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『オンライン講座/新聞記者の冤罪と死刑追及の旅①』全告白『八海事件の真相』(上)<昭和戦後最大の死刑冤罪事件はこうして生まれた>①

      2021/09/27

 

 「サンデー毎日」(1977年9月4日号)に掲載

 前坂 俊之(毎日新聞記者)

 

★八海事件とは・・・・・・・・昭和二十六年一月二十四日、山口県熊毛郡麻郷村字八海の早川惣兵衛さん
(当時六十四歳)妻ヒサさん(同)が殺害され、現金一万六千円余が奪われた事件。犯人として村の青年、吉岡晃、阿藤周平さん、稲田実さん、久永隆一さん、松崎孝義さんが逮捕された。阿藤さんら四人は犯行を否認したが、別表の通り、第一審判決では五人が有罪とされた。
第二番(広島高裁)でも五人有罪、が、ここで無期懲役判決を受けた吉岡だけは、服役した。阿勝さんら四人は上告。こうして、第一次上告審では、正木ひろし弁護士が『裁判官』『検察官』という本で無実を訴えたため「世間の雑音に耳を貸すな」といった田中耕太郎最高裁長官と論争になり、多くの人々が余計に注目するようになった。
 
 また、これを映画化した「真昼の暗黒」が評判になり、差戻しの広島高裁では阿藤さんらは無罪になった。-ところが、検察側が再上告したため、再び差戻しになり、今度は阿藤さんは死刑。三度月の最高裁でやっと全員無罪が確定した。十七年九月という年月の長さといい、七回という判決の回数といい、日本の裁判史上に例がなく、〝真昼の暗黒〟は冤罪の代名詞となった。(これ以降、甲山事件が7度裁判をおこなった)

 

 事件もナゾが解れば案外こんなものかもしれない。約十八年間、七度も裁判を繰り返した世紀の冤罪事件・八海事件もフタをあければ、拷問と死刑の恐怖から真犯人が多数犯を偽証していたのである。

 吉岡晃が残した三十五冊の告白ノート。この中で吉岡は八海事件の驚くべき内幕を暴露している。

「知能の低い、ウソつき」と正木ひろし弁護士から、決めつけちれた吉岡は警察官、検事をだまし、互いに慣れあい、果ては「裁判官なんて私以下のバカ」と最後っ屁を放っているのである。

 日本の裁判がこんなにも愚弄された例はあるまい。それにしてもこんなウソつきの言葉を真に受け、無実の者を死刑台に送ろうとした裁判官が計二十五人中十三人もいた事実はあまりに深刻ではないか。記者は約六年間、ときには吉岡と寝食をともにしながら、〝真昼の暗黒〟の真相に迫った。以下はその報告である。

見取る家族もなかった49歳の死

 1977年(昭和52)七月十一日朝。ちょうど国民が参議院選挙の速報に一喜一憂していた時である。瀬戸内海の名所の一つ〝音戸の瀬戸″が眼前の呉共済病院音戸分院の一室で吉岡はひっそり死んだ。胆のう炎。四十九歳。仮出所中で、しかも昨年五月呉市内でおこした殺人未遂事件の被告でもあった。

 その夜。旧呉海軍工廠付属病院のボロボロの廃屋の中に吉岡の遺体はポッンと安置されていた。まるで化け物屋敷。もちろん、通夜に訪れる人もいない。床は海岸が近いせいかカニがはい回っている。

全く孤独な死。吉岡にふさわしい長期といえるかもしれない。身元引受人の原田香留夫弁護士が山口県内に住む兄に電話した。「マスコミが騒ぐなら行きません」

 この兄は何度か念を押し、翌日あらわれ、その日のうちにあわただしく火葬し、帰ったという。

 こうして、希代のウソつきといわれた吉岡のロは、永久に閉じられた。あとには三十五冊にのぼる膨大な大学ノートの手記が残されていたのである。

二、三日後。地元の呉警察署の幹部が記者連中に、こう言ったそうだ。「

特ダネを逃がしましたナ。吉岡は死ぬ瞬間に阿藤らと一緒にやったんじゃと、言い残さんかったかネ。その遺言を聞けば特ダネになったのに……」

 冗談とはいえ、その底には吉岡の単独犯行を否定する消しがたい偏見が見える。事件が決着しても、偏見は生きつづけるところに、冤罪がいっまでたってもなくならない理由があるのかもしれない。

