「Z世代への遺言「東京裁判の真実の研究➂」★「敗因を衝くー軍閥専横の実相』」で 陸軍を告発し東京裁判でも検事側証人に立った田中隆吉の証言①
終戦70年・日本敗戦史(81)
大東亜戦争の勃発――陸軍部内の反対意見 -
私はもし万一、米英に対し戦端を開始した際には、近代戦の特徴として最も重要なる役割を演ずるものは航空機であると信じたから、十月の中旬に千葉県下で行われた学徒の演習に参加した際に、下志津飛行学校の幹事で、私と同じ砲兵出身である中西大佐を訪れ「米国の航空機に対し、日本の航空機の現状を以て果して勝算があるか」と聴いて見た。中西大佐は「質、量、共に勝算なし」と極めて明白に断言した。又その翌日、当時遇々上京中であった石原莞爾中将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BEから、
木村武雄代議士http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%AD%A6%E9%9B%84
を使として会いたいとの伝言があったので会って見ると、開口一番「石油が欲しいからと言って戦争の決意するバカがあるか。南方をしたって占領したって、日本の現在の船舶量では、石油は愚かなこと、ゴムも米も絶対に内地に持って来ることは出来ぬ」と一流の悪罵が口を衝いて出て来た。石原はまた言った「ドイツの戦争振りを冷静に観察すると、地形の異なるバルカンでも、西部戦場と同一の戦法を採っておる。実に千偏一律の観がある。現在ロシャでやって居る戦法でも何等変化の跡を見ない。これでドイツはロシャに勝てぬ」と断言した。又「若し陸軍が力もない癖にドイツに頼って、英米相手に戦うと言うなら、こんな危険なことはない。君は極力これを阻止せよ」とも言った。
南京の汪兆銘政権の顧問である同期の親友影佐禎昭少将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E4%BD%90%E7%A6%8E%E6%98%AD
は、此頃上京して私を訪れ「此際英米と戦うが如きは、重慶の術中に陥るものだ。君は極力阻止して呉れ」といった。又影少将と一緒に来た後宮支那派遣軍総参謀長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%AE%E6%B7%B3
は「支那事変勃発以来既に4年、国民は口にこそ出さぬが戦争には飽いて居る。此際、米国と妥協し、支那事変を解決したらさぞかし国民は喜ぶことだろう。部内を抑えて極力戦争の勃発を阻止して呉れ」と度々、私の室に来て懇望せられた。私は何れの人に対しても「兵務局長では何とも仕方がない。現在、出来るだけのことはして居る。又私は御承知の如く平素軍人は政治経済に干与すべからずとの原則をやかましく言って居る関係上、自縄自縛の状態で東条陸相に対して反対意見を述べることが出来ない。どうか、直接東條陸相に会って意見を具申してもらいたい」と答えた。
今にして思えばあの際は、一切を超越して、正面から堂々と反対すべきであった。当時を顧みて汗顔の至に堪えない。東條内閣の組閣の雷に私は福岡に在った。西部軍司令官藤江恵輔大将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B1%9F%E6%81%B5%E8%BC%94
を訪れると大将は「南方作戦の勝敗は結局、保有する船舶量に依って決する。万一南方作戦を行ったとしても自分は、日露戦争当時の常陸丸、佐渡丸如き事件の瀕発を恐れる」との意見を述べた。
十月の末に関東軍の作戦主任参謀武井中佐は上京の折りに私を訪れて「梅津美治郎大将は英米と戦争を開始することには賛成できない」と語った。
企画院の秋永月三少将は「英米に対し戦端を開始した場合、日本本土と完全に連絡し得る範囲は満州、北支那、朝鮮に過ぎぬ。中支那以南との連絡は困難である。それは日本の船舶保有量が許さぬからだ」と判断して居った。
総力戦研究所の幹事渡辺渡大佐は「現在の日本の国力では、対英米戦争は開戦後二年以内に、その終結を見なければ必ず敗北する」との意見であった。
此頃、満鉄調査局の高橋喜蔵氏が来訪してチャンドラー西川両氏の交渉が成立したと伝えて来た。
私は「大川周明日本を救う」と喜んだ。同じ頃。参謀本部の棚橋少佐が局長室に来て「たとえ南方作戦が開始されても、アメリカに対しては戦端を開かぬ様にしてもらいたい。それはチャンドラ対西川の交渉がまとまったからだ」と懇望して来た。然し問題は既に大蔵省に移って居る。交渉の成立が事実とするならば、それは大蔵省対東條首相の関係であって、私の干与すべきことでない。況んやこれを詐欺行為などとして頭から否定する頑迷度し猪武者東條首相に、私から言っても無駄だと思ったから「僕は駄目だ。それは杉山元参謀総長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
