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『オンライン講座・吉田茂の国難突破力⑦』★『日本占領から日本独立へマッカーサーと戦った吉田茂とその参謀・白洲次郎(2)★『「戦争に負けても奴隷になったのではない。相手がだれであろうと、理不尽な要求に対しては断固、戦い主張する」(白洲)』

   

 

  2015/01/01 日本リーダーパワー史(368)再録

前坂俊之(ジャーナリスト)

 

案の定 昭和20年8月、敗戦。旧知の吉田茂から乞われて、イザ鎌倉とさっそうと登場する。勝者のGHQと敗者となった日本。昨日まで鬼畜米英を叫んでいた日本人は総ざんげし、一転して英米に卑屈となり、阿諛追従する。

 

世界史の中でも日本人ほどおとなしい非占領国民はなかったと言われるほど西欧コンプレックス
打ちひしがれてしまう。

その中で、唯一「従順ならざる2人の日本人」の吉田、白洲のコンビが立ち上がった。
白洲は「乱世の男」「非常時の男」であり、戦国武将のサムライの末裔として、ここ一番の
勝負に立ち上がったのである。

 
「戦争に負けても奴隷になったのではない。相手がだれであろうと、理不尽な要求に
対しては断固、戦い主張する」と白洲は「プリンシプル」を曲げず、「自分は必要以上
にやっているんだ。占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、
あえて極端に行動しているんだ。         

為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、後で国民から疑問が出て、
必ず批判を受けることになる」と共に活動した宮沢喜一(その後、蔵相、首相)に決意を告げていた。
(宮沢喜一の証言、「白洲次郎」平凡社、1999年に収録)

 

新憲法つくりの裏方として、その全過程にかかわった。ホイットニー
(准将・GHQ民政局長)とのはげしいやりとり
 
 
白洲は新憲法の制定の一部始終にかかわった。当初、日本側が提出した憲法草案は天皇の絶対性を残した明治憲法とさして変わりはなかった。激怒したGHQは議会制民主主義にする大胆な改革案を日本側に示し、コチコチの保守反動の吉田や松本蒸治(憲法改正の国務相)、その取り巻きの中で、白州はリベラル、左翼的な思考で英国の王室、議会民主主義を構想していた。昭和天皇も戦争の責任をとって退位すべきと考えていた。
 
民主主義の根本を理解していない「無原則で、あいまいで、寄らば大樹の陰」の日本人には「ノー」を突きつけた。役人とも喧嘩のし通しだった。吉田に対してさえも講和条約締結後には退陣をせまったいたほどの硬骨漢であった。
 
白洲がホイットニー(准将・GHQ民政局長でマッカーサーの忠実な部下)に初めて会った時のエピソードが面白い。ホイットニーは「あなたは英語がよくできるね」と皮肉をとばした。すかさず白洲は「閣下ももう少し勉強すれば、もっとうまくなりますよ」といい返した。なりあがりものの君たちアメリカ人よりも、こちらは本場のイギリス・ケンブリッジ大仕込みだとのプライドをしめして、火花を散らした。
 

その後も互いに、「アトミック」と「ジープウェー」のエピソードなどで、激しいやり取りを続けた。ソ連、オーストラリアなど天皇を処罰せよという姿勢の連合国側の極東委員会のメンバーが来日する前に、マッカーサーは急いで『マッカーサ3原則』を示して、ホイットニーらに新憲法作りを命令した。

 
 

1946年(昭和21)年2月13日、麻布にあった外相官邸に幕僚をつれて、ホイットニーがやってきた。ホイットニーは太陽を背にして坐りとマッカーサー草案を吉田、松本、白洲ら日本側に手渡し、「もし内閣が選挙前に適切な改憲案を用意できないのなら、マッカーサー元帥は直接に日本国民にこの原則を示してしまうだろう」と宣言した。 「私の言葉は、すぐに日本人代表たちの表情に変化をもたらした。