 仮出所した後、謝罪の旅に

吉岡は四十六年九月二十二日に広島刑務所を仮出所した。事件以來、実に二十年八ヵ月ぶり。呉市内の更生施設に入り、造船所に就職、第二の人生にスタートした。
 

 二日後に呉市在住の八海事件弁護団の原田弁護士に会い、罪をわびた。そして、「何とか阿藤さ人たちにも謝罪したい」と申し出た。原田弁護士に異存があろうはずはない。十月二十五日にこれは実現する。阿藤周平、久永隆一氏の元被告が出席、原田、佐々木哲蔵弁護士が同席した。
 

 吉岡か、阿藤氏らか、どちらが、ウソをつき、真実を述べたのか。十八年間におよぶ八海事件もこの会見にまさる場面はなかった。

 ナゾの多い帝銀事件や、松川事件など戦後の数多い冤罪事件は真犯人が不明だとか、どこかに空自の部分があった。しかし、八海事件だけは、真犯人が公判廷でウソはウソなりに証言を続け、最後にはすべてを暴露したのである。

 会見は吉岡のあえぐような、かすれた声と阿藤氏の落ち着いた堂堂とした声で始まった。

声のはっきりと対照的な相違を聞くだけでも、どちらがウソをついたかは明瞭だった。

ウソの証言で死刑に巻き込んだ仲間に謝罪

吉岡「ウソをついて、誠に申し訳ない。なんば、おわびしても許していただけないと思うけど」
 

阿藤「許すも許さんも、吉岡君の出方一つだ。迷惑をかけたみなさんに同じようにわびる必要がある七思う」
 

吉岡「みなさんに迷惑をかけたことはどんなにおわびしても許していただけないと思う。阿藤さんの日記ぎ読んで涙が出て仕方がなかった……」
 

阿藤「残念なのは、それをもっと早い時期に言ってほしかった、十年も続く前に。今日はここであなたが良心からそう言うなら、許してもよい:…・」

吉岡「一生、社会に出られないと思っていた。刑務所、検察庁のいうなりになっておけと決心しそいた」
 

阿藤「これは、本当に思うけれど、裁判も公正で最後には真実が勝った。′もし」不正な裁判で、そのまま僕は無実の死刑が決まっていたら。今だか午こうやって話し合えてメデタシになっている。吉岡君も心では重荷になったかも知らんが、一つの安堵を持って、仮出所してきた。そこの点をよく考えてほしい」
 

 年が明けて、四十七年一月二十六日。吉岡は原田弁護士とともに他の被告へ謝罪の旅へ出た。名古屋で稲田実氏、阿藤氏の実弟・作之氏にも会い、わびた。

 十八年間にわたる無実の苦しみが、一片の謝罪やおわびですむものではないにしても、かつての被告の間では、こうして事件は落着したのである。

●「警察をダマす頭はないよ」

私が吉岡に会ったのは四十七年十二月十七日だった。毎日新聞記者として呉支局に勤務していた私は原田弁護士宅を訪れた。
 

濃紺の背広を着た吉岡が来ていた。それまで三、四度、吉岡の顔は見ていたが、原田弁護士から正式に紹介されたのは、この時が初めてであった。痩身。ほお骨が出、顎が四角に張っている。
顔色は病人のように青く、血の気がない。唇は薄く、への字に結んでいる。
 

一重まぶたの目は気の弱さと相手を射貫くような強い光を交互に一帯びる。酷薄な男という第一印象だった。陶器のような冷たさが感じられた。仮面をかぶっているのかと一瞬思ったほどだが、話し出した途端、意表をつかれた。

「もうこれで、背広ばかり八着買った。会社ではワシが一番たくさん持っているんじゃ」

 と自慢した。当時、吉岡は市内の鉄工所に勤めていた。
 

「先生、何か胸につけるバッジはないかね。ピカッーと光る奴は…」

 奥に引っ込んだ原田弁護士は、すぐ小さな箱を持ってきた。バッジや小物がたくさん入っていた。

その中を吉岡は一生懸命かき回して四十四年の共産党大会の丸いバッジを取り出して着け、得意そうに胸を張った。子供のような仕草に、つい笑いがこみ上げてきた。

 三人連れだって、近くの中華料理店に行った。途中、吉岡はパートの婦人と一緒に雑役をしていること、給料が安くて社長に文句をつけたことなど次々に話しかけてきた。初対面の者に対する話題としては、多分に思慮に欠けていた。二十年の獄中生活で常識を失ったのかとも思った。

