前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

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『Z世代のためのオープン自由講座』★『日中韓500年東アジア史講義②』★『世界的権威ベルツの日韓衝突の背景、歴史が一番よくわかる解説』★『明治天皇のドイツ人主治医・ベルツ(滞日30年)の『朝鮮が日本に併合されるまでの最後の五十年間の経過を語る』

   

 記事再録

『ベルツの『日本・中国・韓国』五百年の三国志②<日清・日露戦争はなぜ起こったか

 
前坂俊之(ジャーナリスト)
 
 
エルヴィン・フォン・ベルツ
 
 
 
1・・以下はベルツの日中韓三国志の続きである。
 
『朝鮮が日本に併合されるまでの最後の五十年間の経緯をかいつまんでみて行く。
1862年、イギリス、フランス、ロシアが交渉を求めるが拒否される。1866年、9人のフランス人神父が処刑される。
彼らの上司であったリデル司教が芝罘(チーフー)へ脱出し、フランス海軍のロゼ提督に報告する。ロゼ提督は賠償を要求するために、リデル司教を案内に立てて2隻の砲艦を派遣し、首都の近くまで漢江をさかのぼらせたが、フランス艦隊は目的を達せずに引き返した。一カ月後、五隻の戦艦からなるフランス艦隊が首都から遠からぬ地点に上陸した。
 
はじめは優勢であったフランス軍も被害を受けて撤退し、二度と姿を現わさなかった。朝鮮側がこれを大勝利と受け止めたことはいうまでもない。
キリスト教の弾圧はさらに続いた。一八六七年には、海岸近くの王墓の莫大な財宝を盗掘するという触れ込みで、山っ気のあるドイツの冒険家オッベルトが上海で「エンペラー号」を仕立てたが、目論見は外れた。船長をつとめたイギリスの老練な船乗りは、三〇年後、笑いながらこの向う見ずな冒険を私に話してくれた。
 
一八六八年、日本の明治新政府は王政復古を告げ、外交関係の樹立を求める文書を携えた日本政府の使節が派遣されたが、拒絶にあう。一八七〇年、東京駐在のドイツ公使が(朝鮮南部の)釜山に赴いて交渉を呼びかけるが、空振りに終わる。
 
1871年にはドイツのスクーナー型の帆船(二~四本の縦帆のついた帆船)が朝鮮沖で難破し、乗組員は英国艦隊に救出され、手厚い介護を受けている。
五隻のアメリカ軍艦が漢江の河口に現われ、交渉を求める。
このうち二隻の砲艦が漢江を上りはじめたので、朝鮮側は砲台から砲撃を加えた。アメリカ兵は砲台を占拠し、破壊した後、ふたたび乗船して漢江を下った。
 
この事件は中国人や朝鮮人の目に白人側の再度の完敗と映った。一八七五年、川岸で水を汲もうとした日本海軍の水兵が射撃を受け、是の軍艦は砲台を破壊した。(軍艦「雲揚号」によるいわゆる江華島事件)
 
清国政府の仲介で日本は条約締結を提案すると同時に、さらに軍艦を増派する。    
一八七六年、日本と朝鮮の間の条約によって朝鮮の開国へ向けた動きがはじまる。条約では朝鮮の独立が確約されている。朝鮮の修信使がはじめて来日するが、東京駐在の列強代表団の交渉申し入れは拒否される。    一八七九年、(東海岸の)元山が開港される。一八八〇年、フランスの交渉要求が空振りに終わる。           
アメリカの海軍提督シャフェルトとイギリス人たちの試みも成果なし。ジエノヴァ公の乗った軍艦が釜山に入港し、イタリア人難船者への友好的な取り扱いに対する感謝状を朝鮮当局に送達するが、受け取りを拒否される。
 
この十年間ずっとヨーロッパは朝鮮にすっかり翻弄されてきたことがわかる。しかし日本の影響もあって朝鮮側の空気もしだいに変化し、一八八二年には米国との間に集約が結ばれた。同年には、さるイギリス提督が条約に調印したが、これはロンドンで批准されなかった。』
 
