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『オンライン講座/真珠湾攻撃から80年目⑨』★『ルーズベルト米大統領は、真珠湾攻撃の国家リスク管理の失敗を教訓に情報機関(CIA)の設置を命じた』★『一方、日本は未だに情報統合本部がな<3・11日本敗戦>を招いた』★『さらに2021年、新型コロナ/デジタル/経済敗戦を喫して、後進国に転落中だ』

   

『オンライン/真珠湾攻撃(1941)から80年目講座➂』

 

 日本リーダーパワー史(193)再録

 2021/05/08『オンライン/真珠湾攻撃(1941)から80年目講座➂』再録

前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

これまで2回で日本の海軍側から見た「真珠湾攻撃」について見てきたが、今回はアメリカ側からの真珠湾攻撃を評価する。以下は『アメッカの政府情報機構一国家政策における中央情報の役割-』H.H.ラソサム著小林昭訳日刊労働通信社(1960)によっている。

 バール・ハ-バーの衝撃

 
 パール.ハ―バーが日本の飛行機によって攻撃をうけているとの報告が、一九四一年十二月七日の日曜の午後に、ワシントンのフランク・ノクス海軍長官の許に届いたとき、同長官は、「そんなことはあり得ない、これはフィリピンの間違いだろう。」と叫んだ。
この海軍長官の反応はアメリカが第二次大戦に引ずり込まれた当時の戦略情報の失敗を象徴しているもののようである。しかし、問題は、情報がなかったということよりもむしろ、このことを示唆する情報を持っていた政治家や軍幹部にこの攻撃が想像できなかったということにある。
バール・ハ―バーの情報にかんするこの教訓は、国家戦略の立案者、参謀本部、及び現地の責任ある司令官の心に焼きつけられた。
 
 パール・ハーバーは、集中化された情報機構の発展と戦前戦後における軍備報スタッフと情報過程の補強に刺激を与えた。ここでは、パール・ハーバーに到った事情を叙述したり、攻撃そのものを叙述する必要はない。
 
このことは、二万五千頁にのぼる公式な証言や報告や数多くの書物においてなされている。七つの別々の公式な調査と、戦後の議会の嗣査によって、おびただしい書類がつくられた。あとの調査は、公聴会記録三九巻(二万五千頁)と五七三頁の報告となった。
 
 これら多量の証言や報告から引出された結論のあるものについては今後とも議論の余地があるであろう。しかし、日本軍が完全な奇襲攻撃に成功した、というこのひと事は、議論の余地がない。
 
さきにのべた如く、情報が事前の知識ならば、パール・ハーバーは、情報の完全な失敗であった。それは、情報組織の完ぷなき失敗であり、或は組職の欠如であった。情報伝達と受容における失敗であった。
 
頂点に立っている文官・武官の司令官や幹部たちが、入手できた情報を効果的に利用することに失敗したのである。底辺においては、米海軍の駆逐艦ウォード(Ward)が十二月七日の年前三時五十分にパール・ハーバーの入口の立入楽止区域で潜航中の潜水艦を発見して午前六時四十五分にこれを沈めたことを想い出されるであろう。
 
しかしウォード号の報告は、事実上、無視された。日本軍の第一次攻撃機の一群が、北から接近しっつあったときに、陸軍の移動レーダー部隊によって午前七時二分に探知されたということは、しばしば語られるところである。このような警告も聞く耳をもたない人々によって笑いとばされてしまった。
 
もともと、侵略的な国というものは、できるだけよい情報をもとうとするものであるとしても、パール・ハ―バーは、或る意味においては、日本軍の輝かしい成功であった。
 
大局的に見れば、この攻撃の実行方法は、戦略的に愚策であり、戦術的に不適であり、そして政治的には破滅的であったかも知れない。実際、パール・ハーバーには船舶よりよい攻撃日榛があった。恒久施設やオイル・タンクは不思議とかすり傷1つ負わなかった。
 
日本軍は海上にあった太平洋艦隊の二隻の航空母艦をやっつけようともしなかった。戦艦群に集中し、巡洋艦や駆逐艦にはあまり注意を払わなかった。今から考えると、長期的な戦略の観点からするならば、バール・ハーバーにおける目標の選定は賢明ではなかった。
 
軍事問題の専門家が1人ならずのべたように、「パール・ハーバーで我々が戦艦を失ったことは、合衆国の海軍作戦を優に十年は進歩させた。」
 
 しかし、日本軍は戦艦をえらんだ。同港のなかの九四隻の合衆国海軍の船舶のうち、どれが必要か、どこでそれを見つけるかということを日本軍の操縦士連は、はっきり知っていた。
 
日本軍は、船の位置ばかりでなく、米海軍の日曜の朝の習慣や週末の自由の伝統についてもよく説明されていた。完全な奇襲によって、日本軍は、彼等がえらんだ目標を攻撃したのである。
 
