『オンライン現代史講座/1930年代の2・26事件の研究』★『太平洋戦争(1941年)へのターニングポイントになった2・26事件<1936年(昭和11>当時のマスコミの言論萎縮と「世直し明神・阿部定事件』★『 二・二六事件でトドメを刺された新聞』★『愛する男の命を絶っまでに愛を燃焼し尽くした純愛の女として同情を集め、一躍〝サダイズム″なる新語まで生まれた』
2020/11/08
太平洋戦争へのターニングポイントになった2・26事件<1936年(昭和11>当時の新聞の言論萎縮と世相
前坂 俊之(ジャーナリスト)
二・二六事件でトドメを刺された新聞
二・二六事件で言論の自由は完全に息の根を止められた。
二・二六事件では東京朝日新聞が陸軍反乱部隊に襲撃されて、陸軍の命令で事件発生もその内容も一切の報道が禁止された。朝日、毎日その他の新聞は銃口の前に震えあがり、一切の批判をせず、口を閉ざし言論萎縮してしまった。全面屈伏以外にない状況に追い込まれていた。
時事新報編集局長で戦前、日本を代表する軍事評論家の伊藤正徳は、満州事変から二・二六事件までを国運興亡の重大事件が連発し、社説の価値が増大する絶好の機会が到来したと思ったという。
ところが、残念なことに新聞の社説が最も活躍すべきときにしなかったと、伊藤はホゾをかんだ。なぜか。伊藤は三つの理由を挙げている。①新聞人の勇気の欠如、②言論に対する抑圧、③新聞の
大衆的転化-である。伊藤自身血のにじむような記者生活を通して、言論抑圧の日増しの強さ、新聞の大衆化を痛切に感じながらも、それでもなお「新聞人が勇気を欠いたことは争うを得ない」と断罪している。
「筆者自身もそれを感じたことがある位だから、第三者からみて、主張すべきを主張しなかった怯惰(きょうだ)の評を受けることは当然であろう。自ら意気地がないと意識しっつ、渋々ながら筆を矯める必要に迫られたことを筆者自身も体験する。言論生命の為に、一社の運命を嘉に賭するの進攻的勇気は敢て求めないにしても、防禦の筆陣を包囲的に展開する程度なら当然に新聞人に要求されてしかるべきであろう。昭和六年~九年の社説は、この点に遺憾があり、以て社説の社会的価値を増すべきに減じた観がある」
伊藤がこのように嘆いたのは一九三四(昭和九)年の段階であるが、新聞人が何ものかを恐れ、言うべきことを言わぬ義務の放棄でしかなかった。言論の萎縮ははそれ以後も一層ひどくなってくる。5・15 事件での菊竹六鼓(西日本新聞論説主幹の反軍記事)と比べ、二・二六事件の論説は大きく後退し、軍部の責任を厳しく批判する言論はすでになかった。
これが一九三六年二月二十六日の「二・二六事件」のころになると、新聞の勇気の欠如は、ついに八百長、悲しきピエロになり下った姿がみられる。『中央公論』 (一九三六年三月号)は「混迷せる新聞界の現状を論ず」という特集を組んだが、このなかで、稲原勝治「この頃の新聞」 の冒頭部分 -。
「この頃の新聞は、誠にダラシがないと、十人寄れば、七、八人までは言って居る。ここに政党に対すると同じく、慢性的不信任の声が、挙げられて居ると見るべきであろう。
……この間も或る席で、政治家と、新聞記者との間に、一場の問答が行われた。記者の方では、この頃の政党のザマは何んだ。なっていないではないかと言歪ところ、政治家の方では、新聞記者だって、個人的に話して見ると、多く傾聴すべき議論を持字で居るのに、それが少しも紙面に反映されて居ないのは、何ういう訳なのだ。……結局水かけ論に掛った。かかるイタチごっこ的心理作用が、横行している間は、政治も、新聞も断じて善くぶりっこはない」
作家・広津和郎も、この特集のなかで「八百長的な笑ひ」を題して次のように書いているが、内容は静かな口調だが胸に刺さる。
「第一の不満は、今の時代に新聞がほんとうの事を言ってくれないという不満です。……日本のあらゆる方面が、みんなサルグツワでもはめられたように、どんな事があっても何も言わないという
今の時代は、……新聞が事の真相を伝えないという事はたまらないことです。 - 信じられない記事を書く事に煩悶している間はまだいいと思います。併し信じられない記事を書かされ、『何しろこうより外仕方がないから』と、いわんばかりに八百長的な笑いをエへラエへラ笑っているに至っては沙汰の限りです。最も尊敬すべき記者諸君が、これでは自分で自分を墓に埋めてしまう事になると思います」
次々にファッショ法律がつくられ、メーデーもこの年から禁止されてしまった。
二・二六事件で東京に布かれた戒厳令は五カ月間も続ぎ、七月十八日まで解除されなかった。斎藤隆夫の粛軍演説が飛び出した臨時国会では「不穏文書臨時時取締法」「思想犯保護観察法」などのファッショ法律が相次いでつくられ、メーデーもこの年から禁止されてしまった。
戦争前夜の重苦い雰囲気に包まれ、国民は、先行きの不安におびえた。そんな息づまる暗い世相のなかで、五月十八日、阿部定事件がおきた。この事件で、ファシズムの暗い予兆におののいていた人たちは、まるで暗雲に閉ざされた空に一瞬光がさし込んだかのように興奮し、阿部定を「世直し大明神」と称し、笑いころげて、ウサを晴らした。庶民にとっては一種の救いとなった。
