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『Z世代のための百歳学入門』★『全財産をはたいて井戸塀となり日本一の大百科事典『群書索引』『広文庫』を出版した明治の大学者(東大教授)物集高見(80歳) と物集高量(朝日新聞記者、106歳)父子の「学者貧乏・ハチャメチャ・破天荒な物語」★『神経の細かい人は、自爆するんですね。あんまり太すぎると、世渡りに失敗する。最も良いのが「中間の神経」だね、ま、中間の神経でいながら、目標を何かにおいて、『こいつをものにしよう』『こいつを乗り越えてやろう』って人が生き残る」

   

  記事再録

 

前坂 俊之(ジャーナリスト)

  • 物集高見が出版した大百科事典『群書索引』『広文庫』

物集高見・高量共著による文献百科事典『群書索引』『広文庫』(索引の原文を収録)(全23巻、合計26,000頁)という古典的な大著がある。約120年も前に独力で膨大な古文書を収集、分類、索引をつくったこの『群書索引』「広文庫」は、今でも、たいていの図書館にはそろっているので、すぐ見ることが出来る。手に取ると、中世、近世の日本史を知る上での基礎的な大辞典であることがわかる。

内容は、古典や日本史、その周辺分野の研究に必要な文献を集大成したもので、その内容は、天文地理、山川草木、鳥獣虫魚、神仏、人物、衣食住、冠婚葬祭、遊戯宴会、武技戦闘、家屋庭園、疾病医薬など森羅万象にわたり、古事類苑にない文献も収めており、五万余の項目が五十音順に検策できるため大変便利な日本史大辞典である。

いわば、50音順に本が検索できる図書館でり、その該当の原文までが記載されて辞書であり、現在でいえばアナログ、紙ベースでのインターネット上の検索サイト「Wikipedia」以上のものだ。

1899年(明治32)、国語学者の物集高見は53歳で東大教授、学習院教授など公職を一切辞して、以後は私財を注ぎ込んでこの前人未到の『知の冒険』に旅立った。

「門戸を閉じ、客を謝し、また諸友との交際を辞し、専心一意に読書を事とした」

明治30年当時の書物の古典籍と言えば、印刷本などはほとんどなく、和本、写本が大部分である。高見はこれらの古典籍のすべてを網羅するため、必要な書籍はすべて購入し、書写することにした。

デジタルコピー機が普及して、1枚5円でコピー印刷でき、ネット上でコピーペーストが日常茶飯事となり、自動翻訳をつかって論文を書く「コピぺ文化」の蔓延する現在からは想像を絶した100年以上前の話。

高見は身銭を切って、全国を行脚して、和漢書、仏書合わせて一万余部、一〇余万巻を集め、その総てを読破し、項目別に書き写す根気のいる作業にとりかかった。毎日毎日、朝からから寝るまで机の前に座し、手の指先は血豆が生じ冬はとりわけ痛苦に悩まされ、眼は極度に疲労し、水で冷やしながらで、検索カード作りに熱中した。

●物集高量

長男・高量は東大文科を卒業し、大正2年に朝日新聞記者を経て、博文館を退職後、父と共同でこの『群書索引』作りに加わり、「本書の編集、事件の配置、文字の選択、及び刊行校正等をを担当した。(「異能異才人物事典」祖田浩一編、東京堂出版、1992年刊)

そのうち全財産を使い果たし、「山林、田畑は言うまでもなく、家も売り、屋敷も売りはたいてすっからかんとなり、1915年(大正4)には、本郷の家はついに破産し、土地、家財道具はもちろんその膨大な書籍と原稿など一切を債権者や古物商たちに差し押さえられた。

この新聞記事をよんで、助け人が現れた。物集の故郷・肥前の豪商中村兄弟の援助によって、借財は何とか返済し、辞典づくりにピッチを上げて、物集高見が決意してから三〇余年後大の大正五年になんとか完成にこぎつけた。

「広文庫」全20巻の内の第1巻を1916年(大正5)に広文庫刊行会より刊行2年後の1918年には全20巻を完了し、「群書索引」(3巻)も完成して、全館そろって出版完了した。

出版と並行して販売は、高量が知恵を絞り、新聞広告、通信販売、セールスマンなどを使って売り込みという昭和戦後では当たり前になった高額書籍販売方式を実践して、売りまくりを昭和一〇年までに合計一万六〇〇セットを販売した。しかし、硬派の高額な学術出版であり、商業ベースの出版ではなかため膨大な借金を残したまま1928年(昭和3)、高見は80歳で亡くなった。