 
 
白洲はピョコンと飛び上り、松本博士は息を深く吸い込んだ。吉田の顔は、黒雲のごとく暗く曇った」と、ホイットニーはその著書に書いている。
この時、ホイットニーは〝われわれは戸外で、目もくらむほど明るい陽光を楽しんだ″と話し、英語で「アトミック・サンシャイン」と表現、ちょうど上空をB29が轟音と共に飛行した。「アトミック(原子力)」の表現に日本側は有無をいわさぬ脅迫と受け取り震え上がった。ホイットニー少は「天皇を取り調べるよという他国の圧力が強くなっている。しかし、マッカーサー元帥は、この新しい憲法を受け入れれば天皇は安泰になる」とくギをさした。
 
 
このあと、15日に「英語に堪能で辛辣なユーモアのセンスの持ち主だった白洲」(「マッカーサーと吉田茂」(上)リチャード・B・フィンク著、内田健二 角川文庫 平成7年)と見られていた白洲はホイットニーに手紙を書いた。
 
「あなた方(GHQ)も彼ら(日本側)も同じ目標をめざすものですが、そこに至る道に大きな違いがあります。あなた方はまっすぐで直接的ですが、彼らのものは回り道であり、デコボコ道です。あなた方は航空路(エア・ウェイ)とすれば、彼らの道はジープウェイで、私は両方の考え方もよくわかります。彼らは急激な形で提出された改正案は注意深く、ゆっくりと取り上げなければならないと感じているのです」として、両国の道のりがイラスト付で書かれていた。
 
これが「ジープウェイ・レター」と呼ばれたもので、急進的な内容の憲法草案を見直してもらいたいという要請であった。この中で日本側を「われわれ」ではなく、「彼ら」と客観視している白洲の立つ位置に彼の「プリンシプル」(哲学)が示されている。
 
しかし、ホイットニーは「この間題は不必要な遅滞を許さない。日本国民が、この憲法を自らの意思で一日も早く世界に宣言して、平和国家への誓いをたてることが、天皇制を守ることになる」と返事して、これを一蹴した。
 
こうして、GHQの強烈な圧力のもとで、白洲は外務省翻訳官2人と3日間でマッカーサー草案を翻訳した。松本蒸治が飛び上がって驚いたGHQの「天皇はシンボル」というフレーズを「天皇は象徴」と翻訳したのは白洲たちであった。
3月6日、日本政府はこれをベースにした憲法改正の要綱を発表し、11月3日に正式に日本国憲法として公布されたのである。
憲法づくりのすべてに携わった白洲は多くを語らず『こうして日本の敗北を世界に告知した憲法が誕生した。これからどうなるか見ていこう』と会議の模様について謎めいた言葉を書き残している。(前掲「マッカーサーと吉田茂」(上))。
 
こんなエピソードも残っている。昭和天皇からマッカーサーに贈るプレゼントを託された。マッカーサーのデスクの回りはプレゼントの山となっており、マッカーサーは、『そのへんに置いていけ』というぞんざいな態度をとった。白洲は「いやしくも天皇陛下からの贈り物である。床などに置くことはできない』と激怒した。驚いたマッカーサーは、すぐさま新しい机を運ばせたという。
 
 
白洲は憲法改正が一段落したあとは昭和21年8月に経済安定本部(経済企画庁の前身)の次長を兼務となった。翌年5月、第一次吉田内閣の総辞職にともない終戦連絡事務局次長を退任する。
 

さらに、翌23年12月1日、第二次吉田内閣が成立を受けて、GHQの指名もあり商工省の外局であった貿易庁長官に就任した。ここでは輸出、貿易を振興させるために「吉田首相と二人きりの相談から、時の商工大臣にも相談なしで、商工省を通産省に改めたほど、首相の信任を得ている」と週刊誌に書かれるほどの実力を発揮して通商産業省(現在の経済産業省の前身)を誕生させた。この結果、貿易庁も通産省に統合され、1949年(昭和24)年5月には辞任して、こんどは日本経済再建の基礎であるエネルギー政策、電気事業の再編成に取り組むといった具合。

