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『Z世代への日本政治家論』★日本リーダーパワー史(291)原敬のリーダーシップ「富と名誉は諸君の取るに任せる。困難と面倒は自分に一任せよ」③

   

日本リーダーパワー史(291)原敬のリーダーシップ「富と名誉は諸君の取るに任せる。困難と面倒は自分に一任せよ」③

   記事再録

日本リーダーパワー史(291
 
「日本最強の宰相・原敬のリーダーシップー
その生き方、識見、人格、非業の死
同僚・子分に「富と名誉は諸君の取るに任せる。困難と
面倒は自分に一任せよ」(徳富蘇峰)
 
前坂俊之(ジャーナリスト) 
 
  原敬と鳩山和夫(鳩山由紀夫の曽祖父)は同じ年だが、政治力は雲泥の差があった
   原敬は大正政変によって、明治の藩閥政治に終止符を打って、政党政治を確立した。
   原敬は日本を滅ぼす原因の1つの軍部大臣現役武官制を廃止し、文官の軍部大臣を実現した。ワシントン軍縮会議も成功させた。統帥権をふりまわして、政治を聾断しようとした軍部をしっかり抑えた。
 外交面で、国際協調主義をとったこと。シベリア出兵には反対し、米国重視、中国への不干渉と通商貿易を重視した。パリ講和会議では人種差別撤廃法案を提案した。
 原敬の確立した政友会政治が昭和戦後の自民党に連綿と続いた。民主党はこれに終止符を打ったかと思われたが、ダメリーダ―の鳩山由紀夫、小沢一郎(原と同じく岩手県の出身)の「2世、4世の世襲議員」(世襲のために、金とカンバン、地盤はあってもリーダーシップがないのは当然なのだ。政治家は封建時代のような世襲であってはならない。実力主義でないからリーダーシップが出来ないのである)がないために、政治、官僚の旧体制を変えることに失敗した。野田もオナジである。
 

次の総選挙では民主党の少数転落、自民党も伸びず、既成政党への強烈な不満、日本政治の質的大転換を期待して、橋下維新党が大躍進するであろう。しかし、維新党は1年生議員の集団で変革のノ―ハウは全くない。少数弱体政権の混乱が日本衰退に拍車をかけるだろう。日本政治の大変革、政治システムの大改革なくしては日本沈没まにがれない。その起爆剤は市民の民主的な政治意識の成熟度以外にはありえない。原敬の政治突破力を背景には大正デモクラシーの高まりが、彼を強力に押したのである。

 
 
 
原 敬(1856-1921)の経歴は
 

明治・大正の政党政治家。南部藩重臣の二男で幼名健次郎。明治四年東京に遊学、同七年天主教牧師エプラルの学僕となりフランス語を学ぶ。同十二年司法省法学校を中退、「郵便報知新聞」「大東日報」の記者を経て外務省に入る。井上馨、陸奥宗光に実力を買われ、次官まで累進。同二十九年朝鮮公使、三十年辞任。同年「大阪毎日新聞」に編集総務として入社、社長となる。同三十三年立憲政友会組織体制の立案に当たり、同年十一月入党。十二月第四次伊藤内閣の逓借大臣に就任。同三十五年盛岡市から衆濱院議貝に立候補し初当選、以来大正九年までに連続当選八回。

 
この間、北浜銀行頭取、古河鉱業副社長と財界に地歩を築いた。明治三十九年第一次、四十四年第二次西園寺内閣、大正二年第一次 山本権兵衛内閣と各内閣の内相を歴任。この間次第に政友会の実権を握り、桂太郎との取引きにより、いわゆる桂園時代を展開した。
 
 大正三年政友会総裁に就任、党内をまとめ、同七年の米騒動後、最初の政党内闇を組織、衆議院での絶対多数を背景に積極政策を掲げて党勢を拡張、山県有朋とも密接な関係を保ち、安定した政権を保ったが、腐敗事件が次々暴露され、大正十年十一月四日、東京駅頭で中岡艮一に刺され六十六歳で死亡。
 