この時、49歳だった高量はその後半世紀以上、106歳まで長生きしたが、学者には彼のように長生きした人が多い。言語学者でみると大漢和辞典を編纂した諸橋轍次は99歳、漢字学者の白川静は96歳だったが、その中でも物集高量は106歳というとびぬけて長寿でだった。

大体、学者というと、くそ真面目なタイプが多いが、物集高量は明治の最高のインテリの1人でありながら、学者極道、インテリヤクザといってよく人生はハチャメチャ、波乱万丈、浮き沈み、極貧人生、好色一代男の人生風である。

 

その破天荒な人生の末の晩年は枯れスズキのようにひょうひょうとして百歳すぎても「今、恋をしているのよ、33人目の彼女だよ」などとあっけらかんに語るなど、奇人、変人を通りこして、人生の達人、仙人の領域に到達したかに見える。

Wikipediaによると、高量の経歴は、父親の跡を継いで東大文科を卒業し、1907年に大阪朝日新聞にはいり学芸部に所属、夏目漱石の「虞美人草」の連載など担当。その間に二葉亭四迷や大隈重信らに可愛がられた。その後、博文館に入社したがこれもすぐやんめて、父と辞典づくりに取り組む。その人脈は幅広く、満州馬賊の頭目と知り合い、満州を支配するとお前は文部大臣にしてやると言われたとか、結婚した最初の妻とはすぐに別かれて、ドンファンの道を歩む、

かと思えば明治の東京大都会の犯罪は泥棒ではなくてスリが横行しており、そスリの親分として有名な「湯島の吉」に弟子入りして、高量が足が悪いため断られたこと、このころ遊興怠惰な裏世界、吉原、ばくち、賭場荒らしにも足を踏み入れたこと、女遊びに熱中して、身を持ち崩すなど学者極道の遊興三昧ハチャメチャな浮世人生である。

借金で身動き取れない貧乏生活にもひょうひょうとして、人生を楽しんできた。

  • 物集高量の回想によれば

「わたしゃ、長い人生で死ってことを意識しなかった日は、一日だってありませんよ。ただ、意識のしかたが、人とは違っていたんでしょうねえ。

あたしゃ、若いときから、自慢じゃないけど、どこへ行っても一番チビで貧弱だったの。だから、しじゆう殴られてばかりいたんです。

でね、とにかく体が人並みじゃなかったから、「君は早死するぞ」とか「人生五十年というけど、キミはは四十まで生きればいい方だ」なんてことばかしバクからいわれた。

人間てのは不思議なもんで、一人二人からいわれても、何をいってるんだいって気になるけどね、何人にもいわれると、そうかなと思っちまうんですねえ。いってみりや、催眠術にかかったみたいになっちゃう。これがこわいんです。

当り前の人間なら、それだけでまいっちまうでしょうねえ。あたしも、二十歳のころは四十まで生きりゃいいって、本気で思ってましたよ。ただね、あたしの以合、根っからの楽天家なんですねえ。クヨクヨするより、どうやってその間を楽しんでやろうかって考えたんです。で、好きな小説なんかを書いて、あとは女とバクチのし放題。

けどね、四十になっても死なない。で、こりゃちっとは真面目に生きなけりや、と思い直して、親父がやっていた『広文庫』を手伝うようになったんです。

で、五十になったとき、親父が死んだの。そのとき、あたしゃ思ったんですよ。よし、ここから後は余生だ。いつ死んでもお釣りがくるから、やりたいことを徹底的にやってやれってね。

だから、あたしの頭の中には、老後なんてこれっぽっちもなかったんです。それからは、また女とバクチにのめり込んだわけですよ。

ところが、六十になっても七十になっても、死なない。どうなっているのかと思い、われながらピッタリしたけど、やっぱりあわてましたねえ。なにしろ、生き延びようって気がないから、持ってる金は捨てるように使ってきたんですもの。で、だんだん行くところまで行くしかないって心境になってきたの。これが、八十くらいのとき。