 
2・次ぎは『日本・中国・韓国共同編集の近現代史』(20055月版)からの『韓国からの記述である。
 
中国がアヘン戦争で敗れたというニュースが伝わると、朝鮮は西洋列強に対する警戒心をいっそう高めました。西洋列強と日本の開国要求に対し、朝鮮はどのように対応したのでしょうか。

まず、朝鮮の対応はー・
 
19世紀の中頃、朝鮮政府は西洋列強との通商を拒否していました。1866年には外国による侵略をくいとめて国内の政治的な安定をはかるため、カトリック教徒とフランスの宣教師に迫害を加えはじめました。これを口実として、フランスは江華島(カンファド)を武力で侵攻しました。
 同じ年、朝鮮北部の都市・平壌ではアメリカの船シャーマン号が大砲を撃ち
略奪を行なったため、怒った朝鮮の民衆に燃やされるという事件が起こりました。これを口実としてアメリカも1871年に艦隊を送り、江華島を占領しました。
二度にわたる戦争で、多くの建物が燃やされ、人々が死にました。貴重な文化財も奪われました。
 このようにフランスとアメリカが武力によって通商を要求しましたが、朝鮮政府はこれを受け入れると国が危うくなるかもしれないと考えてたたかいました。また全国各地に『斥和碑』(洋夷(西洋の蛮人)が侵犯してきたのに、戦わないのは和議しようとすることで、和議を主張するのは国を売ることだ)を建て、列強と通商を拒否するという軌、意志を表しました。
 
日本の開港要求と江華島条約
 
1873年、朝鮮では政治的に大きな変化が起こりました。国王の実の父であり政局を主導して通商を拒否していた大院君が退き、国王の高宗が政治を担当するようになったのです。日本はこれに乗じて、1875年、軍艦・雲揚号を江華島かせ、意図的に衝突を挑発しました。そして激しい砲撃戦のすえ朝鮮側を占領、戦利品とし30門の大砲を持ち去ったのです。
この日本の侵略行為に対し、当時の列強は日本が朝鮮を開港させることをひそかに望んで中国も朝鮮政府にできるだけ日本と武力衝突をしないよう勧告していた国際的な問題にはなりませんでした。
 
このころ朝鮮国内の世論は日本の開港の要求に強硬に対処しようというと、これを受け入れようという人々に分かれていました。門戸開放の反対は、開耽されればカトリックが無制限に広まり、日本の経済的な侵略によ国が滅亡するかもしれない、と批判しました。これに対して賛成論者は日本との戦争をさけなければならない、これ以上門戸開放を先延ばしにはできと判断しました。
 
朝鮮政府はついに開港することに決め、日本と修好条規(江華島条約)を結びました。しかし事前の準備もなく急いで条約を結んだため、条約のもってい問題点や危険な側面を十分に理解できませんでした。
第1条 朝鮮は自主の国であり日本と平等の権利をもつ。
第5条 は2つの港を貿易港として追加指定する。
第7条 日本の航海者が朝鮮の海岸を自由に測量すること認める。
第10条日本人が朝鮮の開港場で犯した犯罪は日本の官員だけが審判できる。
(日朝修好条規、別名・江華島条約)
江華島条約は、日本をはじめとする各国の侵略や干渉をもたらすきっかけとってしまいました。条約によって開港場を拡大し、そこで日本人が犯した犯も処罰することができなくなりました。また江華島条約とその付属条約では、本が特に制限もなく朝鮮で略奪的な商行為ができるよう認めてしまったので
 
ところで条約の第1条を見ると、「朝鮮は自主の国としています。どうしうしたのでしょうか。そこには、以前からの朝貢関係を背部に清国が朝鮮に対して持っていた影響力を排除しようというねらいがあったのです。
朝鮮は1880年代に入って、アメリカ、イギリ丸ドイツ、フランス、ロシアど、多くの西洋の国々と外交関係を結びました。しかしこれら西洋の国と結んだ外交桑約も、日本との条約と同様に不平等なものでした。(『日本・中国・韓国共同編集の近現代史』2005年、高文研より)
 

 

 

