『Z世代のための初代総理大臣・伊藤博文の明治維新講座』★『○<切腹覚悟でイギリスに密航し、ロンドン大学に留学して、西欧文明に衝撃を受けて攘夷から開国派に180度転換、アジア全土が植民地支配を受ける中で、唯一独立を保ち西欧列強の仲間入りを果たした>』
明治時代は<伊藤時代>といって過言ではない。
2013/12/30 日本リーダーパワー史(449)記事再録
「明治の国父・伊藤博文が明治維新を語る①」
◎<伊藤博文がいなければ、明治維新の開国・西欧文明の受容・明治憲法の制定、議会制度の導入、初代総理大臣に就任し、元老として日露戦争勝利の外交インテリジェンスはできなかった。明治の奇跡「坂の上の雲」の主人公こそ初代大宰相・相伊藤博文なのである。明治時代は伊藤時代といって過言ではない。
前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部名誉教授)
○<切腹覚悟でイギリスに密航し、ロンドン大学に留学して、西欧文明に衝撃を受けて攘夷から開国派に180度転換、アジア全土が植民地支配を受ける中で、唯一独立を保ち西欧列強の仲間入りを果たした。>
<TPP,開国、外国人移民に反対する150年前の佐幕攘夷派と同じ政治家たちが今も大部分なのだ>
伊藤博文ほど自らの体験を気楽に国民に話した総理大臣はいない。明治のあの時代に元老から憲政を擁護するため政友会総裁となり各地で政談演説会を開き、講演会も数多くやって、当時の雑誌にも数多く登場した。
これは1897年(明治30)3月20日に経済学協会で『書生の境遇』と題した講演録で、自らのイギリス密航や維新の志士として活躍して、鎖国論を打ち破って開国を成し遂げたかーをザックバランに語っている。
20代の若き伊藤のイギリス密行の経過を活き活きと語っており、「開国か、攘夷かーの論議」は当時は「開鎖の議論」といわれていたこと、強硬論、大声のいけ猛々(たけだけ)しい攘夷論の背景には、もし開国論を本当にする者があると、立ち所に暗殺されるテロを恐れて誰も開国論をいえなかったこと。
そうした声高の強硬派をどうやって鎮めたかーなどそのリーダーシップの手の内を平易に語っている。
この話を聞くと、混迷する現在の政治は150年前とちっとも変っていないとつくづく感じる。『開国か、攘夷か』の不毛な対立が、現在のFTA,TPP加入問題、移民、外国人労働者の受け入れ問題などでも延々と続いている。日本は鎖国から脱していないのだ。
民主党のごたごたをみるにつけ伊藤らが命をかけて切り開いていた日本の民主主義を、お前らはぶち壊して日本を鎖国の状態に引き戻すのかーそれは間違いなく『日本沈没』につながる。伊藤の生命をかけた開国論を聞きましょ。(2010年12月30日に執筆)
伊藤博文の演説『書生(学生)の境遇』
私の学問は元来、八百屋学問(耳学問のこと)であって、御話しすることも又、八百屋的であるから、左様、御承知を願う、この席に御出の方を見渡すと、概して私より若き方々が御出のやうであるが、私共が若い書生の時の境遇と、当時の若い書生の境遇と比較すると、私共の若い時の書生の境遇というものが、又如何なる有様であったかということが分る、そこでこの書生の境遇という表題に付て、私が幼年より国事上に関係を持った時からの事を一と通り御話を致します。
今の書生の御方は誠に結構であるが、私共、書生の時にはヨーロッパに行かう
と云っても、帆前船に乗って行くような訳であって、行く者も少ない、当今は皆あちらへ行くは立派な蒸汽船に乗って御出になれる、又初から立派な洋服を着て向うへ行かれるという有様で、誠に私共が若い時の事に比較して見ると如何にもうらやましい訳である。
