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『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』⑤『ロシア革命への序曲、血の日曜日、戦艦ポチヨムキンの反乱など本格的な武力闘争へ』

      2015/03/03

qqq『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』⑤

ロシア革命への序曲、血の日曜日、オデッサの反乱、戦艦ポチヨムキン

の反乱など本格的な武力闘争を支援へ

       前坂俊之(ジャーナリスト)

 ー全面的示威運動へ

明治三十七年(一九〇四年)十月中のパリ会議(5日間)が終ると、さらに、自ら穏健を標ぼうする自由党を除き、非常手段をもって戦う党派のみが会合して、その革命運動の方法について打合せた。

この協議の中で特記すべきは、ロシア各地における軍隊動員の妨害をすることの決議であった。各党員は、十月半ばには全員がパリを引上げ、明石大佐もまたストックホルムの本拠に帰った。まもなく、続々とデモ運動、暴動が各地で展開された。

これまでにも部分的なデモ、暴動はときどきあった。たとえば、日露開戦直後の明治三十七年三、四月ごろ、ポーランド国民派の首領トムスキーが、満洲派遣のロシア兵に対する投降勧告の提案をしたり、有力者の後援の必要を感じ、日本に援助をもろめて来日した。また同国のゲリラが、軍隊輸送の鉄道破壊を企てたこともあった。これはわずか、1日間の列車往復をとめたにすぎず、すぐ中止された。

パリ会議後はじめて組織的なデモ、攻撃が勃発した。まっ先に運動を開始したのは、ポーランド社会党。彼らはプロレタリアのゼネラル・ストライキをもって起ち、その反対運送は激烈で、憲兵や軍隊が出動してこれを鎮圧した。かれらは容易に屈せず、勇敢に闘争をつづけた。一方、シリヤクスは、パリにあって同じ思想の賛同者を獲得し、ロシアの同盟国たるフランス側よりロシア攻撃の示威運動を開始させようと画策した。これは明石大佐の発案になるものといわれ、日本の参謀本部より大佐に対し注意があったといわれる。

しかし、直接これに奔走したのはシリヤクスで、明石大佐は全く関知せずと言明している。

この結果、当時フランスの衆議院副議長として、また社会党の首領として、その勢望はフランスの内閣を左右したジャン・ジョーレスがその援助を引き受け、文豪アナトール・フランス、政界の雄クレマンソーなども続々と賛意を表し、「露人の友」と名ずける一団体を組織した。その機関紙のユマニテ、ジルブラオーロール、ユーロピアン、アルメニアン、ジョールジャン等は、一斉にツァー政府を攻撃はじめ、ヨーロッパで反ロシア、る反ツアーイズムが燃え広がってきた。

一万、ロシア本国にあっても、革命党はキエフ、オデッサ、モスクワ等の要地でさかんな抗議、デモ運動を試み、多数の大学生を煽動した自由党はその得意とする州郡会、弁護士会、医師会等を開催して、政府攻撃を行い言論の上からもツアー攻撃を試みた。こうして十一月より翌年(一九〇五年)一月にわたり、連続的な暴動が発生し、社会民主党も、パリ会議に加わらなかったにもかかわらず、単独行動を開始し、別働隊となって労働者のデモ行進を行った。遠くコーカサスにあっては、政府要人、役人への暗殺が、日々10件以上も頻発、恐るべきテロリズムの嵐が吹いた。

 

革命主義者たちはツァー政府に対し強い憎悪の念を持っていた。

革命党中にも最も過激なる一人として知られる女傑プレジュコヴスカヤは、たまたま明石大佐と会談したのとき-「われわれは、民衆のために悪魔と義戦することここに数十年、しかもまだ目的を達することができなかった。しかしいまやわが敵国たる日本によって悪魔を退治せんとする機会を与えられている。われわれは自らの微力が恥ずかしい」と感銘深く語った。

 - 血の日曜日とその後の運動 -

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9B%9C%E6%97%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1905%E5%B9%B4)

一九〇五(明治38)年一月二十二日、高まりゆくロシア国内の反政府デモのウネリの中で、ガボン僧正による冬宮への行進が行われた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%B3

しかも突如、銃声が冬宮広場にひびきわたり、武器を持たぬ数万の民衆は白雪を血に染めて斃れた。

そのとき、銃弾に当たり死の寸前に1プロレタリアートは「もし、わずかに一大隊の日本軍が、われらの傍にいたなら、われらはかくも無残に死ぬこともなかったろうに・…」と絶叫した。

この騒乱は、たちまち全世界に報道され、ロシア政府の権威は地に落ちた。同盟国のフランスにあっても、「露人の友」は盛んにこれを攻撃しパリ大学の教授セイニョーポー博士は、学生らに向い、こう説いた。 「君たちはいかなる事情があっても、ロシアの国債に応じてはならない。諸君の父兄に向っても、私のこの説を伝えなさい。これは諸君の家産破滅を恐れるばかりではない。フランス一般の経済混乱を危惧するためだ」