  • そのうち、生活保護を受けるようになって、

文字どおり細々といった感じの生活が始まったんです。

そうなると、なにも面白くない。で、90歳になったころ、毎日のように、今年死ぬか、来年死ぬか、それぼかし考えてましたよ。

すると本当に元気がなくなっちまうんですねえ。で、あるとき、ここがポイントだなって気づいたの。

つまり、人間て奴ア、絶えず何かに挑戦してなきゃダメなんですねえ。ひらたくいやァ、欲をかくってことです。そいで、あたしゃ目標を200歳において、目いっぱい欲張ってみたんです。だから、今(100歳)折り返し点 -とか・・。

  • 945年(昭和20)8月の敗戦後もどん底生活(66歳)

  • 1945年(昭和20)8月の敗戦後もどん底生活が続いた。正月には「八畳一室に二人きり。わびしきことこの上もなし、年賀に来る人皆無」と。

昭和二十九年、七五歳のときには、暮れに、「元気もなく、張り合いもなく、ただ黙々として行くのが私の人生」と日記にある。

昭和三十二年、七八歳のときに、最愛の妻・お八重が病死した。「私は死んでも満足です。あなたを誰からも盗られずに守りとおしました」といって、八重は亡くなった。物集は、お八重の純情にうたれ自分も死んでいいとおもったという。

 

独居老人となった物集は月三万円の生活保護を受け、週二回訪問するホームヘルパーの世話になりながらも、家財道具も一切ないボロボロの家で昭和30-40年代を80歳、90歳代と老いていきながら読書三昧で孤独に過ごしていた。

  • そんな時に、再び幸運の女神が訪れる。

昭和四十九年、95歳の時、すでに亡くなったものと思われていた高量が一躍、脚光をあびた。『広文庫』『群書索引』が名著刊行会から復刊されたのである。これをきっかけに黒柳徹子の「徹子の部屋」などに出演し、TVでも引っ張りだことなった。

その抜群の記憶力と、江戸っ子らしい軽妙、洒脱な語り口と、自らの″学者極遺″、脱線人生をおもしろさ、おかしく語り、一躍、茶の間の人気者となった。極貧人生を笑い飛ばすあけっぴろげで楽天的な人柄と自由奔放な生き方がモーレツ時代のアンチテーゼとしてマスコミで盛んに取り上げられたのである。

  • そのひょうひょうとした超俗的な生き方に多くの人々は百歳老人の理想像を見つけて、その知恵と勇気に感動したのである。

1979年、物集が100歳の時、「ちょっとだけ教えましょうか」と前置きして、経験から得られた長生きのコツを語った。

「クヨクヨせず、いつも恋をして、何かに好奇心を向けて自然の変化にさからわず。そうすれば誰でも100年ぐらいは生きられるよ」

著書には33人目の恋人と恋愛中と記されていた。

「101歳まで生きてきましたけど、今が一番いいですね。ひとりつてのは気楽でいいですよ。なくなって困るもんなんて何もないし、別に欲しいものもないし…。自由ってのはこういうことを言うんじゃないですか。もしかすると、僕は日本で一番の自由人かもしれません」

  • 103歳になった時には、「僕は日本で一番の自由人かもしれません」

とふり返った。「絶望」という言葉が一番嫌いだといい、自分の生き方には絶望はないと、キッパリ。物集は人生に達観したように、「神経の細かい人は、自爆するんですね。また、あんまり太すぎると、世渡りに失敗する。最も良いのが「中間の神経」だね、ま、中間の神経でいながら、目標を何かにおいて、『こいつをものにしよう』『こいつを乗り越えてやろう』『いっちょやってみよう』 って人が生き残れるんです」

また、こうも語っている。

あたしが目標を二百歳においたのは、二、三年前ですがね。そんなときかが急に元気になったの。不思議なもんですねえ。風邪もあまりひかなくなったし、顔なんかにも艶が出てきた。で、あたしは、精神てものは肉体をはるかに超えてるんだなア、つて気づいたんです。すると、生き残りのコツってのが、いろいろとわかってきたんですね」

著書には三十三人日の恋人と恋愛中と記されていた。それから三年後、102歳になった時、物集はこうポカンと語っている。

  • 「101年間生きてきましたけど、今が一番いいですね。ひとりつてのは気楽でいいですよ。なくなって困るもんなんて何もないし、別にはしいものもないし…・:。自由てのはこういうことを言うんじゃないですか。もしかすると、僕は日本で一番の自由人かもしれません」

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