今日はどういう学問をしようと云っても、各種の洋書が沢山に日本に輸入されて居るから、少しは価の高いむのもあるかは知らぬが、金さへ持って行けば直ぐに間に合あう、又、翻訳書なども幾らも出来て居る、私共が洋行する時分には如何なる有様であったかと云ふと、堀辰之助といふ人の翻訳した薄いイギリスの辞書が、たった1冊あった。この辞書も翻訳の上に沢山間違いのある辞書であった。
それは其筈である、当時はなかなか本当に英書を読み砕く者が無かった、其間違いのある一冊の辞書と、頼山陽の「日本政記」とを携へて私共は洋行をしたのである。
鎖国論は「閉鎖の議論」と称していた
私の洋行をしたのは文久3年(1863)で、今を去ること三十五年前のことで、この時に私は今日の東京、当時の江戸を去って京都に行って居ったが、当時日本の国内の議論というものは、なかなか今日の政党の議論や、又議会の議論なぞよりは、もつとやかましかつたように考へる。いわゆる当時、称して閉鎖の議論と言って居った、閉鎖の議論と称して居ったけれども、この開国の議論を唱ふるものが甚だ微弱にして、鎖国という議論が勿論勝ちは占めて居った、この鎖国の議論の当時の有様を今日例へて申すと、丁度、外交強硬政略というものに頗る縁の近いのである。
何ぜかというに、強い議論をいう人程、滅多に抵抗し難い議論はない、強い議論を唱ふる人程大手を振って歩ける議論はない。
しかしながら強い議論ほど又実行の出来難いものはない、依って私はここにちょっと歴史的の事を間に入れて、言葉を仮りて御話をしますが、彼の豊臣公の朝鮮征伐の時、明の大軍が押し寄せて来た時に、平壌に居る所の我日本の兵は最早戦い疲れて居って、到底兵数に対して見ても、亦糧食の数量に対して見ても、彼れの十分の二にも足らぬ、所が当事諸将の議論は城を枕にして討死をするというような甚だ強い議論である。
強い議論ほど又実行の出来難いものはない
故に三奉行も大いに困って日々、軍議をするけれども唯一人退かうということを云ひ出す者がない。そこで小早川隆景は思慮のあるものだから、あれを呼んで相談したら宜からうということに評議がなって、隆景を呼んだけれども病気と云って出て来ない、なんでこの時隆景は出て行かぬかというと、諸将が城を枕に討死するというのは虚言である、虚喝である。あれはただ、自分達が強いということを装ふて、誰れか弱い事を言ひ出すのを待って居るのである。
是れは今出て宥った所が仕方がない、そこで隆景は窃に病気に事寄せて糧食の数量等を調べて見た所、到底十日は支え難い、所が諸将の議論は石を食ってやると、こういうことを言って居って、毎日軍議しても評議がまとまらぬから、隆景は巳むを得ず出て行って、諸将に会して、さて諸将の意見はどういう御考であると云ふと、諸将は城を枕にして石を食っても討死する積りだと言う。
小早川隆景のインテリジェンス
そこで隆景のいうに、今、諸将が言はるるに、石を食っても戦はねばならぬと言はるるが、此隆景が率ゆる兵卒は石を食っては戦へませぬ、又あなた方はこの少数の兵を以て彼の大軍と戦ふと仰っしやるがただ骨をこの地に埋めるのみが日本国の為であるか承まはらん。
これも一言もないなら、然らば兵を退くより仕方がないぢやないかと隆景が言ふと、今まで強い事を言ふて居った先生達が如何にも至極だと云って、石を食って死ぬると言うた先生達ちが其晩からコソコソ兵を退き出したから、隆景大いに憤って日く、是れは驚き入る、兵を退くには順序がござる。無暗に兵を退くことは出来ますまい、兵を退くにはどうしても、ここで一戦、敵を挫いて退かなければならぬ、唯このまま明兵に追まくられて退いてはならぬ。是非一戦して退かなければならぬ、その一戦に付ては隆景、御引請申そうと言った、諸将は実に驚いた。
さうして彼の碧蹄の戦において彼れは実に摩利支天の如き勢を振って、僅に少数の兵を以て明兵を敲き挫いて、兵を順次に引上げたという事がある。
攘夷論の空虚