 酒が入ると、よけいに口が回る。時々、こちらの反応を探かような鋭い視線を放ちながら、私が質問もしないのに、一人でしゃべりまくった。

●警察のひどい拷問にウソをついた

「警察は最初から多数犯と決めてかかり、ひどい拷問をかけた。私は何のことかさっぱりわからない。こらえ切れず、ウソをついた。警察をだます頭など私にはありません。共犯と一緒にやったと言っている限り、待遇がよい。かわいがってくれる。裁判になると死刑をのがれたい一心でウソを続けた。一度ウソをつくと、今度は本当のことが言えなくなる」

 吉岡は腕を背中の方に回し、このように〝鉄砲″(拷問の手の一つ)をつられたと拷問のゼスチュアを交えて語った。自己弁護と警察、検察、刑務所への責任転嫁のにおいも多分に感じられた。しかし、経験した者にしか語り得ない迫力が話の節々にうかがえた。
 

 当時、私は八海事件といっても何も知らなかった。警察、検察、裁判官も人の子だ。間違いもあるだろう。だが、吉岡の言うようなひどいことをするだろうか。それくらいの考えしかなかっただけに、鋭利な刃物で刺されたような激しいショックを受けた。

 私は七回にのぼる各判決文に目を通してみた。八海事件の特徴は他の冤罪事件と違って、二者択一の刑事裁判が行われたことであった。
 

吉岡が犯人であることは証拠も多数あり、本人も認めている。阿藤氏らが共犯かどうかで争われた。阿藤氏らは無実を主張 「吉岡の単独犯か、五人共犯か」が争点になったのである。つまり「五人でやった」という吉岡の供述が真実かどうかが事件のポイントだったのである。

●各判決で人間像が別人のように映る

 私は七回の裁判で吉岡の性格、人間像がどうとらえられているか各判決文を検討してみた。当然のことだが、客判決によって、吉岡は裁判官たちにまるで別人のよう龍映っていた。一人の人間が、こんなにまるで違って解釈されたことも日本の裁判史上で例はあるまい。

▼第一審(山口地裁岩国支部、二十七年六月二日)は阿藤死刑、吉岡ら無期。「吉岡は阿藤にたくみに利用され、手柄顔に立ち働いた。吉岡は多少口の軽い性質である……。吉岡は検挙後、深く自分の非を認めて、日夜被害者の冥福を祈り、悔悟の情が著しい」
 

▼第二審(二十八年九月十八日、広烏高裁)阿藤死刑、吉岡無期、稲田十五年、久永、松崎十二年。「吉岡は犯行後十分に悔悟している。良心の珂責にたえ宗教によって救いを求め、悔後の日々を送り、被害者に対する謝罪とその冥福を祈ることを怠らない」

   つまり、吉岡はロが軽く人に利用されるたちのお人好しだ。性格が弱く、人一倍罪の意識に敏感で善長な男というわけだ。

▼第三審(三十二年十月十五日、最高裁)原判決破棄、差戻し。吉岡についての記述なし。

▼第四審(三十四年九月二十三日、広島高裁)阿藤以下四人無罪。「吉岡は虚言を弄しながら、一応他人を誤信せしめるような生来の技術を身につけている。適宜に実在人を配する巧妙奔放な虚言は、只々あ然たるばかりである」「吉岡は卑劣軽薄な性格で、吉岡のいう“テレンポレン″の虚偽の供述は同人の性癖に由來する」

  ここでは、前とは正反対の大ウソつきの悪人像が浮かび上がる。

▼第五審(三十七年五月十九日、最高裁)破棄、差戻し。

「記録を反ぷく、熟読すれば、吉岡供述の中には真実にふれ、これを如実に物語っている部分のあることを到底見のがし得ない。吉岡の供述は素朴で率直だ」

 ▼第六審(四十年八月三十日、広島高裁)阿藤死刑、稲田十五年、久永、松崎十二年。

 「吉岡の供述の変遷は、阿藤から教えられてチャランボランの供述ないし、執ような働きかけによる動揺の結果だ。吉岡供述は全般にわたり信用し得る」
 

 ▼第七審(四十三年十月二十五日、最高裁)無罪。

 「書岡の供述は十回余りも変達しており、信用性は疑わしい」

以上の判決をみて、読者はどう思うだろうか。オッチョコチョイで罪の意識に苦しむ小心者なのか、大ウソつきの卑劣漢なのか、これではまるでジキルとバイドである。

 裁判官は膨大な調書や記録の山の中で迷い、肝心の吉岡の人間像を見失ったのではないか。私は吉岡を徹底して究明することでもつれにもつれた事件から1本の真実の糸をたどることができるのではと思った。                                                               (つづく)

 

 - 人物研究, 現代史研究, IT・マスコミ論

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