原敬は「平民宰相」といわれた。しかし、原は平民ではない。祖父は南部藩の家老職、父は学者で藩の重役であった。しかし、戊辰戦争で南部藩は敗れ、「白川以北、一山言文」と東北征伐の官軍の兵士らは蔑んだ。この屈辱は、原に後年「一山」(または遠山)という号を名乗らせた。原は家柄も高く、長身で容貌が整って秀才だったので、養子縁組の話は降るほどあった。しかし、原は絶対に養子にゆくことを拒否。二十歳のとき分家独立したため平民の身分となった。
 
 また、原の頭髪は見事な白髪で「白頭首相」などともよばれた。これは、少年時代に縁側から落ちて額に生じた白毛が、三十歳ころから広がり、四十歳ころには全部白髪となった。(前田蓮山、山本四郎『原敬』)
 
原の新聞人としての経歴は「郵便報知新聞」「大東日報」「大阪毎日新聞」「大阪新報」と多彩だった。明治三十年に原が入社した当時、「大阪毎日新聞」は「大阪朝日新聞」とならんで二大新聞と称されてはいたが、内容、発行部数などはるかに「大阪朝日新聞」に劣っていた。
原は、経営立直しのため、漢字制限と部分的な口語体の採用、外電欄の充実(海外通信員の派遣、在外外務官僚に通信依頼など)、名士による時局解説、婦人記者の採用、地方付録、
家庭憫や文芸欄の充実などを行なった。その結果、読者数は三年間に三倍に増えた。
 
 また、「大阪新報」がポーツマス講和是認論を載せて読者の反感を買い、日ごとに発行部数を減らした時、主筆の高橋は、旅行中の社長の原に打電して指揮を仰いだ。
原は、「主筆の主張する議論には余も同感なり、新聞は正義公論の機関にして、営利を目的とするものに非ず、故に若し、正義を主張するに対し、読者が反対して新聞を読まざれば読まずとも可なり。読者が最後の一人となるまで主張を柾ぐる勿れ」と返電した。(小谷節夫『実力の人原さん』、山本四郎『原敬』)
 
 
原敬は陸奥宗光(外務大臣)から可愛がられ、明治23年に陸奥が農商相になった時、秘書官に登用された。原は少年時代から理屈っぽく強情で自説を曲げなかった。陸奥ともしばしば意見が対立し、論争となったが、「大臣の命令というのであれば服従します。しかし、理屈では服従しません」と頑張った。陸奥は命令だと言って、汗馬の原を乗りこなした。「岡義武『近代日本の政治家』文芸春秋 昭和35年 100P」
 
 
〝精力絶倫〃の仕事ぶりと努力の人
 
原敬のがんばりと、その仕事ぶりを当時の人々は〝精力絶倫〃と驚嘆した。激務の中で明治八年から書きはじめ、同二十三年三月から死の前日まで、ほとんど連日日記を書いている。十二行美濃罫紙に毛筆で克明に書かれ、百枚綴りを一冊として全八十冊、いちばん上に、死後幾年かの後発表して差支えない時節が来たら公表して差支えないとあった。この日記は遺言どおり昭和二十六年から「原敬日記」として刊行され、明治大正時代の政治史の重要な資料となった。
 
日記は、その場でのメモを基にまとめたもので、ほぼ毎日のようにつけている。原が政友会に入ったころ、伊藤博文には〝伊藤侯〃とも〝伊藤〃とも書いているが桂や西園寺などには、いっさい敬称なしで、原の自信と向こう気の強さを感じさせる。(前田蓮山『原敬』、山本四郎『原敬』))
 
