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『Z世代のための日本スタートアップ企業史講座』★『リサイクルの巨人・浅野総一郎(82歳、浅野財閥創業者)の猛烈経営』★『廃物コークスをセメント製造の燃料として使用』★『究極の廃物利用の人糞尿処理に目をつけ、肥料として農村に売り込んだ』★『わが国初の京浜工業地帯、コンビナートを完成した。』

   

2010/11/27  日本経営巨人伝①記事再録

前坂 俊之 (静岡県立大学名誉教授)

<『浅野総一郎』浅野良三著 昭和12年版 復刻 大空社、28800円>

 

浅野総一郎は浅野セメント(日本セメント、現・太平洋セメント)を始め三十数社を創業した日本の「セメント王」であり、浅野財閥の創始者である。

浅野は嘉永元年(一八四八)4月に富山県氷見郡(現在の氷見市)に町医者の長男に生まれた。少年時代から北国一の豪商・銭屋五兵衛にあこがれ、商売を志した。十四歳のときに養子に出されて、まもなく縮み織としょう油醸造の商売をはじめ、稲こき機械を農家に販売したり「物産会社」を興したりしたが、いずれも失敗に終わり高利貸しから三百両の借金を抱えた。
 

近所からは「総一郎ではなく損一郎だ」と噂され、バカにされた。連日、借金取りから追い回される始末で、明治4年(1871)5月、24歳で高利貸しの追手を逃れ東京に夜逃げした。

どん底に落ちた浅野は名を変えて、生き延びるために必死になって稼ぎを考えた。もともと商売のセンスはあり、時代のトレンドを見抜く鋭い目を持っていた。無一文なので、元手のかからないタダでできる商売はないかとあれこれ知恵を絞った。

最初に目をつけたのは、「冷やっこい、冷やっこい」と、大声で町中を売り歩く一杯二銭の砂糖水の販売である。ちょうど7月と夏本番を迎える江戸から東京になったばかりの大都会で、「冷やっこい」冷たい水は飛ぶように売れた。

この原料といえば、お茶の水の湧き水なのでむろんタダ。お茶の水や神田・万世橋界隈を「冷やっこい」「冷やっこい」売り歩いて、何とか食いつないだ。
 

しかし、この冷水商売も夏場しか売れない季節商売である。秋になり、寒くなってくると今度は味噌やにぎり飯を包む竹の皮の製造販売をはじめた。

この竹皮は下総(千葉県)のタケノコ産地で仕入れてきたが、それも農民への礼金程度で引き取るのだからタダ同然。秋からは千葉から仕入れた竹皮を横浜まで持って行き売る商売を始めて、さらに儲うけた。この目端のきいた商才は浅野にとっては生まれつきのものだったが、

「失敗は成功の基」のことわざ通り、夜逃げの経験からより慎重なリスク管理のもとで、商売は成功軌道にのった。

それから徐々に扱う商品を増やして燃料用の木炭や薪(まき)を扱うようになり、結果はぬれてに泡の大儲けで、まもなく一万円の資本を作ったというから、今でいえば「リサイクルビジネス」(廃物利用)の元祖である。

すっかり味をしめた浅野はこの廃物利用ビジネスを徹底して追求した。浅野が自ら車をひき、妻はそのあとを押して神奈川県庁に薪炭を売り込み、横浜の外人商館、船会社相手の石炭商売を始めるなど事業をどんどん拡大していった。

①あらたに目をつけたのがコークスであった。

コークスは「骸炭」と訳されている通り、当時は石炭を燃やした後の廃物だった。照明用ガスは石炭を燃焼させて作っていたが、残りカスのコークスはガス製造所内に捨てられており、コークスやコールタールの利用法はまだ開発されていなかった。野天に山済みとなったコークスを眺めながら、「これをなんとか、金にかえることはできないか」と浅野はいろいろ考えた。

そして廃物コークスをセメント製造の燃料として使用することを思いつく。
 

明治9年(1876)、総一郎は横浜のガス会社から、引取り手がない石炭の残骸コークスの山を、トン当たり50銭の安値で大量に引き取っては、これを東京の官営セメント工場に納入する仕事を始めた。ガス会社は廃材が金になると大喜びである。

