官スタイルの兆民が、「諸君よ、という鶴の1声でとともに万場が静粛した。それからとうとうと自由民権の本旨を演説された。

そこでなぜに兆民のいでたちが意表に出たかと問えば、ここが兆民の兆民たるところで、自由民権を主張する「士農工商」廃止の手段として、大工、左官、農民も日本国民たる以上は、民権の自由を有する、それを聴衆に理解させるための服装をして登場したのである。

親友の死去と香典

あるとき兆民の親友が病いに倒れて不帰の客となった。彼はこの報を聞いて、ただちに黒水引と白紙一枚を懐にして、死んだ友人宅にかけつけて未亡人に対し、いともていねいに弔辞を述べた。そのあと、「少々お願い申したいことがあれば別間に、ご案内を頼む」とお願いした。別間に行くと、兆民は「どうにも差しつかえなければ、かさねがさね申しわけないけれども金二両を貸してしていただけないか」と申しこんだ。

未亡人は場所もわきまえず、ずいぶん失礼な話と腹を立てたが、常づね夫から大変な奇人、変人と聞いていたことを思い出し、仕方ない人と二両を貸した。

兆民先生は、「どうもすまぬ」といって別室におもむいたが、やがて懐中にしていた黒水引と白紙をだして、今、借りた二両をその中に包み、霊前にもどり、ふたたび未亡人に向かい、これは香典の印であるから取っていただきたいと申し出たのには、未亡人は2度びっくりした。

あれは中江篤介だ  

兆民の罵評は決して新聞や雑誌で試みるばかりでない。その行動についてもまた同一で、遠慮もなければ会釈もない。何ごとにもいっこう頓着しないところは、たしかに近代の豪傑、奇人超人であった。
 兆民の眼中には、国家あるほかは何ものもなかった。まして今の元老や大臣などは屁とも思っていない。その証拠には遺著として洛陽の紙価を高めた『一年有半』をみればすぐわかる。

あるとき、大隈〔重信〕を早稲田の邸に訪問したことがある。すると主人公の大隈伯は、ていねいに玄関に出迎えて兆民をおのれが座に通した。兆民先生、はいるかと思うと、たちまちあぐらをかき、「ナー君」と話しこんだが、それからは政府攻撃より遂には主人公の攻撃にまでかかって、論難罵倒、容易にやむけはいがなかった。

たまたま隣室に数名の新聞記者がいあわせたが、あまり大隈のご本尊をののしる声がするので「彼は一体何者か?としきりにささやいていた。兆民が邸を辞したのを見て、「さっき来て大攻撃をしたのはだれですか」と問うたら、大隈伯いわく、あれか、あれは中江篤介だ。

兆民、元老連を罵倒す

兆民に罵倒の二字はつきものであるから、近頃、元老株をますます罵倒して、最も惨酷な筆誅を遠慮会釈なく加えた。

まず伊藤博文をさしていうのに。大勲位は、まことにへんぺんたる好才子じゃ。漢学というたら悪詩をならべるだけの資本をもっておるし、洋学は日録を暗記するの下地があるし、ただこれだけでも他の元老をしのいで威張りちらすにたくさんだ。その上ちよっとごまかしをやるのに上手じゃ。

しかしこの人物は、おれの目からみれば書記官の才で、宰相の資ではない。その証拠にほ何度か総理大臣になったことがあっても、ただ失敗ばかりで一の成績もない。彼のもくろむところは、ちょうど下手の魚釣で、船や釣竿から餌、糸までも吟味して、それから初めから魚は一つもとれない。

いったい野心たくさんの、肝識たらずである.から、内閣書記官長ぐらいは適任のところじゃと評されたが、伊藤の本人が聞いたら、さぞ立腹するであろう。

その次ぎは

大隈重信は壮快、愛すべき男であるが、とはけっこうなほめかただが、それからがよくない。しかし決して宰相の材ではない。目先きの働きばかりあって、のちの考えがたりないから、いつも失敗だ。もし大隈が野にあって相場師にでもなったら、かならずもってこいという人物だ。まあそうなると、糸平(貿易商の田中平八らの親分柄であろう、と酷評もはなはだしい。

