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『オンライン講座/日本を先進国にした日露戦争に勝利した明治のトップリーダーの決断力②』★『2011/ 3/11から2週間後に書いた記事- いまリーダーは何をすべきかー「海軍の父」山本権兵衛 から学ぶ』★『山本権兵衛は歴代日本宰相のーのベスト3に入るリーダーパワーを発揮した『坂の上の雲』の真の主人公>

      2022/04/05

 

   日本リーダーパワー史(264)記事転載

まとめ・山本権兵衛<山本権兵衛は歴代日本トップリーダーのベスト3に入るー海軍の父であり『坂の上の雲』の主人公>

 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
今連載しているこの日本リーダーパワー史は主に明治以降の政治、軍事、経済、文化面で活躍したトップリーダ―たちのそのハードパワーとソフトパワーの発揮の仕方、グローバルなリーダーシップ、思考力、創造力について比較検討してきた。
山本権兵衛は歴代日本の総理大臣、軍人のなかでもベスト3にはいるリーダーパワーとリーダーシップ、国際感覚を身につけた人物である。
『山本権兵衛伝』著者:山本清(『故伯爵山本海軍大将伝記編纂会』 | 発行年月:1938年01月は優れた伝記であり、その中で『山本権兵衛のリーダーシップ』『人柄やエピソードについて』部分(著作権切れ)を原文から紹介する。

以下のブログは3・11直後に書いたものを掲載する。

 <2011、3,28>日本リーダーパワー史(135)

 海軍経営者・山本権兵衛―国難日本を救ったリーダーシップ

 

<福島原発危機「日本の興廃はこの一戦にあり」

 
 「皇国の興廃 この一戦にあり」とは日本海海戦出撃前の東郷平八郎の言葉だが、いま3,11アフター、
福島原発事故の危機を国民は神に祈るような気持ちで見詰めている。「日本の興廃はこの一戦にあり」と。
 
 
3/11から2週間後に書いた記事
いまリーダーは何をすべきかーその取るべき態度を過去の
事例から学ぶー『日清戦争』でのリーダーシップ
 
 
① リーダーは日露戦争の満州総司令官大山厳を見習え。(203高地で示した大山厳の『部下にまかせて、責任は自らとる』
② 戦時内閣を組織せよ。自民党のトップはもちろん、民主党の小沢一郎、鳩山由紀夫も、いったい何をボヤボヤしているのか、国が潰れるかどうかの瀬戸際、ギリギリなのに、閣僚に入って重量内閣に改造し菅首相をささえて、挙国一致内閣を即実行せよ。小異を捨てて大同につけ(西郷従道の縁の下の力持ち、リーダーシップ、大度量の政治家たれ)
③ 危機管理の実力者を自衛隊、警察、予備役、政治家、官僚OBからでも今からでおも遅くない、抜擢せよ(高橋是清、樺山資紀ら)
④ 豪胆、見識、勇気、元気のある実戦的リーダーを即、登用せよ(後藤新平、樺山資紀ら、学者、評論家はいらない)
⑤世界は日本を見ている。このピンチを最大限のチャンスにかえて、ファイティングスプリットを見せよう(カルロス ゴーンの言葉)
⑥逆境にいて楽観せよ(出光佐三の言葉)
 
日本海軍の最強コンビー西郷従道大臣、山本権兵衛軍務局長
 
 西郷の再び海軍大臣となると、海軍は山本権兵衛の海軍となった。西郷は良くわかっていた。将来の海軍を背負って立つものは,旧式の頭脳を有する東洋流の豪傑ではなく、西欧式の新知識と見識を兼ね備えて手腕抜群のものではないと、西欧の侵略からわが国を守ることができない。
 
そのため、権兵衛の剛腕の実行力に着目し、自己の後継者と考えていた。権兵衛もよくわかっており全力を傾倒して西郷を助けて、所信を直言してはばからず、実績を上げて態度で示した。
 
権兵衛が最初に行った改革は水路部であり、多年ここで惰眠をむさぼり専横をきわめていた部長たちを一斉に首にした。次には進級条例を改正して進級前は必ず一定期間海上勤務を経ることを必要とするように改正した。
実務、営業第一線ではなく、本社でデスクワークで仕事もせずんぞり返っている幹部職を第一線に放り出すのと同じである。
 