ガボン騒乱後も、各地方の暴動は頻々としてやまなかった。当時、日露戦争の兵力動員の区域となっていた東・中・西部ロシア、ポーランドおよびコーカサス地方は、「明石工作」の動員の妨害デモが続き、とりわけコーカサスのゲオルギー地力では、この動員妨害を鎮圧するため派遣された歩兵中隊を包囲し、このためコーカサス第一軍団の動員は、撤回されてしまった。ポーランドでは、常設の軍団を、戦場へ派遣するどころか、どこへも動かすことができない状況に陥った。フィンランドでも、この間に数人の地方官が暗殺され、人心は戦々恐々となった。

さらに激烈なるテロは、皇族の暗殺企図であり、宮廷第一の強硬派で知られるセルゲイ親王は爆弾に斃れた。革命党の最有力者デカンスキーこそ、モスクワ親王や内務大臣プレーヴェの暗殺主謀者であったといわれ、彼はある日、明石大佐に面会を求め、オデッサへの遊説とそこへ兵器陸上げを行う革命工作費として多額の金を持ち去った。

 しかも六月、突如としてオデッサの騒乱-すなわち黒海の変が起った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5

この騒乱はデカンスキーの部下なるオメルテニーグとフェルドマンの2人が、黒海艦隊のポチェムキンの乗組員ながら、内部からその兵士を煽動して反乱を起したもの。

http://www.y-history.net/appendix/wh1401-114.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%A0%E3%82%AD%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%85%AC_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

それは失敗には終ったが、ロシア政府は大きな衝撃を受けた。ロシア皇帝(ツァー)は己れの軍隊への不信をつのらせた。オメルテニーグは殺され、フェルドマンは捕えられた。

第二回連合会議 の開催ージュネーヴの大会

ガボンの騒乱中、明石大佐はその情況を視察するため、四度目の南行の途にのぼった。顧乱は失敗に帰した。しかもパリで、シリヤクスその他の革命家たちと会見したのは、その失敗のあとだった。

今後の対策いかんについては、まずこの道の元老たるチャイコフスキーに相談する必要があった。そこでシリヤクスらと協議の上、「血の日曜日」でがぜん有名となった僧正ガボンの名をもって、ふたたび各党代表者を召集し、夏を待って、一層、激しい運動を起こすことになった。

この会議は明治三十八年(一九〇五年)四月初旬に、スイスのジュネーヴで同志シモンの家で開かれた。この大会に列席した各党は、革命党をはじめ、ポーランド社会党、フィンランド反抗過激党、コーカサスの両党、白露党、レットン党(バルチック沿岸州)等、いずれも武闘闘争を得意とする諸党派だった。今度は自由党は参加しなかったが、その代り社会民主党とブンド党が新たに出席したので、パリ会議よりはその内容は一そう充実していたが、論議は一致まとめることができず分裂のまま散会となった。

しかし、チャイコフスキーとシリヤクスの意見や斡旋が効果をあげて、いよいよ夏には、単なる示威運動ではなく、大々的な武闘闘争を決行することになった。

その決議の内容はー 現ロシアツアー政府を打倒し、各小民族が独立してロシアと連邦を組織するか、または完全な自治権を獲得するにあった。

ロシア本国の革命党は、現政府を根底より打破して全ロシアに完全な自由制度をしき、各民族の連邦制に同意する。

ポーランド、フィンランド等の民族は、ロシア勢力圏内にておのおの独立してロシアと連邦を組織する。

  • 白露およびレットンらは、完全な自治権を得ることを目的とする。
  • しかも後にはこれらの小民族もまた、一そう理想を高め、進んで独立制度を確立する。

この決議は、「レポルチャラシャ」など新聞によって、世界に公然と宣言されるのであった。

自由党は、この会議に加わらなかったが、その首領株なるシャウスコイ・ドルゴルーキー両公爵らは、その後に決議に賛成した。

 

 ー 革命党の陰謀の発覚-

ジュネーヴの第二回連合会議は、前年十月のパリ会議以上の好結果をもって終り各党員は来るべき夏季の大活動を展開しようと準備した。このとき、思わぬ一大事が突発した。革命党によって周到に計画された一大陰謀が発覚したのである。革命党は、暗殺の目的をもって、美しき女性レオンチバーなる者を宮廷に配置しようと工作したが、これが判明してその家宅捜査となり、このため多数の革命党員が逮捕された。

明石大佐が、第五回の南行として明治38年(1805)四月末、ストックホムルを発し、パリに赴いたときは形勢一変した。情熱のままに革命の幻想を追う者たちは失望落胆した。

しかもかれらは、これに屈することなく、最も過激なるチャイコフスキーを主とし、シリヤクスやソースキース(チャイコフスキーの秘書)、ガボンらが首脳となり、奔走の結果、革命党を中心としその他の諸党はこれに追随して既定の方針を開始することになった。このときには、明石大佐の手もとに日本から、待ちに待っていた巨額の軍資金(100万円の一部)が到着し、一行を歓喜させた。

これによって、まずその分配法を定め、情勢挽回に反撃に打って出た。挫折に直面していた諸計画も、ふたたび復活された。ジュネーヴの決定は、まさに来るべき革命を実現するために、向よりも武選が必要であった。ロシア政府はもとより、列強の監視の目をかいくぐって武器を購入し輌送することに苦心惨憺する。

つづく

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