 
昭和25年4月には吉田首相の特使として、池田勇人蔵相、宮沢喜一大蔵省秘書官とともに渡米、国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスと会見し、平和条約締結に向けて交渉を行った。いわば、吉田内閣の影の外交・経済参謀、黒幕として日米間を股に八面六臂の活躍したのである。
 
トイレットペーパー演説
 
 1951年((昭和26)9月、サンフランシスコ講和会議に特別顧問として吉田全権一行に加わった。渡米の飛行機では全員スーツ姿だったが、唯一、白州は機内ではTシャツ、ジーパンスタイルで、「アメリカはたかだかTシャツ、ジーンズの国だよ。たいしたことない」と。当時日本にはジーパンなど入っていなかった時代、その長身のかっこいいジーパンスタイルで笑っていた。
 
 サンフランシスコ講和条約締結の9月8日にはオペラハウスで吉田首相が受諾の演説スピーチを行うことになっていたが、その演説スピーチは「米に感謝、感謝」という内容で、しかも英文で書かれていた。これを見た白州は烈火のごとく怒った。
 
「講和条約は対等の関係だ。日本が独立するその記念式典で日本語ではなく英語でスピーチするとは何事か」と叱り飛ばした。「日本語で演説をすべきだ」と急きょ変更させ、市内の中華街に筆と巻紙を買いに行かせ、日本語に書き直させた。スピーチの巻紙は30㍍もの長さになった。当日、吉田、羽織袴姿で朗々と日本語でこの演説文をくるくる巻きながら読み上げ、日本の威厳を保ったのである。
 
「演説二日前に、吉田さんから電話で演説を見てくれたかというのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。
 
占領がいいいいと感謝、感激と書いてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやっているのです。そんなの勝手にしろ、と怒ってぜんぶ日本語でかきなおせといったんです」(中村政則『占領下の孫厳』『白洲次郎』平凡社1999年刊に収録)と白洲本人はこの内幕を語っている。
 
GHQの占領期間中、白洲は「吉田の黒幕」、「悪しき側近政治」、「財界の裏の実力者」とさんざんたたかれたが、マスコミには自らは登場しなかった。1959年(昭和34)、57歳の白洲は政財界の第一線から完全に身を引き、再び「カントリー・ゼントルマン」にもどって、ゴルフ三昧とカーマニアや趣味に没頭する悠々たる晩年をすごした。
1985年(昭和60)11月、83歳で亡くなった。寡黙な白洲らしく遺言は「葬式無用、戒名不用」のわずか2行であった。
 
 
宮澤喜一(後の大蔵大臣、首相)は白洲次郎を『あんな人は後にも先にも会ったことはない、とびっきり異質な日本人と評している。敗戦、日本占領という有史以来の国難に吉田、白洲のコンビが立ち向かったことは何と日本にとって幸せなことであったか。まさしく『国難から日本を救った男』といって過言でない。
 
宮澤喜一は語っている。
 
「一言でユニークな人でした。あんなユニークな人は後にも先にも会ったことはない。吉田さんにもずけずけものをいい、、池田(勇人)さんはじめは、「聞きしまさる嫌な奴だ」と言ったぐらい。「「吉田側近」ではなく「従順でない側近」でした」。
 
「(白洲は)自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、後で国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる」と語っていた。
 
吉田さんにも厳しかったし、外務省批判も多かった。吉田さんに「講和会議が終わったら辞職しなさい」とまで言ったのだから、相当なものです。
いうなれば「従順でない側近」。そんな存在は政治の世界では稀でしょうね。そういう人を吉田さんも辛抱して使っていたのだから偉いものです」。(宮沢喜一の証言、「白洲次郎」平凡社、1999年に収録)
 

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