明治14年、京浜地方にコレラが発生して消毒薬として石炭酸の需要が激増したのに目をつけて、浅野はコールタールは石炭酸の原料なので、衛生試験所にこれを売りこんで、儲けするなど、次々に商売は成功した。

夜逃げから約10年。浅野は見事に立ち直り、コークス商売などで当時すでに七万円の資産家に躍進し、王子の製紙所にいた渋沢栄一と交友がはじまり中央財界へ進出するキッカケをつかんだ。

 

② この後、手がけた究極の廃物利用は人間の廃棄物、つまり糞尿処理に目をつけたことで、その糞尿を肥料用として農村に運び込む商売を思い立った。早速、横浜市内に63ヵ所の公衆便所をつくり、ここから回収した糞尿を売りさばき、利益は毎月三百円以上になったといわれる。

こうして横浜商界で名を成した浅野は、渋沢栄一らの支援をうけて明治13年(1880)、閉鎖中の深川セメント工場をもらい下げ、浅野セメントとして猛烈な陣頭指揮と技術革新によって浅野財閥の基礎を築いた。

以下、浅野の経営名言を紹介する。

 

<経営名言①>「世の中には積極的致富と消極的致富とあり。積極的致富に励め」

 

「世の中には三度の食事を二度に減食して金を貯める人があるが、まことに消極的な致富心である。こんな方法で貯めた金はたかが知れている。自分は若い時から、三人前食べて三人前働くという考えで進んできた。多く働いて多くの収入を得るという積極的蓄財法こそとるべきだ。

大いに栄養をとって、三人前も四人前も働く覚悟で活動すれば自然に財産はできる。この方が消極的な貯蓄よりも、余程楽であると思う」

<経営名言②>「金に気楽をさせるな」

浅野は売上金が自分のふところに入ってくると金の面をたたいて「お前は家に帰ってくるには、まだ年が若いぞ。もっと子や孫をたくさん生んでくるのだ。孫やその孫が多勢できたら帰ってくるがいい。その時はこころよく楽隠居をさせてやる。今日のところは出て行って、もっと働いてくるがよい」といって、追い出すように働かせた。

また、浅野は常に「銀行に金を預けるほどバカなことはない」と少しも金に気楽をさせない主義で思う存分働かせた。

<経営名言③>「一日四時間以上寝ると、人間がバカになる」

 

浅野は大変エネルギッシュな男だった。「一日四時間以上寝ると、人間がバカになる」がモットーで、八三歳で亡くなるまで、このモーレツ主義を貫いた。

自宅で早朝、重役会議を開いた。いつも、おてんとう様より早く起きないと気のすまなかった浅野は朝は暗いうちから起き、朝飯前に関係会社の重役会を開いた。重役たちが午前七時には、はせ参じないと機嫌が悪かった。朝なかなか起きられない重役たちはまいってしまい、浅野が自動車で出勤して行くと、もう一度自宅へ帰り寝直したという。

ある時、浅野が大川平三郎(富士製紙社長、日本の製紙王)を「あんなナマケモノはみたことがない」と大変な剣幕でおこり、周囲の者の度胆を抜いた。

大川も当時日本には何人もいないという大変エネルギッシュな経営者だったので、財界で大評判になった。

<経営名言④>「朝はコンニチサマ(太陽)と起きて必ず一緒に働け」

浅野と大川が一緒に朝鮮へ出かけた。浅野は一週間ほどで帰ってきたが、大川はさらに一週間たっても帰ってこなかった。

「大川はまったくしようのないナマケモノだ。わしと一緒に朝鮮へ出かけていって、まだ戻って来やしない。わしは夜汽車を利用して、毎朝着いたところで、役所へは行く、会社へは出る、工場はのぞくで一日もムダ無しに歩き回って、とうの昔に用を片付けたが、あの先生は昼汽車ばかり。