この進級條例の改正の真の狙いは権兵衛のライバルの柴山矢八(鹿児島出身で、海軍軍人。明治5年から2年間米国へ留学、山本の先輩、後の海軍大将)が海兵出身ながら、艦船操縦の技術を知らないのでこれを苦しめて追い出す策謀だった。
ところが、大佐として初めて『海門』艦長として海上勤務についた柴山は、権兵衛の予期に反して何等の失態もなく無事にその任務を勤め終った。
追い落としが失敗すると、権兵衛は再び、進級条例を改正して海上勤務に服さなくても進級できるとかえてしまった。
権兵衛がこのような策を弄したのは、年功序列と情実人事が横行し無能者が跋扈していた海軍の旧弊な人事を改め、派閥の打破を目指したものだったが、その後に権兵衛が権力を掌握して自派閥、仲間の跋扈を許す結果になったこともまた事実である。
 
 
 山本権兵衛の名が世間に知れ渡ったのは西郷従道の下に海軍省主事につき大臣以上に辣腕をふるったためだが、もともと権兵衛は学生時代からガキ大将で、強力なリーダーパワーを持って、常に上村彦之丞、藤田幸右衝門らの乱暴者を率いては校内を暴れ回わっていた。海軍兵学校卒業後も、行く先々でリーダーシップをにぎり、向かうところ敵なしで、海軍の実権を掌握するまでに逆境を経験したことはほとんどなかったという、海軍随一のキレ者だった。
 
 壮年時代からわがもの顔に海軍を牛耳っていたが、明治十五、六年ごろ、英国砲術学校制度を輸入し、日高壮年之丞らと共に砲術練習艦「浅間」で、艦長井上良馨を助け、出羽重遠、三須宗太郎、島村速雄の英俊を率いて艦砲射撃の教練に努め、従来の操帆運用にのみ没頭していた海軍の新生面を開いたことは特筆に値する。
 
なぜなら、日清戦争で海軍が大勝利したのも、その操砲技術が清国海軍を大きくしのいだためであり、その功績は山本権兵衛のリーダーシップと技術力のたまものだった。
 艦長時代の山本は闘志、覇気とも横溢しており、あの怖いライオンのような顔と迫力、闘志で、到るところで前任者の旧式なやりかたをぶち壊して、先輩でも出来ない奴は遠慮なく首にして、強い海軍を作ることに全精力を上げた。
 
当時、トルコの特派大使オスマンパシャ一一行をのせて紀州沖で沈没したトルコ軍艦「エルトグロ-ル」の遺骨、遺物を我練習艦「金剛」『比叡』によってイスタンブールまで、送還することになり、三浦功がその一艦の艦長になった。
ところが、三浦はさらに良艦に搭乗して遠航したいと要求して、難癖をつけて乗ることを渋った。山本は憤激し、白から海軍省に乗り込んで三浦を即座にかえて、三浦とは反対にほとんど全く操船の術を知らなかった田中綱常をに代わら、日高批之丞と共に遠航上らせた。山本の決断と実行力を推して知るべしである。
 
 明治二十七、八年の日清戦争は西郷の海軍大臣、山本の海軍省主事時代における歴史上の最大事件である。誕生したわずか20年ほどの帝国海軍にとっても初めての外戦であり、東洋一の海軍を有する清国との存亡を賭けた1戦だった。
明治二十六年五月、海軍官制の改革あり、海軍大臣の管下にあった海軍参謀部を廃止して、海軍軍令部を設け、中牟田倉之助が軍令部長についた。
ところが、朝鮮で東学党の乱による日清間の交渉が日に日に険悪化し、戦争の危機が迫ると、西郷は山本の献策により有事の際は、海軍軍令部長は樺山資紀の外にないとして、既に予備役に編入され枢密院で休んでいた樺山を直ちにおとなしい中牟田にかえて、軍令部長の職につかせて、即日、連合艦隊の根拠地の佐世保に向わせた。
 
 
豪胆で猪突猛進型の樺山の作戦は大胆そのもので、わが海軍は全力を挙げてけて清国の北洋艦隊と会戦し、雌雄を一挙に決するーとして、佐世保に赴くと、先づ艦隊の将士の士気を鼓舞するために大号令を発した。
連合艦隊司令長官 伊東祐亨を激励して「白旗を棄てて決死の覚悟を以て臨め」と訓示。
七月二十三日にわが艦隊が佐世保を出港する際には、「高砂丸」にのって港外まで見送りに信号を高くあげ「帝国海軍の名誉を揚げよ」と発した。
第一遊撃隊司令官 坪井航三は「正に揚ぐ」聯合艦隊司令長官伊東祐亨は「確かに揚ぐ」西海艦隊司令長官 相浦紀道は「凱旋を待て」と応答した。
我艦隊の将士たちはこのやりとりをみて感激のあまり泣いた。
 