に言い給え」と答えた。然しこの交渉の成立も戦争の防止にはついに何等の役割を演じなかったことは既に述べた通りである。東條首相は組閣の瞬間に、是が非でも、英米両国に対して戦端を開始することを決意したように信ぜられる節がある。組閣後、暫くして、陸軍大臣官邸の宴会のとき、東條氏は、不用意に「国力が足らぬと言うなら仕方がない。然し戦えるものなら断乎としてやる」と豪語した。又そのとき「英米に対する開戦は子供さえ熱望して居る。福岡の二男から是非戦って呉れと手紙が来た」と得悪面で話したことを私は記憶して居る。これでは吾が如何に躍起とあっても戦争が勃発したのは当然である。それは戦争勃発後、武藤章軍務局長
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が、米英に対し機保持の出来たことを自讃し得々として我々局長に「来栖大使が出発するときには既に戦争の決意と準備とは出来て居った。来栖大使の派遣は戦するのに非常に役立った。来栖三郎大使
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には誠に気の毒であった」と語ったことにより裏書せられた。果して然らばこれ上、聖明を欺き奉るものであって其罪は万死に値するものとは言わねばならぬ。
十二月の中頃であったと思う。侍従武官が、たびたび防衛課長渡辺大佐の許に来て、侍従武官長の命なりとて「戦争をやった場合とやらない場合の国内治安の見通しはどうか」と質問した。
渡辺大佐は「戦争をやった場合には初期は良いが、終に近づくに従って段々悪くなる。やらない場合には国民が今こんなに騒いで居るのだから始めは悪いのに相違ないが、然しどうせ国内問題だから自然に落ち着くだろう」と答えた旨を私に報告して来た。私は「全然同意見である」と言った。
私はこのとき「之はやるな」と直感したから木村兵太郎陸軍次官http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%85%B5%E5%A4%AA%E9%83%8E
の許に至り「戦争をやるのか」と聞いて見た。木村次官は「来栖大使が仏印南部から徴兵すると言う譲歩案を持って行く等だから、ルーズベルトが馬鹿でない限り、妥協が成立するであろう」と言った。
此頃、寺内最高指揮官以下の各軍司令官、幕僚の送別宴が極秘裡に、大臣官邸で行われた。私はこれは我決意を示し交渉を有利に導かんとする外交手段であろうと善意に解釈した。故に宴終って大尉時代から新交のある航空総監部総務部長河辺虎四郎中将
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に「ほんとうに遣るのか」と聞いた。河辺氏は「ここまで国民を引張って来たら遣るより外に仕方があるまい」と答えた。
12月7日は日曜であった。私は日曜にも拘らず横須賀の重砲兵学校で行われた演習の見学に行った。午後、陸軍省に帰ると、明くる八日、宣戦の大詔が布告せらること知った。私は帰宅して家族を集め「明日から戦争が始まる。然しこの戦争では一家が全滅するかも知れぬから、今からその覚悟を定あて置け」と著した。
其夜は殆んど眠れなかった。
此夜、深更ルーズベルトより、天皇陛下に対し、和平希求の親電が到着した由であるが、遺憾ながらそれは既に時期が遅かった。八日午前六時、陸軍省から電話があって真珠湾の奇襲が成功したことを知った。
正午宜戦の大詔は換発せられた。午後-時陸軍省の大講堂で、東條首相の訓示があった。私は武藤軍務局長と隣り合って立って居た。訓示の直前、武藤氏は「これで東條は英雄に成った」と言った。私は「国賊に成らなければよいが」と言った。佐藤氏は「そうだ、失敗したら国体破壊まで行くから正に国賊だ。然し緒戦が巧く行ったからそんなことにはならぬ」と答えた。
訓示終って私は木村次官の許に至り「国民は今熱狂して居るので、恰も挙国二敦のような外観を呈しているが、必ずしも内心,此戦争には賛成でないものもある。殊に上層部とインテリ階級の者は概ねそうだ。これでは下手をすると恐しいことに成る、と述べた。次官は「自分はそうは思わぬ、その証拠には1人でもこの戦争に反対だとて宮城二重橋の前で腹を切ったものがないではないか」と私を叱った。
私はこれを兵務局で集めた情報に基く判断であって、決して私一人の独断でない旨を述べて次官の許を去った。
戦争の開始は極秘に付させられて居た。故に陸軍省内といえども確実に知っていたものは軍務局だけであった。私は勃発まで、誰からも戦争の遂行に重大なる関係があった兵務局の所管事項である軍紀、風紀、教育、人馬の補充等に対する将来の見通しに就て1言の挨拶を受けたことがなかった。いわんや国民の大部は全く寝耳に水であったろうと思う。
企画院の秋永少将すら前日までは全然知らずいよいよ開戦と聞いて茫然自失したと言う。思えば不思議な戦争であった。
九日午後に至って、真珠湾及びマレー沖の海戦の戦果が明かになった。私は二、三の部下に「この戦を甘く見ては・・・・ならぬ。自分は先づシンガポールまでだと思う、それから先はとんでもない苦戦となろう。この戦争は独ソ戦争の帰趨が決する迄は始めてはならない戦争であった。若し万一ドイツが負けるようなことがあったなら日本は亡ぶ」と言っ
た。私のこの言葉は忽ち部内に伝わり、局長として許すべからざる悲観論として、喧々ごうごうたる批難を受けた。
つづく
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