原の、先の読み、決断、実行力とその計画の赦密さは、彼の仕事のあらゆる面に遺憾なく発揮された。第一次西園寺内閣で初めて内務大臣に就任した明治三十九年、地方長官会議を召集した。召集前、地方行政改善に関する意見書を提出させ、それを会議の問題としたが、部下まかせの意見書で当の長官はそれについて満足に答えられず、原内相に突っ込まれ、狼狽する者が続出した。かくて原は知事六名を含む七十五名の地方長官の大更迭を行ない、新進を起用した
 
これも事前に山県や芳川顕正前内相と打合わせ、賛成を得ていたから、彼らの乗ずるスキはなかった。こうして山県の地盤を掘り崩すとともに、歴代内相が手を下し得なかった官僚派長老を排除した。
(前田蓮山『原敬』、山本四郎『原敬』))
 
 
原は貧乏で、貧しいといったくらいの生活だったが、金銭感覚は太っ腹だった。党員たちには惜しみなく金を与えた。総選挙の場合は「1万円を請求されれば1万5000円、2万円直請求されれば、3万円を渡したて、党員を感激させた」と尾崎行雄は話している。(同上)
 
原の応接間にはにせもの掛け軸がかかっており、内田信也が「総理ともあろうお方がこれではどうかと思いますが・・・」といって、取り外そうとした。
原は「いや、くれた人は本物と思って送ってくれたのであろうから、私もその好意をかけているつもりなのだ」と断った。(同120P)
 
原は後輩をどんなにしかった後でも、必ず玄関まで送ってやさしい言葉をかけるのを忘れてなかった。それが、後輩を感激させて、すっかり原に心服させた。
ある夜、後輩の政治家が原宅を訪れて、時局について激論を交わし、腹をたてたその政治家は憤然として帰り門を出ようとした際、腹が呼びとめた。
「気をつけて帰りたまえ。門を出る途中に大きな穴があるから落ちないように」
ちょうど暗闇の中で、道路工事の大きな穴があったのである。その原のさっきまでの激論を忘れたかのような温情ある態度に、その政治家は以来、すっかり原に心服したという。
                      (同120P)
 
原のリーダーシップは
同僚・子分に「富と名誉は諸君の取るに任せる。困難と面倒は
自分に一任せよ」(徳富蘇峰)
 
 
高橋誠「おもしろ政治楽」(まどか出版、2002年)原敬の金銭感覚、人心収攬術をこのように書いている。
 
「昔の総理・総裁はいかにお金を集めて散じるかに腐心し、それができる人でなければ政党の総裁にはなれなかった。
 原敬は「年の瀬が越せない党員が最後には自分の所に飛び込んで来る。その時に頼りの総裁が東京にいなかったら困るだろう」と、毎年大みそかの夜半まで自宅で金を用意して待っていた。名だたる政治家はほとんど「近県旅行中につき年末年始を失礼します」との張り紙を門前に張って別荘に逃げ込み、党員のお歳暮ねだりを避けていた。
 
 『大野伴睦回想録』 によると、当時院外団の大野は十二月になると待ってましたとばかりに「総裁、お歳暮」と原に手を出し百円札を一枚せしめた。月給取りの給料一月分だ。
 
二十日ごろにまた行くと「この前渡さなかったかな」と言いながらニコニコ笑ってまた百円札をくれる。最後に二十九日に「今度は本当に年越しを」と手を出すと嫌な顔せずに百円札が出てきた。」(46-47P)
 
 前出の三浦梧楼は「およそ英雄豪傑の非難攻撃を受けるのは多くは金と女だ。ところが原はこれが非常にきれいだった」と言っている。
 
 前田蓮山も著書の中で「原は十八年間、一人で政友会の党費を調達しなければならなかったが寸分もボロを出さなかった」と書いている。
 尾崎咢堂は原敬を評して「彼は政党を親分子分の関係で統御した。酒好きには酒を飲ませ、金銭欲のある者には金を与えて使った」と批判している。(同47-48P)
 

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