こうして七月二十五日の豊島の初戦はわが艦隊の大勝利となり、士気大いに上がったが、樺山はまだ心元ないとおもったのか、自から小鑑「「西京丸」に乗って大同江口にあるわが艦隊の根拠地に向い、九月十七日の鴨緑江沖の海戦に参加したという
、後方にいて全体を指揮すべき軍令部長がまるで無茶である。
 
樺山の西京丸は敵の巨艦「定遠」、『鎮速』に追跡せられて苦戦し、敵の水雷艇「副龍」のために至近距離から二回まで魚雷を発射されたが、何とかかわして当たらす、九死一生を得てようやく危地を脱した、というからスゴイ。
 
樺山は東洋一の巨艦「定遠」、「鎮遠」(七〇〇〇千トン)の追跡を受けた時も、敵電艇から魚雷を放射されて万事休すかという時も、泰然自若としていたというから命知らずの指揮官。猛将のもとに弱卒なしで、大国清をやぶったのである。
海軍軍令部長の重職にあって、みずから砲煙弾雨の間に馳せ参じたのは古今東西、樺山だけであろう。鴨緑江外の戦闘における西京丸の勇敢さはわが国の海戦史上に特質すべきものである。
 
鴨緑江の海戦後、敵の海軍は全く屏息し、海上権はわが手の内に帰し、戦局はますます有利にすすみ、翌二十八年二月には丁汝昌は自殺、日本の勝利に帰した。
日清戦争では西郷従道も大本営にあり、権兵衛もその剛腕を発揮し、連合艦隊が佐世保を出発するに際して「もし、清国艦隊に遭遇すれば猶予なく発砲して戦端を開け」と訓示した。また、西郷が征清大総督、川上操六に陪して渡海しようとすると、
 
「わが艦隊の主力が澎湖島方面にある今日、海軍大臣たるものが、号令をかけるのに不便なの地に動くべきではない」と中止させた。これまた西郷―山本の絶妙の信頼のコンビにして出来ることであった。
日清戦争前は世界の海軍中第12位だった日本海軍は、一躍第4位に躍進したのである。
 
 
 
2009/04/08の以下の記事も再録します。
「空前絶後の完勝の日露戦争―山本権兵衛のリーダーパワーに学べ」
 

1・・パリで最高にもてた日本人
 
暗い話が続いたので、パットと明るい、自信のわいてくる話でいきましょう。明治から、大正時代、1920年代にもフランス・パリにはたくさんの日本人が住んでいました。
そのパリで対仏輸出入組合理事長をしていた伴野文三郎著「パリ夜話」(昭和32年、教材社)という、大変愉快な思い出話があります。当時、世界の中で日本がどう見られていたのか、を考えるには絶好の材料です。
 
当時のヨーロッパ列強の間では軍事大国・ロシアは陸海軍とも世界一,二の戦力を有しており、「北の巨熊」として、恐れられていました。フランスの英雄で戦争の天才・ナポレオンもロシアに負けているほどです。
そんなロシアに、鎖国を解いて、やっと文明国に仲間入りしたばかりの地図上でその位置さえわからないアジアの無名の小国・日本が戦いを挑んだのです。
 
ヨーロッパ各国は「かわいそうにたちまちひねりつぶされてしまうぞ」と日本に同情していました。ロシアは初めから日本をなめてかかり、世界各国ともロシアの圧倒的な勝利を予想していました。当時、フランスはロシアと軍事同盟を結んでいました。
 
ところが、イザふたをあけると、陸戦でも連戦連勝し、日本海海戦では世界一のロシア・バルチック艦隊が日本についたら「ひと飲みにされるだろう」との世界の予想を覆して、東郷平八郎率いる連合艦隊が全滅させたのです。しかも、日本側の損失はほぼゼロという完全勝利はスペインの無敵艦隊をやぶったネルソン率いる英国艦隊の勝利を上回るもので、世界中は2度びっくり。
ヨーロッパや長年ロシアに圧迫され,侵略されていたポーランド、フィンランド、北欧、トルコ、中央アジア各国は驚愕し、「日本人とは一体どんな国民なのか」と驚異の目で見られ、爆発的な日本ブームがおこったのです。
 