日本リーダーパワー史(306
 
『日韓外交衝突の歴史を検証するhttp://www.youtube.com/watch?v=JPB7E36mNHc
    
 
  野田首相の親書の発信とその受け取りをめぐって拒絶、つき返す、外交的に非礼、無礼の非難の応酬、外交品位に欠けるとー三流国家のようなニワトリケンカ外交が続いている。
米国も手を焼き、延々と10年以上続けたゴネ得・北朝鮮との核疑惑、拉致をめぐる外交応酬と同じ。日韓両国とも米国に真っ先に『相手が悪い』と御注信して、米国の了解を取り付けようという魂胆だから、独立外交能力のない対米従属国以下の態度である。
 「日韓のケンカ外交」を150年さかのぼれば、明治新政府の最初の李氏朝鮮(韓国・北朝鮮)との外交交渉でも、朝鮮側のコチコチの攘夷(開国拒否)思想で日本親善大使の拒絶、親書拒否、日本の無礼外交に強硬に反対し、互いに反感、敵意をエスカレートさせていったのである。
 いまこそ歴史を振り返りー日本が真の世界をリードしていく先進国として、少なくともアジアの地域安定をリードしていく大国の自負があるならば、そうした政治リーダーがいるならば、こうした未熟外交をやってはいけない。国際法に則った論理一貫外交をこそ展開しなければならない。
 
中国、韓国の外交戦術についてはこの150年の歴史の中で、十二分に経験済みのことである。
 この韓国・中国との対外摩擦を起して、国民の目を問題だらけの国内から外にそらすな。政府、政治家、官庁、メディアは真の『ジャパンプロブレム』(日本改革、政治改革、経済再生、財政再建、原発処理、少子高齢化対策、日本の競争力強化などの国内大問題)に内輪の子供ケンカをやめて、知恵と経験のある大人として全力をあげて取り組まねばならない。
 
自民党など野党側からの野田政権への不信任案提出がまたまた浮上しているが、
解散、選挙でどの政党、連立政権ができようとも、日本政治の貧困と外交未熟が克服される訳ではない。まともな政治家がどこにもいない,鵜合の衆である。両国の過熱したメディア、ネットが相互の感情の対立をあおり、増幅して、より一層の政治の混乱と混迷が続き、中韓との対立悪化が続くことは避けねばならない。それが大国の見識である。
 
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
アジアの観察者・ベルツの『日中韓』の500

<日清・日露戦争はなぜ起こったのか>
 
 
1・・以下はベルツの日中韓三国志の続きである。
 
『朝鮮が日本に併合されるまでの最後の五十年間の経緯をかいつまんでみて行く。
 
1862年、イギリス、フランス、ロシアが交渉を求めるが拒否される。1866年、9人のフランス人神父が処刑される。
彼らの上司であったリデル司教が芝罘(チーフー)へ脱出し、フランス海軍のロゼ提督に報告する。ロゼ提督は賠償を要求するために、リデル司教を案内に立てて2隻の砲艦を派遣し、首都の近くまで漢江をさかのぼらせたが、フランス艦隊は目的を達せずに引き返した。一カ月後、五隻の戦艦からなるフランス艦隊が首都から遠からぬ地点に上陸した。
 
はじめは優勢であったフランス軍も被害を受けて撤退し、二度と姿を現わさなかった。朝鮮側がこれを大勝利と受け止めたことはいうまでもない。
キリスト教の弾圧はさらに続いた。一八六七年には、海岸近くの王墓の莫大な財宝を盗掘するという触れ込みで、山っ気のあるドイツの冒険家オッベルトが上海で「エンペラー号」を仕立てたが、目論見は外れた。船長をつとめたイギリスの老練な船乗りは、三〇年後、笑いながらこの向う見ずな冒険を私に話してくれた。
 
一八六八年、日本の明治新政府は王政復古を告げ、外交関係の樹立を求める文書を携えた日本政府の使節が派遣されたが、拒絶にあう。一八七〇年、東京駐在のドイツ公使が(朝鮮南部の)釜山に赴いて交渉を呼びかけるが、空振りに終わる。
 
1871年にはドイツのスクーナー型の帆船(二~四本の縦帆のついた帆船)が朝鮮沖で難破し、乗組員は英国艦隊に救出され、手厚い介護を受けている。
五隻のアメリカ軍艦が漢江の河口に現われ、交渉を求める。
このうち二隻の砲艦が漢江を上りはじめたので、朝鮮側は砲台から砲撃を加えた。アメリカ兵は砲台を占拠し、破壊した後、ふたたび乗船して漢江を下った。
 