そこで攘夷論も丁度其通りで、えらい勢で外国人を打はらわなければならぬという。よろしい、それならどうして打掃ふかと云ふと、日本国の海岸一面に大砲を残らず並べて並べる、それならばその鉄砲の地金はどこから持って来るかと云ふと、お寺に釣ってある釣鐘を持って来て鋳潰すという、位が関の山であった。
また本当に開国論を主張する者がない。もし、開国論を本当にする者があると、立ち所に暗殺されるから、誰もする者がない、それであるから先づ開国の論をする者は一身をなげうつ、一身を投げうって然る後に国を開かねばならぬということになった、丁度、その攘夷論の焼点に達したる最中、私は西京に居った。その年であったと思ひますが、将軍家茂が上洛になって、加茂に行幸があった……………その前年であったか能く覚えぬが、なんでも将軍在京中に撰夷の廟議が極らなければならぬという危機で、程なく攘夷の勅誼が出るといふ喧しい際であった。
その時に是非、西洋へ行かうという仲間が出来た、今居る井上馨と鉄道に居たる井上勝とそれから山尾庸三、それと造幣局に居った、一昨年死んだ遠藤謹助と、私と都合五人であった。
所が私は攘夷論仲間に少し頭を突込んで居ったから、相談しなければなかなか出て行くことが出来ない、そこで巳むを得ず私は自分の志を久坂玄瑞という同志の人に相談した。この人は後に京都の騒動に死んだ人だ、此人に相談した所が、それはいかぬ、今日になって外国へ渡航なんいうことは既に遅し、是非やめろと云いって止められた、それから是れは相談した所が連もいかぬ。
なんとかして渡航したいと苦心して居る所が、井上などは是非私を引張って行かうという考へだ、共時に私は東京に来なければならぬ用向きを言ひ付かって東京に来た。
さうすると後との四人も又東京に出て来て、是非行かうぢやないかと云ふから、それなら行かうというて私は一緒に出掛けた、私は亡命で、後との者は内命を蒙って出掛けた、しかしながら、幕府においてはこの海外渡航といふことは厳しく禁じてあって、横浜に這入って来るのでさへ大小を差してははいれぬ。はいるには大小を脱いで町人の姿にしなければ這入れぬというように、なかなか厳重であった。
井上馨らと5人でイギリスへ密航
その時、東京の藩邸に村田蔵六と云いつた人が居って、後に大村を改称し、維新後兵部大輔となり、後に此人は殺されたが、是れは古い蘭学者であって、屋敷内で教授をして居った。
それなどにも相談した所が、宜からう、行ったが宜からうと云ふから、それなら何分跡を御頼み申す、一片の書面を認め置いて出るから、お前に依頼するといつて私は出て行った。
行く時にどうして行ったかと云ふと、どうも外国船に来るには外国人に付て依頼しなければ連も出来ぬ故、丁度其時、横浜運上所のそばにイギリス一番の商館があって、前から両三度も行って知って居るから、このイギリス一の方へ頼って、そうしてガールという人が日本語に能く通じて居るから、それに依頼した。それなら宜しい、私が船に乗せて上げませうということになった、そこで五人で五千両持って行ったから、それを横浜の弗(ドル)に交換して貰った。交換して貰ったら丁度八千弗になった、五千両の金が八千弗になった、其金は途中入費の為に少しばかりづつ、各々用意金に懐中して大部分は、もちろんガールの方へ頼んで為換して貰った。
そうして神奈川の台に今の高島嘉右街門が住んで居る、丁度あの下の所に下田屋という茶屋があった、ここは長州の出入りの者にて長州人が始終休む茶屋である、そこへ行って大小を脱いで町人の鉢になって横浜に這入り、或る宿屋に泊って居って、そうして窃に西洋人の店へ買物に行った。
その時分は横浜は今のように、なかなか町を為して居らぬ、あっちに離れ、こっちに離れて、チラパラ家がある、そこへ行って襦伴を買った、洋服と云つても水夫の着るやうな古着ばかりよりないから、仕方なしにそれを買った、それから靴を買った、所が片一方の靴に両方の足が這入るような大きな靴で、殊に其時分はまだ髷(まげ)をみんな結って居るときであるから、服を着て靴を穿いた、其様子は実に妙であった。