伴野にも「娘があったらぜひ、日本人にもらってもらいたいのに」との話しが舞い込んだり。その年のクリスマスに伴野が一流レストランでフランス人家族と一緒に食事をしていると、超満員の店で酔った男が「あの強い日本人か」「記念にワイフにキスしください」と金髪の美女を客席まで連れてきて、キスを求めたかと思うと、そのうち店内の全女性が総立ちで、次々に伴野へのキスの総攻撃となったといいます。
 
それから客席をかたづけダンス場に早変わり、ダンスの相手をしてモテモテ、最後には胴上げされて、「ビーブ・ル・ジャポン」(日本バンザイ)の大合唱となったという次第。まるで夢心地だといいます。世界各国の人種が集まるパリでも、最高にモテたのが日本人だったとは、何ともうれしい、誇らしい話ではないでしょうか。
 
2・・日露戦争は世界史を変えた大事件
 
20世紀の歴史をみると、日露戦争は第一次世界大戦の前に起こり、アジアの国がはじめて西欧の大国を破ったケースとして世界史を変えた大事件だったのです。
250年の鎖国をやぶり明治維新で近代日本がスタートし、わずか30余年で日露戦争で勝利して4等国から一等国家へ仲間入りしたのです。その日本海軍の最高のリーダーが山本権兵衛だったのです。彼はほぼ独力で、日本海軍を建設して、そのCEOとして、組織を変え人材を抜擢して、最新技術を導入しマネージメントに成功して戦争に見事に勝利し、日本興隆の真の立役者です。
 
日本のメディアでは日露戦争といえば東郷平八郎や秋山真之、乃木希典、児玉源太郎らの戦争を戦った人間にばかりに焦点を当てられがちですが、真に国家の興亡のカギを握ったのは山本権兵衛であり、陸軍の建設者の山県有朋と比較してもその国家戦略、実力でははるかに凌駕していました。明治以来現在までの日本の宰相、政治家を比べても、最高の「リーダーパワー」といっても過言でないと思います。
 
 
国家の「リーダーパワー」に必要な条件とは何でしょうか。
 
① 強い信念=明確で一貫して強い信念を持って、実践する。
② 国家哲学、戦略、作戦の作成=長期と短期の国家ビジョンを作成して、そのプロジェクトを作って計画を年次的に適切に実行、推進していく。
③ マネージメント能力=そのために組織の改革、人事の刷新、新技術の導入すること。旧来の学閥、派閥などにとらわれることなく、能力のある者の適材適所をつらぬく。
④ スピーチ能力=言語、弁舌にすぐれて、プロジェクトの内容を十分説明する説明責任と説明能力を兼ね備えていること。
⑤ グローバル・リテラシーとタフネゴシェーター=国際的視野と外交能力、交渉術のプロであり、海外のリーダーとも互角に渡り合えるだけの見識、能力、語学力を有すること。
⑥ 勝負、戦争の仕方、引き際を心得ていること。―などです。
 
山本はこのリーダーの条件をすべて満たしていた稀有の存在であり、その面でも世界のリーダーと比較しても抜きんでていました。オバマ米大統領の出現で改めて政治家のリーダー力が問われていますが、百年に一度の経済危機、政治危機に直面した現在、山本権兵衛の「リーダーーパワー」とその突破力にこそ大いに学ぶヒントがたくさんあります。
ビジネスマンやFXの投資の読者の皆さんにも「山本権兵衛必勝法」の秘訣が大いに参考になると思います。
 
3・・世界のトップリーダーだった山本権兵衛
 
山本の戦略、戦術をみていきましょう。
 
① <国家戦略では>ロシアを仮想敵国とし、ロシア海軍に対抗する軍備拡張を図って戦闘艦六隻、一等巡洋艦六隻の新鋭艦をそろえての六六艦隊の実現を期し、厳しい国家財政の中でやりくり。下瀬火薬をはじめ軍需兵器を完備しました。山本は海軍省官房主事というポストで西郷隆盛の弟である西郷従道海軍大臣を、縦横に動かして大海軍を短期に作り上げたのです。
 