夜は三味線引きつれて、ロクでもないウタだかヌタだかうなっている。忙しい実業象だと聞いてあきれる。あんなナマケモノはみたことがない。」

上には上がいるもの、大川がナマケモノだったら「われわれはどうなるのか」と財界のおれきれきはおったまげてしまったという。

浅野は夜も昼も日曜もなく、朝はコンニチサマ(太陽)と必ず一緒に働きつづけた。アイデアと猛烈な仕事魔で、「稼ぐに追いつく貧乏なし」と口グセのようにいいながら働きまくった。昭和五年、八二歳で亡くなった。

<経営名言⑤>「運は水の上を流れている。命がけで飛び込んでつかめ」

人間は運というものを自分の手でつかみとらなければならないというのが、信念だった。「運は寝て待てというのは嘘だ。運は水の上を流れている。命がけで飛び込んでつかむ度胸と、つかんだ運を育てる努力がなければ運はわが身に宿らぬ」と、常日ごろから言っていた。

昭和五年に、八十三歳で欧米視察に出かけ、ベルリンで食道ガンがわかった。「死ぬのなら事業を急がねばならぬ」と言ったといわれる。

浅野は勤勉第一主義で経営にあたり、従業員優遇法、積立金制度などで社員、従業員とともに悪戦苦闘しながら、世間では困難と見られていたセメント事業を軌道にのせた。その後、セメント需要増加によって発展し、明治31年には八十万円の合資会社組織とした。明治40年には百万円の合資会社、さらに大正2年には株式会社組織に改めた。

大正4年2月には二百万円増資して資本金700万円となり、その8月には北海道セメントを合併した。折からの第一次世界大戦の好景気の波にのり、製造能力も年間150万樽から4倍の一670万樽への拡張計画をたてて、大正6年11月には1500万円に増資した。その後、10年11月にはさらに3600万円に増資、13年6月には木津川セメント会社などを合併して5630万円の大資本となった。こうして、浅野セメントは業界における支配を確立するとともに、浅野財閥の中枢部をなって発展した。

こうした中で明治19年11月、浅野は「自分の使う石炭とセメントだけは自分の船で運びたい。高い運賃は破壊する」と浅野回漕店は開業した。「日の出丸」「金沢丸」など数隻の汽船を購入した。屯田兵の輸送では浅野回漕店が引き受け、岩崎弥太郎の三菱系の日本郵船に対抗して激しい競争となった。次いで

外国航路への進出を計画した総一郎は、明治29年、汽船会社の創設に乗り出して、渋沢栄一、安田善次郎、大倉喜八郎、森村市左衛門らと共同で明治29年7月、資本金710万円で東洋汽船会社を創立した。

東西の二大貿易港、サンフランシスコとホンコン間の航路を開拓し、日本丸、香港丸、亜米利加丸の三隻を購入し、明治30年10月、「日本丸」による東洋汽船第一回の航海が始まった。翌31年には香港丸が、32年には亜米利加丸が竣成し、外国航路は軌道にのった。日露戦争をはさんで、海運業の盛衰は続くが、浅野は積極主義で巨船を作り続けて、第一次大戦が勃発すると、浅野の見通しは適中し、海運界は黄金時代を現出して飛躍的に発展した。

 

浅野の事業欲は旺盛で東洋汽船会社の計画で欧米を視察して帰国した明治30年に、西欧の港湾と比べて横浜港が余りに貧弱な様子にショックを受けて東京湾の埋立てと築港計画を思い立った。京浜間に大運河を開き、東京湾に港を作って、大型船の出入りを自由にし、途中の鶴見、川崎付近の遠浅の海岸を埋立てて、大工業地帯をつくり、工場の製品を横づけされた巨船に積込みこんで運ぶという一大コンビナート、港湾造成構想であった。

わが国初の京浜工業地帯、コンビナートが完成した。

明治37年(1904)、神奈川県庁に埋立ての許可願を提出、41年にセメント事業の発展から計画を大拡張し大東京湾埋立て計画に変更した。鶴見川の川ロから川崎田島村沿岸にいたる埋立面積150万坪にのぼるわが国初の大規模な埋立計画であった。金融機関では安田善次郎が全面的に支援し、大正2年8月に鶴見埋築株式会社(資本金350万円)が工事に着手して、埋立地を完成した。ここに浅野セメント川崎工場、旭硝子、日本鋼管、浅野造船所などが続々建設されて、わが国初の京浜工業地帯の中核のコンビナートが完成した。