次ぎに、

山県有朋を短評して、彼を小吉と言い、松方正義は至愚、西郷従道は怯儒とは、あまりにひどすぎると思う。これだけは他人の著者さえ気のどくに感ずるのである。

その他の元老は筆を汚すだけ損だ。伊藤以下みんな死んでしまうことが、一日でも早ければ早いほど国益だ、と臆面もなく放談していた。

      

 
 

 - 人物研究, 健康長寿, 現代史研究, IT・マスコミ論

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『Z世代のための<憲政の神様・尾崎咢堂の語る「対中国・韓国論①」の講義⑨日中韓150年三国志―尖閣問題のル―ツの研究(パーセプション・ギャップ)―尾崎咢堂の「『朝鮮(韓国)は助けて、支那(中国)は討て』②

    2013/04/03 &nbsp …

『F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(19』『オーストリア・ウイーンぶらり散歩④』『旧市街中心部の歩行者天国を歩き回る』★『旧市街の歴史に彩りを添えるのが観光馬車フィアカー(Fiaker)で1622年以来蹄の音を響かせている。』

2016/05/18    2016/05/26『F国際ビジ …

no image
近現代史の復習問題/記事再録/日本リーダーパワー史(498)-『 2018年は明治維新から約150年、大東亜戦争(アジア太平洋戦争)から73年目を前に― <日中韓の対立激化を戦争へ発展させるな!>

2014年5月13日/ 日本リーダーパワー史(498)  & …

『Z世代への遺言・生死一如』★『関 牧翁の言葉「よく生きることは、よく死ぬこと」★『一休さんの遣偈(ゆいげ)は勇ましい』★『明治の三舟とよばれた勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の坐禅』

  2020/03/09  『リーダーシップの日本 …

no image
知的巨人たちの百歳学(111)-明治の大学者/物集高見、高量(106歳)の大百科事典『群書索引』『広文庫』の奇跡の長寿物語➂→「(人間に必要なのは)健康とおかねと学問・修養の三つでしょうね。若い時は学問が一番、次がおかね。健康のことなんかあまり考えないの。中年になると一番はなんといってもおかね。二番が健康、学問なんかどうでもいいとなる。そして年取ると・・・」

物集は膨大な日記を書いている。 それは「百歳は折り返し点」の自伝の「年表の総まく …

no image
日本リーダーパワー史(182)『大アジア時代の先駆者・犬養木堂②』ロシアに圧迫されたイスラム教徒も支援―

 日本リーダーパワー史(182)   <百年前にアジア諸民族の師父と尊 …

no image
★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」-「日英同盟の影響」⑭ 1902(明治35)年11月8日『米ニューヨーク・タイムズ』 ●日露戦争開戦2ゕ月前『満州を条約をうまく利用して占領、開発したロシア』★『嫉妬深い日本ですら,ロシアの領土支配に武力で立ち向かおうとはしないだろう。ロシアの支配権はそれほど確立しているのだ。』

     ★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」- 「日英同盟の影響」⑭ 190 …

no image
『池田知隆の原発事故ウオッチ⑳』◎「地熱発電」の開発を急げ―地熱資源立国にむけた規制緩和を―

『池田知隆の原発事故ウオッチ⑳』   『最悪のシナリオから考えるー「地 …

『Z世代のための百歳学入門』★『江戸城の無血開城で百万人の江戸ッ子を救った勝海舟(75歳)の胆識』★『『長寿法などない」「南光坊天海(107歳)を論ず」』

2012/12/05  百歳学入門(58)/再録、編集 ①  …

no image
日本メルトダウン脱出法(728)「アングル:安保法制で転換迎える日本、「普通の国」なお遠く」●「海外からの「短期移民」が少子高齢化ニッポンを救う」

日本メルトダウン脱出法(728) [アングル:安保法制で転換迎える日本、「普通の …