この事件は中国人や朝鮮人の目に白人側の再度の完敗と映った。一八七五年、川岸で水を汲もうとした日本海軍の水兵が射撃を受け、是の軍艦は砲台を破壊した。(軍艦「雲揚号」によるいわゆる江華島事件)
 
清国政府の仲介で日本は条約締結を提案すると同時に、さらに軍艦を増派する。
一八七六年、日本と朝鮮の間の条約によって朝鮮の開国へ向けた動きがはじまる。条約では朝鮮の独立が確約されている。朝鮮の修信使がはじめて来日するが、東京駐在の列強代表団の交渉申し入れは拒否される。一八七九年、(東海岸の)元山が開港される。一八八〇年、フランスの交渉要求が空振りに終わる。   
アメリカの海軍提督シャフェルトとイギリス人たちの試みも成果なし。ジエノヴァ公の乗った軍艦が釜山に入港し、イタリア人難船者への友好的な取り扱いに対する感謝状を朝鮮当局に送達するが、受け取りを拒否される。
 
この十年間ずっとヨーロッパは朝鮮にすっかり翻弄されてきたことがわかる。しかし日本の影響もあって朝鮮側の空気もしだいに変化し、一八八二年には米国との間に集約が結ばれた。同年には、さるイギリス提督が条約に調印したが、これはロンドンで批准されなかった。』
 
2・次ぎは『日本・中国・韓国共同編集の近現代史』(2005年5月版)
からの『韓国側の記述である。
 
中国がアヘン戦争で敗れたというニュースが伝わると、朝鮮は西洋列強に対する警戒心をいっそう高めました。西洋列強と日本の開国要求に対し、朝鮮はどのように対応したのでしょうか。

まず、朝鮮の対応はー・
 
19世紀の中頃、朝鮮政府は西洋列強との通商を拒否していました。1866年には外国による侵略をくいとめて国内の政治的な安定をはかるため、カトリック教徒とフランスの宣教師に迫害を加えはじめました。これを口実として、フランスは江華島(カンファド)を武力で侵攻しました。
 同じ年、朝鮮北部の都市・平壌ではアメリカの船シャーマン号が大砲を撃ち略奪を行なったため、怒った朝鮮の民衆に燃やされるという事件が起こりました。これを口実としてアメリカも1871年に艦隊を送り、江華島を占領しました。
二度にわたる戦争で、多くの建物が燃やされ、人々が死にました。貴重な文化財も奪われました。
 
 このようにフランスとアメリカが武力によって通商を要求しましたが、朝鮮政府はこれを受け入れると国が危うくなるかもしれないと考えてたたかいました。また全国各地に『斥和碑』(洋夷(西洋の蛮人)が侵犯してきたのに、戦わないのは和議しようとすることで、和議を主張するのは国を売ることだ)を建て、列強と通商を拒否するという意志を表しました。
 
日本の開港要求と江華島条約
 
1873年、朝鮮では政治的に大きな変化が起こりました。国王の実の父であり政局を主導して通商を拒否していた大院君が退き、国王の高宗が政治を担当するようになったのです。日本はこれに乗じて、1875年、軍艦・雲揚号を江華島かせ、意図的に衝突を挑発しました。そして激しい砲撃戦のすえ朝鮮側を占領、戦利品とし30門の大砲を持ち去ったのです。
この日本の侵略行為に対し、当時の列強は日本が朝鮮を開港させることをひそかに望んで中国も朝鮮政府にできるだけ日本と武力衝突をしないよう勧告していた国際的な問題にはなりませんでした。
 
このころ朝鮮国内の世論は日本の開港の要求に強硬に対処しようというと、これを受け入れようという人々に分かれていました。門戸開放の反対は、開耽されればカトリックが無制限に広まり、日本の経済的な侵略によ国が滅亡するかもしれない、と批判しました。これに対して賛成論者は日本との戦争をさけなければならない、これ以上門戸開放を先延ばしにはできと判断しました。
 