② <人事の刷新、抜擢>戦争になれば中央の海軍省からの命令を即実行する第一線の将官の実力が勝敗の決め手になる。山本は年功序列や先輩後輩にこだわらず大将、将官ら無能力者97人を一斉に首にした。海軍内では非難ごうごうたるものがありましたが、中でも、戦争前に連合艦隊司令長官だった先輩の日高壮之丞を舞鶴鎮守府司令長官の閑職に祭り上げて同長官でやめる寸前の東郷平八郎を連合艦隊司令長官に逆に大抜擢しました。明治天皇は心配して尋ねると「東郷は運のいい男ですし、命令を正しく実行する男です」と太鼓判を押しました。東郷は日本海海戦で空前絶後の戦果をあげて山本の期待にこたえたのです。今の行財政改革と比較すると、首切り人事がいかに難しいかがわかりますが、山本の決断力と実行力のすごさが示されています。     
 
 
③ <説明能力抜群のスピーチ力>山本は西郷、大久保利通らがうまれた薩摩[鹿児島県]の同じ町内の出身です。日本では多弁な男は軽視されていました。不言実行型、「沈黙は金」「男は黙って勝負する」リーダーが多い中で、山本はしゃべりすぎといわれるくらい弁が立ち、相手が上であろうが自説を主張して譲らない信念の人でした。海軍省官房主事、軍務局長の時には「権兵衛大臣」といわれて、西郷海相を手玉に取ってプロジェクトを実行し、陸軍大将・山県有朋にむかい、「山県君」と呼んで、山県を激怒させたり、井上毅文相との会見中、井上が細かい字句について質問したところ、「そんなことは書記官の仕事で、大臣のやる仕事ではない」とピシャリと叱りつけたり。まるで、大物だったのです。
 
④ <国際交渉力では>外国でも「日本海軍の父」として、その名は轟いていました。   海外のVIPにもいささかの遠慮もせず、ドイツのカイゼルのウイルヘルム二世に会ったとき、「ドイッでなにか見たいものはないか?」と聞かれて、「クルップの機密工場をみたい」といって度肝を抜いたり、アメリカ大統領ルーズベルト(日露講和の仲介者)に会ったときも、英語で日露戦争の勝利についてまくし立ててその弁舌で驚かせたといいます。
 
 
4・・「山本権兵衛必勝法」
 
そして、山本が一番すごかったのは戦争で勝利の方程式を作って、勝ったあとの終結を見事にやってのけた点です。戦争に勝つことは難しい、勝ち続けることはもっと難しい、それ以上に難しいのはどこで、戦争を終わらせるか、その引き際です。
 
日露戦争の直前に、大山厳が満州軍総司令官に任命されると、当時、海軍大臣だった山本を海相官邸に訪ねて懇願したといいます。
 「この戦争は三年、あるいは五年ぐらいはかかると思う。しかし勝負はどこまでいったらつくのか、戦争終結が難しい。およそ連戦連勝という場合には、国民は勝つことだけを知って、負けることを思わず、有頂天になる。こういう場合に、軍配を振る(戦争を止める)ということは、まことに大役で、一身を犠牲にする覚悟がなければできない。この大役は貴方のほかにはないので、何とかよろしくお願いしたい」と申し出た。
 
 山本はこう答えました。
 「講和の決定は、全く天皇の大権に属することであるが、これが時機を捉えることは、国務大臣の責任である。私はその機会到来すれば、適当の措置をとることに躊躇しないであろう。ご安心いただきたい」
 この問答が、有名な「軍配問答」です。実戦経験豊富な大山の意見は、実に戦争の仕方、引き際を心得ており、唯一頼りになるリーダーの山本も見事にこれを受け止めて処理して、奉天会戦を最後として終戦に導き、乾坤一擲の日露戦争で日本の勝利を確定したのです。
 
太平洋戦争では、当時のリーダーたちは明治のリーダーとは全く違って、戦争をどのように終結させていくかを全く考えずに、「清水寺から飛び降りる」気持ちで突入してしまったのです。そして、あのような全面大敗北の結果となったのも、トップリーダーの見識、洞察力の差が明暗をわけたのです。
 
以上の点から今の経済対策にかかわっているトップリーダーも事前に結果の処理を考えながらことを進める必要がありますし、個人レベルでFXや投信などをする場合も、徹底した研究と同時に、どこで撤退するかを決めておくことが、最低限必要なことはいうまでもあいません。

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