 パール・ハ―バー事件にかんする膨大な証言や論評は日本軍の攻撃の以前においてかなりな程度には示唆的な情報が手に入っており、それが単に信じられなかったのだということを示している。
 
戦争がさし迫っているということは、広く感ぜられていた。しかし、日本軍の能力及び意図の両方の評価を誤ったのである。多くの責任ある指揮者は、心の中では、ハワイは、日本からあまりにも遠くはなれており、日本海軍はこのような攻撃をしかける技術的能力はなく、日本空軍の技価はこのような行動には不充分であると考え、そして、失敗した場合の危険は、日本の作戦の戦略家にとってあまりにも大きい、と信じていた。
 
従って現在と同様、当時においても、基本的な情報の問題は、充分に資料があることであるとは部分的にのみいい得るのみであった。最も重要だったことは、決定を下す責任ある人々の心のなかの状態であった。海軍長官の「そんなことはあり得ない」という叫びは問題の根本を示している。
 
 あとになって知ったかぶりして講座的非実際的な情報専門家となることは常にやさしいことである。しかし、パール・ハーバーの情報上の教訓は、痛くも明かであり、そして、戦後における中央情報機構の発展は、これらの教訓のあるものを反映されている。今日では、少くとも理くつの上では、正しく評価され調整された時宜に適した情報にすべての責任ある高官の注意を喚起することを保障するような、統一的な体制をもつことが必要であるということを疑問視するものはあまりいない。
 
へソリー・L・スチムソン(アメリカの政治家。ロンドン軍縮会議首席代表、「1940-1945年の間,陸軍長官)の言葉を借りるとあらゆる時間において「歩哨の任についている」情報システムといった考え方は、現在のワシントン官界では一致して承認されている。
 
しかし、この増え方が承認されたことによって、情報のすべて問題が解決されたのではない。なんとなれば警告を発する機能は、我々の情報に関する必要条件の一つにすぎず、理論、組織、及び要員の諸問題が残っでいることを想い出す必要がある。これらほ、すべて、敵の能力と敵の意図とを均衡させる問題を解決する際に、そのなかにふくまれる問題である。
 
一九四一年十二月に、日本がパール・ハーバー攻撃の能力を持っていると信じじたものはすくなかった。日本はこの能力を持っていた。しかし、日本がこのような攻撃を行う意図を持っていると結論した者は、たとえいたとしても、なお少なかった。
 
当時の問題は、現在と同様、仮想敵がなし得るあらゆることを正しく評価することなく、級が何をするであろうか(もし我々が彼等だったら我々をどうするであろうか)ということを基礎として政策や計画の行動をつくる傾向であった。
 
能力と意国とをごっちゃにすることは、常に一つの矛盾をつくり出し、すべての情報組紺の限界となるものである。そのような問題を情報的に評価するためには、一九四一年に存したよりも、よりよい機格が必要であるということは明かであった。戦時中及びとくに戦後の時期においで、パール・ハーバーの情報の教訓を適用する端緒があらわれた。
 
一九五五年のフーバー委員会の報告によると「CIAは、その存在を、パール・ハーバーにたいする奇襲攻撃、及び我国の軍部隊が日本軍の攻撃が差迫っているとの適当な警告を速かに受取ることができなかった、この失敗において情報ないし情報の不足が演じた役割について戦後行われた調査、に負うともいえる。」
 
 フーバ「委員会の調査班は、その後の十二年間の教訓に基き、一九五五年に、他の人もパール・ハーバーにかんして結論したこと、即ち、攻撃を予知するに必要な情報を政府諸機関は入手することが可能であったこと、問題はその評価と配布にあったことを結諭した。適当な決定がなされぬままに放置され、時宜に適した訓令が現地の担当司令官に与られなかった。
 
 パール・ハーバー事件の分析者連は、高級な統合情報グループがなかったことや、高級の国家判断を行う組織や警報センターがなかったことを引きあいに出す。あとの方の欠陥が1941年12月6日、存在したことは残念ながら明かであり、当時、日本の最後通牒をマジグク(日本の暗号の解読法)によって傍受した生の情報報告は読まれたが、正しく評価もされなかったし、これに基いた措置もとられなかった。さきにのべたように、入手しうる資料を評価し、分析し、綜合し、そして速かに配布する統合情報グループとか情報諮問委員会とかいうものはなかった。
 
今日、存在しているようなたえず地球を睨んでいる訓練された監視の目をもった「監視委員会」とか国家警報センターとかもなかった。また、すべてのでなく葦の高官に知られた隙報に準拠して措置をとる国家安全保障会議も存在しなかった。
 
 