それから上海へその頃、始めて蒸汽船が通うことになって、それで今晩乗せるから夜中時分にイギリス一番に来い、船長が食事をするから食事が済むと船へ連れて行って乗せてやるからということであった。
なんでもイギリス一番は今でもある、あすこの塀の中に小さな山がある、その山の所に来て待って居れと云ふから、そこの庭のへ隅に屈んで居った。
この待って居る中に各々は斬髪になった。当時は洋学医者には撫髪というのはあったが、元服頭がにわかに斬髪になったのだから、実に妙な様子であった。
さうすると食事が済んで、最早十二時にもならうかと思う頃、ガールがでて来て言うのに、能く船長と談じたがどうも幕府の禁制の人を連れる訳にはいかぬ請合はれぬといふから、いやそれはどうも困る。もはや頭は斬髪になり、こういふ姿になって居るから、ここで連れていかれなかったら、必ずこの姿で外へ出れば疑われるに違ひない、それならよろしい腹を切る、どうせ縛られて殺されるならここで腹を切るといふ一同決心をした。
腹を切ると談判して船に乗せてもらい上海に
そうしたらガールも驚いてそれなら少し待って呉れと云って、奥へ行って段々談判になって、遂に連れて行くといふことになった。なんでも夜の二時頃、人静まって四隣寂莫たる時、船長は先きへ行って仕舞った。ガールは私共を案内して連れて行くのに、ビクビクして運上所のある其前を通らなければならぬから、なんでもよろいから日本人に分らぬようなことを私が英語で話をするから、お前達運上所の前を通るとき、大きな声で話をして来いといふから、それから其教への通り大きな声でなんだか訳の分らぬことを言って、この運上所の前を通って、波止場に行った。
するとバツテーラが着して居って、それに乗って本船に行った、所がまたこの所に運上所の見張りが居るからそれに見付られては溜らぬからというので、蒸汽船の蒸汽釜の側に入れられて、出帆するとき、そこに屈んで居った、間もなく夜が明けて観音崎あたりまでやって来ると、出てもよろしいと云ふから甲板に出た所が.横浜を出てから上海に行くまでの間は非常な暴風雨で、波が荒いので、船中でロクに物も食うことが出来ぬといふ有様であった。
それで上海に着して久し振りで陸地を歩いて見たが、流石は外国の居留地などは余程能く行届きたるものである。そこで我々一行の中に多少英語の分るのは鉄道の井上で、外は皆分らぬから井上を以てこれからどうしてヨーロッパへやって呉れるかと聞いたら、ヨーロッパに行く船便のあり次第乗せてやるといふことであった。
なんでも今考へて見ると、上海の河に繋泊して居る航海の出来ない蔵船に乗せられたと思う、阿片を積んで置く蔵船に使ったものと思うが、その船に乗せられた、食物はパンと洋食の食ひ残りで、犬にでも食はせるようなものを食はされた。
併し時々上陸もすることがあって、イギリス一番の代理人をして居ったケセキといふ人が折りおり呼んでは御馳走をして呉れた。上等の御馳走といふのではないが、マズイものばかり食って居るから非常な御馳走のように思はれた。
さうして書物などを呉れたり何かして今にヨーロッパに送ってやるからといふことであった。ところが向うでは小児の如く思って居るが、こっちはどうかと云ふと、私は旧暦で二十三歳、井上は私より六つ歳が上だから二十九である、鉄道、井上は私より一つか二つ下だ。
遠藤、山尾は私より三つか四つか上であるが、なかなか日本では子供どころではない、やかましい議論をやって、大騒ぎをやって居る者が、向うでは誠に小児の如く取扱はれることになった。それから丁度、そこに支那よりヨーロッパへ茶を積んで行く船があった。今で考へるとなんでも一千四五百トン位の商船で、三十間ばかりの長さの帆前船であったと思う。
「伊藤博文直話」(千倉書房、昭和11年刊)より (つづく)
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