 

これと並行して東京湾埋立事業も並行して進められ、第一次大戦の造船景気に乗じて、大正5年4月、総一郎は株式会社横浜造船所(その後浅野造船所)を設立。大正7年には浅野製鉄所を建設、9年にはこれを浅野造船所と合併した。

浅野は「事業の権化」であり、およそ儲かる仕事ならどんな事業にも貪欲に手を出して幅広い事業を興して成功させた明治期を代表的する事業家であった。

 

大正十三年、77歳の喜寿を迎えた浅野の主な関係会社を創立順に(カッコ内は資本金)あげると、次のようになる。(西野入愛一著『浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』『日本コンツェルン全書第九巻』春秋社1937年)

浅野コンチェルンの関係会社

 

磐城炭礪株式会社(九〇〇万円)東洋汽船株式会社(三、二五〇万円)浅野石材工業株式会社(一〇〇万円)台湾地所建物株式会社(一二〇万円) 日本石膏株式会社(一五万円) 浅野セメント株式会社(五、六三一万円)沖電気株式会社(二五〇万円)大日本鉱業株式 会社(五〇〇万円)京浜運河株式会社(五〇〇万円) 日本銑鉄株式会社(一五〇万円)
日本鋳造株式会社(一〇〇万円)浅野同族株式会社(三、五〇〇万円) 浅野小倉製鋼所(一、五〇〇万円)神奈川コークス株式会社(一五〇万円)、庄川水力電気株式会社(二 〇〇〇万円) 関東水力電気株式会社(一、七〇〇万円)東京湾埋立株式会社(一、二五〇万円)株式会社浅野造船所 (五、〇〇〇万円) 鶴見木工株式会社(一一〇万円) 内外石油株式会社 (七五〇万円) 以上の各社取締役社長 株式会社帝国ホテル (六〇〇万円) 目安炭碗汽船株式会社(三〇〇万円)中央製鉄株式会社(一〇〇万円)株式会社大島製鋼所(六〇〇万円)など。    

 

この中で、浅野財閥の中枢は大正七年設立された浅野同族会社である。セメント、石炭、海運、電力、埋立て、造船、鉄鋼と発展をとげた浅野財閥の諸事業は、所有株式を通じて同族会社が支配していた。

もっとも、浅野財閥については、「総一郎がその事業欲にまかせて八方に手を拡げ、大小とりどりの会社を設立しただけに、一体としてのまとまりを欠く嫌いがある。しかも、総一郎のやり口は、突進また突進だったので、好景気時代には巨額の利益を占めたが、その代り不況となるや反動はまた大きかった。欧州戦後の長年の不況は、関係事業の多くを苦境に陥れ、その後も機械工業、化学工業などの近代的産業に乗り出し得ない理由となった」(西野入前掲書)。
 

渋沢栄一は「浅野氏は物事の見積りが敏捷、明確で、どんな仕事をするに当っても、費用がどのくらいかかるか、どれほどの人数が入るか、幾日くらいで出来上るか、そうした見積りがすぐに立つ。鶴見造船所が、あれほど早く出来上ったのも、つまり浅野氏が見つもり上手であったからだ」
 

然るに浅野氏は、何事につけても、自分を富まそうとの観念が先に立つ。実際に臨めば、自富が利他にもなるのであるが、同じことを営んで、同じく富むにしても筋立てが違う。そのために世間からは、強慾で危険な人物であるかのように思われた。私とても学問はないが、浅野氏は一層ない。氏が誤解を受けたのは国家の利益を増進するということを一位に置かないためであったと思う」とも書いている。

 

<参考文献>木村徹『セメント王浅野総一郎』(時事通信社, 1972年)、林房雄『明治大実業家列伝』(創元社、1952年)北林惣吉『浅野総一郎伝』(千倉書房昭和5年)

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