  中央情報局のはじまり

 
日本の攻撃より五カ月前、ルーズベルト大統領は、国家情報の明かな欠陥を是正するための実際の措置をとった。同大統領はウィリアム・ドノバン大佐(のち少将)を呼んで、世界戦蜜の実情に合うような新しい情報機関をつくる計画をつくるよう命じた。彼はドノバンに対して、「君は最初から始めればよい。我々は情報報機関というものを持っていないからだ。」とのべた。
 
ドノバン大佐はまもなく、すべての戦略情報資料を収集、分析し、その結果を大統領および他の関係各機関に提出する任務をもった情報調整官に任命された。官僚主義とぶつかりながらも、戦争がはじまった頃は、ドノバンは、彼の新しい機関を組織し、そのはっきりした使命を見出すことに腐心しつつあった。戦争の前夜において新しい情報機関を収容する建物を見つけることができなくて、戦略情報活動がかなり阻害されたという話は、恐らくはうそであろうが、広く伝えられる。
 

   統合情報―戦時の組織

 
一九四二年二月に統合参謀本部がつくられるや、この統合参謀本部を能率的に動かすためには、統合情報が必要であることが忽ち明かになった。各兵種合同及び連合国共同の作戦計画は、統合参謀本部の一部局として統合情報委員会(Joint Intelligence Committee)をつくることを必要とした。
 
統合情報委員会には、海軍情報部、陸軍情報部、空軍参謀本部情報部、国務省、戦略活動局(OSS)及び対外経済管理局(Foreign Economie Adominisration)の代表が含まれた。この委員会は、統一的な情報の必要にこたえる戦時における特別な措置であった。しかし、大部分の情報活動は同委員会の構成機関によって行なわれた。統合情報委員会の役割は、統合参謀部及び各統合参謀長の用に供するため、あらゆる出所から入手される情報を椋合することであった。情報活動の調整の仕事の大部分は、専門の各小委員会によって行なわれた。これらのなかには、技術的工業情報、地理調査、統合研究出版、資料保管、週間要録起草会議、書評があった。
 
 統合情報委員会の刺激の下に、現地及びヮシントンの戦略情報体系を調整ふようとする努力が全政府機構にわたって行われた。陸海の情報部から人をもってきて、また、色々な分野の民間の専門家を大々的に採用して、統合情報収集機閑が各作戦地域につくられた。これら機関の任務は、情報の収集と配布とを調整し、前線とワシソトンの統合情報部の受入れセソターとの間の能率的な連絡をとることであった。
 
このような統合収集グループは、地中海、アフリカ=中東、インド=ビルマ、及び、中国の各作戦区域につくられた。一九四三年には、敵の能力、目標、地相、その他の諸要素にかんする広大な範囲の情報を扱う百科全書的書物たる陸海共同情報研究の作成が情報の成果のより効果的な調査と配布が達成された。
 
 戦時中の情報機関の間には若干の混乱や重複があり、そしてあつれきが多かったが、これら機関は、共同して、あるいは単独に、現地の戦斗部隊に劣らないいい成績をあげたことが屡々であった。著しい成功の例としては、日本帝国海軍空母部隊の位置の確定とその終局的な撃破にまで導いた、ミッドウェー島における海軍通信情報の暗号解読、ドイツ軍の防禦を著しく狂わせた一九四四年六月の連合軍のノルマンディー進攻前の完全かつ巧妙な陽動工作、太平洋作戦のためにつくりあげられた一般にすぐれた海浜の研究、ペーネム ンデにおけるドイツの誘導ミサイルの開発センターの確認、それに次にのべるOSSの諸成果があげられよう。
 
著しい個人的な功練としては、のちに一九五三年に中央情報局長官となったアレソ・W・ダレスのそれがある。彼は、一九四二年から一九四五年の問にスイスのベルンを基地としてドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、ブルガリア、スペイソ、ポルトガル、北アフリカにまたがり数百人の情報提供者や工作員をあやつる綜合的な政治工作および情報の網をつくり上げた。
 
 
 しかし、戦時中艦は恐らくこれと同じ位の情報上の失敗もあった。サボ島の戦斗において(オーストラリアの空軍の監視員が、海軍に、日本の駆逐艦隊が近づいてくることを知らせなかった)、そして一九四四年冬のアルダンヌ地区におけるドイツ軍の奇襲的反攻作戦たる「突出部の戦斗」において、戦斗情報は大へんなしくじりをした。
 
或る戦略情報の分析者連は、日本の関東軍の力を過大評価し、このことは、「ソ連を戦争に引入れよ」と主張する人々を力づけたといわれている。連合国による工業中心地の爆撃から立ち直るドイツの能力は過少評価された。しかし、多くの場合、情報町実際には現地の軍司令官やワシントンないしロソドンの政集立案者の判断の誤りであることがらについても非難されたのである。(75-82P)

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究, IT・マスコミ論

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