朝鮮政府はついに開港することに決め、日本と修好条規(江華島条約)を結びました。しかし事前の準備もなく急いで条約を結んだため、条約のもってい問題点や危険な側面を十分に理解できませんでした。
第1条 朝鮮は自主の国であり日本と平等の権利をもつ。
第5条 は2つの港を貿易港として追加指定する。
第7条 日本の航海者が朝鮮の海岸を自由に測量すること認める。
第10条日本人が朝鮮の開港場で犯した犯罪は日本の官員だけが審判できる。
(日朝修好条規、別名・江華島条約)
 
江華島条約は、日本をはじめとする各国の侵略や干渉をもたらすきっかけとってしまいました。条約によって開港場を拡大し、そこで日本人が犯した犯も処罰することができなくなりました。また江華島条約とその付属条約では、本が特に制限もなく朝鮮で略奪的な商行為ができるよう認めてしまったので
 
ところで条約の第1条を見ると、「朝鮮は自主の国としています。どうしうしたのでしょうか。そこには、以前からの朝貢関係を背部に清国が朝鮮に対して持っていた影響力を排除しようというねらいがあったのです。
朝鮮は1880年代に入って、アメリカ、イギリ丸ドイツ、フランス、ロシアど、多くの西洋の国々と外交関係を結びました。しかしこれら西洋の国と結んだ外交桑約も、日本との条約と同様に不平等なものでした。(『日本・中国・韓国共同編集の近現代史』2005年、高文研より)
 
 
明治初期、日本が国交を求めた時の朝鮮側の態度はど
うだったのかー歴史認識(パーセプションギャップ)の研究

足を踏んだ人は踏まれた人の痛みはわからない。覚えてもいない。これとおなじく、国際関係にはいつも歴史認識ギャップが立ちはだかる。
明治時代の韓国、朝鮮の日本認識はその約250年前の秀吉の文禄の役の痛みからの発想であり、日本側はそんな昔のことなど持ち出すのはおかしいと思う。そのパーセプションギャップが理解できない。そこにすれ違い、対立が生まれる。
現在の日中韓のコミュニケーションの底にもこのギャップが連綿と続いていることに思いをいたさねばならぬ。(前坂俊之)   
 
<1882(明治15)年8月3日 朝野新聞>
 
花房義質・・朝鮮で小西行長と同様に嫌忌される
 
『聞く所に拠れば、朝鮮の頑民等は英米諸国よりも我邦を嫌忌すること甚だしく、殊に
花房公使を、文禄の役に従事せし小西行長等と同視し、又、彼の頑民共が国王に建白したる大意は日本と交通するは必ず往時、李唐の侵略に逢いたる覆轍を踏むや明かなれば、速に交通を絶つに若しかずとの旨趣なりと。
 
且つ、心に欧米諸国を侮ること甚しく、苦し之と戦を開かば、一挙して彼れの三軍を殲滅せんこと容易なり杯といい居る由、
これは先年米仏の軍艦に砲撃せしもその後右の二国が来侵せざりしによるなりとぞ。
 
 当時、朝鮮全国の人情たる利害も理非もなく、只管、外国交際を嫌忌しこれがため、今日迄、わずかに交際の跡を存しある者は日本、支那の両国のみなるが、
この中にても日本人は西洋外夷の奴隷と為り、聖人の道を棄て耶蘇の邪教に沈溺し、衣服頭飾髪の毛色まで既に化して夷となりたる者どもなればとて、攘夷論家に夷視せられ遂に今般の如き奇禍をも蒙りたることなり、
 
一般の人心、攘夷論を喜ぶのみならず在廷執権の大臣以下小吏使丁に至る迄何れも鎖攘家(鎖国・攘夷)ならざるはなし。
 
併し、朝鮮人も日本の誘導により初めて今代文明の光を見し、以来既に十年に近く中には活眼の有志もありて、西洋日新の文明を欽慕する者なきに非ずと雖ども、
 
実に寥々として星の如く当時全国中にて二十四五名に過ぎず、随て、その勢力も亦極めて微々たるものにて現在の政府に在て、政権を左右する者は悉皆、保守頑固党の人々にて左の数名はその中にて重立たるものなりと云う。

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