軍部の言論統制強化のなかで手も足も出なかった新聞は、その屈折した攻撃のハケロをこの猟奇事件にむけ、センセーショナルに報じ、社会面はエログロ、ナンセンスに傾斜した。それは非常時の新聞の一つの特徴でもあった。
各社はこの事件に飛びつき、おもしろおかしくセンセーショナルに報じた。「『待合のグロ犯罪』夜会巻の年増美人情痴の主人殺し 滴る血汐で記す『定吉二人』円タクで行方を晦ます」 (『東京日日』五月十九日朝刊)「尾久待合のグロ殺人、流連七日目の朝の惨劇 四十男を殺して消ゆ 変態!急所を切取り敷布と脚に謎の血文字『定吉二人きり』」(『読売朝刊』同)特にアソコの表現には各社とも神経を使い、『朝日』は「下腹部」、『東京日日』は「局所」、『読売』は「急所」「局部」とそれぞれ工夫をこらした。
当時、『東京日日』(現毎日新聞)の社会部長小坂新夫はその時のいきさつをこう書いている。「『阿部定事件の時は弱った。情人のアソコを切り取り帯にはさんで逃げ回るので、まさか露骨にオチンチンとも書けず、私は夜になってから編集局全体に『名案』があったら教えてくれと触れまわった。政治部の陸軍省担当記者が『まあ、表にいえば局部というところじゃが、そこをヒネって局所とやったら』といって来た。で名案としてこれを採用『局所』と書くことに決めた」(1)
ところが、最初は『局所』ではなく、『生命線の切断』を取ったが、生命線というと「満蒙はわが国の生命線」を連想し「軍部から叱られるのでは……」との懸念から、『局所』に落着いた、と『文芸春秋』(1936年年七月号)は書いて「社会記事にまで軍を怖れなければならぬ東日」と皮肉られている。
阿部定が逮捕されるまで、連日、逃走経路や妖婦の正体などのおもしろおかしい記事を派手に載せ、大々的に報じた。折から国会開会中だったが、逮捕の報に予算委塁は暫時休憩の声がかかった。議員は秘書が買い求めてきた号外に殺到し、笑いころげたという。
また、当時の市電では出発合図の信号が、「チンチン」と鳴って、女性車掌が乗客に向かって「お切りします」というと、車内は爆笑につつまれたという。
庶民は阿部定の一途の愛情に共感を寄せ、暗い世相の谷間に咲いたこの妖婦に共鳴したのである。
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阿部定猟奇事件
5月18日、東京・荒川区の待合い「まさき」で、料理店を営む石田吉蔵(42歳(が絞殺されているのを女中が発見。被害者は局所が切り取られており、猟奇事件として騒がれた。犯人は一週間前から同宿していた阿部定(31)と判明し、二日後、品川駅前の旅館で逮捕された。
犯人の所持品のなかから被害者のさるまた(パンツ)。シャツとともに男性自身が発見された。二・二六事件の憂うつを払いのけるかのように、新聞は社会面の「稀代の妖魔遂に捕はる」「グロ物件を抱き締め 刑事へ妖笑ぶり発揮」、「血に狂う妖魔の息吹き 男はなぶり殺し」(『名古屋新聞』昭11・5・21の見出し)
「法廷に妖気漂い 珍しや興奮禁止令」「ズバズバ陳述 裁判長顔負け」「午後ついに傍聴禁止 予審の供述よりまだ猛烈です」(『夕刊新愛知』昭11・11・25の見出し)
【新聞の態度は実にいけませんね。家なんか、子供があの人一体何を持って行ったのって、きかれて困ってしまひました】(『婦女新聞』昭11・5・31) また、街では女車掌の「では、切符を切らしていただきます」に、笑い声が漏れたりもした。 阿部定は懲役六年の刑に服し、昭和16年5月、栃木刑務所を出た。
昭和一代女=阿部定
・二六事件後の重苦しい空気が漂う戒厳令下の東京で、今度はエロ・・グロ・ナンセンスの締めくくりともいうべき猟奇殺人事件が起きた。昭和11年5月18日、東京・尾久の待合で阿部定(34歳)が情夫の料理店主石田吉蔵(41歳)を絞殺、その局所を切り取って「定吉二人きり」の血文字を残して逃走した。定は二日後に品川駅前の旅館で逮捕され、その時も切り取った男の一物をハトロン紙に包んで持っていたが、物が物だけにマスコミはこれを〝下腹部″とか〝例の紙包み″などと遠回しに表現した。
-「稀代の妖魔」と言われた阿部定は、取り調べが進むにつれて愛する男の命を絶っまでに愛を燃焼し尽くした情念の女として同情を集め〝サダイズム″なる新語まで生まれた。同年11月25日の初公判には、徹夜で傍聴席を求める人が午前3時に早くも定員オーバー、裁判所も定刻三時間前の午前5時に入廷させてしまう狼狽ぶりで、昭和一代女・お定に集まる人気と興奮は頂点に達した。
以上は前坂俊之著『言論死して国亡ぶー新聞と戦争(1936-1945)」社会思想社 1990年刊』の引用です。
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